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「喪の日記」/ロラン・バルト

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 3月15日(土)11時53分24秒
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        「喪の日記」/ロラン・バルト  2010





「喪の日記」
2010/1/26

今日三省堂にどうしても欲しかった本を買いに行った。ロラン・バルトの「喪の日記」み
すず書房 3,300円である。ついでに「ロラン・バルト最後の風景」水声社 2,000円を併
せて買ってきた。「喪の日記」は一週間前に立ち読みで、その言葉の響き、意味の深さに
惹かれたのだが、そのときは諦めて帰った。しかしどうしても欲しくなったのである。し
かしそれが立ち読みの時感銘を受けたそのものかどうかを、そしてこれらがかたして私の
文章に影響を与えるだろうか確かめよう。




      喪の日記を書くバルトともう一人のバルトの風景 Y.コバルト
      2010/1/27

      <新生>の風景・・・ロラン・バルト、コレージュ・ド・ フランス講義
       原 浩之著 冬弓社
      子宮邸に蟄居し、考えるか、本を読むか、寝てるか、パソコンに向かう日々
      が続きます。至極のときです。
      1976年?から交通事故で死ぬ(実際は持病)1980年の間の彼の講義メモ、ノ
      ート、メモを詳細にあたり、他の作品や、彼に影響を与えた様々な作家にも
      触れている、私にはカタカナの多い難物でした。吸い込まれるように読みき
      りました。
      「喪の日記」タイトルが鍵となったのでしょうか、それとも赤松さんが目を
      留めて散財した事実が鍵となったのでしょうか。いずれにせよ、昨日決めた
      「読む順番」はドンピシャリでした。人間追い詰められると嗅覚が効くので
      しょう。
      「言葉、文、短くて美しい、深い」こんな意味合いの感想を赤松さんは述べ
      られていました。何やら、マザコン男のメソメソ日記だけではない何かがあ
      る・・・これも感でしょうか。彼は聡明で強い男です。言葉と表現の自由に
      ついてどう守るべきかについても考えています。老いつつあっても常に前に
      飛び出す、再出発の決断もできた。
      彼は母を失ったことで、それまでの小説を書くということ、文体と言語の間
      にある「エクリチュール」についての思索をさらに深め決断の講義を行い続
      けた。(1977年就任講義には母も参加この数ヶ月先に失う)権力の言葉によ
      る統制(創る、または強制削除、放出)に対し見抜き、言葉で糾弾し続けろ
      と皆に語りかける。過去と断絶して新しく生きる、作品を創ることを選んだ
      のだと思った。講義は「これから作品を書こうする皆へ」の語りかとなるが、
      自分自身の声明でもあった。バロンさんの最後はあっけなかった。それでも
      著者のように違う言語使う東洋日本から講義に参加し、何かに魅せられて本
      を出版してしまう人が居て、私がそれを開き読んだ。著者いわく、この講義
      こそが大作品、大演出だったのだと。まあ、私も著者も褒めすぎや勘違いが
      多いのかもしれません。 自称アナーキー、バルトさん苦笑いか舌出してる
      かな?「ママン」と遊んでるかな?
      「金にもならないのになぜ書くのか」
      「読まれずにゴミとなるのになぜ書くのか」
      「文章を作るということはどのような作業なのか」
      そんな疑問をかかえる私の頭の整頓と刺激になりました。
      追記
      ●フランスが自国語に誇りと拘りを持つ国であることは知っていましたが、
      裾野が広いのですね。
      ●「ウィキペディアの世界」、「コレージュ・ド・フランスの自由な気質」、
      「バルトさん の文学におけるジャンルの解放」何か共通するものを感じま
      した。
      ●バルトさん面白いことに触れていました。作品に取り掛かっているとき読
      書は極力控え る。時間がもったいない。読むとしても下らないものか、自
      分の作品とできるだけ離れ たものにする。
      ●彼は今のネット世界を想像できただろうか。今生きていたら何を考えるの
      だろう。


      ロラン・バルト   Y.コバルト
      2010/1/28

      K氏は確か仏文?私は読後K氏もきっと彼の作品読んでいるのではないかと
      思いました。機会があたら何気なく聞いてみてください。
      R子さんもフランスだ。彼女は南フランスの田園で淡々と呼吸をしているの
      だろう。バルトや、ニーチェや埴谷みたいにもがき苦しまないで自然体で生
      きているのだろう。彼女なりに考えて選んだのだろう。

      「創生」の中での言葉についての個所、触れておきます。時代背景、訳者の
      センスによって微妙に変わるものだと思いました。キリスト教で七つの大罪
      の一つである「怠惰」:(無為)も。近代化が進む中で「勤労は美徳」「怠け
      は罪」とのレッテルを貼られた。ニートもひとくくりで「悪怠惰」とされて
      いる。そういえば、大日本帝国も、戦意を煽るため色んな言葉を作り出した。
      今すっかり消滅。

      バルトの「怠惰」の捉え方:「無為」あるいは「閑休」

      バルトの「倦怠」の捉え方:精神の非活性化状態

      バルトの「倦怠と創作の関係」:
      芸術は反=倦怠の優位であり、芸術は脱=倦怠の境位である。私は怠惰と無
      為と閑休と倦怠のオンパレードです。
      赤松さんがバルトさんの日記に何か魅了されたとしたら、一つ一つの言葉を
      検証し簡潔に繋ぎ合わせたからではないでしょうか。彼はずっと挑戦してき
      たのです。飛ぶ前の準備運動。意外とその時に思わぬ予想だにせぬ力が出る
      ものです。消えていく言葉があれば、時代に影響されず残り続ける言葉もあ
      る。まか不思議。全てその時代を生きる人間の「繋げて行きたいとの意思」
      なのかとも。赤松さん、狭い場所ですが、意思表示し続けてください。




無題
2010/1/28

◆昨日中島義道の「人間嫌いのルール」を読み終えました。作者は徹底的に虚栄や義理や
 人情などの嘘やおもねりを嫌っています。池田晶子に似て、純粋に己の心に正直に生き
 ていることが判ります。それが付き合いが悪かったり、愛想がなかったり、同情しなか
 ったり、とにかくこの本の通りに「人嫌い」になることは相当の覚悟が必要です。
 たとえば 同情ということについて
 同情の四重の非道徳行為である。
 1.同情を求めるルサンチマンの共同謀議であるゆえに
 2.相手を見下ろしているゆえに
 3.それにもかかわらず見下していないと自分を欺くゆえに
 4.その結果、自分はよいことをしたと満足し自己愛を満たすゆえに
◆なぜ私は書くのか書かないではいられない、書かなければ生きていけない、書かなけれ
 ば実存の確認ができない。ということで、人のために、人の評価を得るためにではない
 と私は思っています。だからテーマがないという人がいるが、じっくり自分の心の内や
 身の回りを観察すれば、テーマはそこらじゅうにあるのではと思います。
◆少しばかりロラン・バルトの「喪の日記」を読みました。自分の心模様を記述するのに、
 私が思いつかないような言葉、隠喩、たとえば「日曜の朝のやわらかさ」




ロラン・バルトを読む
2010/2/8

ロラン・バルトの「喪の日記」を読み終わる。母の死から書き起こされた喪失感を綴った
もので、決して壮絶なとか沈痛なといった激しい感情の言葉ではないけれど、心に沈む言
葉の響きがある。「わたしの悲しみは説明できないが、それでも語ることはできる」そし
て「この悲しみをエクリチュールに組み込むこと」の出発点になった。
エクリチュールとはWikipediaより
パロール(話し言葉)に対して用いられる、哲学用語の一つ。現代に入ってエクリチュー
ルとパロールの二項対立とその差異に注目したのはフランス現代思想家のジャック・デリ
ダである。よって哲学思想においてエクリチュールと呼ぶときは、まず西欧社会のパロー
ル本位主義(音声中心主義)に潜んでいた倒錯を暴くためのシステムが問題となる。それ
は脱構築のための最初の手立てであった。
2月6日 2010サークル合同新年会兼50周年記念同窓会決起大会のあとpm5:00より岩波ホー
ルで「カティンの森」を観た。その後神保町すずらん通りの食堂で餃子を食べる。田村・
諸石・北島の四人。
カティン事件とはWikipediaより
1941年頃ソ連国内のスモレンスクに近いグニェズドヴォ(Gnezdovo)村近くの森で約4400
人のポーランド軍将校捕虜・国境警備隊員・警官・一般官吏・聖職者がソ連の内務人民委
員部(秘密警察)によって銃殺された事件。日本ではカティン事件またはカチン事件とし



      「ロラン・バルト」  Y.コバルト
      2010/3/28

      3月25日はロラン・バルトの命日でした。あまりそのようなことにこだわ
      らない赤松さんかと思いますが。私は気になる人の「初めと終わりの日」は
      気になりまります。彼が作った創生の小説を是非読みたかった。期待を残し
      て逝くところなどは、なかなかのもの、かとも。誰かにバトンタッチできれ
      ばと、宇宙のどこかで考えているのかもしれません。彼は絵も書いていた。
      お時間があるときに下記サイトご参照ください。コメントもついています。

      「電話」で話す、「会って」話す(話し言葉)と 「文章化」(書き言葉)。
      その間にあるのが「メール」でしょうか。私が今取り組んでいる課題です。
      ヒントになりました。おまけに絵まで登場。私にとってはなかなか読み応え、
      見応えがありました。何となく佇まい、赤松次郎と似ているように思えまし
      た。「色の音楽・手の幸福――ロラン・バルトのデッサン展」京都大学
      http://www.rakastava.com/articles/article3.html





「ロラン・バルト」
2010/3/30

いまソシュール研究の第一人者である丸山圭三郎の「言葉とはなにか」の最後の部分中尾
浩の「解説・丸山圭三郎・ソシュール・文学」を読んでいたらロラン・バルトが出てきま
した。それは次のような文章です。
丸山が好んで採用するバルト(Barthes,Roland)が「当人達の内部に、ある乱れ、わなな
き、狂気、妄想、屈折が検出されるような、そういう科学者たちが、彼(バルト)は好き
だった」
この本は半年前神野佐嘉江君から借りたもので,もし興味があったら又貸しを了解しても
らいましょうか。このところ軽薄な輩がつかう言葉に、そんなに単純なものではないと、
いささかうんざりしていたところでした。
シニフィアン、シニフィエ、共時態、通時態などの言葉も知りました。神野佐嘉江君はこ
れらの言葉もすでに知っていました。電話の会話のなかで共時態、通時態などの言葉にす
ぐに反応するということば、確実に理解しているということでしょう。
そういえば彼は大学の仏文で立花隆と同じ机を並べて学んだと言ってましたから、知って
いるのは当然ですね。
ロラン・バルトのサイトを見ました。解説もよかった、彼の絵もまたよかった。抽象的な
スケッチも私好みで、具象では彼の思い「ある乱れ、わななき、狂気、妄想、屈折」を表
現することは叶わないのでしょう。

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