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ユーモア/パロディあれやこれや

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月25日(日)20時35分7秒
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         ユーモア/パロディあれやこれや
                  2007-2012




  その作品を読むと、ひたすら暗くてしっとりした純文学を追っている人のように思え
  た。 しかし、氏が書き残したたくさんのエッセイを読むと、どっこいそのあくなき
  探求心は、人や生き物や事象を思いもよらぬ視点からえぐりだし、観察しまくったり
  笑い飛ばすこともやってのけているのだ。 暗くてしっとりし過ぎる作品の中にも、
  どこか突き抜けたところにたどりつき、時に笑いさえ顔をだしてくることがある。
  笑いの中にもの悲しさを、暗くて悲しくてせつない中にユーモアも。
  散歩の最中でも、執筆中でも、それが激しく入り交じる。(編集部)





「傑作な看板」より 2007/7/18

◆ AM5: 00起床。 一時間仕事をする。6:00、今日は竜岡門から東大校内に入り、
三四郎池を廻って正門から出る。 本郷三丁目の角の三原堂は今立て替えの工事をしてい
るが、工事用シートに大きく「立てかえ最中」の文字が目に付いた。おやっ、名物の大学
最中(だいがくもなか)」のほかに「たてかえもなか」を発売したのかと一瞬思った。
普通たてかえの工事中であれば「立て替え中」とかいて「最中」とは書かないだろう。
これは三原堂の受けねらいのユーモアなのか。きっとそうに違いない。





「合評について」より  2007/8/10

◆ 合評についての方法論は長岡さんが実に明確に分析し提示してくれました。私も前面
  的にそれに賛成いたします。
◆ だが、今回の問題は実はそれ以前のマナーの問題だと思います。何を書いてもよろし
  いという建前は確かにそうですが、何度も検証し分析して苦労しながら合評するとい
  う責任を負った真面目な投稿と、楽しい会話やホラ話やユーモアや艶な話や披露とい
  ったお遊びの投稿とを区別しないところに有るのではないでしょうか。





「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」  2007/11/26

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案してき
  た。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新しい世
  界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつか試みた
  ものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A列は名詞を
  B列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列それぞれに乱
  数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番号をそれぞれ若
  い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、「民主主義にお
  ける無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」などと判じ物のようなものが
   出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろう。
  そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎにぎし
  く騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり始める。
   傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じながら想像も
  付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉同志のミスマ
  ッチによるおもしろさをかみしめる。





「シリーズ・歪んだ風景-沈みゆく家 第一回」の合評のお礼 より 2008/5/12

◆実は今悩んでいる文章のスタイルについてO氏のの鋭い指摘を受けました。
 「古賀さんは心象風景に徹するか、パロデイの話の展開を真面目くさってユーモアたっ
 ぷりにやるかどちらかに徹した方がよいと思う」と。たしかに今回私が描きたいテーマ
 はシリアスなことでありますが、「歪んだ風景-疑惑」に登場した5人衆が出てきてか
 ら急にパロディの様相を帯びてきたことで戸惑っているのは確かです。イマジンさんの
 「主人公がどのような動きをとるか解りません、考えていません」という創作状況まで、
 まだ私は達観していないのであります。





「沈みゆく家-合評」お答えより 2008/6/1

◆Nさんの「パロディとは,どんなもんを言うのか」については同人α第6号の「疑惑」
という「姉歯構造疑惑事件」を取り扱った作品に登場する5人衆の描き方に依っています。
但し正確にはパロディとは「既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見し
てわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように
作り変えた文学作品」とあり、「疑惑」は本歌取りをしていないので厳密にはパロディと
いう言葉は適当でないかもしれませんが。
シリアスな問題を抱えた人物を敢えて諧謔的にとらえたもので、奇想天外な物語の展開は
パロディでないと描けないと思ったからです。悲惨なものごとも鳥瞰的に見ると、観察者
はその悲惨さから逃れて妙に冷静に達観的に諧謔的にとらえることをするような気がしま
す。姉歯事件もある面では悲劇的な問題も含みますが、一方では色や金といった欲望に振
り回される人間の弱さ、ころりとだまされる検査機関などの風刺する要素は五万と見つか
ります。その五人衆が再び登場した訳ですから、そのまま滑稽な人物とするか、一転して
シリアスに描くか迷うという訳です。
 また「戦争の傷跡の中で,戦争で障害を負った友人のエピソードに力が注がれているよ
うに思いますが,なにか唐突というか,違和感を感じながら読みました」とありますが、
赤松次郎の育った環境や、心の中の襞に引っかかっている心情などを理解してもらうため
の記述と思ってください。





「K氏・M氏の投稿について」より 2008/6/23

 K氏がM氏の文に頭に来たと聞いて、私も考え直してみた。まだ良く分析は出来ていな
いが、M氏の人の良さそうなスタイルやユーモアらしきものの中に、妙に人を突き放すよ
うな皮肉な部分を感じた。これはF氏と同じ匂いを感じるもので、私がよく言う皮肉とも
どうもちょっと違うような気がする。私のは相手を尊重する心は失っていないつもりだが、
彼等のは吐き捨てるような侮蔑と揶揄が含まれているようで、感覚的に肌が違うと感じて
いる。





「エイプリル・フール」 2009/4/1

今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアのあ
る罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。





「浪速の空からの感想」より 2009/6/12

◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?





「ユーモアについて」 2010/8/28

X氏がユーモアやパロディー記事をいつもと異なるペンネームまで駆使して投稿している
記事を読むと、X氏の日頃の文章表現と言動を考えるに、氏のユーモアや笑話を投稿する
姿には違和感がある。そこでどうしてだろうと考えてみた。
 ・X氏は一度も破顔一笑したことがない。
 ・X氏は一度もユーモアや笑い話を会話でしゃべったことはない。
 ・X氏は一度も人の機知に富んだ話に乗ったことがない
などを知ると、氏がユーモアや笑い話を投稿することにそぐわないと感じるのは、私だけ
であろうか。
アリストテレスは「道徳的な美徳は習慣の結果として生まれる」といっている。また「我
々は正しい行動をすることで正しくなり、節度ある行動をすることで節度を身につけ、勇
敢な行動をすることで勇敢になる」ともいっている」。
それから結論を導くとすれば、X氏は彼の書く社会の不条理にたいする文をはじめ、ユー
モアや笑い話においても自ら生活の中で実践されていないものだから、自らが頭の中で深
く考察することなく他からの情報を単に書き写しているにすぎないのではないか。だから
私の心に全く響かないのだと考えた





「Sさんのお願い記事を読んで」 より 2010/9/14

◆ よそのサイトのことながら何が問題点かを野次馬たる私が分析してみよう。著作権と
 いう社会的な大きな問題はマッド・アマノ事件(昭和47 年)で有名であるが、あの作
 品が著作権に触れるとなるとパロディや本歌取りといった芸術の表現が規制されて、広
 い意味での表現の自由が奪われかねない。人の作品を加工することによってしか表現で
 きない作品をすべて否定すると世の中は進歩が無くなる。パロディや本歌取りは元の作
 品の価値を超えたオリジナルなものを作者が表現できるかどうかにかかっている。これ
 は単に他人の作品・学説などを自分のものとして発表する剽窃とは違うと私は思う。
  さて今回のような大々的な著作権の問題ではなく、身近かな問題をクリアーするには
 どうすればいいかは、Sさんの問題提起を分析することから始めなくてはならない。





「あした天気になーれ 合評のお礼」より 2010/12/5

随分遅くなりました。今回は佐高卒業50周年記念大会という大きなきなイベントに参加
したため、ニューロン・カフェを留守にしました。長岡マスターと万理とママには仕事を
押しつけて長期休暇をいただき、しかもお土産も持たず手ぶらで帰ってきて申し訳ない。
もう少し待っていただければ写真と噂話という情報を持参して、ナツヅタもすっかり散っ
た初冬のニューロン・カフェを訪れましょう。『ダ・ヴィンチ・コード』のロバート・ラ
ングドン教授のようにハリスツイードの上着と黒のとっくりセーターとハンチングの出で
たちで・・・。
◆長岡さん
 『佐賀の天気は、今日は晴れのち曇りだったようですが、予報では、明日の天気は生憎
 と、曇りのち雨になりそうですね。同窓会の小旅行の間だけでも、晴れ間が出れば良い
 のですが。赤松さん、どっちが出ても表になる下駄を履いて行ったかな』
◇ご推察の通り朝は本降りの雨でしたが、午後からはすっかり晴れました。雨男 のK君
 が一緒でなかったことも幸いして。
 さて本題、シリーズ物ですので物語の展開が読めないので、全体を眺めながら分析する
 ことを得意とする長岡さんにはちょっと評しにくかったのではないだろうか。評論する
 のも難しいというより、様子見の段階と断じられたのでしょう。まだまだ本題はさきで
 すから、ゆっくり吟味してからの評を期待します。
◆『一貫して描かれて来た、妻または同僚と一緒の時の主人公の不安感や不満、安定しな
 い生活に比較して、いかにも豊かで余裕たっぷりの様にみえ、その間に可なりの乖離が
 垣間見える』
◇さすが鋭い指摘です。突然の舞台が世俗的ではない雰囲気に変わり、一瞬の戸惑いを与
 えることは、私も思わなくもありませんでした。その辺の言い訳は次号で旨く書きまし
 ょう。
 それから表紙の青はKLINE BLUE(クライン ブルー)のつもりでした。一太
 郎のフォントの色で一番上の右から二番目の青を選択、濃度はたぶん85%にしたと思
 います。詳しくはwikipediaのヴ・クライン(Yves Klein)の項目を調べるとその青が
 ありますので、どうぞ調べてみてください。私の選んだ表紙の青と少し違うと思います。
◇万理さん
 25号の表題「颯」を気に言ってくれたありがとう。ミシェル・ルグランの「風のささ
 やき」、またマンディ・バーネットのウイスパーリング風もまたいい曲でしょう。私の
 詩は推敲していないので直接的でメタファーに欠けています。そのうちもっといいもの
 に仕上げたいと思っています。
◆『ポエムでは風を敏感に感じ取る繊細さが読み取れる。作者はいつも右目で千年先、臆
 年先を見、宇宙を感じている。感覚の世界。そして左目で日常の中観察しまくり、次々
 と新しい本を読んで、嬉嬉として遊ぶ、実験する』は万理さん、ほめすぎですよ。
◇私はウィット、ユーモア、シニカル、アイロニカル、ロマン、笑いは何も人を笑わせよ
 うと意図的に創作しないところにあるのではないかと思っている。なんだかくそまじめ
 な人生のどこかに一瞬垣間見る悲しくも滑稽な姿こそ本当のユーモアだと思っている。
 努力しても努力しても人並みに旨くいかない、それでも必死でなにかを成し遂げようと
 する行為。だから普通の人は絶対しないであろう、「タロウ」のように何かを信じて鎧
 を纏い、ヘルメットを被りガチャガチャいわせながら行動する姿の中にそれを感じる。
 人はそれを異端と呼ぶだろう。カラマツ・ジローもその細君もチキン・ジョージもその
 辺に転がっているようで、どこか変だ。通常の生活の中の異常さ。とにかく人の書かな
 いことを書きたいという気持ちで今はいっぱいで次々に実験したいと思っています。





「パロディについて」 2012/3/10

 私は、パロディは平安時代から江戸時代にかけて行われた落首のようなもので、自分の
手の届かない「権力者」や「支配層」にたいして、その手段でしか批判し得ない表現方法
として使われるものと思っていた。しかしご三方は同じ同窓生を揶揄や風刺や批判のため
にその手法をとられて楽しんでおられる。これは私が「権力者」や「支配者」並の存在と
勘違いされたのか、それとも同列の人間をこき下ろすことで自らの優位性を保ち、かつ心
の安らぎをえられたのかどうか私には判りません。
もし私がパロディの作品を創るとすれば、「権力者」や「支配者」を的にするか、また
は自らの性格や嗜好を対象に風刺するかで、少なくとも友人や縁者を対象にするときはそ
れを許される関係をもつ人に限ることを心がけている。しかし私がいつも渋面をつくりな
がら小難しい硬いことばかり発言していて、ウイットやユーモアを解さないという訳では
ない。しかし今回のように論敵を揶揄や風刺で誤魔化す手法はいくらうまくできていて面
白くても趣味が悪すぎる。そういう人は己の人格を自ら貶めているとは思わないだろうか。
きっとそういう風に感じる人もいると思う。
こう書くとまたまた反論のための言葉尻をとらえられて、延々と饒舌の集中砲火を浴びこ
のホームページが炎上しそうで、しばらくは沈黙を守ろうと思う。





「[人生詩]を読んで」 2012/7/17

 今この山荘の周りは狐の手袋(ジキタリス)が薄紫の花を咲かせている。自然は不思議
なもので春が来て緑で覆われると、そこにどのような野草が生えているのか俄には分から
ない。丁度深い緑の山のなかに咲き誇る花を見て、初めてそこに桜の木があったことに気
づくようなものだ。
 春に越してきてまず山吹の花一色になった山を見た。それが終わると空木の花があちら
こちらに静かに咲いていた。それからしばらくは花らしいものが絶えた時、大まむし草が
盛んに目に付くようになる。それからこの季節になると狐の手袋や紫陽花の花が咲き出し
た。
さて本題
 十代、四十代、六十代のときの同じ日の日記によるものとして書いてあるところは、時
代による考え方や生きる姿が比較できて面白い。これは同人α第29号、題30号の「冥
界から覗く人の像をした美しい青い地球」において、自分自身を冥界と現世界を同時に覗
くという、二重の視点から描く面白さと同じだ。
十代は小説を読んだり批判したり、疑問だらけの現実に回答を得ようともがいているよう
だ。
 四十代は社会のなかにどっぷり浸かった現実的な活動が主だ。
六十代は「無限」「時間」「空間」などの悩ましい問題などに目を向けている。
 それにしても高校の同窓会の描写には笑ってしまった。作者と同じような環境を共有し
ている者にとっては、創造された情景と現実を重ね合わせて、ジグソーパズルのゲームを
する楽しさがあり非常に面白かった。これは作者がユーモア、エスプリ、ウイット、悪戯
心を豊富に持ち合わせていることを証明していのである。読者に阿る出もなくまことに淡
々と画いた情景の文の中にそれが良く感じられて、思わずニヤリとしたことであった。

  

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