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岩を抱く木々、寄り添う木々

 投稿者:α編集部  投稿日:2015年11月 1日(日)15時55分22秒
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      岩を抱く木々、寄り添う木々 2014-2015



山林の形態その1
2014.6.26
◆岩を抱く木々
 山の斜面に生えている大木を下の道から見上げると、岩を抱いた木々があることに気が
ついた。初めは何故だろうと不思議だったが、よく考えるとある理屈でそのような情況が
生まれたのだと推測した。この辺りの山は大きな岩や小さな点石で成り立っていて、その
周りを長い間の落ち葉が積もり腐葉土をなしている。まだ発酵していない湿った木の葉に
足を踏み入れると、踝(くるぶし)まで沈む位ふわふわと層をなしている。木々にとって
は栄養豊富な山土だといえる。

 その石は明らかに富士の裾野に点在する溶岩とは違い、色は灰色で密な硬い石である。
二つの石の違いが気になって、町の教育委員会に質問してみたら、富士山の石はマグマが
直接地表で固まった火成岩で、私の山荘のある山は海底や川底に堆積した水成岩で、地殻
変動で隆起して山になったということであった。
 更に詳しく調べると水成岩の一種である粘板岩ということが判明した。粘板岩は英語で
スレートと言うくらいだから、当然日本の杮葺(こけらぶき)のように屋根葺き材として
西洋で使用する。また山梨県南巨摩郡の富士川沿いでは雨畑硯(あまはたすずり)という
硯が製造されていることからも、富士山の噴火によるのでなく富士川の堆積により形成さ
れて隆起したという、この山荘の山の成り立ちが分かって成る程と納得した。

 ところで石を抱く木々の謎はどういうことなのか。それは秋になって赤松や椚や木楢や
楓の実が落ち、斜面を転げ落ちてきて留まれるところが石と土の窪みということであろう。
そこで発芽したそれらの木々が数十年と育つうちに石の周りを根で覆い、遂には石を抱い
た形が出来たという訳だろうと推測した。そしてもっと時が経つと石木の力で砕石にひび
を生じさせ、水の凍結によって砕け散る結果の形態が認められるのである。
            続く


山林の形態その2
2014.6.28
◆寄り添う木々
 山の木はある一定間隔でしか成長しないだろうと思い込むが、実際は5メートル以上離
れて育っている木もあれば、狭い範囲に犇(ひし)めいている木々もあり、人工植林でな
い限りその間隔はランダムと言ってよい。岩を抱く木々の話には面白いもう一つ話がある。
 石と土の窪みに山から転がり落ちてきて定着する実が必ずしも一種類とは限らず、同時
に数種類の木々のものが同じ場所で発芽することになる。しかし大きく育つには数々の厳
しい条件をクリアーしなければならない。それに打ち勝った赤松、木楢、楓、橅、杉など
の二種類の木の組み合わせで育った大木が、まるで同根のように寄り添って育っているの
をよく見るのである。

 だがよく観察するとその組み合わせがどんな種類でもいいかと言えば決してそうではな
いらしい。赤松と木楢、楓、橅、杉の組み合わせは多い。しかし樅の木とのペアーは見た
ことがない。どうも樅の木と他の木とは相性が悪いらしい。セイタカアワダチソウやサル
ビアのように地下根から特殊な物を分泌してほかの植物の種子から芽の出るのを抑えた
り、根の成長を妨げたりしするといわれるように、樅の木もまた他の木々をそのような手
段で駆逐するのだろうか。
 その理由として一つ思い当たることがある。赤松をはじめ木楢や楓や椚は総じて太陽
の光を独り占めしてしまうほどの葉張りと密度において、茂らないと言える。だからお
互いにその太陽の光を譲り合いながら育つことができるのではないか。

 その一方で樅の木は樹形が黒く見えるほど密に葉を茂らせ広がり、しかも冬でも葉を落
とすことなく成長するから、太陽の光を分けてもらえない他の木々は寄り添うように育つ
ことが出来ないという理由ではないか。
 そのような樅の木は他者を寄せ付けない強さで、山の中で一人勝ちしているように見え
る。しかし、木の肌や色や葉型の違った異種の木々が寄り添って大木に成長しているのを
見ると、長い年月を苦労しながら添い遂げているような人々の生き様に見えて、ほほえま
しいく思えてくるのである。


      岩を抱く木々/寄り添う木々を読んで 2014.6.29 万理久利
      同人誌に寄稿する作品は人の心の微細な動きを追ったり、つかみ所の無い人
      間の心を描いたり、自然をさらりと歌いあげたりと純文的な匂いがプンプンす
      るものが多いのですが、時として猫の目の大きさを取り上げ顔に対する比率を
      出してみたり、そのジャンプ力を人間のそれと比較して数値で表したりと、科
      学少年らしい実験と分析をこの著者は猛然とやり始めるのです。そして今回は
      住まいの回りの木々をじっと眺めて分析を開始したようです。

       読んでいてふと寺田寅彦の作品が思い浮かびました。昔学校の図書館で宇宙
      旅行ものと並んで借りまくった本です。身の回りのものを科学者らしい目でや
      さしく、短く解き明かしていくのが何よりも面白かった。懐かしくなって青空
      文庫で久々に寅彦の作品を数点読みふけりました。「化け物の進化」「科学と文
      学」「数学と言語」どれもなんとなく相対する言葉が並ぶタイトルですが、相
      違点と同時に共通点も取り上げています。昔はただひたすら科学的な解き明か
      しが、爽快な気分を引き出したのですが、今寺田の作品を読むと、彼がただひ
      たすら、科学万能主義で生きてきたのではないということに気づかされます。
      そして彼の語る世界は本人が意図したかどうかは別として、古今東西共通の人
      間世界のことでもあることも。

       岩を砕く木々も寄り添う木々もこれまた自然界のこと、そして自然の一部で
      ある人間世界のことでもあるわけです。身近なところにたくさんの不思議不思
      議が転がっています。
      不思議を自分の頭で解き明かそうとすることと、言葉を使って何か/作品を
      創造していこうとすることとは、共通の要素があるあるようにも思えます。
      世の中不思議だらけですが、私にとって一番不思議なのは人間かな?
      一番身近であるはずの自分自身かな?



山荘便り
2015.10.31
 「寄り添う木々」という題をつけて山荘便りを書き始めた。山の中を散策していると普
通では思いもつかない現象を目にすることがある。一般的に考えると数十メートルにおよ
ぶ木々が全く近接して生えるとは想像もしない。都市部での造園家による公園の大木の植
栽はほとんど三メートルから五メートルの間隔を空けているようだ。しかし自然界にはそ
のような常識では考えられない植生がしばしば見られるものである。最初に気づいたのは
山荘から五十メートルばかり西に歩いた道路脇に、同じ根元から赤松の大木とブナの大木
が寄り添って生えている。ぼんやりと歩いているとその奇妙さには気がつかないのである
が、株立ちしている二本の木の肌や葉の形状に違和感を覚えて注意して観察した結果判っ
たものである。
 だが待てよ、異種の木々が抱き合うように生えているのは、以前に書いた「岩を抱く木」
と同じ理由であるということに思い当り、その文を探してみた。2014年の6月26に「山
林の形態その1」で「岩を抱いた木々」をその二日後に「寄り添う木々」というそっくり
な文を既に書いているではないか。私もいよいよシナプスやニューロンの働きに陰りが見
えてきたようである。
 同人α44号の竹内氏の作品である「生命」にでてくる、シュレーディンガーの「生物
は負のエントロピーを食べている」という言葉に、言い得て妙だと思った。この世界の物
質は放っておくと確実にエントロピーの増大、即ち無秩序の世界に向かうという。
だから生物は生きるために常に秩序を保つように努力しなければならない。
 山荘便りに書いたように日々のルーチンワークも毎日の規則的な精神や肉体のリズムを
つり、エントロピーの増大に抵抗しているといえる。またそれが生きているということで
あろう。「負のエントロピー」を食べれなくなったとき死に至るということだ。
 だから毎日を高齢だということで、後は残りの人生、余りの人生とばかりに時間つぶし
に無気力に自堕落に生きることは「負のエントロピーを食べれなくなった」ということで、
そろそろこの世におさらばするときが間近いのではないか。

 最近「寄り添う木々」についての追体験をしたことだが青木ヶ原の鳴沢氷穴の近くの国
道139号線沿いの歩道の真ん中に、「やどりぎ」という表札のついた珍しい木が柵に囲ま
れたなかに立っている。そのため歩く人はその囲いを迂回して通らねばならない。
 樹齢300年といわれる「みずなら」の親木に、五葉松、こめつが、ひのき、あせび等が
寄生していて、六種の木々が同棲している。しかしこの木々は「やどりぎ」のように親木
から栄養分を奪う、いわゆる寄生樹ではなくそれぞれの木々は自力で光合成して生きてい
るのである。だから「やどりぎ」という言葉は当てはまらないので、家族以外の人達が同
じ屋根の下に暮らしているのを「同居人」というごとく「同居木」と言うべきだろう。そ
れにしても樹木はなんと「負のエントロピーを食べる」術に長けているのだろうかと驚く
ばかりである。だからといって数千年も生きるのはちょっとしんどいことである。

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