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『みずだき』です。

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 5月16日(水)11時17分39秒
返信・引用
  二男一家の招待で、『みずだき 新三浦 本店』様へ初めて行きました。

この年になるまで、『新三浦』様は、天神ビル地階の支店で定食を食べた事は有りましたが、本店へ伺うのは初めてでした。

二男は関東や東北から友達が訪ねてくる機会が多いので、水炊き、鰻、もつ鍋等の名物料理で接待する事が多い様です。

この日は、二男の二男の初宮参り祝いの席でしたから、昼食でした。

二男は夕食で数回利用した事が有るそうですが、
『僕らは若いからだろうか、中居さんはとても親切にしてくださるけれど、
「はいはい、食べたら早く帰りなさいね」
と諭される事が多い。』と笑っていました。

初めて行く店舗でしたので、僕も幾らか緊張していましたが、まず驚いたのが、玄関の看板で、
『水だき』と書かれていた事です。

僕は、このトシになるまで、『水タキ』だと思い込んでいましたので、これは少なからぬカルチャーショックでしたねぇ。

しかし、考えてみますと、僕の『水炊き』に関する店舗経験は、
『水晶鍋』様、『いろは』様、『長野』様位しか有りません。
(それも、御招待等で一度ずつ行った程度です。)

他にも『水炊き』は老舗として、『水月』様、『岩戸屋』様、『大阪屋』様など、
名だたる店舗が綺羅星の様に有りますが、残念ながら僕は行った事は有りません。

あくまでも、僕の中の『水炊き』は、市販のスープや鶏肉専門店で買い求めるスープを使った、家庭料理の一部なのです。

それを、料理屋さんで頂く、というのは、これもまた特別な経験で、得難いことですね。

そんなこんなを考えながら、部屋へ案内されました。

料理はコースになっていて、まずは突き出しが、次に、鶏胸肉の湯引きが出されました。

どちらも上品な味で、美味しく、この辺りが流石に専門店ですね。

その後、中居さんが湯呑に少量の塩?と高等ネギと呼ばれる細いネギの小口切りを入れて、
その上から鍋で煮立った鶏ガラスープを入れて下さいますので、アッチッチと頂きます。

それから、自慢の鶏肉を同じスープで煮て下さり、鶏肉が終わると、椎茸や白菜、春菊を煮て給仕して下さいます。

料理の最後は、茶碗に軽く装った御飯に、やはりスープを掛けて、お新香でサラサラと頂きますが、
足りなければお代りを勧めて下さいます。

僕は、よほど食べる様に見えたのでしょうか、軽めでは有りますが、二回も勧められてお代わりをしてしまいました。

そして、デザートはプリンですが、焙じ茶、コーヒー、抹茶などから好みのソースを選べました。

鍋物ですが、全て給仕して下さいますので、『鍋奉行』や『アク代官』の出番は有りません。

気のおけない仲間や家族での会食には重宝される方も多いと思います。

帰り際に気付いたのですが、玄関には干支に因んで、おそらくはバカラ・クリスタル製の戌と、財招き人招きの猫が対で置かれてあり、ご店主の粋な遊び心を感じました。


画像一枚目、看板には『水だき』と書いてあります

画像二枚目、中居さんが煮て給仕して下さいます。

画像三枚目、肉と野菜を食べ終わると、御飯のスープ掛けです。
 

30年?前のゴールデン・ウィーク

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 5月 9日(水)10時53分22秒
返信・引用
  今年もゴールデン・ウィークが終わりましたが、如何お過ごしになられましたか?

僕のゴールデン・ウィークでの一番の思い出は…、もう30年も前の話になりますでしょうか…。


当時、最新の機種は、(株)平和(だったか、平和工業(株)だったのか忘れました)の、
『ブラボー レーザースペーシーB』でした。

https://www.youtube.com/watch?v=RosZLFbybQA

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC

この機種は、見た目も斬新な機械でしたが、内容はサッパリ分からない機械で、
メーカーの社員も『出来るだけ触りたくない、関わりたくない』と言う、化物でした。

とにかく、セブン機である事は確かなのですが、基盤確率が滅法気まぐれとしか言い様がなく、
一日に特賞(いわゆる大当たり)が二十数回掛かったかと思えば、次の日は一度も当たらない、という機種で、
また、デジタルが回りだすスタートチャッカーへの入賞もスランプがキツく、
立て続けにボロボロを入ったか、と思えば、その後の1~2分は全く玉が寄り付かない、という釘配列でした。

それを何とか落ち着かせようと、連夜、営業が終わってから釘調整と試し打ちを繰り返し、
もう一週間以上も明け方まで頑張っていました。

しかし、出玉が落ち着かない、というのはお客様へ敏感に伝わり、
基盤が爆発した時には満台で大赤字、基盤が沈黙している日は閑古鳥からも見放されている有様でした。

営業中、徹夜の疲れで仮眠していても、お客様の反応や稼働状況は気になりますし、
眠っていても頭のどこかではデジタルが回ったり、あの独特の電子音が耳の中で響いていました。

そんな精神的にも体力的にも限界が近付いている、と自覚する中で、
何と!マンハッタンが在ったサザン通りでは、石原プロがドラマ『西部警察』で
『パニック in どんたく』と題する番組の撮影を行ったのです。

https://minkara.carview.co.jp/userid/1641107/blog/31916890/

ただでさえお客様が少ないゴールデン・ウィークですのに、
サザン通りと新天町は見物客の人垣で殆ど通行不能、
撮影が始まる前に入店された少数のお客様も台を離れられて店内から外の様子を窺われ、
稼働している機械は極く僅か…。

しかも、そんな時に限って、その僅かに稼働しているレーザースペーシーが大当たり、
更に、その大当たりが続く事続く事、全く、こちらがパニックになってしまいました。

あの時の苦痛は、30年経った今でも忘れられません。

未だに、『石原軍団』という言葉には、
『大体、芸能人の集団に「軍団」とは、本物の軍人に対して失礼だろう!
それに、現場の刑事がサングラスを掛けているのなんか見た事もない!』と、虫唾が走ります。

そんなこんなを思い出すのが毎年のゴールデン・ウィークです。

今年は、ここ数年と同じく、家内の友人が舞台でベリーダンスを踊られますので、
それを拝観し、翌日は五番目の孫の初宮参り、そして別の日は37回目の結婚記念日でしたので、
家内に心ばかりの花を贈って感謝を表したつもりです。


画像1枚目は、家内の友人が踊るベリーダンス

画像2枚目は、5人目の孫の初宮参り

画像3枚目は、37回目の結婚記念日に買った、ささやかなフラワーアレンジです。
 

続・ラーメンの思い出

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 5月 2日(水)10時37分23秒
返信・引用
  承前(前号からの続きです。)
前号にも書きましたが、これは数年前に書いたモノでして、現在の事では有りません。

**********************************************


その後、『福ちゃんラーメン』は百道小学校正門前から、現在地の田隈へ移転しました。

勿論、僕に移転の理由など分かる筈も有りませんが、恐らくは余りの繁盛に対して駐車場が無く、
警察の取り締まりや御近所の苦情が多かったのではないでしょうか。

ここ何年か、僕は仕事の都合で『福ちゃんラーメン』の前の道路を通るのですが、
『福ちゃんラーメン』の店舗には十数台の駐車場が設けられ、百道時代以上の繁盛の様で食事時間帯には長い行列が出来ています。

友人が夭折し、僕が『福ちゃんラーメン』のラーメンと焼飯を食べてから『塩辛い』と感じた日から二十数年が経った或る日の昼食時、
僕が車で『福ちゃんラーメン』の前を通り掛かりますと、珍しい事に駐車場に空きが有り、行列も出来ていませんでした。

久しぶりに僕は、『福ちゃんラーメンを食べてみよう。』と思い、
『福ちゃんラーメン』の駐車場へ車を入れて、店内に入りました。

駐車場には数台の空きが有りましたが、店内は満席に近い状態でした。

やはり二十数年が経っていますので当然ですが、調理人や店員の女性は当時に人達とは違う顔ぶれの替え玉状態、
しかし調理師は最近のラーメン店とは違って、キチンとした襟無しの白い調理服と白い調理帽を着用し、
女性店員も昔ながらのエプロン姿で、店内も昔ながらのラーメン店の雰囲気でした。

僕は、『これこれ、こんな雰囲気が僕のラーメン基準。』と思いながら、壁の献立表を見ると、
昔は無かった、ワンタンメンの文字が有りましたので、僕がワンタンメンを注文しますと、
麺の茹で具合を尋ねられましたので、硬めでお願いしました。

調理師は、かなり真面目で律儀な人らしく、注文された一杯一杯の種類と麺の茹で具合を伝票と指差し確認しながら調理し、
数分後に僕のワンタンメンが運ばれて来ました。

初めて食べる、『福ちゃんラーメン』のワンタンメンは丼にスープが一杯に張られており、
僕は『昔は、こんなにスープは入っていなかったが、きっと替え玉をする人が多いので、
こんなにスープを張るのだろう。』と思い、麺を啜り込みました。

『あれ、麺の太さも昔とは違う!』僕の記憶に有る麺の太さよりも、√2倍くらいの太さでした。

『しかし、これが今の調理師が考えているベストな麺なのだろう。』と、僕は考え直して食べました。

僕が食べ終わる頃、店内は増々混んできて行列が出来る一歩手前でしたので、僕は席を立ち、御勘定の750円を払い、店を出ました。
そうですそうなんです、僕は食券制度のラーメン店も好きではありません…。

『福ちゃんラーメン』の増々の御繁盛をお祈りしながら、これまた駐車待ちの行列が出来そうな駐車場から車を出しました。


画像一枚目は、当時の店舗入口です。
画像二枚目は、その時に食べたワンタン麺です。
わぁたしの記憶が確かならば…、(←何度も、すみませんが、昔のTV番組『料理の鉄人』鹿賀丈史風でお願いします。)
当時、800円か850円でした。
 

ラーメンの思い出

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 4月25日(水)11時00分50秒
返信・引用
  こんな事も有るのですねぇ。

いつも業務で通っている道沿いのラーメン店ですが、先日は定休日でも無いのに、貼り紙がされてシャッターが閉まっていました。

気になったので、

車から降りて撮影したのが下の画像です。

実は、この店には思い出がありまして、その事を某HPへ投稿しています。

御存知の方も居られるとは思いますが、御寛容下さいませ。

************************

わぁたしの記憶が確かならば…。(←古くてすみませんが、昔のTV番組『料理の鉄人』鹿賀丈史風でお願いします。)

昔々、百道小学校の正門前に『双葉ラーメン』というラーメン店が有りました。

御夫婦で経営されている店舗でしたが、結構な繁盛店で、特に土曜や日曜の昼過ぎは、
百道小学校の生徒、先生、百道中学の生徒、先生、福岡西警察署の警察官で大混雑、店舗に入りきらない事も多く、
行列が長くなった時は、店舗裏の御自宅が臨時店舗として利用されていました。

百道小学校や百道中学の校則では、帰宅途中での寄り道や買い食いは厳しく禁じられていましたが、
この店に限っては先生方も『見て見ぬふり』をされていました。

(何せ、土曜や日曜のクラブ活動の昼には、生徒と先生が並んでラーメンを食べているのが通常の風景でした。)

同じ様なラーメン店は、西新にも有りました。それが、西新の『しばらく』です。

西新小学校に通っていた子供達は、『しばらく』のラーメンを食べて育ち、
小学校を卒業して百道中学へ進学してからは(西新小学校からは殆どが百道中学への進学でした。)
『双葉ラーメン』を覚え、それぞれが好みのラーメン店を贔屓にしていた様です。

ちなみに、『双葉ラーメン』御令嬢と御令息は百道小学校、
『しばらく』の御令息達は西新小学校から百道中学へ通学されていました。

僕は小学生の頃、母親がラーメン嫌いでしたので、『しばらく』の話は友達から聞いていましたが行った事は無く、
百道中学へ入学してから友達に誘われて『双葉ラーメン』へ初めて行き、その後、『しばらく』にも友達と行く様になりました。

その様な事で、当時の西新小学校・百道小学校・百道中学の生徒達・先生方にとって、
『双葉ラーメン』・『しばらく』は、ラーメンの基準でした。

僕が高校を卒業し札幌へ行ってからは、先輩方に連れられて札幌のラーメンを食べに行っていましたが、
『同じラーメンでも違うものだ。』と、思っていました。

札幌の先輩方の中には、福岡のラーメンを御存知の方も居て、
『福岡のラーメンの麺は細くてソウメンみたい、スープは臭いがキツくてなぁ。』と言われていました。

僕は、福岡へ帰る度、僕の中での福岡のラーメン基準である『双葉ラーメン』か『しばらく』の
ラーメンが食べたかったのですが、僕が福岡へ帰るのは盆か正月でしたので、残念ながら両店とも休みでした。

そして、僕が仕事の都合で札幌から福岡へ戻った時、友人の一人から、
『お前、知らんやったろうけど、双葉ラーメンは無くなったとぜ。
何でか理由は分からんけど、突然無くなったとぜ。その跡は、福ちゃんラーメンという店になっとる。』と、聞かされました。

その後、僕は『福ちゃんラーメン』へ行きました。

しかし、『双葉ラーメン』の常連だった人達の評価は厳しく、友人達や顔見知りの警察官、学校の先生方の意見は、
『ああ、双葉ラーメンのラーメンが懐かしかぁ!』でした。

更に2~3年が過ぎ、友人たちの評価は『だいぶん、双葉ラーメンに近こうなってきた。』へ変わっていましたので、
『福ちゃんラーメン』の御主人たちの努力が実を結んだのでしょう。

僕は結婚し、その後は何回かカミサンを連れて『福ちゃんラーメン』へ行きました。
その頃には、もう『双葉ラーメン』には勝るとも劣らぬ繁盛ぶりで、
昼食時間帯に麺やスープが無くなる事も珍しくなかった様です。

当時、入退院を繰り返しながら養生に努めていた高校時代の友人と偶然に再会したのも、
カミサンと『福ちゃんラーメン』へラーメンを食べに行った店内でした。

しかし、その時の僕達はラーメンと焼飯を食べたのですが、どういう訳かその日は塩気が強く、
後でノドの渇きが止まりませんでしたので、それきり僕は『福ちゃんラーメン』へ行く事が無くなりました。

それから数か月後、その友人が再び入院した事を知った僕は友人を病院に見舞い、病室で
『また元気になったら、福ちゃんラーメンでビールを飲もうや。』と話しましたが、
まことに残念ながら、友人は薬石の効無く二週間ほどの後に32歳になったばかりで夭折しました。

(続く)
 

小学生時代

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 4月18日(水)10時52分13秒
返信・引用
  初孫(僕も知りませんでしたが、『はつまご』ではなくて『ういまご』が正しいそうですね。)が小学校に入学しました。

つらつら思い返してみますと、僕の国語の教科書は『しろしろ こいこい』で始まっていました。

担任は大原先生という定年が近いと思われる女性の先生でした。

一年生の一学期の通信簿は『2』から『4』までで、『5』と『1』が無かった事も覚えています。

でも、それを信じない父親が居ました。

『何だ、この成績は?5が一個も無い。こんな頭が悪い奴は今からタカが知れとる。』等と散々叱られました。

いくら、『一学期は5と1は無い』と説明しましても、
『そんな馬鹿な事が有るか!一年生から嘘を言う様な奴はロクな人間にならん!』の一点張りでした。

それほど子供の言葉が信じられないのであれば、
自分で学校なり先生に確認すれば良さそうなのですが、それも無かった様ですねぇ。

また、二学期から『1』と『5』が付けられる様になってからも、どういう理由なのかは分かりませんが、
約40人のクラスの中で、各教科『5』と『1』は4人、『4』と『2』は8人、
という決まりがあり、中々『5』が付くのは難しい事でした。

そして、勿論、その事も信じない父親が居ました。

『努力すれば、オール5なんてワケ無く取れるはずだ!そんな決まりがあるなんて聞いた事がない!』が口癖でしたねぇ…。

探せば何処かに有ると思われる僕の通信簿には、二つか三つの『5』が有る筈です。

しかし、大原先生という方は慧眼の持ち主だった事は確かで、
先生が所見欄に書かれていた事は、今でもハッキリと覚えています。

『机と身の回りの整理整頓は徹底的な指導を要する。』と書かれていて、
それを読んだ母親から散々『あ~、情けなか!』と言われました。

そして、その事はアラカンになった今の僕に全く当て嵌る事なんですよねぇ…。
もしかすると僕は、『元祖 片付けが出来ない男』なのかもしれません。
大原先生、あなたは素晴らしい教師でした。


そんなこんなを思い出しながら、僕は一年生になった初孫の姿を見ていました。
 

孫の食器

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 4月11日(水)10時40分1秒
返信・引用
  お陰様にて、無事に五人目の孫と、その母親が退院しました。

翌日には早速、長男一家が出産祝いとして二男宅を訪問しましたので、序ででは有りませんが、
二男の長男(孫3号)の誕生祝いを兼ねて、二男がケーキを用意していました。

ケーキは、孫3号が好きな『カーズ』の何とかのキャラクターだそうです。

4人の孫が遊ぶ様子をしばらく観ていましたが、やはり夫々の性格が出るのものですね。

キャッキャッと燥いて走り回ったりトランポリンで飛び跳ねたりする子、一人で静かに立体パズルに没頭する子、
遊びながらもオヤツが気になる子など、また玩具を譲り合ったり、一応は僕のDNAを受け継いでいるのでしょうが、
それでも色々と違いが出るものだ、と感心しました。

息子達や嫁達は、まだ名前が無い赤ん坊を見ながら、誰に似ているのか?と討論していました。


僕は、孫それぞれが生まれた時に、ピーターラビットの食器を、また名前が決まると、
誕生年月日、誕生時の身長体重、名前を刻んだスプーンとフォークを贈ってきました。

今回も、ピーターラビットの食器を贈りましたが、この食器セットは恐らく20年近く前に作られたモノだと思います。

ウエッジウッド社の製品ですが、同社と著作権者の契約が20年近く前に終了し、
その後のウエッジウッド社は『ロンドン・ベアー』というキャラクターの幼児用食器を生産していましたが、
その製品はピーターラビットほどの人気は出なかった様です。

僕も幾つかの『ロンドン・ベアー』の食器を誕生祝いとして友人達に贈った事が有りましたが、
彼らの反応も今ひとつ、という感じだった事を覚えています。

その後、ウエッジウッド社は新たにピーターラビットの著作権者と契約を結んで再生産を始めましたが、
それはバングラディッシュの工場で作られています。

僕の初孫が生まれた時には、既にバングラデッシュ製ばかりでしたので、
僕は孫が誕生する度に英国製のピーターラビットを探して買いました。

さすがに紙製の箱は印刷の色が褪せたりしていますが、まぁ気にしないことにして、
その理由を説明すれば相手も納得する様です。

今回、見つけたのは『Happy Birthday』という文字が入った、まずまず珍しいバージョンでした。

他には、『Merry Christmas』バージョンも有りますが、こちらは確か、孫2号の時に買った記憶が有ります。

どの食器も用途に相応しく丈夫な造りですので、どの孫も普段に使っている様です。

さて、孫5号の名前が決まれば、スプーンとフォークの注文ですね。


画像一枚目は、孫4号と彼好みのキャラクターのケーキです。

二枚目は、マグカップとボウル、三枚目はプレートで、この三個が1セットとして紙箱に収められています。
 

『第三の男』

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 4月 4日(水)10時51分45秒
返信・引用
  家族、といいますか、孫が一人増えて五人になりました。

長男夫妻には、長男と長女の二人で僕にとっての初孫である長男の長男は、今年の春から小学生です。

二男夫妻には、長女と長男、そして先日、二男が誕生し、これで僕の孫は五人になりました。

ですので、僕の孫としては三人目の男児です。

まだ名前が有りませんので、往年の名画に因んで『第三の男』とでも呼びましょうか?

今度生まれた孫は、『僕の二男の二男』、彼は3月39日が予定日でしたが、
僕が知る限りの『早生まれ人』によりますと、
『大きくなってからは影響が少ないが、特に小学生低学年の頃、
早生まれは体力的にも思考力的にも4月や5月生まれの子との差は大きくて厳しい』との事でしたので、
僕自身は密かに『早く生まれなくて良いから、ゆっくり4月になってから生まれた方が良い』と思っていました。

我が国では、4月1日生まれまでが早生まれで、前年の4月2日以降に生まれた子と同じ学年になるのですね…。

二男の嫁は大変だったでしょうが、予定日の3月29日に兆候は無く、3月31日でも兆候は有りませんでした。

そして、4月1日になると、もう僕の家内と二男も
『せっかく、ここまで来たのだから、どうせなら明日の2日に生まれるのがベスト!』と言いました。

そして、その希望通り、4月2日の1430過ぎ頃、自然分娩で男児が誕生しました。

夜明け前の0430頃から陣痛が始まったので、二男が運転して嫁と二人の子供を連れて産婦人科へ行って入院し、
そのまま二男は嫁に付き添っていたそうです。

その後、家内が二男の子供二人を迎えに行き、食事をさせたり、遊んだりしていました。

僕は何の役にも立てませんので、通常通りの勤務でした。

そして前述しました様に、二男から『無事に出産!』と報告の電話連絡が有りました。

家内は早速、二男の子供二人を連れて産婦人科へ行き、二男の嫁と新生児に対面しましたが、
僕は『朝早くからの陣痛と出産で彼女も疲れているだろう』と思い、その日は病院へ行きませんでした。

そして、出産の翌日、二男の嫁と新生児に対面しようと思いまして、
『母乳の出が良くなる』と言い伝えが有り、我が家の出産時の恒例行事?である、
『黒門飴』を買いに『板谷商店黒門飴』へ行きましたが、何と!お店は解体されていて跡形も無く、これには驚きました。

実は、二男の長男が生まれた時も行ったのですが、この時は御店主が
『最近、体調が悪くて、すみませんが飴は作っていません。』と仰ったのですが、その後、廃業されてしまったのですねぇ…。

明治時代か大正時代に建てられたと思しき店舗が無くなってしまい、
餓鬼の時分から慣れ親しんでいた僕には少なからず衝撃でした。

仕方なく、黒門飴の代わりに、不二家のミルキーを買いました。

前回、飴を買えず、その事と理由を二男の嫁に話しました時、
彼女は『え?あの飴、私は好きでした。飴が無くて母乳は大丈夫でしょうか?』と不安げでしたが、
母乳には困っていない様でしたので、彼女の事ですから、今回もミルキーで何とかしてくれるだろう、と僕は思いながら、
彼女に事の次第を伝えてミルキーを渡しました。

『御心配、有難うございます。でも、きっと大丈夫だと思います。』そう彼女は答えました。

やはり、女性は偉大ですねぇ。

そして母は強いものです。

彼女と家内に勧められて、恐る恐る赤ん坊を抱いてみました。

この子は、奇しくも?僕と同じ年回りの『戊戌』で、同じ二男坊なのですね…。

僕が何歳まで生きるのか、勿論、そんな事は分かりませんが、
この赤ん坊の人生に目鼻が付く頃まで生きている事が出来ればなぁ、と思っています。

赤ん坊の名前は二男が考えるそうです。

画像一枚目は誕生直後
二枚目は誕生二日目ですが、こうして見ると当然ながら兄(二男の長男)に似ている気がします。
 

グロ様の新店舗

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 3月28日(水)10時46分23秒
返信・引用
  昔(もう、『昔』という表現を使う頃になってしまいましたね)、
ピーワールドに掲載されていたマンハッタンのHPにはオプションの掲示板(BBS)を設置して、
お客様からの御意見や御要望を伺う事にしていました。

他店舗様も掲示板を設置されていましたが、いわゆる『荒らし』行為が原因となり、
次々と掲示板を設置している店舗は減っていきました。

その様な中でも、マンハッタンの掲示板は、好意的なお客様の御投稿に支えられて、廃業まで続ける事が出来ました。

これは非常に希なケースで、業界内部でも有名でした。

業界の組合幹部の多くが閲覧されており、組合会議の折に『素晴らしい投稿が多くて羨まい!』等と言って下さいました。

これは、ひとえに、お客様の御厚意が成せる業、と今でも深く感謝しています。

また、掲示板へ投稿の常連様達がオフライン・ミーティングを開かれて、それにお招き頂いた事も数回有りました。

更には、『マンハッタン・ファンクラブより』と書かれた大きな花輪を新装開店時に頂きました事も忘れられない思い出です。

その当時の常連様に、『グロリア心』というハンドルネームで投稿して下さる方が居られました。

この方は、投稿以外でもメールを下さり、お客様の心理に関するアドバイスを頂いた事も有りました。

当時から僕は、この方を親しみを込めて『グロ様』と呼んでいました。

そのグロ様が宮若市でラーメン店を営んでおられる事を知ったのは、マンハッタン廃業後でした。

思い出しますと、マンハッタンのカウンターに沢山の餃子を託けて頂いたりもしましたねぇ。

そのラーメン店には数回、家族と伺いましたが、宮若市ですので、中々時間的には難しい事も有りました。


そして、どの様な理由なのかは不明なのですが、そのグロ様が一念発起?されて、城南区別府に店舗を移転されました。


https://tabelog.com/fukuoka/A4001/A400202/40048032/

http://menmusubi.com/komugi

以前は定番の豚骨ラーメンが主体でしたが、新店舗は賃貸契約の関係で豚骨は断念されて、
新境地である鶏ガラと煮干のスープである『トリニボ』と、『混ぜそば』の二種類だそうです。

家内と二人で新しい店舗へ参上しましたら、マンハッタン当時は独身だったグロ様は結婚されて、
奥様と二人で営業されていました。

店内には、小麦粉の袋が置かれて、自家製麺である事が分かりました。


この日は、『トリニボ』にオプションの煮玉子と煮干油をお願いしました。

スープが少しだけ僕には微温く感じられるのですが、これは以前の豚骨の頃も同じで、
グロ様の話からは『これ以上熱くすると、香りが飛びます。』と聞いていました。

『子供も居るのですよ!』と、グロ様が嬉しそうに報告して下さり、僕も嬉しくなりました。

次回は、『混ぜそば』を頂きたいですね~!

若い御夫妻の御多幸と御繁盛を切に切に、お祈り申し上げます。

画像一枚目ですが、卓上には割り箸とエコ箸の二種類が用意され、いかにもグロ様らしい心遣いをを嬉しく感じました。

二枚目は、メニューです。

三枚目は、オプションの煮玉子が載せられた『トリニボ』と、小皿は同じくオプションの煮干油です。
 

オーク・ヒル・ヴユー

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 3月21日(水)12時21分29秒
返信・引用
  先日の日曜日は、うっかり寝過ごしてしまい、朝食には遅い時間に起きました。

取り敢えず、日曜日の習慣である近くの月極・時間貸し駐車場の掃除に行きましたが、

その後の予定は、毎週同じ事ながら、別の駐車場と駐輪場の巡回くらいです。

昼食は何を食べたものやら?と思案していましたら、
家内が『久しぶりに、N島さんの所へ行こう!』との事でしたので、そうする事に決めました。

N島さんが経営されている店舗は、吉野ヶ里町に在ります。

https://retty.me/area/PRE41/ARE140/SUB50303/100001309098/

https://ameblo.jp/cafe-black-j/entry-12315473422.html

せっかく行くのだから、前から頼まれていたN島さんの自転車の調整をしようか、と思い、
N島さんに電話をしてみましたが何故か繋がりません。


オークヒルヴューに電話をしてみましたら、こちらは営業中、との事でしたので、
一応は自転車の調整に必要な工具は持参しました。

通常ですと、我が家を出て大橋から老司を通り、385号線で南畑ダムと五ヶ山ダムを通り、
有料の東脊振トンネル(310円)を抜ければ、N島さんのオークヒルヴューに到着します。

拙宅から時間にして一時間半位でしょうか。

この日は、もう正午近くの出発になりましたので、九州道の福岡インターから高速道路を使い、
鳥栖インターから長崎道に入って、東脊振インターで下りました。

東脊振インターからは10分も掛かりませんので、拙宅からオークヒルヴューまで約一時間、高速道路はETC割引で900円です。

まずまず快適ですね。


オークヒルヴューに着きましたら、中々の御繁盛で、『食事でしたら、時間が掛かりますが宜しいでしょうか?』との事でした。

勿論、待ちます。
すぐ席に案内され、また少し進化した様なメニューを拝見。

カレーやポークソテーも気になりましたが、
『厨房が忙しそうなので、二人共同じ物をお願いした方がイイ!』と家内が言いますので、
佐賀名物?のシシリアンライス二つを注文しました。

時間が掛かるのは承知の上でしたが、そこは結婚37年目の夫婦ですので、待っている間の会話は途切れがちですね…。

40分ほど待って、スープとシシリアンライスが届きました。

御飯の上に焼いた葉物野菜と牛肉が載せられ、たっぷりのタルタルソースが添えられ、しっかりした味付けです。

美味しかったのですが、僕らが食事を待っている間に、数組の方達が来店されましたが、
店内の繁盛ぶりを見られると、諦めて帰っていかれました。

それを見ながら、会話が途絶えがちな老夫婦は、『何だか、勿体無いねぇ。』とヒソヒソと話し、溜息を吐きました。

食後、N島さんの本業である時計宝飾店に行ってみましたが、店休日でした。

『どこか、息子さんはお嬢さんのお宅へでも行かれたのかもしれないねぇ。』と、帰途に就きましたが、
後ほどN島さんから連絡があり、御親戚に不幸が有ったので留守にしていた、との事でした。

帰り道は、いつもの様に東脊振トンネルを抜けて、五ケ山ダム近くの豆腐店で豆腐と厚揚げを買い、
南畑ダム脇を通って、山を下り、駐車場と駐輪場を簡単に掃除して帰宅しました。

画像一枚目はメニューの一部、
画像二枚目はスープ、
画像三枚目はシシリアンライスです。
 

『同じ趣味』とは言いながらケタ違いですね。

 投稿者:元・マンハッタンの釘曲げ屋メール  投稿日:2018年 3月14日(水)10時46分11秒
返信・引用
  ネットで知り合った同好の士?から、
『ど~しても一度会いたい!』、『ど~しても一度、ウチに来て欲しい!』と言われていまして、
やっと時間が出来ましたので、訪ねる事にしました。

日時を電話やメールで打ち合わせ、JRで最寄りの駅へ行き、その方が車で駅へ迎えに来て下さいました。

メールと電話に或る程度はお互いの情報を交換していましたので、初対面ながら違和感は無く、
挨拶を済ませて彼の自宅へ連れて行って頂きました。

御自宅へ上がり、部屋へ通されましたが、いやはや驚きました。

家中が自転車だらけ、というのでしょうか、小から大まで、1930年代から最新?のモノで棚や押し入れが埋め尽くされ、
フレーム製作の為の部屋も有りました。

その部屋で製作されたフレームも10本程度が有り、プロが製作したレベルの仕上がりでした。

同好の士、とは言いながら、お金の掛け方は僕と桁が違います。
フタケタ位の違いが有りそうでした…。

彼自身も、『いやぁ、数千万円以上は注ぎ込んだでしょうねぇ。全くバカな事をしたもんだ、と、
つくづく今となっては思いますよ。そう、自転車なんかに興味が無ければ、こんな家ではなくて、
もっと立派な家が二軒くらいは建てられた、と思っています。』との事でした。

70歳に近い年齢となられて、『年金が少ない仕事なかりでしたし、持っている部品や自転車も僕が死んでしまえば、
その価値が分からなくなってしまう、という不安が有り、その価値を共有できる人が居れば、
持っている部品を売って生活の足しにしています。』と、仰いました。

僕も写真でしか見た事が無いモノを少なからず見せて頂き、とんだ眼福に与りました。

友人から頼まれていた部品を幾つか譲って下さる事になりましたので、その部品を確認しましたが、
僕が思っていた相場よりも安い価格を提示されましたので、友人へ電話を掛けて確認し、その部品を購入し、
僕自身も幾つかの部品を選び出しました。

部品の数や価格は友人から頼まれていたモノが多く、僕自身が購入したのは総額の四分の一程度でしたが、
それでも欲しかったモノを買う事が出来ましたので、満足感は有りました。

彼の家で4時間ほど『同好の士』のみに通じる会話を交わし、その後、また最寄りの駅まで送って下さいました。

『また、近い内に会おうね、いや、部品の売買は別にして、また話がしたい。楽しかった。ぜひ、また来て下さい。』
との事でしたが、いやはや、あんな人は初めて会いました。

あの様な方が『マニア』という人なのでしょうねぇ。驚きました。

画像一枚目は、フレーム製作が行われる工作室、
画像二枚目は希少部品が使用された自転車、
三枚目は特にお気に入りの部品が収められている部品棚です。
 

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