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『不器用に、ひたむきに』 あとがき

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 3月 4日(火)02時35分13秒
  通報 編集済
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   古賀幸雄回想録
 『不器用に、ひたむきに』 あとがき 1997




 平成八年八月末、父は突然他界してしまった。享年八十四歳であった。
その年の正月、父は回想録を書いたので送ると言って来た。私は、新聞以外の活字を追っ
ている姿などめったに見せたことのない父が、この回想録をいっきに書き上げたことに驚
くとともに、その動機を不思議に思った。ある時母が「私の祖父は辞世の句を墓に彫りあ
の世に行った」と自慢げにその教養を話すのを聞いて、父は「自分にだってできるさ」と
言って書き出したのだと、母は冗談めいて言ったことを思いだした。
 私は父が十七歳のとき船が遭難し、もはやこれまでといった状況のなかで命を取りとめ
た島を訪れたいという願いを、以前に聞いたことがあった。数年前、父自身もそのもくろ
みを実行に移そうというやさき、あいにく胃のほとんどを切り取るという手術をし、「も
うこの歳では無理だな」と断念していたようだった。
 私はこの回想録を読んで、いままで父がまだ充分元気であったため、子として何もして
あげられなかった思いもあったので、その旅行を実現させようと決心した。まずその見島
なるものもどこにあるのか、交通手段やその他、年寄りの旅に無理は生じないかなどから
調べる必要があった。そこでさっそくある旅行会社に調査と旅行のスケジュールを依頼す
ることにした。私は両親の意向を伺い、了解を得たので、兄に相談の上「兄弟夫婦からの
招待旅行」とすることを決めた。
 それは平成八年の四月初旬、両親と兄夫婦四人は佐賀から、私たち夫婦は夜行列車「出
雲一号」を乗り継いで東京から東萩駅に向かった。その島は山口県の萩の港から四十五㌔
ほど離れた、韓国との間に位置する面積七、八㌔、昔の萩藩流罪の島であった。二時間の
連絡船の旅は、慣れない私達にとっては非常に苦痛で、春とは言え日本海の荒波は容赦な
く百数十㌧の船を翻弄した。
 やっとの思いで宿に着くと、さっそく私たちは女将に、木村亀松さんという恩人の消息
を尋ねた。その家は、この島にある二つの港のうち数㌔離れたもう一つの宇津港であった。
私達は電話で、若い女性の声の相手に真意が伝わったかどうか覚束ないまま、明日の訪問
を約束した。その夜、私達は地図を見ながら、遭難現場はこの赤瀬という岩場ではないか
とか、木村さんに助けられて山を下りた道筋などを求め思いを巡らせた。
 次の日、私達は宿の車で木村家を訪ねた。昨日の電話の女性と思われる人は、私達六人
を見てちょっとひるんだ様子であった。そこには、亀松さんの甥の木村繁男さんが待って
いて、父の話す六十数年前の出来事を聞いてくれた。亀松さんは既にこの世になく、その
子供さんも早世し、いまは孫の代ということで、そのときのことを知る人は一人もいなか
った。私達は鴨居の上の木村亀松さんの遺影に手を合わせ、また海の見える丘の墓に線香
を上げた。
 木村繁男さんは「あなた達が憶測した遭難場所は人家に近く、また切り立った岩場もた
いしたことないので違うのではないか。多分この島の裏側の長谷という韓国に面した場所
と思われます」と言って、車がやっと通ることのできる山道を案内してくれた。
 道の突き当たりはちょっとした広場になっていて、荒れ狂う玄界灘が一望でき、足元か
ら百㍍もあろうかと思われる断崖が垂直に切り立っていた。この島は日本の本土に向かっ
ては、なだらかな優しい丘陵地帯で水田や畑も見られるが、韓国に向かっては、人を寄せ
付けない断崖絶壁であった。父の記憶による砂浜は満ち潮のせいか見ることができなかっ
たが、十数㍍もあろうかという立岩がところどころに海面から鋭く突き出ていた。よくも
この断崖を大雪の日に登れたものだと不思議に思われたが、右手の少し突き出た立岩の切
り込んだ襞の部分に、やっと人がはい上がれるほどの勾配の斜面が続いているのが認めら
れた。父は「多分あの切れ目から登ったのだろう」と言って遠い過去の記憶を読み取ろう
としているようだった。そしてきっぱりとした声で「もうよい」と言って車に乗った。私
はこの一言で父の思いが完結したことを悟った。
私達は再び荒波に悩ませられてその島を後にした。萩市内や秋吉台などを回っている中で、
「お父さんはこのごろ歩くのが遅くなったね」「もう歳だからそういうものだろう」など
と噂をしていた。私はそのときすでに父の体に予兆があったのかも知れないと後で気づい
たものだった。
 この小旅行も父の喜びとともに終わり、両親と兄夫婦は佐賀へ、私達は東京行きの新幹
線で同時刻のプラットホームでの別れであった。思い出せば、私と兄が入れ替わっている
とはいえ、四十数年前の鹿島駅での別れと酷似していた。一つ違っていることは、貧しく
哀しい昔の状況と違い、楽しく満ち足りた別れであった。私はこのとき、この回想録の出
版を父と約束したのであるが、心のうちで急がないと間に合わないかもしれないとの予感
めいたものはあった。まさか四ヶ月後という早さで現実になるとは思いもしなかったし,
私が父の姿を見たのはこれが最後となってしまった。
 午後四時ころ趣味にしている農作業を終え、風呂に入って髭を剃り、身だしなみを整え
てテレビの前にいた父が妙なうなり声を出しているのを、母は裏の土間で聞いた。急いで
居間に行ってみると、すでに意識はなく数十分で亡くなったという。通夜の日、主治医の
有島先生から「不整脈が認められたので、ニトログリセリンを持たせていたのですが」と
いう言葉を聞いて私達は驚いた。父はここ数年の間、私達家族にそのことを一言も話さず、
いずれ来る死を黙って整えていたようである。
 そして、本を作ることに関しては全く無知な私達家族が、約束のこの回想録を出版する
ことが出来たのは、校正と監修は北 勲(いさお)氏、装丁とイラストは近藤 勝(まさ
る)氏、印刷と製本は石井 順昭(よりあき)氏という、私の高校時代の同窓生である各
氏の多大なる尽力によるものである。
 ここに、「不器用にしかもひたむきに」生き抜いたこの八十四年の激動の時代を、いつ
も背筋を伸ばし、愚痴を言わず、忍耐強く、しかも老いてなお身だしなみを整えていた父
に、私達は立派に完成したこの回想録を添えて、冥福を祈りたい。


         『不器用に、ひたむききに』より
        

          長い旅路の果て、
          若き二人の思い出の故郷、
          大谷の地に帰り着いた。

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