投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


続・台風が過ぎたかと思えば、フェーン現象で高温多湿、その後は大雨…。

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 7月11日(水)10時49分59秒
返信・引用
  画像一枚目、二男が注文した、胡麻塩鯛定食。貝汁(小)は+280円で味噌汁からグレード・アップです。

画像二枚目、僕が注文した、塩鯖定食。豚汁(小)は+220円で味噌汁からのグレードアップです。野菜がビッシリ入っていました。

こちらの店舗で使われている七味・一味唐辛子は、善光寺近くに在る、
ヘンテコリンなスポーツでお馴染みの『八幡屋礒五郎』さん謹製でした。
 

台風が過ぎたかと思えば、フェーン現象で高温多湿、その後は大雨…。

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 7月11日(水)10時41分50秒
返信・引用
  台風が過ぎたかと思うと、フェーン現象、そして大雨…。

体調不良の原因となる天候が続きましたが、お変わりありませんか?


『きょうが絶好のチャンス。大雨なので行列が無い。きょうこそ行こう!』

大雨の中、社用で外出していた二男から電話が有りました。

いつも社用で通る道に、二男が興味津々で様子を伺っている食堂が有るのですが、
いつも長い行列が出来ているので、中々入る事が出来ずにいました。

それが、大雨のため行列が無く、絶好のタイミングだと二男は判断した様です。

『分かった。それでは今から現地へ向かう。』僕は返事をして出掛けました。

大雨の中、駐車場に車を入れて現地へ歩いて行くと、二男が傘を差して待っていました。

『ほら、きょうは行列が無い。』二男は嬉しそうに言い、店の中へ入っていきますので、僕も従いました。

傘入れに差してきたビニール傘を入れていましたら、
店の女性が『似た傘が多いので、間違い防止の為にコレを使って下さい。』と、
数種類の色付き輪ゴムを差し出されました。

なるほど、これは良いアイディアですね。

席に案内されて、献立表が示されました。

店の入口近くには鯖を模した提灯が有りましたので、てっきり僕らは鯖料理の専門店だとばかり思っていたのですが、
どうしてどうして、日替わりの献立には十数種類の魚料理や鶏、豚の料理が並んでいました。

『わぁ、いっぱい有るので迷うなぁ。てっきり鯖の単品料理が名物の店だと思っていた。』と、
二男も僕と同じ考えだった様です。

僕は、最初から塩鯖定食に決めていましたが、それに220円のオプションで味噌汁を豚汁(小)にグレードアップしました。

色々と迷っていた二男ですが、胡麻塩鯛定食に決まり、味噌汁を280円のオプションで貝汁(小)に代えて注文しました。

行列こそ有りませんでしたが、やはり人気店なのですね、続々とお客様が入り、ほぼ満席状態となりました。

旅行客も多く、店内にはハングルや広東語、台湾語らしい言葉が飛び交い、
注文時にスマホでインスタグラムか何かの画面を指し示す人も少なくありませんでした。

そして、二男と僕が注文した食事が運ばれてきましたが、かなりのボリュウムでした。

特に、貝汁と豚汁の具はアッパレな程に量が多く、具の隙間に味噌汁が入り込んでいる様な感じでした。

これが(小)なのですから、(大)でしたら、どのくらいの量なのでしょうか?

これでは行列やインスタグラムの掲載も尤もな事だ、と納得して満腹になりました。

お勘定は、ふたり分で2400円位でした。


画像一枚目は店舗の外観で、いつもは大行列が出来ています。
左側に鯖を模した提灯が有りますので、鯖料理の専門店か?と思っていました。

画像二枚目、その日の献立表です。
 

エスニック

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 7月 4日(水)10時58分5秒
返信・引用
  台風の被害など、有りませんでしたか?


先日の日曜日、家内と外出して用事を済ませましたら、ちょうど昼時になりましたので、
『何か食べてから帰ろうか?』という話になりました。

『何を食べるか?』と家内に尋ねましたら、通り掛かったカレー店を指差して、
『あそこ、前から気になっていたので、あそこにしましょう。』との事。

近くの駐車場へ車を入れて、歩いて店へ向かいました。

確かに、以前から家内が『あのカレー屋さん、通る度に行列が出来ている。』と言っていた記憶が有ります。

僕らが店の前に着くと、四人が並ばれていました。

店の看板には、『カライ ウマイ セマイ』と書いてあり、中をドアのガラス越しに覗くと、確かに狭そうです。

途中、持ち帰りのお客さんが注文してあったカレーを取りに来られたりもしました。

少し暑かったのですが、それでも今まで店の前を通り過ぎていた時に比べれば、
行列は短い方でしたので、待つ事にしました。

一人、食べ終わった方が店を出られると、中から黒いコック服を着た御店主らしい方が出て来られて、『どうぞ!』と一人の方を店内に案内されました。

その後、僕らに『カレーの大きさを決めて下さい。』との事でした。

献立は一種類のみらしく、恐らくは日替わりで、
看板には『ゴボウとチキンのカレー 大750円 中650円 小550円』と書いてありました。

僕は『中』と答え、家内は少し考えてから『小、いえ、やっぱり中。』と注文し、
御店主は『中二つですね、有難うございます。』と、店へ入られました。

それから15分位が経ち、ふた組みの二人連れの方が食事を終えて出て行かれ、
僕たちの番になりましたので、入店しました。

元々、僕は『カレーはウチのカミサンが作るカレーが一番美味しい。』と言っている人間ですので、
外出先でカレーを食べる事は殆ど有りません。

強いて言えば、カレーうどんを食べるくらいです。

しかし、家内はアチコチのカレーを食べるのが好きらしく、今までもスリランカカレー等を好んで食べていました。

きょうのカレーも『スリランカカレー』と銘打たれています。

また、僕は基本的に、唐辛子辛いのや黒胡椒辛いのは好みなのですが、どうもスパイスというか、
ハーブ等を多用するエスニック料理が苦手で、どうかすると体調を悪くしてしまいます。

特にタイ料理は苦手ですねぇ…。

今までタイ料理は幾つか食べたつもりで、
特にバンコクでは『最高のタイ料理レストランです!』と現地のガイドが言った、
ブルーエレファントというレストランでも食事をした事が有りますが、
そこでも僕には美味しいとは思えませんでした。

はい、僕が一番好きなタイ料理は、インスタントのトムヤムラーメンですね。

ハーブ類で体調が悪くなり、トイレへ行くと、
家内は『見かけや体の割に胃腸が弱いものねぇ。』と、不思議そうに言います。

しかし、まぁ、きょうのカレー店は匂いを嗅ぐ限り、僕にも大丈夫そうですので安心しました。

店内は、二人掛けのテーブルが二つとカウンターは四人で満席、全部で8人分の席です。

御店主が一人で調理と配膳をなさっているので、食べ終わるとセルフで食器をカウンターの隅に返し、
代金を支払うシステムの様でした。

そして、待つこと暫し、『中のカレー』が運ばれてきました。

トレイにはカレーの皿、千切りキャベツの小皿とデザートのティーゼリーが載っています。

テーブルには水差しと、ラッキョウ、福神漬けの様なモノの容器が有りました。

カレーのルゥはスープの様にザブザブで、それにライスを浸して食べるスタイルです。

特に辛くもなく、何種類かの香草が入っていましたが、それほど香りも強くなくて、あっさりと食べられました。

ゴボウは少し厚めの輪切りで、少し繊維質が残るくらいの煮込み方、チキンは皮と骨を取り除いたブツ切りでした。

『この鶏肉、肉屋さんが皮を取って、皮は焼き鳥屋さんに卸したのだろうか?』等と不埒な事を考えながら、
食べましたが、やはり家内には少し量が多かったらしく、食べ終わった僕が家内の加勢をして食べ終わりました。

食器をカウンターに返して、『中二つですので1300円ですね。』と1300円を置くと、
カレーを加熱してある御店主は、『あ、有難うございます!』と応じられました。

店の外に出ると、行列が伸びて7~8人が並ばれていました。

家内は、『あれで650円は安いわ、大名や天神だったら、きっと1000円以上はする。』と、満足そうでした。

それから帰宅しましたが、僕は急に眠気が差してきて、ソファに寝転ぶと、そのまま眠ってしまいました。

いつもですと15分か30分程で目が覚めるのですが、その日は夢を見て、
『起きよう』という意識は有るのですが、何故か起き上がれず、
なんとも表現のしようが無い倦怠感で眠り続けていました。

あの倦怠感は何だったのか、分かりません。

恐らく、カレーに使われていたスパイスやハーブは関係が無い、とは思います。

そして、『これが、スリランカカレーでは無くて、加齢なのだ!』と苦笑しています。
 

戦争犯罪ー謂なき冤罪

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 6月27日(水)11時39分56秒
返信・引用
  毎週、時間が有る限り、護国神社に参拝します。

そして、戦火に倒れられた方々の事を思います。

辛い思いをされたのだろうな、苦しかっただろうな、そう思い、自分であったら、と考えます。

また、『戦争犯罪人』と呼ばれて裁判にかけられた方々の事も思います。

その多くは、『裁判』という美化された、しかし実際には勝者による敗者への復讐、
または不可抗力によって生じた止むを得ない事情での『被告』とならざるを得なかった悲劇の数々です。



■1.「わたくし、マニラにまいります」

 本間雅晴・予備役中将の妻・富士子のもとに、コーダー大尉が訪れたのは、
フィリピンはマニラで昭和21(1946)年1月に始まった本間中将の「戦争犯罪」裁判の直前だった。
夫にかけられた嫌疑はバターン半島で降伏した米軍・フィリピン軍約7万6千人もの捕虜の
「バターン死の行進」の責任者というものだった。

 これはこれだけの捕虜を収容所に移動させるに際して、食糧・水やトラックが絶対的に不足しており、
炎熱下を長時間歩かせたため、かつマラリアの蔓延もあって、多くの犠牲者が出た事件である。
途中、虐殺や虐待もあったとして、米軍は「真珠湾を忘れるな」の次に「バターン死の行進を忘れるな」と戦争宣伝に使っていた。

 すでに予備役に入っていた本間は、終戦後すぐに占領軍から出頭命令を受けた。
「バターン死の行進」という言葉もその時、初めて聞いた。そしてその「裁判」のためにマニラに運ばれた。
弁護団のコーダー大尉らは、本間の人柄について妻に法廷で証言させ、米国世論の緩和を狙っていたのである。

 コーダー大尉は富士子に本間からの手紙を見せた。そこには懐かしい筆跡で、
「私は今更未練が出るし、御身も私の死刑宣告の場面に列席したくもなかろう」と来訪をとめていた。
しかし、その手紙を読み終えると、富士子はきっぱりと答えた。


 わたくし、マニラにまいります。夫のためになることなら、どんなことでもいたします。[1, 5244]


■2.「カーネル(大佐)ホンマは諸国の武官の中で抜群だ」

 本間は二度も英国駐在を経験した陸軍きっての国際派だった。身長1メートル76センチの長身で、
体格も良い本間はイギリス人に交じってもひけをとらない、と富士子はひそかに誇りに思っていた。

 本間はイギリスの軍人たちと親交を結び、陸軍情報部のダウネイ極東課長は
「識見、判断、語学力など、カーネル(大佐)ホンマは諸国の武官の中で抜群だ」と言っていた。

 富士子の方もそんな本間の妻として、三十歳前にも関わらず、
「日本陸軍を代表する夫にふさわしい妻でなければならぬ」と、英語力の不足など意に介さず、
気さくにイギリス婦人たちの間に入っていき、「ミセス・ホンマは十分に信頼できる、心の温かい人」と評価されていた。

 と言って、本間はイギリスべったりの人間ではなかった。
インド駐在も3年間経験し、多くの独立の志士とも語り合った。その中には後のネール首相もいた。
香港、シンガポール、マレーシアなどイギリスの植民地に関しても、
「いつまでもこんなことが許されるはずはない。これらの国は近い将来、必ず独立して自国の旗を立てるようになる」と語っていた。


■3.「教育家か学者にでもなった方がよかった」

 本間の英国駐在時代の部下は
「本間さんは軍人として立派な能力を発揮した人だが、
何か他の職業……教育家か学者にでもなった方がよかったのではないかと思います。
あの純粋な、思いやりの深い人が、軍閥時代に軍人であったことは、痛ましい」と語っている。

 大変に涙もろい性格で、あわれな子供を主人公にした映画などを見ると、
ハンカチに顔をあてて、とめどもなく涙を流した。戦場でも有能な指揮官ぶりを発揮したが、
慰霊祭で弔辞を読む際には、いつも涙で声をつまらせ立往生した。

 また部下思いで、演習で疲れ切った新兵たちの間に入っては、ねぎらいや励ましの言葉をかけ、
若い将校たちが家に訪ねてくると、どんな時間でも一家をあげて歓迎した。
本間は酒を飲まないが、勧め上手で、青年将校たちは大いに飲み食いし、歌い踊った。

 その一方で、本間は親分・子分的な関係は一切、作らなかった。
陸軍内の皇道派、統制派のどちらにも属さなかった。「軍人勅諭」に詠われた
「政治に拘(かかわら)す只々(ただ)一途に己(おの)か本分の忠節を守り」を文字通りに生きた人物であった。
二二六事件に際しても、第一報が入った時から反乱軍に対し「討伐すべし」という厳然たる態度をとった。

 昭和13(1938)年7月、中将に昇進した本間は、第27師団長に任ぜられ、支那事変を戦うこととなった。
その前にドイツを仲介とした和平工作、トラウトマン工作に失敗していたこともあり、本間は蒋介石を追い詰めず、
今こそ和平工作を進めるべきだと説いたが、賛同者はほとんどいなかった。

 中国奥地に逃げる蒋介石を追うという任務を与えられると、それがいかに自己の信念に反していようと、
全力をあげてその任務を完遂するのが、本間の軍人としての生き様だった。
そして、立派な軍功をあげた。それは中国との和平をさらに遠ざけたのである。


■4.「神に向かって語ろうとしていたような気がします」

 本間のこういう性格を、米軍の6人の弁護団はすぐに見抜いた。
弁護団長のスキーン少佐は、「本間将軍は極悪非道なモンスターだと聞かされ、そう信じていたが、
今では彼の人格を心から尊敬しています。将軍に罪はない。
彼の潔白を証明するため、われわれはできるだけの努力をします」と言って、朝から晩まで資料集めや現地調査をした。

 富士子が証言台に立ったのは、弁護側証人出廷の最終日、2月7日だった。
夏帯姿の富士子は一歩一歩踏みしめるように、しっかりした足どりで証人台へ進んだ。
質問は、大東亜戦争勃発に対する本間の批判、東条英機との確執、三度試みて失敗した支那事変終結工作、
米英両国に対する本間の見解と続いた。
はじめは震えていた富士子の声も、やがて一語一語力がこもった。

 富士子は被告席の夫も、裁判官も、弁護団にも目を向けず、高い窓を見上げながら証言を続けた。
そこには南国の青く澄みきった空が見えた。後に富士子は、この時のことを思い出して、
「裁判官や検事にわかってもらおうというより、神に向かって、
本間がどんな人間かを語ろうとしていたような気がします」と述べている。[1, 5617]


■5.「わたくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております」

 最後に、「あなたの目にうつる本間中将はどのような男性か、それを述べて下さい」と聞かれた。


 私は東京からこのマニラへ、夫のためにまいりました。夫は戦争犯罪容疑で被告席についておりますが、
わたくしは今もなお本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。

 毅然と言い放った富士子の言葉が英語に翻訳されて伝えられると、法廷のあちこちからすすり泣きの声が起こった。
検事の中にも、ハンカチで目を拭う人がいた。


 わたくしに娘が一人ございます。
いつかは娘が、わたくしの夫のような男性とめぐりあい、結婚することを心から望んでおります。
本間雅晴とはそのような人でございます。


 富士子の証言の初めからハンカチに顔を埋めていた本間は、この頃には肩を震わせて嗚咽していた。

 翌日の地元の新聞はいっせいに、富士子への好意に満ちた記事を大きく掲載した。
フィリピンの反日感情がきわめて強い時代に、異例の扱いだった。
紙面に並べられた二葉の写真、胸を張って証言台に立つ富士子と、ハンカチに顔を埋めて泣く本間の写真は、
泣き虫将軍と健気なる妻という夫婦の性格を端的に物語っていた。


■6."I shall return"(私は戻ってくる)

 2月9日、弁護団の論述が始められた。
オットー大尉は、ある検察側証人の「幅50フィート、長さ75フィートの倉庫に6千人が閉じ込められた」という証言に対して、
人間が一人で立つには1平方フィートを必要とするから、3,750平方フィートに6千人が閉じ込められたことなどが、
あり得ないことは、簡単な算術で分かる、などと、次々と証言の虚偽を暴いた。

 コーダー大尉は「裁判官諸官も、もし被告と同じ境遇にあったなら、被告と全く同じことをやったであろう」と指摘した。
最後に立ったスキーン少佐は30分の弁論で
「弁護団は全員深く被告を信ずる。できればみな証人台に立って訊問を受けたいくらいである」と、無罪を主張した。

 一方、ミーキ検事長は長時間をかけて捕虜に対する残虐行為を述べ、被告はすべてを知ってやらせたものであり、
ことごとく被告の責任である、「ゆえに死刑を求刑する」と結んだ。

 5人の裁判官、検事、弁護士まで、すべてマッカーサーの部下であった。
「裁判長ドノバン少将の憎悪に充ちた顔、これで公正な裁判の不可能が分かる」と本間は日記に書いている。
それでも弁護団が、ここまで本間を信じたのは、その人格力のゆえだろう。
しかし、検事や裁判官には、なんとしても本間を有罪にしなければならない事情があった。


 マッカーサーはバターン半島の要塞に籠っていたが、本間中将率いる日本軍の攻撃に、捕えられる恐れがあった。
フィリピン戦線は大東亜戦争での米陸軍と日本陸軍との最初の戦闘であった。
その劈頭の戦いで米軍司令官が捕えられでもしたら、米国の威信は地に落ち、米国民全体への士気に影響すると、
ルーズベルト大統領は恐れ、マッカーサーにバターンからの脱出を命じた。

 マッカーサーは魚雷艇で脱出した。有り体に言えば、部下を置き去りにした敵前逃亡であった。
マッカーサーは自身の名声を保つために、"I shall return"(私は戻ってくる)との芝居がかったセリフを残したが、
その心中ではなんとしてもこの恥辱は注がなければならない、と決心していたようだ。
本間を被告とするこの裁判は、マッカーサーの復讐心を満たすためのものだった。


■7.最後の面談

 9日の夜、富士子は本間との最後の面談を許された。
ウイリアム憲兵大尉は「時間は30分」とぶっきら棒に言い残し、部屋から出て行った。
二人は共に楽しく過ごしたロンドン時代を語り合った。
30分はとうに過ぎ、やがてたっぷり2時間がたった頃、大尉が歌を歌いながら戻ってきた。「つい、飲みすぎて」と戸口の憲兵に声をかけた。

 富士子を婦人宿舎に送り届けた後、ウィリアムはさらに酒を煽り、泣き声でわめいた。


 こんなつらい夜がまたとあろうか。
あんなに愛し合っている立派な将軍夫妻が、もう今夜を最後に二度と会えないんだ。
それだのに、たった30分・・・。おれには我慢できん。処罰でもなんでも、喜んで受けるぞ。
おれは将軍夫妻に二時間を差し上げたことで満足だ。


 2月11日、銃殺刑の判決が下った。
判決の承認をマッカーサーに求めるために、裁判の膨大な記録が、3月初めに東京に送られた。

 3月11日、富士子はマッカーサーとの会見を許された。
マッカーサーは「生活に不自由なことがあれば、何でも援助したい」と申し出たが、
富士子は丁重に礼を述べて辞退した。
翌日の新聞は、次のような富士子の談話を載せている。


 私は、マニラの本間裁判の記録は日本歴史に重大なものと思い、
本間家に保存のため記録を一部いただくためにマ元帥を訪問、元帥はそれを承諾して下さいました。
 私は夫の特赦は願いませんでした。
それは夫の意思に添うことでなく、特赦を願えば夫は怒るでしょう。
夫はマニラで「自分は戦争犯罪を犯す命令は下さなかったが、部下の行為については喜んで責任を持つ。
戦場で死んだ幾千の日本軍将兵の仲間入りをしたい」と語っていました。[1, p5854]



■8.「榮ゆく御国の末を疑はず」

 銃殺刑の執行は4月2日の晩だった。
夕食に本間はビールを所望し、ビーフステーキとサンドウィッチを食べた。コーヒーを飲んだあと、
手洗いに立って「米軍のビールとコーヒーはすべて返上してきたぞ」と冗談まで口にした。

 刑場では、「大元帥陛下万歳、大日本帝国万歳」と三唱した後、日本の方角に向かって最敬礼した。
米兵が黒い頭巾をかぶせようとすると、「目隠しはよしてくれ」と頼んだが、許されなかった。本間の脈をとった軍医は、最後まで72と平常通りであることに驚いた。
死刑執行官の「用意!」の声に続いて、本間は黒い頭巾の中から、「さあ、来い」と気迫の籠った声を出した。

 本間が富士子に送った手紙の中には、次の辞世の一首が含まれていた。

 榮ゆく御国の末を疑はず心ゆたかに消ゆるわれはも

「榮ゆく御国の末を疑わず」の信念は、弁護してくれた日本人証人たちに送った感謝の手紙にも表れている。


 又若き国民として日本人はやがて起ち直ると確信するのみならず、此屈辱を通してよりよき日本が出来ることを疑いません。
四、五年の混迷時代を濾過した暁に直ちに新しい日本が生れると信じます。
 どうか永遠の生命を持つ日本のために一刻も早く苦難を切り抜ける様御尽瘁下さい。
それでは左様なら。御機嫌よう。
大日本帝国万歳


 確かに経済的には新しい日本が生まれた。
しかし、本間と富士子が示した気骨を我々は受け継いでいるかと自問すれば、
まだ「混迷時代を濾過した」とは、とても言えない状況に胸が痛む。

(文責 伊勢雅臣)

1. 角田房子『いっさい夢にござ候 - 本間雅晴中将伝』★★★、中公文庫、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B012MDU6UQ/japanontheg01-22/

2.今日出海『悲劇の将軍─山下奉文・本間雅晴』★★、中公文庫、S63
http://www.amazon.co.jp/o/4122015596/japanontheg01-22/
 

続・続・続・海軍記念日

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 6月20日(水)11時25分3秒
返信・引用
  ー承前ー


出港してから操艦が艦長から航海長に代わり、一時間ほどの航海で玄界島付近の海面に着きました。

https://www.youtube.com/watch?v=fVSa9irWi5s

この辺りを微速で進みながら、洋上慰霊祭が行われます。

第一訓練支援隊司令と艦長、幹部は夏期礼装に着替えられて式典が行われる後部甲板へ移動され、
ブリッジは航海長と数人のワッチが残られました。

僕らもブリッジを降りて、後部甲板へ移動しました。

https://www.youtube.com/watch?v=BvL12bcwDUs

前回、この式典に参加したのは七年前ですが、やはり変わらず厳粛な雰囲気の中で慰霊祭は進行していきました。

筥崎宮宮司が供物を海中へ捧げられた後に、乗艦者は用意した花を舷側から海へ捧げ、
犠牲となられた皆様の御霊に祈りました。

祈りを終えて、元の位置に戻る際、幸いにも僕は宮司と目が合い、
宮司は『お、来ていたのか』と眼で語りかけて下さいました。

式典が終わると後部甲板では佐世保音楽隊の演奏会が行なわれますが、
僕らは医学博士の希望で再びブリッジに上りました。

暫くすると礼装から第三種夏服に着替えられた司令と艦長がブリッジに戻って来られました。

式典が行われている間に『てんりゅう』は、ゆっくりと回頭していましたが、
帰港するために更に回頭を続けます。

出港後と同じく、航海長は同航や反航のフネを注視しながら慎重に操艦を続けられました。

その間、艦長は和やかな表情で、艦長用『お猿の腰掛』への着席を乗艦者に勧められましたので、
僕は医学博士を座らせて写真を撮り、その後、艦長に医学博士と並んで頂き、記念撮影をしました。

艦長は、とても穏やかな表情で応じて下さいました。

そして、『岸壁まで10マイル(18,52km)』、続いて『5マイル』との報告が為されると、
艦長が『航海長、操艦を代わる。』と告げられました。

航海長が『了解、操艦を艦長に代わる。』と復唱されると、ブリッジの全員が『艦長、操艦!』と異口同音に復唱し、ブリッジは一層緊張感が高まりました。

艦長はブリッジ右舷露天甲板に出られて操艦の指示を出され、
航海士がブリッジ内の操舵手と機関士に艦長の指示を伝えられていました。

https://www.youtube.com/watch?v=1o_VjUqvS-w

そして、愈々岸壁が近付きますと、更に緊張が高まり、航海長はブリッジ中央の羅針儀で方位を測定しながら、
『艦首、僅かに右へ振れる』、『僅かに行き足有り』等と艦長の操艦を補助されていました。

やはり、出港時よりも着岸の方が難しいのだろう、と僕は素人ながらに考えました。

そして、1615頃、『てんりゅう』は無事に着岸作業を終えて、
艦長は司令に『司令、入港しました。』と敬礼報告を行われ、司令は『はい、御苦労様です。』と答礼されました。

これで、三時間程の体験航海と洋上慰霊祭が終わり、僕は退艦の列に並びました。

筥崎宮の宮司が真っ先に退艦されて迎えの車に乗られるのを僕は会釈して見送り、
その後、退艦者を敬礼で見送って下さる乗員の皆様方に
『お世話になりました、有難うございました。』と、お礼を言いながらフネを降りました。


『てんりゅう』の皆様、有難うございました。

今後共、国防の大任を宜しくお願い申し上げます。
 

続々・海軍記念日 画像その2

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 6月13日(水)10時49分14秒
返信・引用
  画像四枚目、双眼鏡で見張りの航海長です。

画像五枚目、慎重に判断、操艦指示を出されています。

画像六枚目、少しホッとされた様な表情です。
 

続々・海軍記念日

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 6月13日(水)10時44分54秒
返信・引用
  『出港用意!』艦長が号令を掛けられますと、ブリッジの総員が一斉に『出港用意!』と復唱しました。

艦首に掲げられていた日の丸が降ろされ、ラッパが鳴って、甲板では舫い綱が解纜されました。

『出港用意、宜しい!』と確認の報告が行われると、
『艦長操艦、後進最微速。とぉりかぁじ!』と艦長が操艦指示をされて、
機関員が『後進機械、掛かりました。最微速、整定。』と応え、ゆっくりとフネは動き始めました。

『甲板作業員、右舷、帽振れ!』と艦内放送が流れます。

航海長は、羅針儀で岸壁とフネの角度を測りながら、『静かに後進、岸壁を離れます。』と報告し、
機関員は『サイドスラスター作動!』と計器を見つめながら報告しました。

ゆっくりとフネは岸壁を離れながら、港外に向けて回頭していきます。

『イキアシ、付きました!』と航海士から報告があり、艦長は『後進停止、前進ビソォク!』と号令されました。

『前進機械、掛かりました。前進微速。』と機関士が報告し、フネは速度を増していきます。

艦長は、『前進半速』、続いて『前進原速。航海長、操艦!』と命じられ、
機関士は『前進原速、速度整定。』と復唱し、航海長が『原速、赤黒無し。操艦代わった。』と確認されて、
フネは防波堤を通過しました。

このフネの最高速度は22ノットですので、恐らく原速は10ノット(18,5キロ)だと思います。

『防波堤、かわった。見張りを厳にする。350°プレジャーボート。距離と進路をCICに測定確認!』航海長が航海士に命じ、
航海士はレシーバーでCICに問合わせて、『進路そのまま、近づく!』と応えました。


『危ない。避けそうにないなぁ…。艦長、汽笛を鳴らします。汽笛吹鳴用意!』と航海長が告げ、
艦長は双眼鏡でプレジャーボートを確認されて、『了解!』と応えられ、航海長は『汽笛吹鳴、鳴らせ!』と命じられました。

『汽笛が鳴ります。大きな音がしますので、ご注意下さい。』と、
乗艦者に向けた艦内放送が行われた後、汽笛長一声が行われました。

『プレジャーボート、進路変更。』と航海士がCICからの連絡を報告し、
『了解!』と航海長が応じて、ブリッジに雰囲気は少し和らぎました。

昔でしたら、A旗一旒、『我が進路を妨げる勿れ』の信号を掲げておけば、
民間のフネは海軍さんに敬意を表して避けて通ったのでしょうが、現代では通用しないのでしょう。

その後も、次々と見張り員から反航や同航するフネが報告され、
航海長は進路や速度を測定し、或いはCICに測定と予想を求めながら、目的海域を目指されました。

艦長は、航海長の操艦に万全の信頼を置かれている様子で、時折双眼鏡で確認される以外は、
艦長用『お猿の腰掛』に座って居られました。

その後、司令と艦長は、追悼式典に参列されるため、正装へ着替えにブリッジを離れて階下に行かれました。

https://www.youtube.com/watch?v=fVSa9irWi5s

↑航海長操艦の動画です。


画像一枚目、レイバンがお似合いの航海長です。

画像二枚目、フネの速度、方位を示す計器類です。

画像三枚目、見張りを厳にした緊張のブリッジです。
 

続・海軍記念日 追加画像その2

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 6月 6日(水)11時12分59秒
返信・引用
  画像七枚目、フネの生き字引、先任海曹の部屋入口です。通称『オヤジ部屋』。

画像八枚目、男性用厠。荒天時の怪我防止に給水管には覆いが付いています。
給水管に付いている黒いレバーっを手前に引くと海水が流れて洗浄されます。
洗浄後はレバーを手動で戻します。『1分間、洗浄水を流せ』と書いてありました。

画像九枚目、左側が、出港準備の打ち合わせをされる航海長です。
 

続・海軍記念日 追加画像

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 6月 6日(水)11時08分45秒
返信・引用
  画像四枚目、速射砲砲身の下にある薬莢排出口です。

画像五枚目、艦橋下に在るCIC(コンバット・インフォメーション・センター)戦闘指揮所です。

画像六枚目、食堂は乗艦見学者が占拠中です。
 

続・海軍記念日

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 6月 6日(水)11時03分14秒
返信・引用
  承前

筥崎宮の参道を貸切バスは定刻の1140に出発し、博多港中央埠頭に向けて出発し、1200に到着しました。

埠頭には、呉から第一訓練支援隊から『てんりゅう』が来て下さっていました。

早速、乗艦券を受付に渡し、持っていた鞄の検査を受けると、愈々乗艦です。

乗艦すると、舷門に立っておられる海曹が『こんにちは、ようこそ、てんりゅうへ!』と挨拶して下さいますので、
こちらも『こんにちは、お世話になります。』と返します。

『順路』と書かれた案内板の通りに進みますと、格納庫に入ります。

格納庫では、『てんりゅう』のオリジナルグッズが販売されていました。

自衛隊では、様々な乗艦記念品を販売しているフネが有りますが、勿論、販売していないフネも有ります。

僕は、販売されているフネに乗った時は何かしら買い求める事にしていますので、今回も買う事にしました。

手拭い、ハンドタオル、Tシャツ、『てんりゅう』の名入り作業帽レプリカを手に取りますと、
医学博士は『これを買うと、売上は何かに役立つのですか?』との事でしたので、
僕は『え~、昔で言えば恤兵金(じゅっぺいきん)、今風に言えば、乗員の福利厚生に遣われるはずです。』と答えました。

すると博士も、『おお、それは素晴らしい事ですね!』と、僕と同じような品物を手に取り、
ニコニコと支払いを済まされました。

格納庫から艦尾へ進みますと、このフネの主任務である、航空高速標的機、通称チャカⅢが展示されていました。

http://nagisaya.livedoor.biz/archives/53281468.html

その後、『順路』と書かれた案内板に沿って艦内を巡回見学しましたが、博士は『食堂とトイレが見たい。』との事でした。

流石、職業上からの興味なのだろうな、と僕は感服して、食堂へ行きましたが、既に乗艦者が多数座って居られました。

冷えた麦茶などが自由に飲めるように準備されていましたが、博士は自動販売機でスポーツ飲料を購入され、
『暑くなりそうですから、熱中症予防に飲んでおいて下さい。』と、僕にも恵贈して下さいました。

さすが本職、と、またしても僕は感じ入り、有り難く頂戴しました。

飲み終わると、今度はトイレを見学に行きました。

今まで僕が見た多数のフネはトイレが艦首に近い所に配置されていました。

(この事から、海軍のギョーカイ用語で、トイレの清掃状況が良くない事を『ヘッドが汚い』と表現します。)

トイレの洗浄に使われるのは海水で、『レバーを引いて一分以上流せ。』と書いてあります。

前甲板では、このフネで唯一の武装である3インチ(76ミリ)速射砲を見学しましたが、
すぐ傍に立っておられた海曹が丁寧に説明して下さいました。

『え~、この速射砲は、最大で1分間に百発を撃つ事が可能です。』との事ですので、
『1分間に百発も撃ったら、薬莢は、どうなりますか?』と質問しましたら、海曹は我が意を得たり、とばかりに
『そりゃもう、オオゴトです。薬莢は、あの砲身の下にある黒い蓋の所から排出されるのですが、
百発ともなれば次から次へと出て来ますので、それを拾うのがオオゴトです。
まず、百発ともなれは全て拾うのは難しいですねぇ。いえ、原則として拾わなければなりませんが、
状況によっては海中に落ちてしまう事も有ります。その場合は、状況を書類にして報告しなければなりません。』との事でした。

『フネは書類で動く』とは、昔から言われている事ですが、今でも同じなのですね。

それから暫くはフネの中を行ったり来たりして、CIC(コンバット・インフォメーション・センター、戦闘指揮所)、
機関指揮所、先任海曹室
(ここは中には入れません。先任海曹とは、そのフネでは最も経験を積んである下士官の事で、
艦長が御存知ない事も知ってあるような、生き字引的人物です。乗員からは親しみを込めてオヤジとも呼ばれます。)等を見学しました。

1330の出港時間が近づいて来ましたので、艦橋(ブリッジ)に上りましたが、
そこでは女性が羅針儀を念入りに点検してありました。

女性の肩章を見ますと、海軍大尉(一等海尉)でしたので、『ああ、この方は航海長なのだ!』と僕は思い、
畏敬の念を持って彼女に注目しました。

レイバンのサングラスが良くお似合いの女性です。

愈々、出港時間が迫り、艦内と甲板では緊張が高まり、ブリッジでは航海要員と機関要員の打ち合わせが念入りに行われ、
『艦長、艦橋右露天甲板に来られました。』の声で、一瞬、ブリッジの全員が手を止めて艦長に注目し、またすぐに作業が続けられました。

ブリッジの中で出港準備作業を多数の乗艦者が見学していると、タラップから第一訓練支援隊の司令が上がって来られました。

『司令、みえました!』乗員の一人が報告すると、
ブリッジの乗員が一斉に準備作業の手を止めて司令に敬礼され、司令は『はい!』と返礼されました。

乗員は準備作業に戻り、司令は乗艦者の数に驚かれたのか、『お、すごいな!』と一声、
すぐに続いて『はい、ちょっと済みません、通して下さいね。』と乗艦者の間を摺り抜ける様にして、
艦橋左側前方の司令席に腰掛けられました。

司令席は海軍大佐(一等海佐)を表す赤い座席カバーが掛けられていて、この席は『お猿の腰掛』と呼ばれています。

艦長席は右舷側にあり、こちらは海軍中佐(二等海佐)を表す赤と青の二色カバーです。

続く


画像一枚目は,このフネの主任務である訓練支援に使用される、対空射撃訓練支援装置です。
オレンジ色のモノが訓練用の標的で、これを射ちだすのが仕事です。

画像二枚目は、格納庫での記念品販売。売上の一部は恤兵金となる様です。

画像三枚目は、主武装の62口径76ミリ速射砲。最大で1分間に百発を発射するそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=x8HfysP77TM
https://www.youtube.com/watch?v=okc_KgRF6-k&t=70s
https://www.youtube.com/watch?v=9FsNtlIkVoY

 

/77