teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

新着順:18/92 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

激甘辛 作品評5

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月 1日(木)09時20分5秒
  通報 編集済
  .

              激甘辛 作品評5
                  20号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α20号


黒猫と青春の歌謡曲    2009/ 9/8

 先日、リチャード・ギア主演のハリウッド映画「HACHI 約束の犬」を銀座マリオンで
見た。「忠犬ハチ公」のリメークで、筋としては実に単純で判りやすい。しかし何年も戻
ってこない主人を待っている犬はじつにバカだなぁと思う一方、我ながらついホロリとし
てしまった。照れ隠しというつもりはないが、それが何故なのかと考えてみた。
 それはこの犬が主人に寄せる絶対の愛・無償の愛だからではないか。
乳飲み子と親の関係に通ずるものだが、児童虐待、尊属殺人などの社会現象をみていると、
もはやこの無償の愛は人間関係に求めることは難しく、動物と人間の間にしか認められな
い時代になってしまったのではないか。無償の愛は実は強者と弱者の間でしか成り立たな
いのではないか。
弱者は庇護されなければ生きて行けないし、強者はその弱肉強食だけの生き方のみでは殺
伐としていて心が満たされず、弱者の放つ癒しのオーラ・生体エネルギーを必要とするの
ではないか。だからこの世の中は強者ばかり、或いは弱者ばかりでは人間社会が衰退に向
かうのではないだろうか・・・と考えた。

 私の少年の頃は、犬、猫、兎などの動物との暮らしは身近にあった。屋敷が広かったせ
いか、迷い猫、迷い犬、迷う兎などが常にいた。今までのそれらの動物がいなくなると次
の野良が入り込んで来て、いつものように馴染んで住み着いた。猫の名前はだいたい安直
に「白」とか「黒」とか名付けられていたが、犬は柴犬などの雑種で赤犬がほとんどで代
々「ベル」という名前で呼ばれていた。猫も犬も顔中ひねくり回したり、髭を切ったり、
目がねを書いたりといった悪戯をされたにも係わらず、よくなついていた。だから、もの
言わない動物から癒される経験した私にとって、子供が動物に接する環境を与えてやれな
かったことが今悔やまれるのである。彼に弱いものに対する考え方が育ったかどうかが気
になるところではある。

 動物を擬人化した書き方が色々あって面白い。夏目漱石の猫は人間の行動や思考を鋭く
観察している。気むずかしい苦沙弥先生が雪隠で謡曲を呻ったり、隣接する学校の生徒達
がうるさいと大人げなく本気で怒ったり、寒月君の結婚に纏わる虚栄や功名心などの俗世
間の風潮を見聞きして「人間はなんと滑稽な生きものであるか」などとと揶揄している。
 この黒猫と青春はそんな揶揄や苦笑の目線ではなく、実に素直で暖かい目で描かれてい
るから気持ちいい。きっと作者の廻りには無償の愛が溢れているんだと思った。





日本列島徒歩縦断・旅日記   2009/ 9/14

先ずは気になるところから書きましょう。
P20の前半は「である」調ですが、後半から「ですます」調で書かれています。その後も
この調子の混乱が見られるのですが、どちらかに統一した方がいいと思いますが。
次にこの旅日記を読んで考えさせられたことは、いかに寝る場所と食事の確保に苦労する
かということが判りました。現代の満たされた時代と違い、人間がもっと素朴な昔の時代
はこうであったのだろうと思われます。便利さを享受することに慣れた私達は、文明の利
器が壊滅した時には、作者のようなタフな人以外は生き延びれないでしょう。
最後に、数ヶ月前にK君の一周忌に墓参りした時、いろいろの文字を刻まれた墓を見て回
りました。その中に「完歩」というMさんの先手を取った碑文を見つけて、二人で苦笑し
ましたね。その後貴君の墓にふさわしい碑文を考えだしましたか。




吉の冒険を読んで   2009/ 9/14

私はイマジンさんの文章を読んで、いつもその奇想天外なイマジネ-ションに驚き、感動
する。この天衣無縫さに勝てる人は居ないだろうし、鑑賞する方はそのほころびようが実
に楽しい。

◆女房は、「ゆう吉」と書く。娘は「優吉」で私は「勇吉」と書き、娘と女房は、決して
自説を曲げないとあるが、実は作者だって二人以上に相当意固地ではある。

◆作者は猫の「勇吉」を人間並みの人格を持った者として、真剣に張り合っているのが滑
稽である。これは大事な者を求めて熾烈な戦いに明けくれる男同士の姿に見える。

◆祖父母と孫の間に通う無償の愛は、希求するにあたわず作者と「勇吉」の間では成立し
ないようだ。

◆触れたり抱いたりするのと大差ない事なのに、病気やアレルギ-の感染を心配して、猫
と一緒に寝てはならぬという論法もいささか妙である。

◆作者が懐かしむ三世代・四世代が同居する大家族制は、確かに良いところもあったに違
いないが、家族で支え合わなければならなかった社会制度の未熟さに過ぎなかっただけの
話と思う。

◆メスの避妊手術はいいが、オスの去勢はまかり成らぬという主張は、女性の天皇を認め
ないという論法に何だか似ているようだ。女帝の後継者だと長い歴史を通して連綿と続い
た皇室からX染色体が引き継がれないからだめだというさる学者や政治家と同じ論法のよ
うな気がする。

以上の論点を疑問として書き連ねたが、決して私がそれらに対して苦々しく思ってはいな
い。むしろ反対に理論武装する我々とちがい、無防備な断定をなさるところが実にイマジ
ンさんらしく個性的で可愛い所であると私は考えるのであります。




(無題)     2009/ 9/18
◆著者の合評の中で書いた私の「綻び説」を、「私は天衣無縫でもなければ、支離滅裂で
もないのであります」と反論されたところによると少々機嫌を損ねられたのではと、気に
掛かっています。


◆宮刑について
著者が「宮刑」を受けた司馬遷について書いていましたが、まさに司馬遷はその屈辱をバ
ネにしてあの膨大な史記を書いたと言われています。しかしその刑罰は男性ばかりでなく
女性にもありました。だから著者のいう男性ばかりが迷惑を被っているという不平等感は
ちょっと・・・。
話は変わって、司馬遷がその「宮刑」を受けなければならなかった原因は、匈奴との戦い
で敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を、宮廷の中で彼が唯一弁護したため武帝の逆鱗に触
れたためでした。
そしてその李陵を題材として書かかれた秀作があります。中島敦著の「李陵」という短編
です。一度読んでみては如何ですか。

◆作品集を掲載しても何の反応もないので、その意義に少々疑問をもちいささか滅入って
しまいました。内輪で散々愚痴をいって拗ねていましたが、先日Gさんのねぎらいの言葉
と、親戚の葬儀に参加した時一回り若い女性のはとこに「実は作品の全部を読んでいる、
そのうち意見を言っても良いか」という言葉を聞いて、まんざら無駄ではなかったのだと、
実に安直に機嫌を直した次第であります。

◆民主党の無血革命ははたして首尾よく達せられるか興味深い。たとえ満足な結果となら
なくても、強者や既得権者に一矢を報い、淀みきった今の社会に新鮮な空気を入れて浄化
しようという目論みには、大いに賛同したいと思う。一方自分達が何を目指しているのか、
何が足りなかったのかの総括も出来ない今だ旧態依然の自民党の姿をみるに、再び新しい
活力を見いだせるかは疑問に思える。むしろ解体して新しい党を組み立てた方が早道だと
思うが・・・。



著者へ最後のコメント   2009/ 9/19
著者の犬猫に対する危惧はよく理解できました。たしかに人間どもが自分たちの都合で生
態系に手を下すことはおこがましいことに思えます。田舎では狐や狸や鼬といった野生の
外敵に襲われるなどして、自然にその数は一定のバランスを保っています。だから放って
置いても野良猫が増えて困るということは聞いたことはありませんでした。
もし、これが本人の意志も問わずに、犬猫のように人間に処置を施したら殺人と同じでし
ょう。我々も心して「宮刑」を受けないように用心しましょう。とはいうものの、もはや
この年齢では生物的な機能は終焉を迎えていますが。

著者の獲得したゴルフの賞品(高級料理屋・きら))についての私の情報に誤りが二つあり
ましたので訂正します。
一つ目は店の名前を「喜樂」と言いましたが、「季樂」が正しい。
二つ目はソニープラザの角を右にと言いましたが、数寄屋橋交差点から銀座四丁目に向か
って次の信号を右へ曲がった3・4軒目です。すなわち、ソニービルの横道からもう一本
四丁目に寄った通りです。
以上いつもの私のオーマンな性格によるいい加減な情報を訂正します。




蛍・その静かな乱舞(北限にて) 2009/ 9/20

よけいな物を排除された暗闇のなかで、研ぎ澄まされた光、色、音だけが読者に迫ってく
る、見事な文である。理屈をこねるでもなく、意図的に作られたのではない文だから、実
に自然に作者の「蛍」に託する思いを私は新鮮に感じた。
作者のこの文体に込めた意図は判らないが、敢えて一つの提案をすれば、一行の文をいく
つかに分けて行替えすると、もっとリズムと心の動きが生き生き響き、完全な詩情あふれ
るものなるだろう。私はこの「蛍」は初手から詩文として読みました。




初心者の俳句  あき もとすけ著  2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-7.html

安芸さんが休養を終え再び登場されたことを喜びます。そうです、おっしゃる通り「参加
することに意義あり」です、「田作の歯ぎしり」「引かれ者の小唄」「犬の遠吠え」と思わ
れようともいいんです。何かを発信すればそれに必ず答えてくれる物好きがきっといて、
その主張に対して共感してくれることでしょう。
安芸さんは偉いなあと思いました。それは私にとって俳句や短歌はよほど時間と心の余裕
がないと目が向かないような気がして、私にとってまだ手が出ないものだからです。神野
佐嘉江氏が歳時記集や俳句・短歌の解説の本を何冊も貸してくれているにも関わらず。
延々と言葉を尽くして語る散文と違い、俳句や短歌は身を削るように言葉を極限まで濃縮
して表現するものだと考えるからです。それは西洋画が人の生き様をこれでもかこれでも
かと生々しく表現することにたいして、日本画のように観念を様式化したものの様な違い
でしょう。
そのようなものに初めて挑戦しようとされたことにたいして感心したのであります。
今回の安芸さんの句に私は空間的・時間的な情景描写に目がとまりました。
空間的描写は
 東京へ 希望の空に 春立てり→故郷から東京への空間移動
 満月に 映して人を 偲びおり→意識が満月に触発されて反射し
                て人へ向かう縁(えにし)の空間ベクトル
時間的な描写は
.恋文を 待ちて冬日の 長かり   →ひたすらに返事をまつもどかしい時間
.ねぶの花 芭蕉気取りで 見ておりぬ→古の大家に成り変わるとというタタイムスリッ
  プ
.初雪に 耐える小枝を 応援す   →文句も言わずじっと耐えている時間
.吾の如し 踏まれて生きる 草の花 →不条理を克服して生きる生命の
とまぁ-、内容を深く吟味するというよりは、全く別の観点からのものであり、本筋では
なかったようですので悪しからず。安芸さんこれからもどんどん新しい創作に挑戦してく
ださい。




肥と筑 第十回   長岡曉生著  2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-8.html

少し時間の余裕が出来ましたので、「肥と筑」という大作の感想に挑戦したいと思います。
私は長岡さんとは二年半という長い付き合いですので、お互いに微妙な表現も冷静に理解
してもらえるもので、たとえ見当違いや主旨の誤解や気に障る表現があっても許されると
思いこんで居ます。二年半は短いと考える人もあるでしょうが、同人αの校正や編集・出
版その後の反省会などと、実に密な関係でありますから、私は敢えて長い付き合いと思い
たいのであります。それに事があれば二時間掛けて馳せ参じてくれる彼の手にはいつも美
味しいおやつがあり、それも感謝の対象になっていることは間違いありません。

この大作においてはもちろん日本人のルーツ探しという基本的なテーマのもとに、色々の
民族の渡来人の記述が主ではあります。その文献の調査・裏付、それにより蓄積された知
識、この文の並々ならぬ構成力には驚嘆するばかりで、その真偽を判断するということに
おいて私の手に負えるものではありません。
しかし敢えて一つ問題を挙げるとすれば、狂言まわしの役割を担った語り部達であります。
作品の中でも彼等の性格や体格や気質を述べてありましたし、今度の評の解説でも後藤英
夫は加藤剛、芳賀信行は堺雅人、山南文子は夏目雅子という俳優をもってその人達の具体
的な姿を表現したいという作者の意図が見えます。

一方読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろうし、私もNHKの大河ドラマは
殆ど見ていないから、堺雅人や山本耕史についても判りません。一歩譲って知っている俳
優を擬したとしても、それだけではまだ私には登場人物のはっきりしたイメージを描けな
いのであります。それは一体何故なのか、私の表象能力に欠陥があるからでしょうか。
その原因はいくつか考えられると思います。

一つは、この物語を進める語り部達がいつも一緒に同じ舞台に立っているからだと思われ
ます。二つ目は、語り部達のその舞台から離れた時間・空間での個人としての生活、生き
様が描かれていないからではないでしょうか。勿論作者が意図することは日本人のルーツ
を記述することにありますが、切角個性的な登場人物達でありますから、歴史上の真にた
いして人間の不可解さを虚と対比させて書き込んだら、もっと面白い読み物になると思い
ますがいかがですか。・・・とまあ、毎回毎回「ぎゃすぎゃすどんく」の振りをして問題
点ばかり探すのもいい加減にしたらと自戒しています。



再び長岡さんへ   2009/10/2

◆語られる内容が余りにも専門的なもので、なかなか読み物としては構成が難しいとも察
します。しかし読者としては切角教養のある魅力的な人達が出現したのですから、もっと
深く関わりたいと思い、それを売り込まなければいかにももったいないなあと思ったもの
ですから。しかしもともと私みたいな純文崩れの「意識の流れ」などにはまりこんでいる
輩の求めるものとそうでないもの、すなわち物語の種類が違うのかもしれませんが。

◆「読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろう」の部分で、私の言わんとした
ことは、読者にその人物のイメ-ジが可能な長岡さん自身の観察による詳しい記述を望ん
でいるのであります。

◆「歴史上の真、人間の虚」とは過去に記録されたものは固定されていて何ものにも代え
難い。それに対して生きている人間共は虚栄や妬みや嘘で化粧されなかなかその姿を捕ま
えられない。その静と動、裏と表、真と虚・・なんだか自分が何を言わんとしているのか
判らなくなってきました。

◆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味は、はなはなだいい加減な記憶に基づく言葉と意味で、
恐らく両親の里のものではないかと思っています。これもまたうろ覚えですが、「どんく」
とはガマガエル、「ぎゃすぎゃす」とはその鳴き方を模したもの、総じて「人と反対のこ
とを唱える・言い張る」という意味だと思っています。もし解釈が間違いでしたら、その
言葉の使われている地方と正確な意味をご存じの方は教えてください。

◆「赤松さん古賀事務所で照明器の製作を宜しくお願いいたします」と言われても、生憎
光を発するおつむを所有する人は同人αの中には居ないようで、材料の供給がなく製作出
来ません。話は変わって、物書きの趣味やそれを生業としている人、たとえば筑紫哲也や
田原総一朗、鳥越 俊太郎、嶌信彦その他、髪がふさふさなのは何故だろう。



   赤松さん    2009/10/2

   ☆「意識の流れ」などにはまりこんでいる純文学系:
   成る程、赤松さんは、意識も含んだ人の動態に興味があるんですね。私も一応興味
   は有るのですが、何せ経験が浅いので、取り敢えずは人の意識構造、つまり静態の
   描写中心で行く他は有りません。

   ☆作者自身の観察による登場人物の詳しい記述を望んでいる:
   ご趣旨は、了解しました。でも今から急に容姿・性格の記述などを始めたら、読者
   一人一人の懐く像を壊してしまいそうだなあ。

   ☆静と動、裏と表、真と虚:
   裏と表、真と虚などについては、世界中の政治家達の像を嫌になるほど見ています。
   これ以上身の回りから探し出して書くのは、もう澤山だと言うのが本音です。せめ
   て自分が描く世界ぐらいは、世間の夾雑物抜きで静と動を記述して見たいと思って
   居ます。

   ☆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味:
   ご教示、有り難うございます。これは、佐賀市内の言葉では無いと思って居りまし
   た。

   ☆物書きを趣味や生業としている人は、髪がふさふさなのはなぜ:
   きっと、頭の中に色んな考えが一杯詰まってはち切れそうになっているので、文章
   や講演として出し切れなかった分が髪の毛になって噴出して来るんですよ。
   その真偽のほどは、慎重に確かめる必要が有りますが。
   長岡曉生




わが街   2009/10/3

私は大阪をあまりよく知らない。それでもまだ会社勤めの三十歳のころ、泉佐野の広大な
公有水面埋め立て地に、製糖工場を設計・監理した時期に、数回立売堀にあった大阪支店
の近辺をうろうろしたことがある。それから数十年経て、姫路で開催された高校の同窓会
に出席する前に、東京の幹事達数人と大阪・奈良・京都を物見遊山した覚えがある。その
時あいりん地区のドヤ街を歩き、もう売春防止法が施行されて数十年も経つというのに飛
田遊郭のやり手婆が赤い膝掛けをして玄関に鎮座し、客を呼び込んでいる様子を見て私の
知らない別の時代の別の世界を覗いたような気がした。そして人間の業のようなものを感
じたとき、梁石日(ヤン・ソギル)の小説「血と骨」を、またこの作品に描いてある路地
裏の飲み屋街は、車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」を思い出した。

それでもなお私の大阪に対するイメージになにか足りないを感じていた。そうだこれはま
さに「じゃりンこチエ」の世界だ。この漫画に出てくるチエは小学五年生というのに、ば
くち好きで喧嘩ばかりしているしょもない父親のテツに代わってホルモン屋「テッちゃん」
を切り盛りしている。チエを取り巻く人達は実にバイタリティに富む、一癖も二癖もある
個性的な人間どもだ。チエはチエで大人に囲まれているせいか実に冷静で、時々ギョッと
するような真実を投げつける。ギャンブルも親爺のテツに比べものにならないくらいに強
い。またに額にある三日月状の傷がトレードマークの寡黙で凄みのあるやくざのような野
良猫の小鉄がいる。

とまあ、作者の意図から外れてしまったかも知れないが、「わが街」から私が強く受け取
った印象である。美味すぎる流れるような情景描写と敢えて言いましょう。最後の「ふり
返るとそこは灰色の街」以降は妙にペーソスがあって実にいい。参りました。




会話詩…テーマ「夏草・青春・猫の恋」より   2009/10/4

確かに人間は黙って過ごす時間を失ってしまった。
居間にあるつけっ放しのテレビの音を遠くで聞いていると、間断のない早口のしゃべり声
と声高な笑いに満ちている。

人はあまりの情報の多さに、一人の人が情感を込めた言葉を言っても、ありきたりの意味
で済ますようになった。人によってその情感は少しずつ違うのにね。だから本当の気持ち
を伝えるために多くの言葉が必要になったということでしょう。なんだか逆説のようです
が 。




猫の風景 2009/10/15

小説かそれともエッセーかの話題で賑わっているが、私は漠然と判っているつもりでいた
のだが、明確にその違いは判らなかった。たしか数十年前に求めた白水社のモンテーニュ
随想録の題名が「エッセー」だったことを思い出した。そこでwikipedia で調べると、ミ
シェル・ド・モンテーニュの『エセー』(1580年)がこのジャンルの嚆矢であり、欧米に
おいては綿密な思索を基にした論文的なスタイルを念頭に置いてこの語を用いることが多
いが、日本においては後述する江戸時代後期の日記的随筆のイメージもあって、もうすこ
し気楽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることが多い。 日本における随筆の起源は
10世紀末に清少納言によって書かれた『枕草子』であるとされる。とあった。

だからこの「猫の風景」をどちらだという論を口角泡を飛ばして展開するという気力はな
いが、欧米においては論文的なスタイルとあり、方や日本においては日記的随筆の気楽な
漫筆・漫文のスタイルとあるので、幅広く解釈して作者がそのように意図するのであれば
そうであって、好みの問題である。だがそこで敢えて言わして貰えば、小説は「私」とい
う人称を使っても読者は作家自身を指さないという暗黙の了解があるように思うし、エッ
セーはまさに作者自身が語ることを読者は認識するというものではないかと思った。だか
らその題材にはあまり関係がないと言える。

さて本題の作品の合評に入りましょう。
先ず最初から三段落目までは「夜の蝶」の生態についての、観察と想像を交えながら実に
見事に表現してある。ここまでは小説風で、語り手が作者でなくて、「私」でも「大江匡」
でも「信如」でも一向にかまわない。しかしそれ以降は作者の顔になっていると思うので
ある。
その違和感はともかく、情景描写は実に丁寧で臨場感があり、虐げられたものにたいする
作者の優しい視線が、なかなかいい。いずれにしてもいろいろと試みたという、全般は秀
作、和歌は迷作、全体は習作と評しました。




猫様々   2009/10/16

先ず題名の「猫様々」の読み方が気になった。「ねこサマザマ」と読むのか「ねこサマサ
マ」と読むのだろうか。読み進む内にRさんは大和の国の出身だから、多分その両方の
意味を込めたものの様な気がしてきた。このことはRさんの説明を待たねばならない。

K君から借りた丸山圭三郎・著の「言葉とは何か」という本の中に、興味あることが書い
てあった。「外国語で話している理解できない言葉は単なる騒音としか聞こえないし何の
感情も生じない。そのように言葉はそれを話す共通の社会、共通の生活体験といった文化
の中でしか理解されないのである。例え同じ動物や同じ事物を語っても、国や言語が違え
ば違った概念が生まれる」とあった。ここまでは私が何をいいたいのか、皆さんには全く
判らないだろう。早い話が、日本人の「猫」にたいする概念と、フランス人のそれは違っ
ているのではないかと思ったからだ。

著者の参考資料のなかにイギリスやフランスの「猫」に纏わることわざがあったが、Sさ
んの書かれたこの号の前書きをみると、猫だまし、猫撫で声、猫っ被り、猫背、猫の額
猫づら、猫舌、猫脚、猫ババ、猫跨、猫股、猫間、猫火鉢、猫鮫、猫の目のよう、猫目石
等々ことわざ、たとえは圧倒的に日本の方が多いと思う。
そこで私は日本の猫好きの人達は、「猫」をとても人間に近いものとして擬人化し、いや
むしろ家族や同胞のように考えている節がある。一方イギリスやフランスの人は「猫」を
人間と同列ではなくもっと野生の動物という認識がつよいのではないか。「仕事猫」など
の言葉があるくらいだから、ギブ・アンド・テイクの言葉が意味するものを考えると私は
そう思った。




吾輩だって猫である 2009/10/25

前向上はなかなか洒落ていて要領がよく描けている。「つむじ」とは面白い名を付けて貰
ったものだ。ところで「つむじ」という言葉だけで「どこかへそまがりのニュアンスがあ
るみたいだ」というのは、ちょっと飛躍過ぎるような気がする。ところで「左巻き」とか
いって、人を揶揄する言葉があるから、その「つむじ」について興味が湧いた。いつもの
ように安直にWikipediaによるコピー・ペ-ストでお茶を濁すのだが、  つむじの向き
右利きの人の95%以上のつむじが右巻き(時計回り)で、両利きや左利きの人は右巻きと
左巻きが半々だという。この考え方を使うと右利きを断定することは出来ないものの、少
なくとも左巻きの人は両利きか左利きの可能性が高いということがわかる ...

さてこの「つむじ」君はどちら巻きであろうか。この小説のなかでの「つむじ」君の独白
を読むと、頭の回転が早そうだから「左巻き」ではなさそうだ。私は吟遊視人氏の常日頃
主張する論に共鳴することが多いので、彼の分身らしき「つむじ」君の説く所には異存は
殆どないと言える。だからその点についての論評はしないが、この小説の構成について感
じたことを書こう。

我々読者は猫の「つむじ」君の独白とみなして読み進むのだが、ただ独白が続くと次第に
著者の姿がそこにちらついてくる。だから語っているのは猫の「つむじ」であることを時
々思い出させるような仕掛けが欲しい。漱石の猫は、苦沙弥先生や世間の滑稽な様子と常
時対比させることによって、最後まで主人公が猫であると我々は読むのである。
もう一捻りするとすれば旅人-M氏が行っているように、時々「つむじ」君の飼い主たる
著者と違った意見もあればなお面白いものになりそうだと思いますが。




当世グランマ気質  ルービン・良久子著 2009/10/26
http://2style.in/alpha/20-18.html

この作品を読んで、「当世グランマ気質」とはどういうことを意味しているのか、私には
確たるものがつかめませんが、それはともかく良久子さんの創り出す情景描写は、私にア
メリカ映画のシーンを思いださせるものでした。 そして書かれている地名を見るに付け
またアメリカを放浪したいという心を掻き立たせました。

ベルヴュー市の良久子さんのお宅を訪れたのはもう25年前になりました。シアトルから
湖の浮き橋を渡った美しい街でした。庭にあるリンゴの老木が印象に残っています。

モンタナ は訪れたことはありませんが、長距離バスのグレイハウンドでソートレイクか
らシアトルに行く途中で、近くを通ったような記憶があります。またリバー・ランズ・ス
ルー・イッツの舞台だったことを思い出しました。模範的な長男とブラッド・ピットの演
ずる破滅的な性格の次男を描いた、とてもいい映画でした。

ヴァーモントはホワイト・クリスマスという映画の舞台。
クリスマス・イブの日はいつもこの映画を私は見ます。アメリカの一番良い時代、そして
その豊かな暮らしや風景は私の青春時代の憧れの的でした。

兎に角この作品はまだ若かりし頃の私の夢を思い出させました。 有り難うございます。
そしてこのシーンのような時間、私にとっては親しい友人と昼食と一杯のビールを飲みな
がら過ごす時間が一番幸せな時間だと最近は思えるようになりました。さて、これから目
の修繕に行って来ます。




Jetsam and the Bees   2009/10/29

jetsamを辞書で引くと難船の船体軽減のための投げ荷とある。詳しくは判らないが、嵐に
あって漂流・難破している船が生き延びるために、よけいな荷物を海に投げ捨てて、船体
を軽くして助かろうとする行為のことだろうか。

遠い昔、私の父達が乗った帆船も漂流・難破した時、そのような行動を取ったのだろうか。
聞いた話では、ニ本のマストは折れ、伝馬船は流され、操舵室は強風の為に吹き飛んだと
いう。そのように投げ捨てられた、或いは落下した漂流物をjetsamと言うのだろうか。
どこから来て何所へ流れていくのか判らない猫の物語を象徴した名前であることに読み終
わって気づいた。最初から最後まで物語の行くすえを暗示する意味深な言葉である。

著者の作品はThe Color of the Morning やSkyline にしても短編ではあるが、実によく吟味
された食材を最高の職人によって作られた、色や味や匂いの見事なバランスの会席料理の
ように隙のない、緩みのない、大すぎるわけでもなく、また不足してもいないという見事
な作品である。私は日本では動物や植物を擬人化して慈しむといつか書いたが、この短編
を読むと、作者はある意味でJetsamを人格があるような、同じ生きているものとしての
慈しみと尊厳の目で見ていることが感じられた。それは猫かわいがりといった人間側の満
足ではなく、猫の本姓を尊重した接し方をしているということであろう。
最後に三つの作品とも、事象に対して決して作者の意図や思い入れを書き込まないことが、
かえって深みと謎めいた感じを読者に与えるのだろう。

さて、本日私は目の再生工場から無事帰還しました。全盲の同室の人との交流・手術の一
部始終のことについて、たくさん観察してきました。
そして結果は、今までいかにモノトーンの世界をすごしていたかが判りました。この世の
中はこんなに白・黒のはっきりした形と艶やかな色彩に満ちていたのかと驚きました。今
までは自分の見ていた世界がそんなに灰色で歪んでいたのかと思いました。間違った視野
で何でも見ていたのかと疑い、本当はもっと単純明快な世界ではなかったのかと思ってい
ます。

それから、Jetsam and the BeesのO氏による翻訳を作品の後に掲載しましたので、参考に
してください。

1098

 
 

新着順:18/92 《前のページ | 次のページ》
/92