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テーマ前書集

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 3月22日(土)07時20分49秒
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             テーマ前書集 2005-2013




    第一号テーマはもう一人の同人α創立に拘わった女性に譲ったようだ。
   女性をたてたというよりも、単に,面倒だったに過ぎないのかもしれない。
   テーマはどれも、作品から想像される著者が関心を寄せるようなものばかりだ。
      尚、表紙を飾る作品は、絵も文字も氏の提供による。このあたりも「人任せ」
   を嫌う氏の気質が良く出ている。後にそれが仇となる。
    印刷編集作業から降りると言ったとき、みんなから顰蹙をかうことになった。
   「人任せにしていて何を今さら。」とも言わなかった。
   掲示板を「私のものです」といわれた時も黙っていた。テーマの時と同じよう
   に女性をたてたのか、はたまた、あまりにもばかばかしいと思ったのか…。
   損な性格なのか、人がいいのかよく分からない。  (編集部)





第2号「想」  2005/2

          

はじめに

さて、第2号の名称の「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなければ
なりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?はた
して無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まされて来
ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの難題に決
着をつけなければならないと考えました。
いま現在我々が生きている世界は有限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取
って確かめることができます。しかし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、
各の頭の中には神や虚数や妄想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の
果てと思われている130億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受け
るとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび音楽
や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその世界へ
積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕たちは人生
を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自己表現に努
めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」とした次第であ
ります。
                                 古賀和彦






第16号「揺らぎ」  2008/8

          

まえがき

 私は以前、別の同人誌に「狭間シリーズ」の文章を十編ほど書いたことがあった。趣味
と道楽の狭間で、本音と建前の狭間で、晴と褻の狭間で、光と影の狭間で、都市と田舎の
狭間で、男と女の狭間で、パラノイアとスキゾフレニーの狭間で、モダンとポストモダン
の狭間で、など人生の岐路に戸惑ってたちすくむ己の心情を綴ったものだ。
 そして一方を決断したその時、捨て去ったものに微かな思いを残した。去りゆくもの、
滅び行くものに憐憫の情を覚えることは人間の証のような気がしてならない。だから拝金
主義者や権力主義者などの効率よく物事を決断し、疑いもなく自ら選んだ道を突き進む人
を私はあまり好きではないし、信用もしない。人が岐路に立って自分の行く道を決めかね
て、戸惑い揺らぎながら迷っている姿に、私は人間としての共感を抱くのである。

 「揺らぎ」とは機械的な正確無比の時の刻みではなく、一定した流れの中に生じる微か
な乱れのことをいうのである。
この宇宙の森羅万象,すべてに「揺らぎ」があるという。それが心臓の脈拍の揺らぎであ
り、うち寄せる波,風,潮の満ち引きの揺らぎであり、モーツァルトなどの名曲の中の旋
律の揺らぎであり、人との会話においても時には予期しない返答だったりするような揺ら
ぎである。揺らぎが創り出す変化は、私達が過ごす日常の殆どが褻の時間のなかで、人生
とは面白いと感じさせる何かを創り出す力があるようだ。

 この世の中に絶対的に基準となるものは有りはしない。時間や空間や思想や理論におい
ても同様で、いまこの一瞬の自覚した己の存在だけが真実であることを除いて、すべて虚
であり、想念の中の出来事である。だから、どこかの殺虫剤会社の「そんなものが効くの
か」という男の疑問に答えて、藤原紀香が「その疑い深い目が好き」と艶っぽく宣うコマ
ーシャルがある。この、権威や定説や既成の価値観に対して「揺らぎ」や「疑い」を抱く
精神が好きだ。
                             古賀 和彦






第25号「颯」 2010/11

          

  「颯」―表題によせて                     古賀 和彦

まず始めに表紙のデザインに用いた「颯颯」という文字は、山鬼:楚辞・九歌にあるもの
を借りた。
雷填填兮雨冥冥   雷填填として雨冥冥たり
猿啾啾兮又夜鳴   猿啾啾として又夜鳴く
風颯颯兮木蕭蕭   風颯颯として木蕭蕭たり
思公子兮徒離憂   公子を思へば徒らに憂ひに離(かか)るのみ

雷が鳴り響き雨が暗く、サルは悲しげに夜も泣いています。風は颯颯と吹き渡り、木は蕭
蕭たる音を立てています、あなたを思うと私の心はいらずらに憂いに沈むのです

颯の文字の姿を眺めていると堀辰雄の「風立ちぬ」を思い出す。信州のサナトリウムの周
りの自然のなかで白い野バラの間を微かに吹き抜ける風ノイメージが湧いてくる。颯爽と
したという漢字がこの「颯」である。

大富豪で泥棒を趣味とするスティーブ・マックイーンと保険調査員のフェイ・ダナウエイ
の二人が、全く違う立場で丁々発止とやり合う「華麗なる賭け」という映画があった。悪
と正義のせめぎ合いなかで何とも言えない二人のもどかしい関係を表現したミシェル・ル
グランの「風のささやき」という名曲がある。
http://www.youtube.com/watch?v=Wl8fKAYQuPk&feature=fvsr
またマンディー・バーネットの ウィスパーリング風という歌もある。
http://www.youtube.com/watch?v=FcfPumlZFiY


  風のささやき

風は独り窓辺に佇む私の心に
微かなささやきを残して走り去り
彼の姿を見せることはしない

仮眠の五感をそっと刺激して
覚醒しようとする私をからかうように
過去の思い出のなかに漂わせ
仮の夢に想いをふくらまさせ
荷担した報いとして孤独な憂をあたえる ニューロンの揺らぎ

あるときは花の香りを運んで
あるときは竹林をさざ波のように
あるときは松林をゴーゴーとふるわせ
あるときは首筋に冷たい空気を置いて行く
あるときは私にはな歌を唱わせる

風は私の想念への誘い
風は私の心へのささやき
風は私への宇宙の啓示







第30号「沈黙」 2012/2

          


「沈黙」前書き   饒舌と緘黙の狭間で           古賀和彦

 「沈黙」と書いてみるとすぐ思い浮かぶのが、遠藤周作の「沈黙」と埴谷雄高の「死霊」
を思い出す。この二文字を思いついたのは、あまりにも推敲されない文字の氾濫に辟易し
たからだ。事象について断定的であったり、まったく普遍性のない言葉での個人的体験談
や日常茶飯の些事が、生理的要求でもあるように放埒に垂れ流されている現状は憂うべき
現象に思えるのである。この生活空間に流されているTVや雑誌やニュースや評論などの
膨大な量の情報が、はたして人に幸せをもたらすと信じていいのだろうか。 人間の基本
的な生命維持に必要な情報はそんなに人を溺れさせるほど多くはないはず。その他のほと
んどは報道の繰り返しや、病気や生命等の危うさを強調する脅迫宣伝や、パチンコや競馬
競艇、宝くじなどの射幸心をくすぐるものや、空白の時間を埋めるためだけのくだらない
お笑い番組ではないか。そして自分に都合のよい情報だけを加工して評論し、それが怪し
くなると挙げ句の果ては自己弁護を繰り返す似非文化人や、空白な時間への恐怖で語り続
けることを止めない人や、まったく物事を深く考えることをしない人などが多くて、軽薄
な己の姿を世間に晒していることさえ考えがおよばないようである。

 私は語りは現実の世界、沈黙は想念の世界と思っている。
書いたり語っているときは現実の世界で活動している。
物事の本質を見極めようとするとき想念の世界に入り込む。すなわちそれは沈黙の世界で
ある。
これは同人αの第2号で書いた有限と無限の私個人の理解の仕方と同じである。有限は現
実の世界、無限は想念の世界。この二つはまったく交わることがないようだが、そうでは
ない。マルクス・エンゲルスが唱えた学説が現実にロシアやその他の社会主義国家を作っ
たように、単なる想念の産物である思想が現実の人の生活に影響を及ぼして来た。その逆
もまたあり得る。現実の世界から得た経験や事実が想念の世界の思想を導くこともあり、
お互いに密に影響しあっているのである。
 また私たち人間は「より正しい答え」を導くために「より正しい考え方」を模索してき
た。その思考法として演繹法と帰納法というものがある。
演繹法は一般的原理から論理的推論により結論として個々の事象を導く方法。
帰納法は個々の事象から、事象間の本質的な結合関係(因果関係)を推論し、結論として一
般的原理を導く方法である。
帰納法は現実のなかから本質を抽出し、演繹法は想念のなかで想定した結論を推論したも
のだといえる。これはまさに現実の世界と想念の世界の代物ではないか。

 遠藤周作の小説は、迷う信者に対して神は救いの手をさしのべなかった、なにも示唆し
なかった。 ただ静かに寄り添っていただけだという。 「弱者の神」「同伴者イエス」と
して黙して語らなかったというような内容だったと記憶している。
また埴谷雄高の「死霊」に出てくる、主人公三輪與志の異母兄弟で、精神病院にいれられ
た黙狂の矢場徹吾は、「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」な
どの謎に立ち向かっているのであろうか。黙狂が失語症の故なのかそれとも吃音に悩まさ
れた故なのか判らない。 この喧噪の世の中、吃音に悩まされたことがある私は、そんな
沈黙の世界に魅せられるのである。






第35号「迷宮(labyrinthラビリンス)」 2013/5

          

前書き 迷宮(labyrinthラビリンス)        古賀 和彦

 迷宮と言えばギリシャ神話の「アリアドネの迷宮」ミノス文明の「クノッソスの迷宮」
が頭に浮かぶ。「クノッソスの迷宮」は死者の世界だったという。しかしこの世にあるク
レタ島のなかにあるから、死者の世界とこの世を結ぶ建物、場所、空間なのだろう。だと
すれば古事記に出てくる底根国(そこつねのくに)、イザナギが妻に逢いたい気持ちを捨て
きれず、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイ
ザナミとの約束を破って見てしまい、結局は死んだ妻を生き返らせることはできなかった
というこの話は、もう一つのギリシャ神話のなかのオルフェウスとあの世の妻エウリディ
ケとの物語と同じである。
 またゲド戦記にも若いゲドは死者の霊と共に「影」をも呼び出してしまう。その後ゲド
は石垣の向こう、暗黒の黄泉の国のなかで影と戦う物語がある。この暗い空間は生と死の
狭間にあり、人の意識や感覚の惑うまるで迷宮のようではないか。ゲドは襲いかかる影即
ち、猜疑心や虚栄心や嫉妬心などの邪悪な己の心と戦うという解釈もあるという。
 長い私の人生もまたこのような暗黒の迷宮のなかで一所懸命出口を探して彷徨い続けて
いるようなものだと思うこともないではない。

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