teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


雨夜のタクシー

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 7月 2日(火)10時51分40秒
  夕方から雨となり、少し冷えてきた。夜半、電話のベルが鳴った。
電話の主はとある知り合いの母親であった。
聞けば、息子が病床にありその経過が思わしくなく、うわごとで私に会いたい、会って渡したいものがあるから、今すぐにでも会いたい…と言っていると、母親は言うのだ。
何やら意味深な話ではあったが、母親は動転している訳でもなく落ち着いているし、これは緊急というわけではないと思ったが、どこか引っ掛かる。
外は雨だしちょっと迷ったが今から訪ねることにした。
とは言え、私は車を持っているわけではないし、バスはもう終わっているかもしれない。
タクシーを呼ぶほど余裕もないので、歩いて行くことにした。

知り合いの家は鍬ヶ崎上町にあって、私の家は旧館だから切り通しの光岸地を越えればたいした距離ではない。さっさと用事を済ませ、帰りは光岸地の赤提灯で焼き鳥でもつまんで一杯やるか…、程度の気持ちで切り通しの坂を登った。
ところが光岸地に入ったあたりから雨脚は強くなり、とうとうどしゃ降りになってしまい、私はやむなく他人の家の軒を借りて雨宿りをするはめになった。
これはしくじった、こんな天気に安請け合いするのではなかった…と後悔しながら、地面で跳ねる雨粒を見ていた。
すると、遠くから車がやってきて私が雨宿りをしているところで止まると、運転手が窓を開けて「早く乗ってください」という。
よく見れば車のドアに見慣れたタクシー会社の名前がある。なんだ、タクシーだったのか、だが、どうして呼んでもいないのに私を乗せるというのだろう。
運転手は「上町の●●さんに言われ、雨の中を歩いているあなたを見つけたら乗せてきてくれと言われんです」と言うのだ。なるほど、雨で難儀している私を思っての配慮であったか。知り合いの家はすぐそくだが、この雨だ、ならば、親切に甘えて乗るとするか。
私はタクシーの後部ドアの前に立って傘をすぼめ、ドアが開くと同時に後部座席に滑り込んだ。
その時、えも知れぬ、相当に冷たい空気が私の全身にまとわりついた。私は運転手のうなじ付近と雨粒を押しのけながら行ったり来たりするワイパーを見たまま、一瞬、身震いした。
ドアが閉まり、運転手が車を発進させ、切り通しの頂点にさしかかると降りしきる雨に盛り場の明かりが見てとれ、私の寒気は吹き飛んだ。坂を下り上町に入るとタクシーはすぐに止まって、件の知り合いの家の前に着いた。
入口には知り合いの母親らしき老婆が傘をさして私を待っていた。
二軒ほどの広さの玄関には欅の框があり薄暗い明かりが点いていた。
私は座敷に通された。茶が出され、母親が言うには、息子は1時間ほど前に容体が急変し亡くなったという。その時間は私が傘をさして旧館の渡船場あたりを歩いてた頃であろうか。夕方になって息子がしきりに、あなた様に会って渡したい物があると言いだし、何度も何度もあなた様の名前をよぶもので、つい、電話をした次第です。と言うのだった。
で、私に渡したいものとは何でしょう?と私は息子を失ったばかりの母親に問うた。
…はい、これでございます。
母親が私に渡したのは小さな手帳だった。開くと「14ポ」ほどの大きさの文字で、各ページにびっしりと短歌が書かれていた。「これを、どうしろと…」私は再び母親に問うた。
「私にもわかりません。ただ、息子はそれをあなた様に渡してくれと言っておりました。ただ、それだけでございます」
奥の部屋に亡くなった息子が寝かされているという。葬儀屋には連絡済みだが、この雨でまだ来ていなという。顔を見ていくかと聞かれたが、私は彼とそう親しかったわけではなく、短歌の合評会で二三度話をした程度の間柄だ。亡くなったばかりの仏に手を合わせるほど親しくはないので、後日改めて伺うことにしてその家を辞した。玄関にはタクシーが止まっていた。どうやら手配してくれたらしい。運転手も先程の男だった。
ドアが閉まると運転手が口を開いた。
「息子さん、亡くなったようですね」
「ええ、そのようですね、ところでさっき、雨の中で私を乗せた時、誰か乗ってましたか」
「はい、●●家の若い人が乗ってまして、坂の下でお客さんを見つけたら、私は用があって降りるからと言って降りてしまったんです。お代はその時にいただいております」
「そうだったんですか」
「ベージュ色の結構いい背広を着ていましたよ」
私はドキリとした、短歌の合評会で出会った彼はベージュ色の背広をきていたのを思い出したからだ。切り通しの坂でタクシーで雨の中を彷徨っていたのは誰だったのか。
タクシーに乗り込んだときのの、あの異様な空気は何だったのか。
あの日、母親から渡された手帳は今も私の手文庫の中にある。
若くして癌に冒され、早々に旅立った彼の短歌は、一人の男が苦悩する青春の思いが綴られた短歌だった。

この話はフィクションです
 
 

閉伊川太郎の学校訪問

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 6月27日(木)14時04分22秒
  閉伊川南岸の集落に牛伏がある。ここは門神がある難所・花原市の対岸だが、立派な橋が出来たのは昭和40年頃で、それまでは花輪小学校の、老木分校のさらに奥にある分校の分校、牛伏分教所があったところだ。その頃の話に次のようなものがある。ある夏に、村の五兵衛といく子どもが水難に遭ったらしく行方不明になった。五兵衛の家の人が必至で閉伊川を探したが見つからず、事が知れ部落中で総出になって日の暮れまで探したが見つからない。そして篝火を焚いて捜索していたら夜半になってずぶ濡れの五兵衛が帰ってきた。家族は抱き合って喜び村中で安渡した。翌朝、五兵衛は学校に行った。分教所には若い男の教師が一人いるだけだった。その先生によれば五兵衛はあまり活発ではなく、字も下手で、教室の黒板に金魚鉢の水面が反射したゆらゆらをぼーっと眺めているような少年であった。なのに、その日の五兵衛は皆に話しかけて遊びの中心となり活動的であったという。そんな折り、休み時間に女生徒が先生に言った「五兵衛が、おそでヶ淵に身を投げたというリンの話をする」というのだ。おそでヶ淵は牛伏と花原市にの間にある淵でアネチョロと呼ばれた深い淀みだ。ここに身を投げた女いたというのは相当前の話で先生は噂では知っていたが、どうして五兵衛がそんなことを言うのかわからなかった。そうこうしているうち午後は水泳の時間だ。生徒たちは浅い小さな淵で水を掛け合って遊んでいた。五兵衛もいつもはそうして水際で遊んでいたのだが、その日は違っていた。なんと淵を離れて流れのある淀みの方まで泳いで行ったかと思うと潜ってこちらに戻ってきたり、さほど泳がなかった五兵衛のなんと泳ぎが上手なこと、まるで河童のようだ…。事件はその日の夕方に起こった。またしても五兵衛が行方不明になったのであった。そう言えば昼に五兵衛はおそでヶ淵で身投げしたリンの話をしていた、ならばそこも調べよう…ということになり、村人や先生たちが向かった。そこで見つかったのは死んでからあなり時間の経過した五兵衛の水死体だったという。
牛伏の大立石神社里宮の近くに「川流塔」という石碑がある。年号は文政7年だ。背面には四名の名があり、一人は「当村中」とあるから牛伏の人であったのだろう。五兵衛の時代は分教所がある頃だから昭和10~30年頃の話であろうか。川で死んだ五兵衛の遺体のありかを教えるため、おそでヶ淵の河童が化けて分教所に来たというので『閉伊川太郎の学校訪問』として元教師で郷土史家の小島勇一郎氏がまとめている。
 

売春禁止法

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 6月25日(火)16時19分33秒
  私は昭和33年生まれなのだが、よく自分が生まれた年に何か事象がなかったか?という話題になって調べてみたことがある。そしたら昭和33年は売春禁止法が正式に国会で認定された年だった。その当時、九州地方公共事業がらみの会合で建設屋さんと議員さんがからんだ汚職ワイロ事件があったらしいが、その席でお金の約束をつけるために女があてがわれ売春行為があった。これを気に当時、まだ少なかった女性議員たちが糾弾し汚職ワイロ以上に売春行為が議論対象になって、最終的に売春禁止法の制定まで到達したらしい。しかし、冷静に考えたとき売春が本当に下劣で人間として許されぬ行為かというと、なんだか疑問がわいてくる。売春、という名称も何だか疑問だ。性をなりわいにした人は江戸はおろか平安、鎌倉…はてはおそらくは縄文時代までいたと思われる。したい人と、見返りがあるならさせてもいい人の関係は、お客に呼び止められて車を止め、目的地まで連れて行ってお金をもらうタクシーやバスと根本は同じだ。もっとくだくと凝った身体をマッサージでほぐしてもらい気持ちよくなってお金を払うのとも同じだ。要は気持ちよさに性器を使うからダメということらしい。厳密に言うと疲れた筋肉がほぐれて気持ちがいいのと、性行為で気持ちがいいのとは放出される脳内麻薬物質が違うだろうから、気持ちよさの差はあるだろう。しかし、外国には金銭を得る性的労働を認めている国だっていくつもあるわけで、欧米諸国に比べるのがお好きな日本にしては、この方面に対しては意外と消極的だ。昭和33年の環境と思想で決めちまったものは、もう変えられないのだろうが。それまでは日本にも普通に廓だの遊廓だのがあって、未体験の男もそこで筆下ろしできたのだ。その頃は岡場所とか悪所と呼んで忌み嫌っていたが、今の時代100%それらを否定するのは意外と間違いかもしれない。近年は結婚年齢が上がり、男も女も出会わないらしいが、こんなことでは一生童貞・一生処女のまま亡くなる人も多くなるだろう。試験管ベイビーというのが一時話題になったが、未来の家族は血のつながらない別の何かで絆をもつのかもしれない。男女の性器結合とそれに伴う快感は大切なものだ。簡単に諦めてはいけないと思う。まぁ、僕はもういい歳だし、使い果たした組みだから、今後日本がどうなろうが知ったことではない。ただ、ヒトの本能でもある下半身の快感が崩壊すれば国という形の消失になるのは間違いないとは思う。夏には選挙もあるが、はたして誰が気の効いた少子化対策を論じるのだろうか。  

昨日こんな夢をみた。

 投稿者:タカハシ  投稿日:2019年 6月10日(月)19時27分40秒
  今朝方みた妙な夢の話です。長いです。

いつの時代なのでしょう。状況は近未来なのでしょうが辻褄が合わない夢の話なので登場人物は当然現在のままです。
私は家族と宇宙開発センター的なところで順番待ちしています。どうやら月なのか火星なのか、人類はそれなりの覚悟を持って別の星に移住あるいは旅行できる時代のようなのです。私たちの家族はその出発待ちをしているのでした。そこにいた家族は老いた父と母、妹、妻、息子と姪っ子のようでした。私たちの前に飛び立ったロケットは、3発連続で空中爆破してしまっているとの情報も入っています(菊地雄星がホームラン3連発を浴びた事に影響を受けているのかもしれません・笑)。ずいぶん事故が頻発し、安定性を欠く宇宙への旅です。それでも私たちは次に飛ぶ自分たちの乗るロケットへの搭乗手続きを進めているのです。
気づくと私は宮古市の光岸地・切通付近を歩いています。漁協ビルのある港近くの丘の上です。そこを歩いていると突如として大杉神社の方面からロケットが上がります。そこで私は「あ、俺はロケットに乗らなかったのだ」と気づくのです。乗る気で準備していたのに結局は私だけ乗らなかった理由はわかりません。なんてことをしてしまったのだと後悔していると、ロケットは閉伊川上空で爆発して炎の塊となって弧を描き、やがて閉伊川の上を漂っていた大型の浚渫船みたいなものに落ちます。私は家族を失った喪失感に包まれ、「ついに天涯孤独になってしまった」と呟くのです。そして「どうして自分だけ助かったのか、逃げたようなものじゃないか」と悔いるのです。絶望しながら自宅(なぜか付近にある親戚の家)に入り、仏壇に手を合わせ、自分はこの先どうやって生きて行くのか考えます。この絶望感の中では働く気もおきそうにないのです。不埒にも死んだ家族の保険金のことなども頭をよぎるのが悲しいところです。
ふと玄関が開き、見た事もない青年(細身でピアスなどしていてチャラい)が立っています。こっちは知らないのに向こうは普通に家に入って来て和んでいるので「君は誰だ」というようなことを聞きます。すると青年は「おれはこの家の息子だよ」と答えます。「おれはこの家の息子だけど君みたいな子どもは居ないけどな」と告げます。彼は「父さんが知らないだけじゃないの」みたいなことを言うのでドキッとしますが、やがて「そういうもんかな」と納得して、そうなると愛着も湧いて来て「唯一の血がつながった家族が生きていたのか」と嬉しく思うのでした。
そうしているところに次はロケット発射機関の関係者(知らない女性)が家を訪ねてきます。私は悲しみを吐き出します。機関の女性は「よくあることですよ」と慰めてくれます。「飛行機でも、何かの虫の知らせで急に搭乗を止めて、それで助かったなんて話は昔からあるじゃないですか」などと励まされます。自分がロケットに乗らなかった理由は依然として判らないのですが、その女性の話から行くと、どうやら虫の知らせで突如キャンセルしたようなのです。
話はここで終わりです。励まされたからと言って私の気持ちは晴れなかったわけで、その状態のまま目覚めて、すごく精神的にはリアルな疲労が残ったままの午前3時半の起床となりました。

追記
こういう悪い夢をみた時はそれを誰かに話さねば、という気になります。宮古だけなのか、どこの地方でも言うのか判りませんが「夢見が悪かったから気をつけて」と家族にも言わないと気が済みません。それこそ何か悪いことの予兆でなければいいなという予防線を張るという行為をしないと落ち着かないのです。

長い絵空事にお付き合いありがとうございました。
 

すけべ平

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 5月29日(水)14時41分18秒
  昭和になって山田線が川井まで開通した頃には川井村では「女獲島(おなどりゃしま)」の風習はなくなっていたし、夜に独身女性の寝所を訪れ行為に及ぶ夜這いも減ったという。そして時が過ぎ戦後になって、昔の月待ち信仰の時にあった「むらさき平」を彷彿させる「すけべ平」というのがあったというのだ。それは、やはりどこか高山にある秘密の広場に、夜な夜な寂しい男女が集まり行為に及ぶというもので、ここでは独身既婚はあまり問われず、ソレが好きなら誰でも参加可能だったという。ただし、条件があって相手から求められたた拒否はできないということだ。いつまでも結婚もしない、あるいはバツイチで再婚もしないで燻っていると「すけべ平に行け」と言われたそうだ。だが、問題はそのすけべ平がどこにあるのか、またはそのイベントがいつ行われているのか誰も知らないのであった。夢のような「ゆうとぴあ」だが、現在の性は多機能な分岐を遂げており相手が異性だけとは限らないからちょっと怖いな。あ、そうそう、昔、宮古高校に登山部があった時代、平津戸の小吉部沢から横沢へ抜ける小滝内沢の頂上あたりに部員たちが「ゆうとぴあ」と名付けた平原があると言うが、もしかしたらそこはかつての「むらさき平」であり、その後の「すけべ平」であった可能性がある。ま、想像ですけど。
 

勃起峠

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 5月29日(水)14時39分23秒
  「女獲島(おなどりゃしま)」のついでに立丸峠の由来について話しておこう。そんな村々の男女が月待ちで交歓するの風習が当たり前の時代のことだ。遠野のある村にたいそう美しく、ほぼ平等にどのような男にでも身体を許してくれる女神のような女いたという。ま、今で言う、かわいいさせ子ちゃんだ。その女の元へ行くため川井の男は息を切らして立丸峠を越えるのだが、峠を越える前からさせ子の肉体とその柔らかい肉ひだが脳裏に浮かび、もう逸物が勃起してしまう。「ああ、早くヤリてっ」。そんな情況から峠は「勃ちマラ峠」の名がついたんだそうだ。それが転訛して立丸峠になった。地理院地図のルビだって「タツマル」ですから。
 

月待ち信仰と女獲島

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 5月29日(水)14時38分25秒
  その昔、お月様の出を戸外で眺めて祈る「月待ち信仰」というのが高貴な方々の間で流行したというが、そんな信仰が在野に広がって江戸の文政期あたりに大流行したという。色んな月待ちのパタンがあったが、最も親しまれたのは二十六夜待ちという明け方に昇ってくるお月様(三日月)を拝む習わしだったようだ。庶民は信仰という行為にあやかってご馳走を作って夜から深夜、そして夜明けまで眠らず騒ぎ遊んだようだ。それが不埒である。とお上が取り締まったため江戸では月待ち信仰が廃れたという。ところが、田舎では信仰を隠れ蓑に深夜まで戸外で遊べるし飲み食いも、しかも若い男女が公認で夜遊びできるとあって、廃れるどころか大いににぎわった。月待ち信仰においては各村の高山や高所の広い場所に各村から人が集まり焚き火をして、今で言う「合コン」が行われ、オッケーのカップルは闇夜に紛れて行為に及んだという。旧川井村の民俗史には「むらさき平」の名で染料となるムラサキ(植物)が捕れたところとして記録されている。場所的には長者森、白見山、タモンタワ、鬼米内あたりにあったらしい。そこはいつしか年頃の男女交歓の場となり「女獲島(おなどりゃしま)」と呼ばれたという。そこで行為に及び生まれた子供のことを「六夜ッ子」と呼んだという。閉鎖的な社会において、新たなDNAを得る機会だったのかもしれない。  

令和

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 4月26日(金)13時09分15秒
  年賀状も書かない私は、元号などさほど気にならず西暦で通せばよいと思っているのだが、歴史関係や日本史に携わると元号が重要になってくる。特に天皇がダブルで存在した南北朝時の記載には、元号が重要になってくる。新元号が発布され、平成から令和へとシフトするのだが「れ」が付く元号は珍しく、8世紀、奈良時代の715年から二年間の元号「霊亀」しかない。万葉集から引用したというが変わったものを選択したものだと思う。新しい元号に対して不満もないが「令」に続く「和」の方は元号ラインナップではよく使われる漢字だ。しかも昭和時代を除いてその期間は1年から14年だ。以下は元号50音別と西暦、続いた期間(年)大まかな時代とその時代の天皇を記したものだ。なんつうか、私も暇というか。ただ、この羅列から思うのは「和」の付く時代って昭和(東京時代)と承和(平安時代)を除くと意外と短いってことだ。

安和 968~970   2 平安時代    円融
永和 1375~1379  4 南北朝(北朝) 後円融
応和 961~964   3 平安時代    村上
寛和 985~987   2 平安時代    一条
享和 1801~1804  3 江戸時代    光格
元和 1615~1624  9 江戸時代    後水尾
弘和 1381~1384  3 南北朝(南朝) 長慶
正和 1312~1317  5 鎌倉時代    花園
承和 834~848   14 平安時代    仁明
昭和 1926~1989  63 東京時代    裕仁
貞和 1345~1350  5 南北朝(北朝) 光明
長和 1012~1017  5 平安時代    三条
天和 1681~1684  3 江戸時代    霊元
仁和 885~889   4 平安時代    光孝
文和 1352~1356  4 南北朝(北朝) 光巌
明和 1764~1772  8 江戸時代    後桜町
養和 1181~1182  1 鎌倉時代    安徳
和銅 708~715   7 奈良時代    元明(阿閇皇女)
 

サンマ船漁師の藁

 投稿者:タカハシ  投稿日:2019年 4月24日(水)16時00分18秒
  水産系に長く従事する我が一族から漏れ聞く話では、宮古がサンマ漁の基地になっていた時分、それこそ全国の荒くれ者たちで構成されるサンマ船が宮古に一堂に介して解禁を待つわけですが、その連中が夜な夜な盛り場に繰り出す姿も下半身はチンチンに藁1本だったらしいです。剥けてるモノなのに、わざわざ皮を集めて藁で縛っていたという話です。その話では上半身は一応半纏みたいなものを羽織ってたようにも聞きましたが、それは最初だけでやがては下半身の藁だけになって飲み、騒ぎ、暴れていた可能性は大です。いずれにしてもそういう時期になると港町の女子供は夕方以降外に出るなという箝口令が敷かれ、それなりに緊迫した世界が繰り広げられていたということです。ちなみにサンマ漁が解禁となって、港からサンマ船が一斉に出漁して行った後、漁港には一つや二つの死体が浮くんだそうです。ヤカラたちは全国から集う荒くれ者、今言う反社会的な人たちだったり、戸籍も無い人たちだったでしょうから、そういう事件性あることは別に珍しいことではなかったのだろうと思います。以上、私が知り得る補足的情報みたいなもんでした。  

チンポにワラを結ぶ

 投稿者:付喪神  投稿日:2019年 4月18日(木)14時32分8秒
  先日、私にとってカメラや写真の師匠でもあるTさんの別荘に寄りました。別荘と言っても趣味のための家屋ですが国道沿いの普通の平屋です。Tさんとは写真以外にも色々な世間話や民俗風俗の話をするのですが、その中で、その昔、宮古港から出港したバラメヌケを獲る八丁櫓の漁船の漁師は全裸にチンポにワラを一本結んだだけの出で立ちだったというのです。そんな漁師がいた時代はまだ発動機がない時代で、ダンベに推進力を得る8個の櫓があっただけで、あとは小さな帆を張って沖に出たようです。バラメヌケ漁は閉伊崎沖の大陸だなである宮古堆(たい)付近で行われたのでしょうが、これはもう命がけの仕事です。そのような就労に付く人たちは、戸籍のない「ひにん」たちだったようです。彼らは服を着ることを許されず日常も全裸でしたが、最低限の着衣としてワラ一本が認められていたというのです。チンポのワラは呪いや宗教的なものではなく、最後の着衣なわけです。それでも海上は寒いですから、ズブやドテラのような上着を羽織ることは許されたようですが、下半身はワラ一本のみでした。これは人にも満たない下人風情が服を着る、褌を締めるなどという贅沢を許さなかったのです。そんな今は到底考えられない超差別と超貧困が存在したということでしょう。女性が殿方の寝床で全裸になることを俗に「一糸まとわぬ」と表現しますが、ワラ一本チンポに結ぶことで、全裸ではないという自負があったのかも知れません。となると、チンポにコンドームをつけた状態でうろついても、最後の一枚はちゃんと着ているんだと主張できるわけです。まっ、屁理屈ですから猥褻物うんぬん罪で捕まりますけど。あと、Tさんと話した重要な部分はワラを結んだという逸話や記録はあるのですが、チンポのどこへどのように結んだかは不明です。包茎状態にして皮に結んだか、カリ首に結んだか、ふぐりの裏から陰茎付け根あたりを結んだか、その形態が不明のままです。ちなみに、海水浴状態のチンコなら棒部分に結ぶのは無理ですから、ふぐりの裏から根本あたりを結んだのではないか?と推測しています。
 

レンタル掲示板
/22