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おすぱらぐ

 投稿者:タカハシ  投稿日:2019年 1月11日(金)12時09分26秒
編集済
  2019年である。

また、気まぐれにココを覗いたら
付喪神が投稿してた。
コソーコマゴド。
さすがスタンスがぶれてないナ。

暇だったのでこのBBSの最初に戻って
時系列にひと通り読み直した。
良いとも悪いともどうとも言えない内容が連なってる。

途中、震災があって、
その緊迫感が「あの日々」を思い出させた。
そして、よこたあきらは生きていた。

私も50半ばともなると過去を遡ることを愉しめるようになったようだ。
ま、口からでまかせっぽいですが。
 
 

宮古耳嚢・アル中女のこと

 投稿者:付喪神  投稿日:2018年12月29日(土)10時10分48秒
  聞いた話だ。
アル中の若い女がいた。その女は6缶パックの缶酎ハイが4パック梱包されたダンボールを一日で飲んでしまう。結婚はしているが別居し実家に戻っていた。女の母も精神的にダメージがあり、女も母も一切家事をしない。そんな一家をなにかと面倒みて世話をしていたのが、女の伯父さんであった。その後、女はアル中が祟って30代半ばでこの世を去った。毎日多量な酒を飲み暴言を吐き暴れるアル中女が逝って、見た目その家は静かになったようだった。
ある日、ガスの集金にその家に行った男の話だ。
「やっと静かになったようですね」
「いや…それが…」
「…えっ?」
「それが、今でも、うるさいんですよ」
「…はっ?」
「今でも、暴れてこまってます」
と、面倒を見ていた叔父さんが言った刹那、
洗い物で重ねていたらしい、台所の食器が崩れた。
ガッシャーン!
集金に言った男は音が聞こえた台所の流しの方を見たい衝動にかられたが、見てはいけないという自制心がそれを制した。集金をして、伯父さんを見たら、かなりやつれていた。
アル中女は、今も、酔ったまま家中を徘徊しているようだった。
 

オオカミと妖怪・魍魎

 投稿者:付喪神  投稿日:2018年12月28日(金)12時08分18秒
  宮古市在住の著述家でありコウモリやニホンオオカミの権威、遠藤公男氏の最新刊『日本オオカミの最後』という本に興味深い記述があった。明治中期まで岩手に存在したニホンオオカミ(以下・オオカミ)は、牧畜の天敵として懸賞金をかけられ駆除され、最終的には種の絶滅に追い込まれた。これはオオカミが家畜や人を襲うからであるが、明治以前からオオカミはおり人間と共存していたようだ。シカやイノシシが大量発生すればオオカミがこれを食い生体バランスを保った。そんな背景からオオカミは「オイノ様」とよばれ、三峰信仰の御神体となった。この御札を厩に貼ればオイノはその厩を襲わないなどと信じられていたようだ。オオカミは漢字で「けものへん」に「良」と書くあたりも、益獣の側面が伺える。しかし、その食性は肉食であり時には死肉も食ったようだ。謂わば、カラスなどと同様の屍を食らうスカベンジャーでもあった。昔は家畜の馬が横死すると、特別に墓を作り塚とした。それは土を盛った饅頭塚であり、これをオオカミが掘り起こし屍を貪った。人の死骸も土中に穴を掘って埋めたが、中には土を盛っただけの粗末なものもあり、やはりこれをオオカミが掘り返して遺骸を貪ったようだ。江戸の妖怪絵師・鳥山石燕画図百鬼夜行に「魍魎(もうりょう)」という妖怪がおり、水木しげるの妖怪図鑑にも墓所で墓から遺体を掘り出す姿で描かれている。おそらくは、この図に描かれた妖怪はオオカミであろう。頭にツノのようなものがあるが、これは尖ったミミをツノに見立てたものだ。全身毛だらけ、大きな口には牙がある。しかし、牙以外の歯は尖っていない。石燕は「身体三歳の小児の如く、色浅黒く…死者の肝を食らう」と説明している。まさにオオカミの習性であろう。ここでも妖怪・山精の説明同様、魍魎を水木氏が現代に妖怪として紹介する際の見解の低さが露呈しているではないか。  

古い官舎から漂う気配

 投稿者:付喪神  投稿日:2017年12月25日(月)10時59分55秒
  1年から3年までフル毎期追試でなんとか留年を免れて、私がやっと卒業した岩手県立宮古商業高等学校は俗に国道45号線の「商業の坂」と呼ばれる坂の上にある。この辺りの住所は仏沢という。なんで仏沢なのか知らないが、坂を下ったところに広がる藤の川海岸には、その昔、津波で亡くなった人を埋めたという伝承もある。ただ、藤の川という地名は「淵の川」が転訛したもので、今は砂浜だが昔は淵がある沢(川)が流れていた場所ということらしい。現在そこに津波の防潮堤を建設中だが基礎となる岩盤までパイルを打ち込むには砂を約25mほど掘らねばならないらしい。さて、そんな商業の坂のピークには三陸国道工事事務所へ向かうため信号があって、その先は藤の川団地だ。その信号手前の西側に古ぼけた三階建ての集合住宅がある。これは県職員用の官舎で警察や学校などに勤める人たちの住居として今も現役で使われいる建物だ。その風貌は昭和時代、しかも40年代あたりのモルタル住宅を今に残すレトロな風貌で辺りの風景に同化している。だが、その敷地に入り込みその風貌を眺めるとなんだか古さというより別の雰囲気を感じてしまう。なんとなく重く淀んだ気配が漂うのであった。噂によれば「開かずの間」として長い間使われていない部屋もあるという。その部屋から物音がしたり、人が影が見えたりもしたという。また、三陸国道工事事務所にも似たようなうわさ話があり、感のいい人が書庫に行くと激しい頭痛に襲われ体調が崩れたり、残業していると誰もいない部屋からグラインドを叩くような音が聞こえたりするのだという。ダテではないな、仏沢周辺。  

恩徳の屋敷

 投稿者:付喪神  投稿日:2017年11月 6日(月)15時21分35秒
  近々2000年がやってくるという期待感の中で1999年、わたしも深く関わったイワテミステリーフィールドマガジン『ふうらい』において第2号『遠野物語』で現代の遠野物語として取材した、恩徳の幽霊屋敷。当時、取材班としてわたしも現地取材に行った。当時は茅葺き屋根が抜け落ちそこから天に向かって樹木が生えていて、国道沿いからもその異様な廃屋を確認出来た。しかし、誰もがそこを通過して目視するだけで、その敷地内に立ち入ろうとはしなかった。なにせこの廃屋には昔から幽霊が出ると言われていたのだ。
当時、遠野でクチコミ取材をしたところ、かなり前にあの廃屋で肝試しをやったという若者のグループがあったようだが、その結末は陰惨なものであった。また、有名な心霊マンガ家が取材に来たが、足がすくんで入れなかったとか、霊能者が「自分より徳の高い霊がおり、自分では落とせない」と尻尾を巻いたとか…。どれも人の噂に尾ひれがついた半ばヨタ話であった。取材班は編集長、ADだったわたし、カメラマンの3人でその敷地に足を踏み入れた。庭だった場所は草ぼうぼうで、なんと雑草の根本にはあちこちに何匹もの蛇がいた。マムシかシマヘビはわからないが、カメラマンは怖じ気づいて固まった。編集長とわたしでその藪をかき分け玄関らしき場所へ辿りついたのだった。そこには瀬戸物や割れたガラス瓶が散乱しており、生活感の希薄な不気味な空間が広がっていた。さすがにそれ以上の進入は気が咎め、外観の写真を撮って退散しのだった。
その昔、川井へ抜ける立丸峠は難所で陽が暮れると旅人は仕方なく峠下の恩徳村の宿に泊まったという。その宿で事件が起きたというのだ。それが本当なのか、事実であればいつの時代なのか。それは誰も知らない。茅葺きに白壁のその家がいつの時代に没落したのか、それすらわからない。ただ、現地にはもう屋敷はない。部材と瓦礫が残るのみだ。ただ、蔵は未だに健在だ。表側から見たところ蔵の扉は開いたままで中には何も残っていそうがない。取材当時は古い蔵と思ったが、今見ると蔵に使われている外材や瓦、建築様式から見ても大正から昭和初期の作りと思われる。
最後に今回恩徳橋にバイクを止め、この屋敷の写真を撮りに畑の畦を歩き廃材を集めたサイロ付近まで行った時、不意に髪の毛が焼けるような臭いがした。錯覚ではない。もっとリアルな表現だと焼き場の臭いだった。見渡すと10mほど先の民家の薪ストーブの煙突から煙が出ていた。風向きはこちらだ。おそらくゴミでも燃やしたのか。しかしその臭いは一瞬だけ鼻腔を過ぎてゆき、その後は晩秋の山の匂いしかしなかった。
この空間が人の来訪を拒んでいるのは確かなのかもしれないと思った。
 

それゃ観んと。

 投稿者:高橋政彦  投稿日:2017年 9月 6日(水)10時07分46秒
  じゃじゃじゃTVすか??
 

妖怪で文化祭出演

 投稿者:憑喪神  投稿日:2017年 9月 5日(火)22時00分34秒
  いきなり仕事場に電話が掛かってきた。仕事場の固定で自分宛に電話がくることは苦情以外にほとんどないので、いぶかしげに受話器を取って「はい、電話代わりました、どちら様でしょうか」と探りを入れたら、甲高い声で「IBCの千葉星子です」というではないか。知ってるも何もその昔、星子さんが旅行冊子のモデルで僕がローカルのカメラマンで二泊三日ぐらいでロケ旅をしたのであった。タレントでアナウンサーの星子さんは、田舎のカメラマンなんかもう忘れたろうと思っていたから、こっちの方がびっくりした。「んで、何?」と聞いたらテレビの取材だという。しかも、テーマは大人の文化祭らしい。オレは何すればいいの?そしたら「妖怪」なのだそうだ。妖怪絵師として登場して欲しいというのだ。そういえば、今から10年ぐらい前に、やはり妖怪関連で取材された経緯があった。その時は当時作っていた「妖怪双六」というのがあって、今回もそれを取材したいと言う。しかしながら、そのデータは昨年の台風被害で親会社でもある印刷所のパソコンが被災し、当時のマックos9時代のデータはほとんどが古いマックとともに水没し破棄されてしまったため、双六のデータはない。しかも自分で作ったというのにそのデザインの記憶もない。その後の震災被害の惨状で過去の記憶が飛んでいるらしい。ならば、再度双六を作ろうかとも思ったが、今更どこから手をつけたらいいのかわからない。仕方ないので当時の妖怪イラストを使ってタロットカードのようなものを作った。これと、妖怪イラストをはめ込んだ柱時計で何とか妖怪絵師として文化祭に参加させていただいた。
久々に出会った星子さんはちょっとふくよかになっていたが、昔の笑顔と声は健在だった。そして重そうな爆乳が印象的であった。当時モデルとして撮影していた頃は、そんなに大きいとは思わなかったな。さすが母になっただけあるな。それでのテレビの仕事を続けているなんて、女ってすげえな。やっぱ、星子ちゃんも妖怪なんだな。なーんて、自分だろ、妖怪は。と思った楽しい取材でした。今回は久々に妖怪の話をしたので、忘れていた絵心が少しだけ目をさましたような気がした。
 

豊間根・大谷山鉱山

 投稿者:憑喪神  投稿日:2017年 8月24日(木)22時09分13秒
  欲に駆られれば、人はアリになる。
先日、山田町豊間根の奥地のさらに奥地とも言える、大谷山鉱山跡地に行って、昭和34年当時に稼働したという、マンガン鉱石を掘った坑道を見つけ、そこに入ってみた。坑道を探す計画は今年の春に、林道脇の坑道を発見しそこへ入ってトロッコ軌道などを発見した時から、いずれは川の対岸のズリの上にあるであろう、大谷山鉱山の本命でもある坑道にチャレンジしようと思っていたのだ。しかし、今回、長雨続きで目的の山も行けない状態で、お手軽ではないけれど、移動時間も少ない大谷山鉱山の再アタックとなった。
8月中旬の某日、朝9時に集合し豊間根川を遡り、オソノエラ沢、ネコイノ沢分岐に到着。ここまでなんとか走ってきたウィルが二駆ゆえ、これ以上の走行は無理と見て、車を脇に止めて歩きで探索を開始した。この時期、クマが子育てを終え子離れの時期と聞いていたが、そのクマの恐怖に勝る、アブの攻撃に閉口した。30~50匹はいたと思われるアブとスズメバチは、自動車のエンジンから出る暖かい赤外線に反応するらしく、車から出ての装備や着替えに大変苦労した。
林道を歩き、春に目視確認していた鉱山の遺物やズリを探すも、夏草と樹木の葉でそれが確認できない。仕方なく、途中の沢を足濡れ覚悟で渡り対岸へ。やっとズリや遺稿を発見し標高250mほどを登った。すると大きな花崗岩の露岩を発見、そこを回り込みお目当ての大谷鉱山最大の西二抗、縦穴の西三抗を発見。坑道の入り口で早い昼食を済ませ、西二抗に進入した。中は大きなホールがあり、雨が長かったせいか滴が溜まり水浸しになっていた。それでも縦横無尽に掘られた坑道を実感。改めて、欲は人をアリにするのだなと納得した。
 

砂金は見つかる

 投稿者:憑喪神  投稿日:2017年 8月 6日(日)09時50分33秒
  新田牧場から国道340号線立丸トンネルに向かわず、旧道である中仁沢集落に一軒だけ残る旧家・中仁沢家にアポなしで伺った。その昔、金が取れた川は中仁沢家の前を流れる小国川だという。川の上流である源流部には三吉五郎平という場所があって、そこが砂金取りのメインだったらしい。しかし、今、ここは国道340号線立丸第二トンネルから出るズリ置き場となっていてダンプが運んだズリの山が並ぶ。トンネル建設において周辺がかつての金山であり、そのズリはもちろん、ズリを置いた場所が砂金取りの現場であったことを、工事責任者、いや、発注者である国道事務所は知っているのだろうか。三吉五郎平は新田牧場にかつてあった新田金山から流れる2本の沢と、立丸峠から流れる沢が合流する場所であり、大水が出たり山崩れがあればここに金が集まったのかも知れない。現在は立丸第一トンネルが開通しているので、旧国道340号線に架かっていた新田橋はあまり利用されていないが、この橋から川に降りてみると、なんと川底は一枚の岩盤で、凹みにはピットホールと呼ばれる穴や溝がいくつもある。現在、梅雨時なのでその水量は豊富だが、渇水時にはこの凹みや溝にたまった泥を探れば、山吹色の砂金が見つかる可能性は高い。かつて、大雨があがって数日後、巣金~関根あたりを流れる小国川で村人二人が光る物を発見、のちに鑑定に出し30万円で売却したという逸話もある。中仁沢家によれば明治あたりまで川沿いに水車を仕掛け、石臼で鉱石を挽いては砂金や砂鉄を得ていたという。長者森の柔らかい石英露岩、明治まで稼働したという新田金山、小国川上流部の三吉五郎平、水車での鉱石挽き、などなど、ここにはまだ金がリアルに眠っている。しかも、昨年秋の大型台風で山は大きく崩れ、沢や河川が氾濫した。今まで土中にあったものが流され重い金属がピットホールや溝に填り込んでいるかも知れないのだ。  

長者森の白色の露岩

 投稿者:憑喪神  投稿日:2017年 8月 6日(日)09時49分6秒
   しばらく放置していたから、この掲示板も寂れ、私が書き込むのに丁度良い雰囲気となったようだ。さて、今回は先日登った長者森の話をしよう。長者森は小国の新田牧場からさらに登った大槌町との堺になるピークで、標高は1000mちょっとだ。牧場側にはシカやクマ除けの電柵があるため、こちらから登るには管理小屋に寄って許可を得なければならない。しかし、この小屋はほぼ無人で許可を得るには行政経由の手づるが必要だ。そんな面倒くさいことを好まない私とその相棒は、土坂峠から尾根に沿って続く登山道を歩いた。片道約2キロ程度だったが梅雨時だったこともありいつ雨に降られてもおかしくない天候だった。そして頂上についたあたりで、雨がきた。計画では長者森からその先にある白見山方面へ向かい、途中から新田牧場最上部に降りるはずだった。ここは無理せず三角点を撮影し下山することにした。だが、その途中から白見山方面へ向かう枝道を発見、これを歩いた。道には踏み跡があるけれど単なるシカの通り道の可能性もあり、樹木に一定間隔で目印テープを巻きながら歩く。しばらく歩くと小さな露岩のピークに到着。ここからしばらく下ったが踏み跡は消え迷う予感が濃厚となった。ここで諦め露岩のピークまで戻った。露岩で一休みし周辺を調べると、なんと、粘板岩のような白色の筋がある。白い岩は手で折ることもできる柔らかさだ。これぞ、石臼で挽いて金を得ていた鉱石だ。かつて金鉱山があった新田牧場の鉱脈が露出しているのだ。長者森という名の由来はこの金に関係する鉱脈なのである。しばらくすると雨が強くなってきた、小鎚山の方から濃い霧が迫る。一瞬で周辺は霧に包まれた。目印テープを頼りに歩きテープを回収しながら、やっとのことで長者森の分岐点に到達。濡れたクマザサを漕いでやっと下山した。  

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