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エイプリルフール2015

 投稿者:α編集部  投稿日:2016年 4月 5日(火)18時05分9秒
編集済
       エイプリル・フール2015~



      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。




2016年

オキシモーラン的エイプリルフール-その1

   オキシモーラン社による新商品のご案内
◆ニャン眠剤発売
 さるNPO法人がまじめに統計をとったデータによると、先進国では97%の人が不眠
に悩んで いるという。その原因が配偶者・恋人、病気、リストラ、職場の人間関係、近
隣関係、社会体制にたいする不平・不満、憤りなどのルサンチマン的憎悪などがあげら
れる。途上国においては明 日のコメにも事欠くあり様の生活を強いられている序民は、
一日中重労働にあるため横になれば即ち爆睡し、不眠の悩みどころではない。

 我が家の猫、ミラノ公ドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ(通称イル・モーロ)は
私がソ ファに寝そべっていると、どこに寝ていても私の所へやってきて、体の上でぐう
ぐう眠るのがい つものパターンである。猫がよく眠るという事実は昔から知られていの
だが、それにしてもモロ の睡眠時間は並ではない。
 Yahoo(ヤッホー)の『知屁袋』によれば、経典などをネズミから守る為に奈良
時代頃に中国から輸入され、古くは「禰古末(ネコマ)」と呼ばれていたことから、江
戸時代の学者達は この語源について、いろいろ考証をしていたようである。
 ●「鼠子(ねこ=ネズミ)待ち」の略
 ●睡獣(ねむりけもの)=よく寝る動物の意
 ●ネエネエと鳴くけもの=鳴き声に由来する説。昔の人は、猫の鳴き声を「ネエネエ」
  と表現していたらしい。「こ」は小さいもの、身近なものという意味の解釈。
 ●「ねけもの」が転じて「ねこま」=これは、あの有名な滝沢馬琴が主張した語源ら
  しい。
 ●寝小魔(ねこま)=よく寝る小さな動物の意。魔は神でも人でもない有情生物を意
  味する原語で、動物の総称にも使われていた。

 ところで猫の睡眠時間はだいたい12~16時間らしい。しかし我が家の猫は測定したと
ころ23時間17分13秒11の睡眠時間で、覚醒している時間はなんと一日わずか47分46秒49
なのであった。
そこでオキシモーラン社の富士五湖駐在員の私としてはその特性を世のため人のために
なる商品開発を思いたった。
 猫の縄張りを示すためのマーキングは尿スプレーと言われ、通常の排尿と違い少量の
尿を垂直な物に立ったまま後方に向かって噴射する行為で、強烈で独特な臭いがする。
そのスプレー液を集め、神聖な富士山の湧き水、キツネノカミソリから抽出したアルカ
ロイドを少々、72時間煮沸攪拌凝縮常温冷却抽出形成方によって純度の高いエキスを睡
眠剤として販売することである。
ヒルティの『眠られぬ夜のために』に書かれている人生、人間、神、死、愛などの深い
思想による安心立命を得ての安眠ではないけれど、アーラヤ識のなかに潜在的に蓄積さ
れた「眠りたい」という己のプラティカルな欲望を誘発させて眠りにいたらしめる薬で
ある。まずは「睡眠障害で一ヶ月の療養が必要」との医師の診断書をもらい、表から姿
を消した辛利氏にさし上げたい。
 人体への薬の治験はどうなされたかと問われれば、富士五湖駐在員の家族が半年間の
実験の知見のうえ、スマホ、パチンコ、アルコール・ニコチンなどの依存症、腎臓、肝
臓、骨髄などの器官の機能を障害するような副作用も全くない新薬であることをここに
証明するものである。
 「深川いなせ大学」の滝沢馬券教授(滝沢馬琴より十五代目)によると、使用後の目
覚めは大穴を当てたときの至福感と、野に自由に遊ぶ仔猫のほどよい疲労感を覚えたす
ばらしい睡眠薬だというコメントを残している。
 関係者からのお詫び、このたび滝沢馬券教授はニャン眠剤を少し多めに使用したため、
それ以来一度も目覚めることなく、笑気ガスを吸引した時のような、幸せそうなアルカ
イックスマイルを口元にたたえて安眠中であります。この後のコメントについては滝沢
馬券氏の長男であり、現在「中山競馬大学」の滝沢馬糞准教授に依頼しています。
  ●価格:小瓶  2,980円(ニャンキュッパ)
      大瓶 11,131.719円(いいおとこ いさみ いなせ いき)まるで
         九鬼周造の『「粋」の構造』の神髄のような値段と評判である。
  ●電話:0120-373-2374(おおいにわだい みなさん ふみんなし)まで、いまか
    ら30分以内に電話を、テレフォンオペレーターを増員してお待ちしています。



オキシモーラン的エイプリルフール-その2

オキシモーラン社による新商品のご案内
◆『明解宇宙語大辞典』の出版
 ところで皆さんは『亞書』というタイトルの本を知っているだろうか。それはギリシ
ャ文字がただランダムに並べられているだけで何の意味も持たない文章が書かれている
本のことを指していて、著者はアレクサンドル・ミャスコフスキーという人物になって
いる。
 そこで少しwikipediaで調べてみると、「亞書刊行會」という会社から出されていて、
Amazonでしか販売されておらず、64,800円という高額で売りだされている。96巻まで売
りだされているが、全て1点ずつしか売り出されていないという。そして国会図書館に登
録されているという。正式名称は『Книга "?"』なのだそうだ。Книга は書
物という意味で、?はヘブライ語で「アレフ」だ。『アレフの書』と訳すことが出来る。
この本は2つの出版社が登録されている。出版社はユダ書院。ユダ書院からは各言語に翻
訳された聖書が出ている。もうひとつの出版社は、りすの書房である。

 さてこの『亞書』には2・3の疑問が生じている。
 ●一つは、書物と言えるかどうかという疑問である。全く意味をなさない表音文字を
  ランダムに並べることに意味があるのか、むしろ構図や記号や模様や装丁など、絵
  としての芸術としての価値があると考えるのか。
 ●二つ目は、国会図書館法第十一章その他の者による出版物の納入の第二十五条に規
  定してあるからその義務をはたしたのか。
 ●三つ目は、一冊64,800円という価格が妥当かと言うことである。
  ギリシャ文字の一字をランダムに単純に並べているだけで、誤字・脱字等の校正作
  業である初校・再校・三校・著者校などの手間がまったく必要ない。また世の中に
  は好事家が百人くらいはいるから一巻発行すると64,800×100=648,000円となり十
  分ペイ出来るのである。ましてや96巻まであるから62億2千80万円にもなるから驚き
  である。

 しかし国立国会図書館は、発売元から聴取を行い検討した結果、郵送された『亞書』
各巻1冊は、頒布部数が少なく、また、国立国会図書館法に列挙された出版物に該当せず、
国立国会図書館への納入義務の対象には当たらないものと判断したため、『亞書』を発
売元に返却するとともに、発売元に支払い済の納入出版物代償金の返金を求めることと
した。
 国会図書館法の「納本制度」とは、図書等の出版物をその国の責任ある公的機関に納
入することを発行者等に義務づける制度のことで、わが国では、国立国会図書館法(昭
和23年法律第5号)により、国内で発行されたすべての出版物を、国立国会図書館に納入
することが義務づけられている。
 納本された出版物は、現在と未来の読者のために、国民共有の文化的資産として永く
保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されるのである。
 そして今回の『亞書』の問題は、「国会図書館に納品して"代償金"(通常、小売価格の
5割に相当する金額 ndl.go.jp/jp/aboutus/dep… )ゲットする詐欺的行為では?」とい
う憶測がなされた結果であるという噂もある。

  いままでの記述は落語における枕にあたる。さてこれから『明解宇宙語大辞典』編纂
の歴史を紐解くとしよう。
三年前に、生まれた三ヶ月ばかりの仔猫が山の下の里村からはるばる登ってきて我が山
荘に居着いた。名をミラノ公ドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ(通称イル・モーロ)
にちなんでその諱を「モロ」とした。 山の奥にひっそりとたたずむ湖水の色のような、
わずかに鈍色の含まれるアクアマリンの色の瞳を向けながら、朝な夕なに話しかけてき
た宇宙語を私は手を抜かず全て収録した。そして母星から送られてくる指令の暗号を解
読することの役目をになったチーフのサカエ・ル・カミノをはじめ「物集班」の力でそ
してそのデータを基に、宇宙語を解読し辞書として編纂に至ったわけである。
  下記は母星から送られてくる「ミッション」の暗号文の一例
  5405401791 9477587214 6324863264 4983412604 8640409293
  1481967000 8996483727 2621990112 1910706012 6312782576
  0210369991 8366476103 5213752153 3872301503 7539398181

 私たちの『明解宇宙語大辞典』は『亞書』の場合と全く違い、無償で下記の図書館に
寄贈することにした。
  国名      名称        (現在の蔵書数+新しく加わる1冊)
日本    :国会図書館             (24,988,176+1冊)
バチカン  :バチカン図書館            (1,100,000+1冊)
アイルランド:トリニティ・カレッジ図書館        (5,000,000+1冊)
フランス  :ビブリオテーク・ナショナル        (10,000,000+1冊)

 この『明解宇宙語大辞典』を目にした「中山競馬大学」の滝沢馬糞准教授は、宇宙語
は皆目分からないが「今世紀の大穴を当てたようで、とてもすばらしい」と、意味不明
の評を書いて絶賛していたと聞く。

参照:「物集班」のメンバーは下記の小説『無限回廊』のなかの第一回の登場人物のな
   かでで紹介されている。
    http://2style.in/alpha/0-0.html

    






2015年

エイプリルフール



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、
オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
   「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行
  う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、世界的
  な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎えさせる最終
  兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイター」等、世界
  の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決してきたことから鑑
  みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取らない立派な会社であ
  ると言える」と述べている。
     参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
                          http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい
商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、
「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいて
いの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると
病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしてい
て、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。
刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認する
ヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
    第 1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で
             ある。
    第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的・
             経済水域はウスライナ人が所有権を有す。
    第14条 :土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権
       は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ
       とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰
属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一
国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の
運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人
になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地
球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たさ
れているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識
や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念で
ある。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。
それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと
思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の
「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を
兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能
力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。
オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産
することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。

  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
    2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
    3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
    4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)
の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星人とし
て認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服
すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデア
を募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」
「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に
備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道に
もとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の
被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の
地下室の「ペルソナ-異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート
・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純
である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、
即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通
りである。

  1.住民はリラックスして睡眠状態になる
  2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね
   て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
  3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと
   ができる
  4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール
   弾」の影響下に置く
  5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたらした。

虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年
  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の
  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チュ
  ネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事がみ
  られたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用としてインド
    に売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優秀な紛争
    終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩せやしない
    だろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収めることはま
    ことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む思
    いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガード
    下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・ボール
  弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争には必ず購
  入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に煽っていた。
    という記事を暴露した。

    参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ-異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
                          http://2style.in/alpha/27-7.html









原文


2015年

オキシモーラン的エイプリルフール-



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
   「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで
    行う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、
  世界的な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎
  えさせる最終兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイ
  ター」等、世界の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決し  てきたことから鑑みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取ら  ない立派な会社であると言える」と述べている。
     参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
       http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいていの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしていて、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。 刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認するヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
    第1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で             ある。
    第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的経             済水域はウクライナ人が所有権を有す。
    第14条  :土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権             は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ             とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たされているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念である。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。
  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
    2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
    3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
    4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
  「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星   人として認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデアを募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」、「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道にもとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の地下室の「ペルソナ-異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通りである。
    1.住民はリラックスして睡眠状態になる
    2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
    3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと ができる
    4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール弾」の影響下に置く
    5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたら した。

 虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チ  ュネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事  がみられたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用として  インドに売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優  秀な紛争終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩  せやしないだろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収  めることはまことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む  思いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガ  ード下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・  ボール弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争に  は必ず購入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に  煽っていた。という記事を暴露した。

  参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ-異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
      http://2style.in/alpha/27-7.html

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岩を抱く木々、寄り添う木々

 投稿者:α編集部  投稿日:2015年11月 1日(日)15時55分22秒
  .

      岩を抱く木々、寄り添う木々 2014-2015



山林の形態その1
2014.6.26
◆岩を抱く木々
 山の斜面に生えている大木を下の道から見上げると、岩を抱いた木々があることに気が
ついた。初めは何故だろうと不思議だったが、よく考えるとある理屈でそのような情況が
生まれたのだと推測した。この辺りの山は大きな岩や小さな点石で成り立っていて、その
周りを長い間の落ち葉が積もり腐葉土をなしている。まだ発酵していない湿った木の葉に
足を踏み入れると、踝(くるぶし)まで沈む位ふわふわと層をなしている。木々にとって
は栄養豊富な山土だといえる。

 その石は明らかに富士の裾野に点在する溶岩とは違い、色は灰色で密な硬い石である。
二つの石の違いが気になって、町の教育委員会に質問してみたら、富士山の石はマグマが
直接地表で固まった火成岩で、私の山荘のある山は海底や川底に堆積した水成岩で、地殻
変動で隆起して山になったということであった。
 更に詳しく調べると水成岩の一種である粘板岩ということが判明した。粘板岩は英語で
スレートと言うくらいだから、当然日本の杮葺(こけらぶき)のように屋根葺き材として
西洋で使用する。また山梨県南巨摩郡の富士川沿いでは雨畑硯(あまはたすずり)という
硯が製造されていることからも、富士山の噴火によるのでなく富士川の堆積により形成さ
れて隆起したという、この山荘の山の成り立ちが分かって成る程と納得した。

 ところで石を抱く木々の謎はどういうことなのか。それは秋になって赤松や椚や木楢や
楓の実が落ち、斜面を転げ落ちてきて留まれるところが石と土の窪みということであろう。
そこで発芽したそれらの木々が数十年と育つうちに石の周りを根で覆い、遂には石を抱い
た形が出来たという訳だろうと推測した。そしてもっと時が経つと石木の力で砕石にひび
を生じさせ、水の凍結によって砕け散る結果の形態が認められるのである。
            続く


山林の形態その2
2014.6.28
◆寄り添う木々
 山の木はある一定間隔でしか成長しないだろうと思い込むが、実際は5メートル以上離
れて育っている木もあれば、狭い範囲に犇(ひし)めいている木々もあり、人工植林でな
い限りその間隔はランダムと言ってよい。岩を抱く木々の話には面白いもう一つ話がある。
 石と土の窪みに山から転がり落ちてきて定着する実が必ずしも一種類とは限らず、同時
に数種類の木々のものが同じ場所で発芽することになる。しかし大きく育つには数々の厳
しい条件をクリアーしなければならない。それに打ち勝った赤松、木楢、楓、橅、杉など
の二種類の木の組み合わせで育った大木が、まるで同根のように寄り添って育っているの
をよく見るのである。

 だがよく観察するとその組み合わせがどんな種類でもいいかと言えば決してそうではな
いらしい。赤松と木楢、楓、橅、杉の組み合わせは多い。しかし樅の木とのペアーは見た
ことがない。どうも樅の木と他の木とは相性が悪いらしい。セイタカアワダチソウやサル
ビアのように地下根から特殊な物を分泌してほかの植物の種子から芽の出るのを抑えた
り、根の成長を妨げたりしするといわれるように、樅の木もまた他の木々をそのような手
段で駆逐するのだろうか。
 その理由として一つ思い当たることがある。赤松をはじめ木楢や楓や椚は総じて太陽
の光を独り占めしてしまうほどの葉張りと密度において、茂らないと言える。だからお
互いにその太陽の光を譲り合いながら育つことができるのではないか。

 その一方で樅の木は樹形が黒く見えるほど密に葉を茂らせ広がり、しかも冬でも葉を落
とすことなく成長するから、太陽の光を分けてもらえない他の木々は寄り添うように育つ
ことが出来ないという理由ではないか。
 そのような樅の木は他者を寄せ付けない強さで、山の中で一人勝ちしているように見え
る。しかし、木の肌や色や葉型の違った異種の木々が寄り添って大木に成長しているのを
見ると、長い年月を苦労しながら添い遂げているような人々の生き様に見えて、ほほえま
しいく思えてくるのである。


      岩を抱く木々/寄り添う木々を読んで 2014.6.29 万理久利
      同人誌に寄稿する作品は人の心の微細な動きを追ったり、つかみ所の無い人
      間の心を描いたり、自然をさらりと歌いあげたりと純文的な匂いがプンプンす
      るものが多いのですが、時として猫の目の大きさを取り上げ顔に対する比率を
      出してみたり、そのジャンプ力を人間のそれと比較して数値で表したりと、科
      学少年らしい実験と分析をこの著者は猛然とやり始めるのです。そして今回は
      住まいの回りの木々をじっと眺めて分析を開始したようです。

       読んでいてふと寺田寅彦の作品が思い浮かびました。昔学校の図書館で宇宙
      旅行ものと並んで借りまくった本です。身の回りのものを科学者らしい目でや
      さしく、短く解き明かしていくのが何よりも面白かった。懐かしくなって青空
      文庫で久々に寅彦の作品を数点読みふけりました。「化け物の進化」「科学と文
      学」「数学と言語」どれもなんとなく相対する言葉が並ぶタイトルですが、相
      違点と同時に共通点も取り上げています。昔はただひたすら科学的な解き明か
      しが、爽快な気分を引き出したのですが、今寺田の作品を読むと、彼がただひ
      たすら、科学万能主義で生きてきたのではないということに気づかされます。
      そして彼の語る世界は本人が意図したかどうかは別として、古今東西共通の人
      間世界のことでもあることも。

       岩を砕く木々も寄り添う木々もこれまた自然界のこと、そして自然の一部で
      ある人間世界のことでもあるわけです。身近なところにたくさんの不思議不思
      議が転がっています。
      不思議を自分の頭で解き明かそうとすることと、言葉を使って何か/作品を
      創造していこうとすることとは、共通の要素があるあるようにも思えます。
      世の中不思議だらけですが、私にとって一番不思議なのは人間かな?
      一番身近であるはずの自分自身かな?



山荘便り
2015.10.31
 「寄り添う木々」という題をつけて山荘便りを書き始めた。山の中を散策していると普
通では思いもつかない現象を目にすることがある。一般的に考えると数十メートルにおよ
ぶ木々が全く近接して生えるとは想像もしない。都市部での造園家による公園の大木の植
栽はほとんど三メートルから五メートルの間隔を空けているようだ。しかし自然界にはそ
のような常識では考えられない植生がしばしば見られるものである。最初に気づいたのは
山荘から五十メートルばかり西に歩いた道路脇に、同じ根元から赤松の大木とブナの大木
が寄り添って生えている。ぼんやりと歩いているとその奇妙さには気がつかないのである
が、株立ちしている二本の木の肌や葉の形状に違和感を覚えて注意して観察した結果判っ
たものである。
 だが待てよ、異種の木々が抱き合うように生えているのは、以前に書いた「岩を抱く木」
と同じ理由であるということに思い当り、その文を探してみた。2014年の6月26に「山
林の形態その1」で「岩を抱いた木々」をその二日後に「寄り添う木々」というそっくり
な文を既に書いているではないか。私もいよいよシナプスやニューロンの働きに陰りが見
えてきたようである。
 同人α44号の竹内氏の作品である「生命」にでてくる、シュレーディンガーの「生物
は負のエントロピーを食べている」という言葉に、言い得て妙だと思った。この世界の物
質は放っておくと確実にエントロピーの増大、即ち無秩序の世界に向かうという。
だから生物は生きるために常に秩序を保つように努力しなければならない。
 山荘便りに書いたように日々のルーチンワークも毎日の規則的な精神や肉体のリズムを
つり、エントロピーの増大に抵抗しているといえる。またそれが生きているということで
あろう。「負のエントロピー」を食べれなくなったとき死に至るということだ。
 だから毎日を高齢だということで、後は残りの人生、余りの人生とばかりに時間つぶし
に無気力に自堕落に生きることは「負のエントロピーを食べれなくなった」ということで、
そろそろこの世におさらばするときが間近いのではないか。

 最近「寄り添う木々」についての追体験をしたことだが青木ヶ原の鳴沢氷穴の近くの国
道139号線沿いの歩道の真ん中に、「やどりぎ」という表札のついた珍しい木が柵に囲ま
れたなかに立っている。そのため歩く人はその囲いを迂回して通らねばならない。
 樹齢300年といわれる「みずなら」の親木に、五葉松、こめつが、ひのき、あせび等が
寄生していて、六種の木々が同棲している。しかしこの木々は「やどりぎ」のように親木
から栄養分を奪う、いわゆる寄生樹ではなくそれぞれの木々は自力で光合成して生きてい
るのである。だから「やどりぎ」という言葉は当てはまらないので、家族以外の人達が同
じ屋根の下に暮らしているのを「同居人」というごとく「同居木」と言うべきだろう。そ
れにしても樹木はなんと「負のエントロピーを食べる」術に長けているのだろうかと驚く
ばかりである。だからといって数千年も生きるのはちょっとしんどいことである。

3938

 

エイプリル・フール2 2015~

 投稿者:α編集部  投稿日:2015年 4月 1日(水)21時33分54秒
編集済
                                               .
     エイプリル・フール2015~



      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。




2015年

エイプリルフール



 メン・タン・ピン大学サイエンス評論学科の門前雀羅(もんぜんじゃくら)教授は、
オキシモーラン社にたいして次のような高い評価を与えている。
   「我が国には物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行
  う国際的に高い研究業績と知名度を持つ独立法人・理科学研究所がある一方、世界的
  な研究成果の量はともかく質においては、侵略国の攻撃意欲を完全に萎えさせる最終
  兵器「リターン・パス」および、夢のような永久機関「パワー・イイター」等、世界
  の存続にかかわる戦争やエネルギー問題という重要な案件を解決してきたことから鑑
  みると、研究の質においてはけっして理科学研究所にひけを取らない立派な会社であ
  ると言える」と述べている。
     参照:「リターン.パス」「パワー・イイター」 「無限回廊」第十回掲載
                          http://2style.in/alpha/33-7.html
 そこで今日社員であるキメラ11号は、特別みなさまにオキシモーラン社のすばらしい
商品である「スカウター」及び「ニート・ボール弾」の二つを紹介したいと思っている。

◆スカウターについて
 先日鳩闇憂気終(はとやみ ゆきお)元首相がウスライナのクリノミ半島を訪問し、
「オロシアのクリノミ編入問題」について肯定的な意見を述べたと伝わってきた。たいて
いの政治家は非難されると「真意が伝わっていない」と釈明して、それでも不利になると
病院に逃げ込むのであるが、当の元首相は豆鉄砲を食らったようないつもの表情をしてい
て、一向にその行為の重大さに気づいたようすも、恥じたようすもないようだ。
刹那的であったとしても、かりそめにも世界の冠たる成熟した法治国家であると自認する
ヤバン国を行政の長として治めた偉い人なのだ。
 参考としてウスライナ憲法を見てみると
    第 1条 :ウスライナは主権国家であり、独立した民主的かつ社会的・法治的国家で
             ある。
    第13条 :鉱物資源・空気・水及びその他天然資源、領海内の天然資源かつ排他的・
             経済水域はウスライナ人が所有権を有す。
    第14条 :土地は国の特別な管理下にある、基本的な国の財産である。土地の所有権
       は認める。国民がその権利を法の範囲内で個人及び法人・国と取引するこ
       とは認める。
 しかしウスライナ国の一部であるクリノミが住民投票の結果独立宣言をしオロシヤに帰
属すると宣言した。これはウスライナ憲法、そして国際法上に違反していると思われ、一
国としての主体性の崩壊につながりかねない大問題なのだ。
 だがクリノミ紛争から見えてくるのは、政治的なものだけではなく今回はもっと地球の
運命に関わる重大かつ深刻な問題といえるのだ。元首相は身内からも「遂に本物の宇宙人
になった」とあきれられたという話を聞く。それが真実とすればこの世界の至る所に、地
球の良識を混乱させて征服しようとしている人間になりすましたハトポッポ星人で満たさ
れているのではないかと思われるふしがある。そして彼等は地球人の知らないうちに知識
や芸術や経済等の主要な地球の文明のシステムを牛耳っているのではないかという疑念で
ある。
 そこでオキシモーラン社により開発された有力な最先端科学製品がスカウターである。
それはかの有名なアルセーヌ・ルパンが使用していた片眼鏡(モノクル)のようなものと
思っていい。そのスカウターの旧式のものは、「ドラゴンボール」に登場する異星人の
「フリーザ」および彼の部下の「ギニュー陸戦隊」が使う、通信機能と生命体探索機能を
兼ね備えた装置で、片耳に取り付け付属する半透明の小型スクリーンに、生命体の戦闘能
力を数値化した情報や、その対象への方角や距離が表示されるという情報機器なのだ。
オキシモーラン社はその優れた機能をさらに改良してより強力なスカウターを開発、量産
することに成功した。・・・でその付加された機能は下記の通りである。

  1.人の姿をした異星人を簡単に見分けることができる
    2.異星人の嗜好及び思考を簡単に解明することができる
    3.異星人の肉体的、精神的な弱点を簡単に知ることができる
    4.異星人の心を簡単にコントロールすることできる

 しかし完成度は高いがただ一つの問題があるということを、虚報真報(きょほうしんぽう)
の主筆である滝沢馬券氏により暴露された。
「もし異星人が不法な手段でこのスカウターを手にし使用した場合は、人間を異星人とし
て認識した異星人は、人間の弱点をつぶさに知るところとなるだろう」と。

 オキシモーラン社はこの指摘を真摯に受け止め、引き続きこれからの重大な課題を克服
すべく努力を惜しまないが、同時に地球人・異星人を問わずみなさまの忌憚ないアイデア
を募りたいという声明をだした。

◆ニート・ボール弾について
 今、世界の諸葛孔明を自認する優秀な軍師達を悩ましているのは、中東の「イスラミ国」
「シルヤ」「イクメン」などの紛争がある。しかし無法者の彼等が敵による空爆や突入に
備えて民衆を盾として大都市に立てこもり抵抗している。そのようなイスラミ国の人道に
もとる強固な体制を崩すのは容易ではない。投下する味方の戦力は限りを知らず、民衆の
被災や都市の破壊などの犠牲が大きすぎる。
 さてここでオキシモーラン社の委託を受けた「物集班(もづめはん)」は、本郷冷熱の
地下室の「ペルソナ-異界&ラボ」ではひとつの有力な兵器を開発した。それは「ニート
・ボール弾」である。作り方は企業秘密が多くてここでは明かせないが、理論は実に単純
である。敵が人質をとって立てこもっている場所に「ニート・ボール弾」を打ち込むと、
即座に町全体にバリアーが張られ、内部にニートガスが満たされる。その効力は下記の通
りである。

  1.住民はリラックスして睡眠状態になる
  2.戦力を喪失し、「AK-47、通称カラシニコフ自動小銃」でさえその重さに耐えかね
   て、自動的に武装放棄したイスラミ兵を捕虜にできる。
  3.住民のニート・ボール弾による症状は解毒剤によって24時間以内に元に戻すこと
   ができる
  4.イスラミ国の兵は二度と過激な精神にならないように、継続して「ニート・ボール
   弾」の影響下に置く
  5.世界中のニートの若者から提供された「ニート精神」が紛争地域に平和をもたらした。

虚報真報の主筆 滝沢馬券氏のコメントによると
  前の4項目にくわえて、無気力なの若者からニート精神を削除して、見事に勤労青年
  に変えたという効果は、平和な地球を作り上げる目的にかなうもので、一石五鳥の
  「ニート・ボール弾」の発明は実にすばらしいことである。
  しかしこのような白兵戦のための最終兵器と言えるものでも問題はある。今日、チュ
  ネジアは国境警備で必要な暗視車の提供をヤバン国に要請という虚報真報の記事がみ
  られたが、これは武器ではないのか。海上自衛隊の飛行艇US-2は救難用としてインド
    に売られるのだがそれでいいのか。しかし「ニート・ボール弾」がいかに優秀な紛争
    終結のための武器であっても、ヤバン国の「武器輸出三原則」の理屈を崩せやしない
    だろう。だから世界中が欲しがっても供給することは出来ず、紛争を収めることはま
    ことに難しい。
   また、一昨日の白兵戦で親族の「情」による攻撃を「理」でもって、薄氷を踏む思
    いでかわした「かごや姫」は、イヤヤかニタリ製かいまさらどうでもいいが、ガード
    下の一杯飲み屋の不安定な椅子に腰を下ろしていた。そして国内で「ミート・ボール
  弾」を使用することは違法でないだろうから、次回の「犬塚家具」の紛争には必ず購
  入して会長にぶつけてやろうとこっそりつぶやいて、60°の泡盛を一気に煽っていた。
    という記事を暴露した。

    参照:本郷冷熱の地下室の「ペルソナ-異界&ラボ」 「無限回廊」第四回掲載
                          http://2style.in/alpha/27-7.html

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標本箱2 春夏秋冬

 投稿者:α編集部  投稿日:2015年 3月31日(火)19時18分4秒
編集済
  *戯評の投稿記事です
*題は編集部作成
*一部名前を変えています

主要キャスト ダンス棘 ドクロシニン ドイツベルギリスふりん ブタ 海馬タコ海馬女(白痴) おじいちゃん万歩計




【五月蠅い奴ら】
◆おーまん:「あるわがまま」出しっぱなし、そのうちあるがままの姿で街を闊歩するぞ
◆万歩計 :作品の分析をしまくるが、みるべき解釈や真意の組み立てはできない
◆イモジン:ヴァイオリン、カントリーダンス、TOEICはどうした
◆パクチー:奉仕活動のためなら何でも、どこへでも顔を出す
◆寒痺痲 :食い物の話、通俗小説の話、毒にも薬にもならんことをよくしゃべるよ
◆冬の風鈴:「日本の負債-120」などのコピペに生き甲斐を見出すほかはない孤独な爺々
◆シニン :中央アルプス、ボボワールなどと間違ったことを平気で言放つ育ちの悪さ

こう並べてみると、みなさん言いたい放題、結果は期待できない連中ばかり。
「じこちゅう」
中毒症状最終段階。要強制排除、要強制入院。





【夏のお化け大会のおしらせ】
おとげ、シニン、万歩計、トド、シャフラー、フェイク、げてげて、うそたんと豊富なキ
ャラクターが揃いましたので、恒例のお化け大会を7月17日馬込宿で開催します。怖い
もの見たさの貴方に是非参加いただき、その醜悪さをご鑑賞ください。なお先着10名さ
ままでは無料です。





【漫画のお邪魔虫たち】
鳥干、万歩計、風凜、シニン等のお邪魔虫がよく揃ったな。
ほとんど共感を得ない文章ばかりだ。これにトド、トド女
珍封痔が加わったら、俺発狂しそうだ・・・。とくにシニン、
トド、珍封痔の三人は爬虫類のようで、生理的な嫌悪感を覚え
しかたがない。


【流行もの「漫画狂」】
ここではずっと前から住民説明会での電力会社のヤラセメールのようなことがたくさんみ
うけられた。自分の投稿文を別名でよいしょすることなど朝飯前の輩が、このホームペー
ジを牛耳っているのが現状だ。
今回のブログの投稿に五つも拍手を送るのは、このヤラセをやっているメンバーに他なら
ない。これは低脳漫画、茶番劇だね全く。よく物事の本質を考える人は、そんなこと一発
で見抜くだろう。シニン、万歩計、パクチー、イモ、疹風痔、これで拍手五つ・・・。





【怪物糊塗ランド忘年会】
怪物ランドへようこそ!! フェイクな珍獣ばかり出演させています。
◆おとげ:その場その場の感覚が一番大事とする主観主義の女王。観衆の前では素っ裸を
 も辞さない露出狂。
◆シニン:自説を正当化するためには、人を貶め嘘も吐き通す育ちの悪さ。
◆万歩計:ボランティアなどに参加して、優しさを演出しているが、内に凶暴な闘争心、
 猜疑心を内包する。
◆辛封痔:文も絵も音楽もフェイク人間。真実が何かは問うたことがない。
◆何やびと:不利な事実は知らぬが仏の役人根性に満ちた人生。
◆げてげて:怪物ランドの太鼓持ち。
◆イモジン:どうしょうもない、気色悪い爬虫類の出来損ない。
◆ヒモジン:イモジンの性悪さにも気づかないバキューム・ヘッド。
◆くそたん:どうもよくわからん、首も出し切らん無害すっぽんもどき亀。げてげて太鼓
 持ちの助手。
*2011

3427

 

純文学と大衆文学

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 9月26日(金)08時32分53秒
  .

                純文学と大衆文学   2007-2010



「肥と筑」の感想

bird・brainの私が「肥と筑」をものにする巨像のような作者の頭脳に対峙するのに、どの
ようなスタンスを取るべきかいまだに決まった見解を持ち合わせていないのである。そこ
で連載の途中だからといって物事の結論を先延ばしにするという私の得意の奥の手を使い
たいのだが、皆さんの努力を見るに付けそうもいきません。逃げることも問題を処理する
方法として一つの文化であるという社会も世界には存在するという本(危機のモラル マ
レクラ島のフィールドから 船曳建夫著)を読んだことがあるが、ここで放棄することは
編集に携わる者として許されるものではないと思った。そこでMさんや、長岡さんの手法
に習って、正面からでなく搦め手から迫ろうという魂胆であります。

◆ さて文学とはどのような芸術の範疇に入るかと調べてみると、次のように分けること
  が出来る。
  1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術
    の総称。すなわち、音楽、文芸など。
  2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられ
    て、人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なも
    のに建築、彫刻が含まれる。
  3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調
    和した形式で表出される芸術。すなわち、舞踏・演劇や映画など。

◆ そこで「肥と筑」が論文か小説かということが話題になっているが、小説とはなんぞや?
  小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随想や批評、
  伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。なお、英
  語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり
  もともとラテン語で「新しい話」を意味する。

◆ 小説は次のように分類される。
  <長さ・発表形式による分類>
   短編小説・ショートショート・中編小説・長編小説・連載小説
  <内容による分類>
   私小説・恋愛小説・青春小説・冒険小説・歴史冒険小説・秘境探検小説・海洋冒険
   小説・推理小説(ミステリー、ミステリとも)・サイエンス・フィクション(SF)・
   ハードSF・スペースオペラ・サイバーパンク・スチームパンク・ファンタジー(幻
   想小説)・ライトノベル・ホラー小説(怪奇小説)・怪談・歴史小説・時代小説・伝
   奇小説・武侠小説・児童文学・童話・絵本・官能小説(劇画系,美少女系,耽美系
   などに分かれる。)・教養小説・鍵小説・企業小説・経済小説・政治小説・ゴシッ
   ク小説・スパイ小説・大河小説・心理小説・芸術家小説

◆ ついでに純文学と大衆文学の区別は
  小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
  が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
  芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
  小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
  うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
  分けて考え るのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

さて結論として「肥と筑」は歴史的資料を扱っているが純然たる論文ではなく、登場人物
に語らせるという散文で作成された虚構の連載物語でもあるが史書でもある。だからから
小説が伝記、史書と対立するものであるという定義があるゆえに複雑だ。それは私の書い
た「歪んだ風景-異星人」のように言葉遊びに徹すればそこに描かれている内容はぼやけ
てくるし、内容を重視すれば言葉遊びは余計なものだというジレンマは常に作者に付きま
とうわけだ。一方読者の好きなように解釈すればいいとばかりに開き直ることも出来るの
だが、「肥と筑」の作者は物語と史実のどちらに重きをおくのか、それとも両方をと意図
しているのであろうか。両立出来るものを見事になしたとき長岡氏の頭脳は一層輝きを増
すだろう。
2007/12/21 (旧α掲示板)




小林秀雄全集第四巻 P226

 今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬ。
2008/4/12  (窓辺にて)




「白暗淵(しろわだ)」を読む

◆古井由吉の「白暗淵(しろわだ)」を読み終えた。「東京大空襲」の記憶を縦糸に「音]
  を横糸にしてつづられた短編集で、表紙には次のような言葉が書いてある。
 静寂、
 沈黙の先にあらわれる、白き喧噪。
 さざめき、沸き立つ意識は、
 時空を往還し
 生と死のあいだに浮かぶ
 世界の実相を撮す。
 言葉が用をなすその究極へ-。

◆今日の文学が非常に心理的の傾向を取っていることは周知のことだ。誇張していえば物
 語性は大衆文学に奪われ、思想性は批評家に奪われ、今日の純文に携わる作家は、ただ
 心理性の世界に様々な工夫細工を凝らしめているににすぎぬと小林秀雄がいみじくも言
 っているように、純文はそれしか残されていないのではないかと私には思われる。その
 ような作家は古井由吉を含めた少数しかいないのではないか。
2008/4/25  (窓辺にて)




純文学と大衆文学

◆Kさんの「大衆」の定義をして何を主張したいのかその問題提起の意味がよくわかりま
 せん。「純文学」と「大衆文学」の違いを論じるに、純文学が優れていて大衆文学が劣
 っているようなニュアンスに反発して、純文学を読む人も大衆の中の一人じゃないかと
 いう意味の主旨かと思われます。もし私の解釈が間違っていたらそのへんのところを詳
 しく示して下さい。
 私は「純文学」と「大衆文学」の優劣は、総合的に評価出来る同じ土俵は作れないと思
 っています。面白いものが一番いいという人達、いや難解でも何か考えさせるものがい
 いという人達もいるでしょう。どの観点で評価するかは人様々で、どちらが優れている
 という問題ではなさそうです。

◆「私も結構悪食だったので、昔はいろいろの本を手当たり次第に読みました。その結果
 私の中では優劣はともかく「純文学」と「大衆文学」の区分けらしきものは持っていま
 す。大衆小説と言われている読み物、たとえば内田康夫のミステリー・シリーズなどは
 読んでいる最中は実に面白く時間を忘れるほどです。しかし最後のページが終わるとそ
 の興味は尽き、数日すると最早その内容さえ全く忘れ去っています。場所・人物・状況
 などを単に替えただけのパターン化されたものが引き続きシリーズとなって出されてい
 ますが、そのパターンに気づくと途端に興味がなくなりそれらを二度と読むことはあり
 ません。反対に純文学と言われるものは、なかには美しい表現や情景の物語もあるが、
 没頭するほど面白いものではない。いわゆる苦痛・忍耐を伴うものもなかにはあります。
 しかし、私が「純文学」と思うものには読んだ後でも長い間忘れずに頭に中に残ってい
 ます。夏目漱石の「それから」の代助と三千代が万難を排して「一緒になろう」と誓っ
 た部屋の中に漂う百合の強い香りとか、父や兄に寄宿していた代助が三千代のために独
 り立ちしようと決心して、職を探しに街へ飛び出した時の真っ赤にそまった心象のラス
 トシーンなどなど。

◆最後に、物事の解釈や表現を単に新聞や週刊誌などからの切り売りではなくて、私が考
 えもしていないような解釈や表現や新しい考え方を持つ人には憧れます。私にはもうあ
 まり残された時間もないことだし、その人にしかないをちらりと見せてくれる選ばれた
 作家・書物に出会えることを願いたい。
2008/7/26    (旧α掲示板)




文芸時評-「結末」の問題-齋藤美奈子

 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいかに
描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定義を
思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前でト
ンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
2009/3/25   (窓辺にて)




北 君

仕事に忙しい中、感想有り難う。このような長い読後感を書いてくれる所を見ると、時間
的にも少し余裕が出来たようですね。
君の言う通り村上春樹はストーリーテラーとしては第一級の作家と思われます。確かに自
分探しと謎の解明という筋の展開の巧さで最後まで読ませますが、読者の生き様に対して
の意味合い・インパクトがないと僕も読んだときにそう思いました。これは今まで読んだ
村上春樹の小説全般に言えると思います。純文学と通俗小説との間の微妙な位置にあるよ
うな気がして、文学少年・少女に受けるのは判るような気がします。
2010/2/14 (窓辺にて)




佐伯一麦

◆佐伯一麦著の「木の一族」を読んでから、私小説の書き手として私は昔から彼に一目
 おいていました。このたびの「誰かがそれを」のなかの「ケンポナシ」はこの木の話
 だけで28ページにわたって書き、「誰かがそれを」では夜中に聞こえてくる訳のわか
 らない気障りな音について38ページを費やしている。これが純文学の世界なのであろ
 う。今回は以前の評価と違って私にはちょっと批判的な印象が残った。それは個人の
 好みの問題だろうが、この物語のリアリズムは想念の世界の夢や美や謎などの知的な
 好奇心をくすぐるものがないのが不満に思えました。
 と言うことは私はエキゾチスム・神秘主義・夢などといったものや、抑圧されてきた
 個人の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩などを記述しようとするロマン主義的な傾向を
 もつということでしょうか。
2010/6/25

2696

 

エイプリル・フール2

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 8月12日(火)11時45分14秒
編集済
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     エイプリル・フール  




      赤松次郎にとって4月1日は何か特別の日のようだ。
    いい嘘も、悪い嘘もともにつけない(つかない)氏にとっては
        どこか開放された一日となるのかもしれない。





2009 年

エイプリル・フール

 今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアの
ある罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。

 Wikipediaで調べると
エイプリルフールは、日本語では「四月馬鹿(四月バカ)」、漢語的表現では「万愚節」
または「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)
と呼ばれる。なお、日本では4月1日は、「日ごろの不義理を詫びる日」だった。
イスラム教においてはこの習慣はコーランに著しく反しているため、強く禁止されている
エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの
習慣が始まったかはわかっていない。有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確
証が無いことから仮説の域を出ていない。

* その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが
 1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した
 人々が、4月1日を「嘘の新年」とし、馬鹿騒ぎをはじめた。
 しかし、シャルル9世はこの事態に対して非常に憤慨し、町で「嘘の新年」を祝ってい
 た人々を逮捕し、片っ端から処刑してしまう。処刑された人々の中には、まだ13歳だっ
 た少女までもが含まれていた。
 フランスの人々は、この事件に非常にショックを受け、フランス王への抗議と、この事
 件を忘れない為に、その後も毎年4月1日になると盛大に「嘘の新年」を祝うようになっ
 ていった。これがエイプリルフールの始まりである。
 そして13歳という若さで処刑された少女への哀悼の意を表して、1564年から13年ごとに
 「嘘の嘘の新年」を祝い、その日を一日中全く嘘をついてはいけない日とするという風
 習も生まれた。その後、エイプリルフールは世界中に広まり、ポピュラーとなったが、
 「嘘の嘘の新年」は次第に人々の記憶から消えていった。

* インドで悟りの修行は、春分から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じること
 から、4月1日を「揶揄節」と呼んでからかったことによるとする説もある。

* 日本で、エイプリルフールが広まったのは「パチンコの負けをごまかすためにこの日に
 スリにあったと嘘をついた者がいた」ためとする説があるが、パチンコのない時代から
 この日に嘘をつく風習が記録されており、これ自体がエイプリルフールの可能性がある。
 さて、いままで私の嘘を思い返すと、仕事に行き詰まったから暫くの間姿を隠す、探さ
 ないでくれと言ったFAXを友人に送り旅行に出たことがあった。人に大して迷惑を掛
 けないようなこのての嘘をいくつかついたが、結果的にはその嘘が誠となったことであ
 る。 だから今年は「二億円の宝くじに当たった」、「絵の公募展で特選になった」、
 「屋敷から金の鉱脈が見つかった」、「芥川賞にノミネートされた」、「いままで知ら
 なかった叔父さんから遺産相続の話が湧いてきた」とか、いろいろ現実にはあり得そう
 もない、しかし真実になってくれと願う妄想を考えつくのだが、さてそれを信じる友人
 がいそうもないのである。信じてくれなければこの遊びもまったく面白くない。やはり
 世相にあった暗い話題が真実味があって、信じてもらえるのだろうか。その様な嘘がま
 た真実になると困るから、今年は嘘をつかないことに決めた。

            





2011年

エイプリルフールに語る真実

  ◆宇宙語を解読できた。
  ◆今日最後の乳歯が抜けた。
  ◆今年は嘘をつかないことにした。
  ◆29回目の転居を目論んでいる。
  ◆人生の意味がやっと判った。
  ◆今日は一度も呼吸をしなかった。





2012年

エイプリルフールに語る真実

◆今日から太陽は西から昇る。
◆今日から逆さ時計を採用する。
◆今日から嘘をフィクションと呼ぶことにする。
◆今日から饒舌をやめ沈黙に徹しよう。
◆今日からひけらかしと自慢で紙面を満たそう。
◆今日から天国への階段を組み立てよう。





2013年

えいぷりるふーる

◆アメリカ国防省から急遽、青森県三沢空軍基地、神奈川県横浜海軍基地、沖縄の米軍基
 地防衛のための最終兵器「リターンパス」の設置依頼が、「無限回廊」物集班に寄せら
 れた。しかしこれは武器輸出三原則に抵触するのではないかと迷っている。

◆甲子園を沸かしている高校野球の決勝戦に覆面の豪腕投手が投げるという噂がある。
 時速200kmを出すというが、アンドロイドではないかとか、スーパー・サイボーグで
 はないかと疑われている。しかし改造人間であるとすれば、その肉体的な能力の補強は
 どこまで許されるのか。インプラントによる歯の矯正は?強力レンズ眼鏡による視力ア
 ップは?催眠によるマインドコントロールは?

◆遺伝子操作による新種の大根が発明された。それによると大木の枝にぶら下がって成り、
 秋になり木枯らし一番が吹くと適宜に乾燥し、そのまま漬け物樽に漬けることができる
 という。

◆本郷冷熱の地下ラボでは、早春になると大陸から黄砂やPM2.5などの有害物質が日本
 の空に偏西風に乗ってやってくるから、地球を反対回りにする研究を進めている。もう
 すでに完成まで79%に達しているから、近日中に太陽が西から上がる、すなわち偏東
 風が吹き有害物質はヨーロッパに向かうことになるだろう。

◆今国会で健康被害による喫煙をなくし医療行政の圧縮を試みるために、「禁煙した人に
 は」月額1万円の禁煙手当を支給するという法律を作った。しかし今まで吸っていなか
 った国民が続々と喫煙を始めたので大騒ぎになっている。




2014年

オキシモーラン的エイプリルフール-その1

◆STEP裁縫
 作成に当たっては機械を用いる場合と手仕事の二つがある。今までない物質と模様を合
成させて、あらゆる形態に変化できる画期的な発明だ。 これをSTEP裁縫と呼び、ちなみ
にSplender Time of Ending  Peace の頭文字をとってSTEPという。意味は複雑すぎ
て一般の人に分かるように説明することは困難だという。科学誌ネ-チャンに掲載される
も、世界中で三人しか理解出来なかったといういわく付きの論文だ。
 遠都大学(とうとだいがく)の滝沢馬券(たきざわばけん)教授のコメントによると、
世界の三大発明の一つという歴史に残る素晴らしいものだが、私には難解すぎて皆目判ら
なかったことを告白しなければならないと語った。


オキシモーラン的エイプリルフール-その2

◆フジノミヤ独立
 我々不二山に隣接する市町村のフジノミヤ最高議会は住民投票の結果、99%の賛成票を
得て、オソロシヤ憲法第8章に基づきここにフジノミヤ独立を宣言する。ただし公海に面
していないので、外交および防衛問題についてはオソロシヤの憲法のもとになされる政権
の意思決定を遵守する。

主旨
  不二山は古来より国土の中心に位置し、かつ周りに山々を従えない独立峰で、国では
 一番の高さをもつひときわ美しい姿をしていて、まさにオソロシヤの象徴としてふさわ
 しく、また全国民の心の故郷である。
  しかし近年心無い観光客による霊峰不二山へのゴミ投棄や山菜盗伐など、またオソロ
 シヤ軍隊による山肌への砲弾の撃ち込みなどの不敬行為が目に余るようになった。而し
 て世界遺産に登録されたこともあって、その霊峰不二の自然と威厳を守るために住民の
 悲願として、ここにフジノミヤを国として成立させた。

行政上の基本事項
 1.国名 :フジノミヤ国
 2.宗主 :木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)
 3.公用語:仮名まじり漢字 準公用語:宇宙語
 4.通貨 :モロ (7,11,13,17,19進法のうちどれか未定)
 5.入国に関しての規制:入国交通料、霊峰参拝券そのた環境維持のための費用
  (これに違反したものは10倍かえしの反則金を徴収)
 6.その他:食料、飲料水、酒等の持ち込み禁止
       観光案内はフジノミヤ国の資格を得たフジノミヤ在住の案内人を雇うこと
       入国時には霊峰不二山に向かって必ず二礼二拍手一礼すること

参考:オソロシヤ憲法第8章(地方自治について)
 地方自治の本旨は以下の2点からなる。
 住民自治-住民自らが地域のことを考え、自らの手で治めること
 団体自治-地域のことは地方公共団体が自主性・自立性をもって、国の干渉を受けるこ
 となく自らの判断と責任の下に地域の実情に沿った行政を行っていくこと。




       事情説明 投稿者:鳩園潤子 投稿日:2014年 4月 1日(火)19時11分


            「オキシモーラン的エイプリルフール」 事情説明

                          平静一念 四月一日
                          医療法人「都一会」看護師長 鳩園潤子*

       前略

        赤松次郎こと本郷冷熱 本郷淳吾社長*は、前回富士山麓「都一メンタルクリニック」
       を追い出されて以来、途方もない妄想にとりつかれていました。一時期ネヴァーマリッ
       ジ教入団を希望していましたが、たとえ実の姿が、偉大なるショウ惑星環境大臣とは言
       え、妻子持ちであること、そして何よりひとかけらの嘘や虚飾も許さないという頑強ぶ
       りで教団の統一が危うくなる恐れを理由に丁重に断わられたのを最後に、行方がわから
       なくなったと聞いておりました。姿を消していたと思いきや、フジノミヤ国独立を図っ
       ていたとは、驚嘆のいたりです。

        古くは缶詰「ニチロ」日本海戦、八方領土乗っ取りに始まり、最近では冬期ピクニッ
       クで、フジノミヤはオソロシアへの不信が高まっている地域でありました。未来人本郷
       の知恵をもってすればフジノミア独立はへのかっぱであったはずです。
       フジノミア一帯の猫集団を統括したおかげで猫の手は無尽蔵であり、住民投票にもこの
       猫の手が大活躍したと思われます。猫の一票それでも一票、これが民主主義とやらです。

        思い起こせば、本郷氏は入院中、沈黙の中淡々とタペストリー制作をしていました。
       外見からは想像出来ないほど、手先は器用でした。
       縦糸と横糸が変化し、見る人を次々と新しい世界へと引き込む壮麗重厚な作品、その名
       も「木花咲耶姫」は今でも院内ホール中央に飾られています。
        もうひとつ報告があります。本郷氏が入院中に広め、流通が始まった通貨「モロ」は
       院内の食堂、売店、入院費の精算にも通常の通貨、カードと同様に使用されています。
       通貨計算における11進法適用は、入院患者のメンタル改善に驚く程の効果をもたらし
       ています。 (これは科学誌ネイチャンにも発表されました)

        フジノミヤ自治区の運営に早く飽きて、本郷氏がまた未来のショウ惑星に無事帰還さ
       れることを、院内より秘かに祈っております。
           草々


       *註)鳩園潤子、及び本郷淳吾は、同人誌掲載の『無限回廊』の登場人物である。
          本郷がメンタルクリニックに強制入院させられた話は第十三回に詳しい。
                 (編集部)

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山荘住まい 2013 後編

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 6月17日(火)14時27分33秒
編集済
                                    ,

          山荘住まい 2013 後編



     山の定住生活も2回目の夏と冬。著者は猫と出会うため、そして本を
     読みふけるために移住したに違いない。そう思える。(編集部)




  


山荘便り 2013/ 6/7

梅雨というのに一向に雨が降らない。だから太陽の光は十分満ち足りているにもかかわら
ず、朝夕はセーターとジャンパーが手放せない程肌寒い。標高1000メートル近い高さのせ
いだろうか。 春先山吹がこの辺りを黄色で一斉に染めたが、山荘の蔓薔薇や紫陽花や
ブラックベリーなど、蕾はあるもののその後なんの花も咲かず、ちょっと寂しい。

 最近もう一匹の野良猫が時々庭に訪れるようになった。三食昼寝付きという暮らしを保
証され仕官した我が家の猫、モロが羨ましいのかも知れない。細君はその新参の猫をカト
ーと名付けた。 あのローマ時代の 吝(しわい)な大カトーの名前である。どのような意
味でそのような仇名を細君が付けたのか、私はまだ問うていない。それにしてもモロに顔
や毛並みがそっくりで、兄弟ではないかと思っている。なぜなら体は大きいがモロと喧嘩
するでもなく二匹とも三メートルばかり離れて黙って座っていることが多い。

 私は朝八時を過ぎると屋敷の上の道に出て散歩に出かける。最近は下のテラスか藪の中
にいるモロを上から呼び、 しばらく待っていると黒く防腐塗装を施した木 製の階段をお
ずおずと登ってくる。私がゆっくり歩き出すと三メートルばかり距離を置いて付いてくる
ようになった。前に飛び出したり、藪や他所の屋敷に入り込んだり見え隠れしするのは私
をからかったり試したりなどの遊びの積もりだろうか。散歩に小一時間ほど付いてくると
いうことはモロにとってどのような感情があるのだろうか。人の顔を見分けたり、自分の
志向した自由な意志、記憶などを観察するに、まんざら知能が無いわけではなさそうだ。
兎に角、私と迷い猫とがこのようになるまで三ヶ月ほどの時間が必要だった。しかしまだ
私の膝に乗るまでには至っていない。

(*「猫道」同時掲載)




山荘便り/ウィリアム・トレヴァー 2013/ 6/9

つい先日友人二人から山荘への引っ越し祝いとして高額な図書カードをもらった。
ここ一年間、仕事が思うように受注ができず、本を買ったり旅行に出かける気分に なら
ず参っていたところで、ことのほか有り難かった。
 早速、念願のウィリアム・トレヴァの本を出来るだけ求めて読もうと思った。日本で出
版されているものは八冊で、そのうちアイランド・ストーリーズは昔既に読んでいたので、
後の七冊を本屋に注文した。 ところが「アフター・レイン」「密会」「聖母の贈り物」の
三冊は求めることができたが、後の三冊は絶版でこれから全国の古本屋を探さなければな
らないだろう。

 ウィリアム・トレヴァー(William Trevor, 1928年5月24日 - )はアイルランドのコ
ーク州出身の作家。現在は、イギリスのデヴォン州に在住し、英語で創作活動を行ってい
る。人物の造形にすぐれ、長篇、短篇ともに名手として高く評価されている。イギリスと
アイルランドの双方を舞台に、カトリックとプロテスタントに属する人々の対立や葛藤を
しばしば描く。

Wikipediaによる
ウィリアム・トレヴァは主人公の身の回りに起きる事件を扱うのだが、大げさに描くこと
はしない、日常の誰にでもありそうな出来事を静かに綴っている。特に女性の心の動きや
感覚の記述に長けていて、読後に何かいい知れない問題を読者に与え考えさせるのである。
さっそくアフター・レインという短編集のなかの最初の一遍 「ピアノ調律師の妻たち」
を読んだ。書き出しは「ピアノ調律師がバイオレットと結婚したのは、まだ若いときだっ
た。そして、ベルと結婚したのは年老いてからだ った」というセンテンスから始まった。
ピアノ調律師が盲目であることによる二人の妻たちの複雑な思いの物語が始まる。後妻の
ベルはダフネ・デュ・モーリアの小 説「レベッカ」ほど気味悪い感覚ではないが、ピア
ノ調律師の考えや感覚に先妻バイオレットの影を感じた。それはピアノ調律師が話す訪問
先の様子や遠くの山や景色の色が、今ベルの感じていることと少し違うことだった。たと
えばピアノの調律に訪れた家の印象を調律師は「あんなに陰気な部屋を君は見たことがあ
るかい?
あれは聖画のせいかな?」。それにたいしてベルの印象は微妙に違っていた。突然、ベル
は自信を深めて人がなんと思おうと気にすまいと思った。裏庭の花壇から先妻が植えたバ
イオレットの植物を根こそぎ引き抜き、花壇全部を芝で覆ったのだった。

 この物語はいろいろの問題を含んでいると思った。身の回りの環境や人々の姿形におい
て、盲目のピアノ調律師の認識が若い頃はバイオレットの目や感覚を通して与えられたと
いうこと。前妻の意図した何かがあったのか、それとも彼女の持ち前の率直な感性なのか
判らない。しかし後妻のベルとは違ったもので、彼女はそれがピアノ調律師にもたらされ
た情報が正しいかどうかは別として、自分の目で見たものを語ろうと決心したのだった。
それはまたこの世界にたいする認識が果たして全く正しいものかどうかという重い問題を
この小説は私に突きつけたように思えた。




山荘便り/ランプの下で  2013/ 6/25

今朝早く目が覚めた。四時半だった。久しぶりに青空文庫を開いて新しい作品掲載を覗
いてみた。堀辰雄の「ランプの下で」という随筆があった。

 「山にやつて來てから、もう隨分長いこと書かない。去年はほんたうに何も書きたくな
かつたので、あつさりと何も書かなかつたが、今年はそんな氣持はかなぐり棄てて、ひと
つうんと書いて見るつもりだ。」という書き出しである。
どこの山の中であるか断定出来ないが、たぶん「風立ちぬ」の舞台、サナトリウムのある
信州だと思うが、ランプや狐の手袋や焚火などといった山荘のイメージは、私の住む環境
によく似ていてすぐに共感が出来た。「狐の手袋」にいたってはこの春、なんの草花だろ
と思い名前を調べたことで もある。正式名称はジキタリス(英語名フォックスグローブ)
といい毒性があるが、一方強心剤でもある。

 それから「これは、こちらの四季社から出す筈の、僕の譯詩集につけてゐ る假題。
コクトオがゲエテとハイネとニイチェの三人のことを書いた詩に「アイン,ツワイ,ドライ」
といふ洒落れた題をつけてゐるのを眞似たの である。」とある「一二三」という随筆も
なかなかいい。そして最後に散 文詩か添えてあった。

    冬

 まだすこしもスポオツの流行らなかつた昔の冬の方が私は好きだ。
 人は冬をすこし怖がつてゐた、それほど冬は猛烈で手きびしかつた。
 人は我が家に歸るために、いささか勇氣を奮つて、
 ベツレヘムの博士のやうに、眞白にきらきらしながら、冬を冒して行つたものだ。
 そして私達の冬の慰めとなつてゐた、すばらしい焚火は、
 力づよく活氣のある焚火、本當の焚火だつた。
 人は書きわづらつた、すつかり指がかじかんでしまつたので。
 けれども、夢を見たり、失せやすい思ひ出の
 助力者を支持して、少しでもそれを引き止めたりすることの、何といふよろこび……
 思ひ出はすぐ傍にやつて來て、夏よりも
 ずつとよくそれが見られたものだ。……人はそれに彩色までした。
 かうして室内ではすべてが繪のやうだつた。
 それにひきかへ戸外ではすべてが版畫の趣になつてゐた。
 そして樹々は、自分等の家で、ランプをつけて仕事をしてゐた……。

「ランプの下で」のランプが今では電灯に変わっているが、零下二十度近くになる真冬の
山荘で、薪ストーブのチロチロと燃える炎とともに夜を過ごすし、このように青空文庫を
読むのが私にとってなんともいえない癒しの時間でもある。




山荘便り/少子高齢化問題の問題 2013/ 7/3

毎日新聞 2013年06月30日 東京朝刊に面白い記事を読んだ
時代の風:少子高齢化社会=元世界銀行副総裁・西水美恵子の「小国」悲観論を笑うとい
う文である。

 「人口減少が問題だと捉えられているようだ。 減ってなぜ悪いのだろうと、長年気に
  なっている。特に「経済小国になるから困る」と言う人が多いのには驚く。
  日本より国民平均所得が高い国は二十数カ国あるが、そのうち人口がわが国を上回る
  のは米国のみ。資本と生産性が伸び、生活水準が下がらない限り、困る理由などある
  のだろうか。
  社会保障負担を案じる若い世代からは「高齢化で生産性が上がるはずがない」という
  意見をよく聞く。いつも「高齢者をばかにしないで!」と、笑ってしまう。
  企業のトップには、人口が減ると生産人口も減ると単純に思い込む方が多く、頻繁に
  相談を受ける。今ある生産人口の大半を無駄にしながら何を言うとあきれるが「女性
  をお忘れなく!」と笑って、我慢している。

私も常日頃人口減少が日本の経済を疲弊させるという論法が大勢を占めていることに違
和感があった。どうして優秀な経済学者が、人口が減っても高い水準の生活が可能である
という理論を策定しないのかと疑問に思った。世界中が人口増加でないと経済発展が望め
ないとすれば、まもなく地球上の資源を食い尽くすだろう100億を超える人口になった
とき、果たして快適な生活を保ち続けることが出来るだろうか。
 そんなことを思うとはやく人口増加に頼らない新しい理論をだれか創出して欲しいと願
うものである。




山荘便り/ネットで身辺報告 2013/ 7/17

今朝の天声人語にネット社会に関して、面白いことが書いてあった。

  「ネットは民主主義に革命を起こす。伊藤穣一(じょういち)さんの信念に揺るぎは
  ない。知の最先端、米マサチューセッツ工科大のメディアラボ所長だ。メディアラボ
  の活動指針として3つのキーワード「ユニーク、インパクト、マジック」を提示。
  「誰もやっていないことをやる、真似はしない(ユニーク)」
  「やるなら社会にインパクトを与える活動を目指す(インパクト)」
  「そしてそれは驚きや感動を与えるものであるべきだ(マジック)」
  という意味が込められている。
  しかし「初めてのネット選挙となった参院選で、候補者の9割以上がフェイスブック
  やツイッターを使う。昨年の衆院選に比べ大幅に増えた。発信の中身が乏しくないか。
  昼に何を食べたとかの身辺報告が目につく。」と評してあった。

たしかに、誰でも日頃暮らしの中で普通に経験している全く個人的などうでもいい話題を
延々と続ける最近の掲示板には失望している。携帯メール依存症のように身辺雑記のやり
とりでしか社会と繋がっているという存在確認ができないのだろうか。そんなことを山の
中で考えた。




山荘便り/短編小説の不都合 2013/ 8/16

 このところ本の帯に「英語圏最高の短編作家と称される」と書いてある、ウイリアム・
トレ ヴァーの小説を三冊購入して重点的に読んでいる。 今は二冊を読み終え、三冊目の
半ばにかかっている。情緒豊かな短編ばかり十二編、一つの物語が二十ページばかりの長
さで、手軽に読み始めることができるが、しかし最近短編小説を読むことに問題が見つか
った。
 長編小説であれば読み終えるまでかなり時間的な余裕と興味を持続させる等の忍耐が要
求されるが、登場する主人公は一定であり頭の中がこんがらかることあまりない。一方短
編小説は、もちろん私の記憶力の減退に問題は大いにあるが、十二編の物語の筋や主人公
がそれぞれ違い、覚えきれないのである。それもそうだが、一日に一時間ほどの読書では
一つの物語さえ切れ切れになり、昨日読んだ筋や人物の名前さえ覚束ない。だから短編小
説では一度で読み終えないと、その内容の全体が見えてこないという問題だ。
 わくわくするような血涌き肉躍る小説であれば、日を置かずに一気呵成に読み終えるの
だが、残念ながら私の趣向の範疇ではなく小難しい本を敢えて好むのだから、これからも
記憶と競い合いながら読むしかないのかもしれない。




  


山荘便り/別の言葉の世界 2013/12/14

最近言葉の伝達についてオキシモーラン的妙な取り合わせに驚いている。

◆南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の公式追悼式において、各国首脳らのスピー
 チを手話で通訳していた男性が、手話の出来ない「偽物」だったという疑惑が広がって
 おり、調査が続いているという。

◆吉田戦車の「伝染(うつ)るんです。」に出てくる「傷」と呼ばれる、頭に包帯を巻い
 て学生服を着た、心身ともに深い傷を負った少年が出てくる。いつも人を不安に陥れる
 ような不思議な一言を言い放つ。アベックを嫌悪している。時折新しい文字を発明して
 いる。その文字は普通の人にはどう読むのか、何を意味しているのか判読出来ない言葉
 だ。

◆最近購入した小川洋子の「ことり」に出てくる主人公である少年の兄の話。
親や他人とは会話ができないけれど、小鳥のさえずりはよく理解する兄、そして彼の言
 葉をただ一人世の中でわかるのは弟だけだ。小鳥たちは兄弟の前で、競って歌を披露し
 息継ぎを惜しむくらいに、一所懸命歌った。

 彼等の言葉は私達の住んでいる世界と違う世界、例えば異星人、例えば「手話の男」は
言葉を乱数に変え宇宙の彼方に発信しているのかも知れない。
 「傷」と呼ばれる少年は生物の発生当時からの言葉にならないDNAに込められた情報
を示しているのかも知れない。
 ことりに出てくる主人公の「兄」は小鳥のさえずりを137億光年の彼方から届く様々
 な宇宙から来る光のスペクトル波長と振動数に呼応させているかも知れない。

これらの人達は世間ではすべて精神疾患というレッテルを張って安心するが、はたしてそ
うであろうか、何か私達の文字や語りの文化・文明では判断出来ない言葉の世界があるか
もしれないのだ。

1834

 

山荘住まい 2013  前編

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 6月 5日(木)20時53分30秒
編集済
  ,


          山荘住まい 2013 前編



     著者は2012年4月に移住したから、この年の一月から三月までは
     初めての定住生活で迎える一番寒い期間となったはずだ。月に一度訪
     れるかどうかの時とは、例え慣れているとは言え勝手が違うだろう。
     のんびりと自然を味わっているか読書三昧の日々のように読めるのだ
     が、冬を無事に越すことができたのだろうか。(編集部)




  



「新しい年」 2013/1/1
暮れより紳一郎が来る。いままで乗っていたジムニーがあまりにも古く、みっともないか
ら買い換たらという息子の提案で車のディラーに見に行き、彼が資金を出すといって即座
に三菱パジェロ・ミニを購入した。本来ならお年玉をあげなきゃならないのに、息子から
のでかいお年玉だ。




山荘便り/新雪 2013/ 1/9

  最低気温も-10°の日にもなる季節になった。 ところが本郷に住んでいた時と比べて
随分寒いだろうと思われるのだが、下着ととっくりセーターと薄手のダウンジャケットの
三枚のままで過ごしているのである。「ここら辺は-20°になるよ」とばかりに山荘を建
てるときの職人さん達にさんざん脅かされていたので、当然零下の世界が相当に過酷なも
のだとばかり想像していた。しかしこれも慣れなのか、現に民家もあるわけだからいざ住
んでみると死ぬほどのこともないことが判った。

  雪の日は朝早く起きて山道を散策する。誰もいない、新雪を踏みしめるキュッキュッと
いう自分の足音以外は無音の林の中の時間を独り占め出来るのは幸せだ。
そしてそこにはいろいろの動物の足跡を見つけ、これは何だろう、猪かウサギ、鹿、猿、
栗鼠、モモンガ、貂かと思いを巡らせて推し量るのは実に楽しいことである。しかし足跡
の大きさ、形態、歩幅の間隔を見て、自分の中で想像している動物の足跡と一致しない故
に、それらの実態はまだ解明出来ていないのである。このまえ台所の地窓に両手を着け、
中をのぞき込んでいた黄色の毛をした貂の姿は愛嬌があって可愛く、もう一度その姿を見
たいと思った。




「雪が降る」2013/2/19

 息子がやって来て、雪のなかの自分の車-パジェロ・ミニを初めてみる。

    

    





     寡黙な人からの山荘便り 投稿者:同人α総務  投稿日:2013/1/9

     投稿が少ない文芸「同人α」は無口な人が集まったようだ。
     αの掲示板「ニューロン・カフェ」を「沈黙のウェブサイト」と表現した
     同人もいた。

     無口の象徴でもある、山暮らしを始めた「死霊」に出てくる緘黙の矢場徹
     吾のような人が、時を置きポツリと山の様子を書いてくる。静かな掲示板
     にふさわしい、静かな山の暮らしをポツリと書く。
     少ない投稿の中でもめったに登場しないシリーズだからかつい眼を懲らし
     て読んでしまう自分がいる。写真がなくとも、ないからこそ?山の暮らし、
     風景が十分(勝手に)想像でき、伝わるシリーズだ。
     ああこの同人は元気に生きているのだなと少し安心したりもする。

     引っ越し能力・願望は判らないが、貂(テン)は狐や狸を上回る化身能力
     を持つ生き物だ。じっと考え事をしている人間に興味をもち、部屋の中を
     覗いていたのだろう。
     次に現れたとき、矢場徹吾、いや赤松次郎はこの貂と黙って化かし合いを
     するのかもしれない。

     総務としては緘黙の掲示板が気になることが多々あったが、だからこそ丁
     寧に書く、丁寧に読む、そんな場所なのかもしれないと思い始めている。




山荘便り/素数 2013/ 2/12

 東京新聞2013/02/07に「これまでで最大の素数」を発見というニュースを報じていた。
素数好きとしては見逃せない記事で、それについていろいろと調べて見た。
「1742万5170桁という、 現時点で最大の素数を、 米国の素数探索団体がプロジェクト
「GIMPS」の参加者が発見したという。 素数の中でも特に珍しい「メルセンヌ素数」の
48番目になる。」という。素数とは 「1と自分自身以外に約数を持たない数」 のこと。
ただし1は素数に含まないという。
 どうして大きな素数を見つけようと血眼になるのか、そしてまたいま現在では円周率π
の小数点以下の計算は2011年現在では10兆桁まで計算されているというが、それらの値
を再現もなく追求することにどのような意義があるのだろうか。しかし単なる好奇心と
も言えない。そのひとつとして
◆素数の効用
 それは第三者に通信内容を知られないように行う特殊な通信(秘匿通信)方法のうち
 通信文を見ても特別な知識なしでは読めないように変換する表記法(変換アルゴリズ
 ム)のことである。通信だけでなく保管する文書等の内容を秘匿する方法としても用
 いることができる。その鍵として、十分大きな素数を二つ選び掛け合わせて公開鍵暗
 号を作る等、現実に行われている手法である。

◆自然界の素数
 自然界に現れる素数の一例として、素数ゼミと呼ばれるセミの一種がいる。アメリカ
 合衆国に分布するこのセミの成虫は、ある周期ごとに、13年ないしは17年間の周期で
 大量発生する。成虫になった後は、数週間だけを地上で成虫として過ごし交配と産卵
 を行う。
 このセミが素数周期で発生する理由として、寄生虫や捕食者に対抗するための進化で
 あるという説や近縁種との交雑を避けるためであるという説がある。つまり、もしこ
 のセミが12年の発生周期を持っていた場合、 12の約数である2,3,4,6年の寿命を持つ
 捕食者と同時に発生してしまうことになり、捕食対象にされやすくなる。また、地理
  的に近い場所で12年周期と15年周期のセミが存在した場合、 60年ごとに2種は同時に
 発生し、交雑してしまう可能性がある。すると、雑種は発生周期がズレてしまい同種
 のセミとの交尾の機会が失われる。 素数の周期を持つものは交雑が起こりにくく、
 淘汰されにくいと考えられる。
    以上Wikipediaによる。

兎に角、数字は面白い。さらに素数好きは奇人変人が多いのかも知れないし、絶滅危惧
種ではないかという疑いがありそうだ。




山荘便り/ルーティンワーク 2013/ 2/16

 アランの幸福論にあるように、人は身の回りの悩みや漠然とした恐れや不安などによっ
てもたらせれた滅入る気持ちに陥った時、その原因を一心不乱に探したり、反省や自責や
悔いることで,ますます頑なになっていく。体の筋肉は硬く緊張し、肺は新鮮な空気を取
り入れる力はなく、血液はうまく循環することはできず滞り、腸は働きを止め活動が鈍く
なってくる。
 そんな時は思考を停止して、体を動かし筋肉を和らげ、深呼吸等をして精神の安定を取
り戻す方がよい。背伸びをしたり、屈伸運動をしたり、顔や手を洗ったり、お茶などを飲
み、音楽を聴き、散歩したりする。
 私はある作業や仕事や創作に倦いたときは、それらの達成のために必要な義務感や意志
の力に強いられることなく、すぐさま別のことをすることにしている。たとえばコンピュ
ータの前で設計図を作成したり、物語の構想を練ったり、難しい本を読んだりすることに
飽きると、家を出て林に分け入り薪ストーブを焚きつけるに最適の杉の枯れ葉を集めたり
近所の大工さんから貰った白樺や唐松の丸太を小さく切ったり割ったりして薪にする。ま
た少し疲れたり腰が痛くなると山荘の周りの山道を小一時間ばかり散策し、赤松や唐松、
杉、木楢、椚などの姿や葉の色を観察したり、動物の足跡を探したりする。
 この歳になり多少の余暇の時間が多くなってみると、諸々のルーティンワークも考えよ
うによっては効能があるのではないかと思えるようになった。
 まず、朝起きて窓のカーテンをすべて開け、薪ストーブに火を付ける。コーヒーを飲ん
だ後二摘みのピーナッツを小さく砕き、小鳥の餌台に載せる。ヤマガラやコガラがその餌
を啄むのを眺める。掃除とか洗濯、食事の用意、ゴミ捨て、薪拾い等の生産性のない毎日
繰り返される些細な仕事を、嫌だと思ってしまえばこれほど面白くなく不毛な行為だと思
え、苦渋を感じることもあるだろう。しかしまったく自堕落な生活でも可能な者にとって
も、そのルーティンワークは一日の生活の一定のリズムを作る効果、また仕事や趣味に倦
いたときのリフレッシュという効能を考えると、精神的にも肉体的にもあながち悪ことば
かりとは言えないのではないだろうか。
 しかし、この文章を我が細君に見つかると、「だったら毎日の三度の食事作り、洗濯、
風呂の掃除などなどのルーティンワークをすべてやってよ」とこれ幸いに反撃をしてくる
にいまっている。  あぶないあぶない。




山荘便り/ヤマガラ 2013/ 2/19

 この山荘に移って来てからまもなく、小鳥の餌を毎朝与えている。蛇や鼬鼠や貂などの
鳥の天敵がよじ登れないようにと考えて、ハンガーからチェーンで中空に吊った、コール
タール焼き付けの小さな鉄製の餌台だ。
 今のところ集まってくるヤマガラやコガラは、店で買った小鳥用の麻の実などよりも、
ピーナッツを2ミリほどに砕いたものが好きなようである。正確に数えたわけではないが
特にヤマガラは10数匹が四方の林から入れ替わり立ち替わり飛んできて、朝早くからま
だ何も入っていない餌台をまだかまだかと催促しているように揺らしている。

 この前はいつも通らない山道に踏み行った時、大きな罠を見つけた。
この近くの害獣の指定された猿や鹿、猪、熊等を捕獲するためのもので、太い鉄筋を竪格
子状に組んで作られた幅1メートル、奥行き2メートル、高さ1.5メートルの、すこぶ
るゴツイ代物である。奥に吊してある餌(鶏だろうか?)をくわえると入り口の扉がスト
ンと落ちるようになっている。まだ実際に罠にはまった動物は見たことがないが、ある日
山道の入り口に、お揃いの柿色のシューティングベストを着た猟友会のメンバーが忙しく
出入りしていた。犬が吠えていたのでたぶんなにかが罠にかかったのだろう。
 人が餌付けしている訳ではないが、最近人里へ頻繁にそれらの野生動物が出没する。
どうもゴミ置き場の餌になるものを漁るらしい。

 そういうことを考えると、小鳥に餌を与える方がいいのか、与えてはいけないのではな
いかと考える。 野生動物に対して餌付けが行われるのは、大きくは二つの目的がある。
給餌による保護を目的とする場合と、観察を容易にするためである。
 絶滅危惧種ならともかくそうでもない動物たちに、安易に餌を与えるとその種だけが繁
殖したりしないか。野生としての餌を探したりする能力、飢えに耐える能力が失われるの
ではないか。人間に対する警戒をゆるめさせるのではないか。特にある種の物だけが増殖
してその環境が変化して、自然のバランスが崩れないかという懸念だ。

 ヤマガラは神社のお祭りで「おみくじ芸」をするほど、人になれやすく学習能力も高い
ので、たぶんそのうち私の手の上のピーナッツを啄むようになるだろう。だがそこまで馴
らしてみようとは私は思っていない。家の外に出ると餌をせがんでいるかのようにチチッ
チチッとうるさく鳴くようで、最近は餌台に通うヤマガラ達は少々肥満になったように見
えるのだが、思い過ごしだろうか。




  


山荘便り/訪問者「モロ」2013/ 3/1

 一週間程前に迷い猫が台所の窓を見上げていた。ちょうど数年前に貂が覗いていた様子
のことを思い出させるシーンだった。そしてまた昨年の春、そっくりの白ろ猫が数回訪れ
たことがあったが、その猫は遂に居着かなかった。近所の人に聞くと親猫は車にひかれて
死んだという。そう言えば山の下の集落で親子をよく見かけていたが、今の迷い猫はあの
子猫か思った。

 毛並みは全体的に白っぽいが、野良猫生活で薄汚れたのだろう、真っ白とは言い難い。
額と足と尾に微かな灰色の虎模様が入っているので、猫図鑑で調べて見たがどうも混血ら
しく判然としない。それでもトンキーズという種類に雰囲気が似ている。まだ人に馴れて
いないので、捕まえて詳しく調べることができない。だから年齢も子供なのか大人なのか
雄か雌かの性別さえも判らない。しかし目の色はすこぶる美しい。アクアマリンの宝石の
ような魅惑的で上品でエキゾチックな異国の薫りが漂う。

 細君は「モロ」という名前を勝手につけて餌をやっている。その名前のいわれを問いた
だすと、ミラノ公 ルドヴィコ・イル・モーロ(1452~1508年)から取った名前「moro」
であるという。私に相談することもなく、またそのよりどころも説明することもなかった
が、しつこく聞くと今読んでいるマキャヴェッリに関する本に出てくる人物の名前を頂戴
したという。ミラノ公と言えばレオナルド=ダ=ヴィンチが仕えた主人であり、ミラノ公の
愛妾チェチリア・ガッレラーニをモデルに描いた「白貂を抱く女性」が有名である。

 この「moro」はこのところ家の外の零下10度を耐えて生きているのだから結構タフ
にちがいない。餌をやったり寝床を提供したりしているが、家の中では飼わない主義であ
る。また都会のペットのように着物を着せたり、抱いたりはしないつもりだ。だからこの
家が居心地が良ければ居着くだろうし、自由な野良の生活が望ましければ、また山の下の
民家が恋しければいつの日か自らここを出て行くだろう。私はだから「moro」の好き
なようにさせようと思っている。

    




山荘便り/へたな職人 2013/3/10

  先日ポール・ハーディング著「ティンカーズ」(小竹由美子訳 白水社)という本を読
み終えた。ちなみに題名の「ティンカー」とはどういう意味か。辞書によると「いかけ屋」
「へたな職人」とある。
 物語は時計修理人の主人公ジョージ・クロスビーが死ぬまでの八日間に、父親のハワ
ードや家族との思い出とともに、様々な幻覚をみるという筋である。その父親は森のなか
の人々の要求を叶えるために、ティンカー、ティンカー、ティン、ティンとバケツやナベ
などの金物のぶつかる音をさせながら、荷馬車で色々な生活雑貨を積んで売り歩く暮らし
をしていた。時には鋳掛け屋、鍋細工師としての仕事もしたが、たいていはブラシやモッ
プの行商人だった。

 主人公ジョージの死の床での思考はすでに朦朧としていて、白昼夢にちかく時系列に従
わないもので、読者の私にとっては筋を追うことに難儀をした作品だ。とはいえ、私の読
書傾向は推理小説や冒険小説や時代小説のように筋を追う物語よりは、意識の流れを描く
ものが多いようで、いつも苦労している。しかし好みとはやっかいなもので、謎解きや事
件の進行など喜楽に読める作品でも、好みでないものはすぐに途中で投げ出してしまうの
だ。それに名前と場所と環境を変えただけで同じプロットで繰り返されるシリーズものの
小説等、その作り手の安易さ、読者の興味を刺激することばかりに気を配った作品、最後
にどんでん返しを得意とする技巧をこらした作品にはうんざりだ。

 作者ポール・ハーディングの創作方法が私の日頃のそれによく似ているので驚きである。
作者は教職の空き時間に、ノート型パソコンや手近の紙に、時系列は関係なく思いついた
シーンから文章を紡ぎだしては記録していった。プロットを構築するのではなく言葉やイ
メージを追いかけた手法はハーディングに合っていた。そして最後に彼は書いたものをす
べてパソコンに打ち込んでプリントアウトし、床に並べ、絵画で言うコラージュのように
切り貼りして構成を整えるという。
 しかし今時、パソコンやワープロを使わないで、完結するまで原稿用紙に手書きで書き
進める人は、私にとっては驚くべき才能に思われる。小さな訂正や添削はあっても、全体
の流れや筋を頭に入れながら入り口から出口まで完璧に作り上げるのは私にはとても出来
そうもないのである。




山荘便り/春一番の花 2013/3/26

  春の山で一番早い花
ここは藪椿など冬に咲く花木がないために、杉や檜、樅の木以外は枯れ葉色一色の山肌に
なる。そして一番早く花を着かせるのはキブシとサンシュの花である。
 コブシは蕾は膨らんではいるがまだ咲かない。キブシは夏、房状になる青い実を見て、
植物図鑑を探したが何の木か判らなかった。今日その花を見たので再び調べた結果それだ
と判明した。気になっていたことが解けてちょっと頭が軽くなった。
 サンシュは夏の樹形はまったく覚えがないが、春の先駆けに黄色い花が咲くのを覚えて
いた。どちらの木の花も控えめに咲くので、あまり華やかさはない。人工的に栽培した色
鮮やかな花々で満ちている都会と違い、色のない山肌にささやかな生気のある芽生えが私
の気持ちを前に進ませる。その稀少さが他の派手な花々より効果が大きいといわねばなら
ない。

キブシ(木五倍子) Wikipediaより
樹高は3m、ときに7mに達するものもある。 3-5月の葉が伸びる前に淡黄色の花を総状花序
につける。長さ3-10cmになる花茎は前年枝の葉腋から出て垂れ下がり、それに一面に花が
つくので、まだ花の少ない時期だけによく目立つ。

サンシュユ  「ハルコガネバナ」
内部にある種子を取り除き乾燥させた果肉(正確には偽果)は生薬に利用され、 山茱萸
(やまぐみ)という生薬として日本薬局方に収録されており、強精薬、止血、解熱作用が
ある。果肉は長さ1.4 cm程の楕円形。牛車腎気丸、八味地黄丸等の漢方方剤にも使われる。




山荘便り/僕の嫌いな人達 2013/3/31

  私の嫌いな10人の人びとを読んで
変人、奇人である哲学者・中島義道の本「私の嫌いな10人の人びと」が、貸していたとこ
ろから数年ぶりに帰ってきた。不思議なことに私の本だということがよく分かったものだ。
その人は本棚の整理をするとき、小難しい、しかもひねたことが書いてある書物を読むの
は、私しか思いつかなかったからだと私は憶測した次第である。 それほど世間の常識に
楯突くことを書き連ねていて、 一般には受け入れられている行為を糾弾しているようで
常識人は不快になるのだろう。

 1 笑顔の絶えない人
  ・笑顔の絶えない顔は気持ち悪い
 2 常に感謝の気持ちを忘れない人
  ・感謝の気持ちを他人に要求する人
  ・日本的商人道徳への違和感
 3 みんなの喜ぶ顔が見たい人
  ・家族至上主義
 4 いつも前向きに生きている人
  ・考えない人
  ・厭なことはみんな忘れてしまう人
 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人
 6 「けじめ」を大切にする人
 7 喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
  ・対立を嫌う人々
 9 「おれ、バカだから」と言う人
10 「わが人生に悔いはない」と思っている人
  ・さっさと満足して死になさい

 中島義道の言わんとするところは、常識的な心地よい言葉ですましていることへの不信
である。その言葉の底の底まで考え抜くということをしないで、美辞麗句を使っていれば
すべてうまくいくという割り切り方、安易さが嫌なのだと思う。本の帯にも「いい人」の
鈍感さが我慢できないと書いてあった。
 たとえばボランティアなどを進んで行う人には敬意を払うが、自発的で無償な行為であ
るはずのことを人に言いふらすのは、何かの見返りを求めているようで見苦しい。そこに
はしてあげる」という意識が有りはしないかなどの解釈が成り立つだろう。
 しかし吉田兼好も言っているように「何もしない批評よりも偽善でも行動を」第85段は
大して何もしない私にはぐさりと胸に突き刺さる言葉である。

 ちなみに変人・奇人の作家はドストエフスキー、カポーティ、シラー、ジェイムス・ジ
ョイス、夏目漱石、江戸川乱歩、夢野久作、太宰治、吉田健一、久生十蘭、内田百間、
泉鏡花、坂口安吾等々。



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ユーモア/パロディあれやこれや

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月25日(日)20時35分7秒
  .

         ユーモア/パロディあれやこれや
                  2007-2012




  その作品を読むと、ひたすら暗くてしっとりした純文学を追っている人のように思え
  た。 しかし、氏が書き残したたくさんのエッセイを読むと、どっこいそのあくなき
  探求心は、人や生き物や事象を思いもよらぬ視点からえぐりだし、観察しまくったり
  笑い飛ばすこともやってのけているのだ。 暗くてしっとりし過ぎる作品の中にも、
  どこか突き抜けたところにたどりつき、時に笑いさえ顔をだしてくることがある。
  笑いの中にもの悲しさを、暗くて悲しくてせつない中にユーモアも。
  散歩の最中でも、執筆中でも、それが激しく入り交じる。(編集部)





「傑作な看板」より 2007/7/18

◆ AM5: 00起床。 一時間仕事をする。6:00、今日は竜岡門から東大校内に入り、
三四郎池を廻って正門から出る。 本郷三丁目の角の三原堂は今立て替えの工事をしてい
るが、工事用シートに大きく「立てかえ最中」の文字が目に付いた。おやっ、名物の大学
最中(だいがくもなか)」のほかに「たてかえもなか」を発売したのかと一瞬思った。
普通たてかえの工事中であれば「立て替え中」とかいて「最中」とは書かないだろう。
これは三原堂の受けねらいのユーモアなのか。きっとそうに違いない。





「合評について」より  2007/8/10

◆ 合評についての方法論は長岡さんが実に明確に分析し提示してくれました。私も前面
  的にそれに賛成いたします。
◆ だが、今回の問題は実はそれ以前のマナーの問題だと思います。何を書いてもよろし
  いという建前は確かにそうですが、何度も検証し分析して苦労しながら合評するとい
  う責任を負った真面目な投稿と、楽しい会話やホラ話やユーモアや艶な話や披露とい
  ったお遊びの投稿とを区別しないところに有るのではないでしょうか。





「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」  2007/11/26

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案してき
  た。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新しい世
  界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつか試みた
  ものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A列は名詞を
  B列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列それぞれに乱
  数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番号をそれぞれ若
  い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、「民主主義にお
  ける無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」などと判じ物のようなものが
   出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろう。
  そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎにぎし
  く騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり始める。
   傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じながら想像も
  付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉同志のミスマ
  ッチによるおもしろさをかみしめる。





「シリーズ・歪んだ風景-沈みゆく家 第一回」の合評のお礼 より 2008/5/12

◆実は今悩んでいる文章のスタイルについてO氏のの鋭い指摘を受けました。
 「古賀さんは心象風景に徹するか、パロデイの話の展開を真面目くさってユーモアたっ
 ぷりにやるかどちらかに徹した方がよいと思う」と。たしかに今回私が描きたいテーマ
 はシリアスなことでありますが、「歪んだ風景-疑惑」に登場した5人衆が出てきてか
 ら急にパロディの様相を帯びてきたことで戸惑っているのは確かです。イマジンさんの
 「主人公がどのような動きをとるか解りません、考えていません」という創作状況まで、
 まだ私は達観していないのであります。





「沈みゆく家-合評」お答えより 2008/6/1

◆Nさんの「パロディとは,どんなもんを言うのか」については同人α第6号の「疑惑」
という「姉歯構造疑惑事件」を取り扱った作品に登場する5人衆の描き方に依っています。
但し正確にはパロディとは「既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見し
てわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように
作り変えた文学作品」とあり、「疑惑」は本歌取りをしていないので厳密にはパロディと
いう言葉は適当でないかもしれませんが。
シリアスな問題を抱えた人物を敢えて諧謔的にとらえたもので、奇想天外な物語の展開は
パロディでないと描けないと思ったからです。悲惨なものごとも鳥瞰的に見ると、観察者
はその悲惨さから逃れて妙に冷静に達観的に諧謔的にとらえることをするような気がしま
す。姉歯事件もある面では悲劇的な問題も含みますが、一方では色や金といった欲望に振
り回される人間の弱さ、ころりとだまされる検査機関などの風刺する要素は五万と見つか
ります。その五人衆が再び登場した訳ですから、そのまま滑稽な人物とするか、一転して
シリアスに描くか迷うという訳です。
 また「戦争の傷跡の中で,戦争で障害を負った友人のエピソードに力が注がれているよ
うに思いますが,なにか唐突というか,違和感を感じながら読みました」とありますが、
赤松次郎の育った環境や、心の中の襞に引っかかっている心情などを理解してもらうため
の記述と思ってください。





「K氏・M氏の投稿について」より 2008/6/23

 K氏がM氏の文に頭に来たと聞いて、私も考え直してみた。まだ良く分析は出来ていな
いが、M氏の人の良さそうなスタイルやユーモアらしきものの中に、妙に人を突き放すよ
うな皮肉な部分を感じた。これはF氏と同じ匂いを感じるもので、私がよく言う皮肉とも
どうもちょっと違うような気がする。私のは相手を尊重する心は失っていないつもりだが、
彼等のは吐き捨てるような侮蔑と揶揄が含まれているようで、感覚的に肌が違うと感じて
いる。





「エイプリル・フール」 2009/4/1

今日は4月1日、そうエイプリル・フールである。どのような見事なそしてユーモアのあ
る罪のない嘘をつくか思案中だが、そのいわれについて知りたくなった。





「浪速の空からの感想」より 2009/6/12

◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?





「ユーモアについて」 2010/8/28

X氏がユーモアやパロディー記事をいつもと異なるペンネームまで駆使して投稿している
記事を読むと、X氏の日頃の文章表現と言動を考えるに、氏のユーモアや笑話を投稿する
姿には違和感がある。そこでどうしてだろうと考えてみた。
 ・X氏は一度も破顔一笑したことがない。
 ・X氏は一度もユーモアや笑い話を会話でしゃべったことはない。
 ・X氏は一度も人の機知に富んだ話に乗ったことがない
などを知ると、氏がユーモアや笑い話を投稿することにそぐわないと感じるのは、私だけ
であろうか。
アリストテレスは「道徳的な美徳は習慣の結果として生まれる」といっている。また「我
々は正しい行動をすることで正しくなり、節度ある行動をすることで節度を身につけ、勇
敢な行動をすることで勇敢になる」ともいっている」。
それから結論を導くとすれば、X氏は彼の書く社会の不条理にたいする文をはじめ、ユー
モアや笑い話においても自ら生活の中で実践されていないものだから、自らが頭の中で深
く考察することなく他からの情報を単に書き写しているにすぎないのではないか。だから
私の心に全く響かないのだと考えた





「Sさんのお願い記事を読んで」 より 2010/9/14

◆ よそのサイトのことながら何が問題点かを野次馬たる私が分析してみよう。著作権と
 いう社会的な大きな問題はマッド・アマノ事件(昭和47 年)で有名であるが、あの作
 品が著作権に触れるとなるとパロディや本歌取りといった芸術の表現が規制されて、広
 い意味での表現の自由が奪われかねない。人の作品を加工することによってしか表現で
 きない作品をすべて否定すると世の中は進歩が無くなる。パロディや本歌取りは元の作
 品の価値を超えたオリジナルなものを作者が表現できるかどうかにかかっている。これ
 は単に他人の作品・学説などを自分のものとして発表する剽窃とは違うと私は思う。
  さて今回のような大々的な著作権の問題ではなく、身近かな問題をクリアーするには
 どうすればいいかは、Sさんの問題提起を分析することから始めなくてはならない。





「あした天気になーれ 合評のお礼」より 2010/12/5

随分遅くなりました。今回は佐高卒業50周年記念大会という大きなきなイベントに参加
したため、ニューロン・カフェを留守にしました。長岡マスターと万理とママには仕事を
押しつけて長期休暇をいただき、しかもお土産も持たず手ぶらで帰ってきて申し訳ない。
もう少し待っていただければ写真と噂話という情報を持参して、ナツヅタもすっかり散っ
た初冬のニューロン・カフェを訪れましょう。『ダ・ヴィンチ・コード』のロバート・ラ
ングドン教授のようにハリスツイードの上着と黒のとっくりセーターとハンチングの出で
たちで・・・。
◆長岡さん
 『佐賀の天気は、今日は晴れのち曇りだったようですが、予報では、明日の天気は生憎
 と、曇りのち雨になりそうですね。同窓会の小旅行の間だけでも、晴れ間が出れば良い
 のですが。赤松さん、どっちが出ても表になる下駄を履いて行ったかな』
◇ご推察の通り朝は本降りの雨でしたが、午後からはすっかり晴れました。雨男 のK君
 が一緒でなかったことも幸いして。
 さて本題、シリーズ物ですので物語の展開が読めないので、全体を眺めながら分析する
 ことを得意とする長岡さんにはちょっと評しにくかったのではないだろうか。評論する
 のも難しいというより、様子見の段階と断じられたのでしょう。まだまだ本題はさきで
 すから、ゆっくり吟味してからの評を期待します。
◆『一貫して描かれて来た、妻または同僚と一緒の時の主人公の不安感や不満、安定しな
 い生活に比較して、いかにも豊かで余裕たっぷりの様にみえ、その間に可なりの乖離が
 垣間見える』
◇さすが鋭い指摘です。突然の舞台が世俗的ではない雰囲気に変わり、一瞬の戸惑いを与
 えることは、私も思わなくもありませんでした。その辺の言い訳は次号で旨く書きまし
 ょう。
 それから表紙の青はKLINE BLUE(クライン ブルー)のつもりでした。一太
 郎のフォントの色で一番上の右から二番目の青を選択、濃度はたぶん85%にしたと思
 います。詳しくはwikipediaのヴ・クライン(Yves Klein)の項目を調べるとその青が
 ありますので、どうぞ調べてみてください。私の選んだ表紙の青と少し違うと思います。
◇万理さん
 25号の表題「颯」を気に言ってくれたありがとう。ミシェル・ルグランの「風のささ
 やき」、またマンディ・バーネットのウイスパーリング風もまたいい曲でしょう。私の
 詩は推敲していないので直接的でメタファーに欠けています。そのうちもっといいもの
 に仕上げたいと思っています。
◆『ポエムでは風を敏感に感じ取る繊細さが読み取れる。作者はいつも右目で千年先、臆
 年先を見、宇宙を感じている。感覚の世界。そして左目で日常の中観察しまくり、次々
 と新しい本を読んで、嬉嬉として遊ぶ、実験する』は万理さん、ほめすぎですよ。
◇私はウィット、ユーモア、シニカル、アイロニカル、ロマン、笑いは何も人を笑わせよ
 うと意図的に創作しないところにあるのではないかと思っている。なんだかくそまじめ
 な人生のどこかに一瞬垣間見る悲しくも滑稽な姿こそ本当のユーモアだと思っている。
 努力しても努力しても人並みに旨くいかない、それでも必死でなにかを成し遂げようと
 する行為。だから普通の人は絶対しないであろう、「タロウ」のように何かを信じて鎧
 を纏い、ヘルメットを被りガチャガチャいわせながら行動する姿の中にそれを感じる。
 人はそれを異端と呼ぶだろう。カラマツ・ジローもその細君もチキン・ジョージもその
 辺に転がっているようで、どこか変だ。通常の生活の中の異常さ。とにかく人の書かな
 いことを書きたいという気持ちで今はいっぱいで次々に実験したいと思っています。





「パロディについて」 2012/3/10

 私は、パロディは平安時代から江戸時代にかけて行われた落首のようなもので、自分の
手の届かない「権力者」や「支配層」にたいして、その手段でしか批判し得ない表現方法
として使われるものと思っていた。しかしご三方は同じ同窓生を揶揄や風刺や批判のため
にその手法をとられて楽しんでおられる。これは私が「権力者」や「支配者」並の存在と
勘違いされたのか、それとも同列の人間をこき下ろすことで自らの優位性を保ち、かつ心
の安らぎをえられたのかどうか私には判りません。
もし私がパロディの作品を創るとすれば、「権力者」や「支配者」を的にするか、また
は自らの性格や嗜好を対象に風刺するかで、少なくとも友人や縁者を対象にするときはそ
れを許される関係をもつ人に限ることを心がけている。しかし私がいつも渋面をつくりな
がら小難しい硬いことばかり発言していて、ウイットやユーモアを解さないという訳では
ない。しかし今回のように論敵を揶揄や風刺で誤魔化す手法はいくらうまくできていて面
白くても趣味が悪すぎる。そういう人は己の人格を自ら貶めているとは思わないだろうか。
きっとそういう風に感じる人もいると思う。
こう書くとまたまた反論のための言葉尻をとらえられて、延々と饒舌の集中砲火を浴びこ
のホームページが炎上しそうで、しばらくは沈黙を守ろうと思う。





「[人生詩]を読んで」 2012/7/17

 今この山荘の周りは狐の手袋(ジキタリス)が薄紫の花を咲かせている。自然は不思議
なもので春が来て緑で覆われると、そこにどのような野草が生えているのか俄には分から
ない。丁度深い緑の山のなかに咲き誇る花を見て、初めてそこに桜の木があったことに気
づくようなものだ。
 春に越してきてまず山吹の花一色になった山を見た。それが終わると空木の花があちら
こちらに静かに咲いていた。それからしばらくは花らしいものが絶えた時、大まむし草が
盛んに目に付くようになる。それからこの季節になると狐の手袋や紫陽花の花が咲き出し
た。
さて本題
 十代、四十代、六十代のときの同じ日の日記によるものとして書いてあるところは、時
代による考え方や生きる姿が比較できて面白い。これは同人α第29号、題30号の「冥
界から覗く人の像をした美しい青い地球」において、自分自身を冥界と現世界を同時に覗
くという、二重の視点から描く面白さと同じだ。
十代は小説を読んだり批判したり、疑問だらけの現実に回答を得ようともがいているよう
だ。
 四十代は社会のなかにどっぷり浸かった現実的な活動が主だ。
六十代は「無限」「時間」「空間」などの悩ましい問題などに目を向けている。
 それにしても高校の同窓会の描写には笑ってしまった。作者と同じような環境を共有し
ている者にとっては、創造された情景と現実を重ね合わせて、ジグソーパズルのゲームを
する楽しさがあり非常に面白かった。これは作者がユーモア、エスプリ、ウイット、悪戯
心を豊富に持ち合わせていることを証明していのである。読者に阿る出もなくまことに淡
々と画いた情景の文の中にそれが良く感じられて、思わずニヤリとしたことであった。

  

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建築家らしい投稿集

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月19日(月)13時49分50秒
  .

                建築家らしい投稿集   2007-2009







「独・偏・戯評」 -都市の景観 より  2007/7/19

◆ 日本の建築基準法では第1条に「この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に
  関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もって公共の
   福祉の増進に資することを目的とする」

◆ フランスの建築法規は「建築は文化の表現である。建築の創造、建築の質、これらを
  環境に調和させること、自然環境や都市景観あるいは文化遺産の尊重、これらは公益
  である」と定めてある。

◆ 日本の建築法規は単に構造や設備や用途等を規定しているのみで、フランスの自然環
  境や都市景観、歴史的観点等の理念が欠けているのがわかる。

◆ 現代都市の庶民の住み方においても、その理念による違いが顕著である。





「美」について   2007/7/19

◆ AM5:00起床。6:00より散歩。無縁坂を下り、東大を左に見て弥生町へ。弥生美術館、
  立原道造記念館をへて言問い通りを左へ回り、本郷通りを正門、赤門を経て帰る。

◆ 楳図かずおの建設中の家が話題になっている。外壁を赤と白の横ストライプで仕上げ
  る計画とか。それにたいして隣と向かいの住人から反対が出て建設を中止しろという
  ことである。テレビのインタビューでその人の「私の心の中を赤と白のペンキでぐち
  ゃぐちゃにするつもりか」と実に感情的なコメントがあった。あの感情は一種のファ
  ッショを生む根源を見たような気がした。自分の美的規範に反するものには理屈抜き
  で力ずくで断固反対するという激しさだ。

◆ 以前にもその様な環境破壊論が出た建物が会った。横浜の高級住宅地にピンク色のマ
  ンションが出来たときも、やはり「美」・「醜」の見解の相違で反対運動があったし
  千代田区九段に建つイタリア文化会館も、皇居の側であるから「赤」の外観がそぐわ
  ないという反対が起きた。その2例を見た者としての私見を言えば、あの程度のこと
  で環境問題として大げさに反対するほどのものか、もっと広範に改めるべき生活上の
  悪癖にたいしてその人達は運動を起こすべきだと思う。例えば、歩道に立看板や置看
  板、自転車や自動車の駐車、私物を放置しないこと。「美観」上「歩行上」も大いに
  問題である。建物の問題は私有地の中のこと、後者は公的な空間を使用に使うという
  根本的な違反であることに違いである。

◆ 話題になっている「美」については、非常に個人的なことで「あれがいい」「これが
  良い」と単純に割り切れるものではないだけに決定的な解決法がないのでやっかいだ。
  十分話し合ってコンセンサスを作り上げるように努力することしかないようである。

◆ ちなみに日本の建築基準法は建物の構造や避難や安全の規定が主で、都市の歴史や美
  観にかんする言及はない。それに反し、フランスのそれは「建築は文化の表現である。
  建築の創造、建築の質、これらを環境に調和させること、自然環境や都市空間あるい
  は文化遺産の尊重、これらは公益である」と定められている。





「観光立国ニッポン」*の感想 より  2007/8/7   *同人α11号

◆  さて、毎度遅刻常習犯である私の「観光立国ニッポン」についての感想を書きまし
  ょう。本来ならば最終回ですので、第一巻から膨大な物語を通読すべきでしょうが、
  糊口を凌ぐのに精一杯で、趣味のための時間を不思議な国のアリスに出てくる大きな
  時計をもった白うさぎから買いたいくらいであります。「急げ急げ」と白ウサギにせ
  かされながら、私が抱いた疑問点を簡単に二点に絞って書いてみました。

◆ 第一の疑問
  「観光立国ニッポン」という表題から、私は今までの日本の「重厚長大」の産業構造
  を脱しキャピタルゲインのように不労所得で生きていくためのシステムを見事に描い
  てくれる物語であると、私は早合点してしまったようです。イタリアやスイスやフラ
  ンスなどの歴史的遺産や文化的なものを目玉に観光で潤っている国のように、日本も
  政策によって可能ではないかという論を待っていました。しかし物語が終わってみる
  とこの表題は羊頭狗肉の看板に思え、快刀乱麻の結論を期待した私は朝三暮四の心境
  でもあります。もしEさんが最初に私が考えた物語と違うことを目指したのなら、こ
  の「観光立国ニッポン」とい表題は似つかわしくないと思います。それとも思い違い
  したのは私だけかな。

◆ あれだけの優秀な高級官僚が集まって苦労しながら出した結論、「観光立国ニッポン」
  に対する回答としてなんの実態もなく、また政策にもならずうやむやにされたことへ
  の私の驚き。E氏が描きたかったのはこの情景に違いない。霞ヶ関に蠢く選ばれた先
  鋭達が国政レベルで考えることの中には、問題解決において実態に合わない実に下ら

  ないシステムを考え出すように思われる。
◆ 私の携わる建築の世界でも、排煙施設とか天空率とか日影規制などの基準が定められ
  ているのだが、小難しい数式による算定がはたして実態にあっているのか疑わしい。
  例えば排煙施設というのは火事の時、非難支障になる煙を室外に出すための設備であ
  るが、それが現実に役に立っているのか実際効果が有った等と言った噂も聞かず、は
  たして有効に機能している設備なのか疑問である。道路斜線や北側斜線などの規制も
  建物の形態をいびつにし、材料や機能の有効利用を疎外している。また「姉歯疑惑」
  以来、構造や安全にたいする手続きの膨大な書類提出で何が変わったのか。確認申請
  で役所に出せと義務づけられた図書ははたしてそれらの建築物における支障の根本的
  な問題解決になっているのか。私は規制や提出書類の膨大な量にもかかわらず、不正
  は決して無くならないであろうと思う。なぜなら建設中の建物がそれらの図書に合致
  しているかどうかを検査するシステムが十分なままでは、いくら法律や提出された資
  料を机上で確認してもだめである。この一点が何時までものこる問題点で、役所がせ
  っせとつくる猥雑な手続きや小難しい数式の規制では解決しないこと必定である。こ
  のことは現在地球が負っている温暖化や資源の枯渇といった危機を回避しなければな
  らない行為にはんしているということだ。それらの煩雑な手続きはユーザーを守ると
  いうことではなく、行政の不備の責任を逃れるために言い訳をせっせと作っているに
  過ぎない。

◆ とまあ色々のことを考えさせてくれる小説ではあった。余り膨大すぎて私には当分こ
  のての長編小説は書けないと思った。たとえ欠陥が有ったとしても、Eさんはその名
  のごとく、私が創作するにあたって一番大事だと考えている、「イマジネーション」
  の才能を有り余る程持っておられる方だから、これからが楽しみである。またこの手
  の庶民には判らない魑魅魍魎の世界を描いて欲しい。





木造3階建の家  2007/9/23

散歩途中、本郷5丁目あたりの路地裏で木造3階建てのアパートを見付けた。多分戦前に
建てられて、戦火を免れた強者であろう。もはや現在の建築基準法の構造や防火規定に抵
触することは確実で、このような物は再び現れて来ないだろう。新しく立て直すとすれば
コンクリート造や鉄骨造などの確実に違った形態の物を要求されるだろう。
しかし、五十年以上も生き延びた建物には懐かしさがこもり、尾崎 一雄の文学を目指す
若い青年とその恋人との貧乏長屋に暮らす芳兵衛物語を彷彿させるものだ。
久し振りに息子が尋ねてきたので、細君と私の三人で秋葉原に山荘に取り付ける照明器具
を探しに行く。天井が高いのでペンダントでないと新聞も読めない。しかしこの頃の秋葉
原には照明器具を専門に扱っている店がめっきり減った。山田照明も山際リビナ館も閉鎖
になっていて、ゲームソフトやオーディオやコンピュータ関連の物ばかりになっているよ
うだ。そう言えば照明器具なんて新築の時一度購入すれば何十年も持つから、そんなに需
要が無いのだろうし、デパートから家具が消えたのと同じ理屈なのだろう。
(東京散策 (1) にも同時掲載 写真付き)





柔軟な思考の崩壊    2008/1/2

◆沼南ボーイ氏の「未来責任」について次のような投稿があった。
 道路公団民営化推進委員会や、最近の年金記録検討委員会などの委員などを経験した川
 本裕子早稲田大学教授が論じている、「問題解決の先送り」の風潮があると指摘してい
 る。
 兎に角社会保険庁や厚生労働省の薬害問題などをみると、よくもあそこまで杜撰である
 ことに平気だったものだと変に感心する。
 建築の構造疑惑・姉歯問題においても、公的審査期間にも同じようなの精神構造が見受
 けられた。

◆一方、我々建築の仕事に携わる者からすると、今回の不正防止を目論んだ建築基準法の
 改正もむしろ改悪としか写らない。早い話が、問題の本質は別な所にあるのだが、審査
 さえ厳しければ不正は無くなるだろうと単純に思っている節がある。
 だから、我々から見ると役所が「このように綿密に真剣に審査しています」とばかりに
 本質でない部分を事細かに規定して審査を厳しくするのは「ユーザーへのいい訳作り」
 としか思えない。「体面さえ整えば実質がなくても」責任は逃れるという、常套の考え
 方だ。
 それが如実に露呈したのが阪神神戸の大震災である。すべて倒壊した建築や土木の構造
 や工事監理をした役所が何一つ責任を取らない体勢になっている。それなら確認申請を
 役所に提出して許可を受ける必要はないではないか。権限だけあって責任はないという
 不思議な制度で、役人を食わすための制度でしかないのではと勘ぐるのは私だけではな
 いであろう。

◆改悪建築基準法の実例としては普通の3階建ての個人の住宅に、以前は3週間で確認申
 請がおりていたのに、改正後は3カ月以上もかかるし、その記載内容も微細に渡り以前
 の3倍も手間が掛かるのである。
 また、建材の防火や耐力や効果の認定資料の提出においても、以前は国土交通省の認定
 を受けた建材においては、認定番号を記するだけでよかったのが、改正後は認定証書と
 その納め方の資料を添付しなければならない。家一軒に200種類以上の建材を使う訳
 だから、その資料は一抱えもあるほどの量を提出しなければならない。これは二つの問
 題点があるのである。一つは公の機関が認定したものをなぜ認定番号で由としないのか。
 問題が起きれば建材を提供するものが責任を負うことを前提に認定した訳であるから工
 法や材質についての詳細を重複するかたちで提出させる意味がどこにあるのか。二つめ
 は世界の趨勢がエコや省エネや人的な労力の無駄を省くという問題を真剣に取り組んで
 いるのに、時代に逆行した政策であることである。マスコミも経済的停滞のみを追求す
 るのでなく、一番の問題点は世界的環境危機につながるこのことに気づくべきであろう。

◆無責任な国民や為政者の「未来責任」先送りの風潮とどう関わりがあるのかわからない
 が、今度の建築基準改正の取り扱いについて顕著になった事例として、柔軟な許容の考
 え方がここ近年変化していることに気づいた。





建築の安全について  2008/2/7

 建築の安全についてという記事が朝日新聞2008/2/7に載っていた。
私がいつも言うように書類審査を厳しくするだけでは不正な、あるいは施工ミスのない建
物は無くならない。改正基準法においても書類さえチェックしていればよしとするいつも
の役所の姿勢から一歩出ていないから、肝心の点で効果がないのである。それ以上に枝葉
末節まで書類に書き込まなければならなくなったお蔭で、建築士の作業が5倍も10倍にも
なり、重要な点に時間や意識がとれなくなってマイナス面がたくさん出てきた。
それから、提出する資料も格段に増えエコの面からも社会問題を含むと思われる。
国土交通省の認可を受けた建材もその納まりや材料の詳細を添付することを要求されるが
認定番号と認定書1枚の添付で済ますべきだ。責任ある省庁が認可したという権威はなん
なのか、信用できないのか。確認申請において役所が判断ミスを犯した建築物にたいして
役所は決して責任をとらない。阪神神戸大震災のとき倒壊した建築の審査をしたにも拘わ
らず、役所の責任に対しては一切言及していない。その程度の申請精度自体がなんの意味
と権威があるのか判らなくなる。





「フランス便りー春」* 評 より  2008/5/24       *同人α15号

◆先ずR子さんの質問にお答えします。建築の敷地について、細分化されると通風や日照
 や植栽などの環境が阻害されるので、都市近郊の良質のベッドタウンではある一定規模
 の広さの敷地が要求されます。例えば横浜市のように敷地面積の最低限度として、
 第1種低層住居専用地域 165㎡
 第2種低層住居専用地域 125㎡
 以上の敷地の広さがないと建築できないなどの規制をしている自治体があります。フラ
 ンスの5000㎡からすると比べものにならないくらいのもので、お城とウサギ小屋の差が
 ありますけどね。そちらでは都市と地方の、或いは一般のサラリーマンと農業に従事し
 ている人々との問題はどうか知りませんが、日本ではどのような地域においても家屋敷
 の広さは概して狭いものです。都市部では15坪未満の敷地に3階建ての家を建てる場合
 もあり、設計に携わる身からするとその空間の貧弱さ、テクスチャーや住み方のセンス
 のなさには悲しくなります。日本は国土の70%が山岳で占められ建物を建てるのに適し
 た平地がないためか、それとも人口が多い故か、どこに行っても小さな家がひしめいて
 います。





「フランス便り―夏」*  評より   2008/8/31  *同人α16号

◆住まいにおけるヨーロッパと日本の比較を面白く読みました。
 たしかに石造りの建物は重い壁を支えなければならないために、構造上大きくな巾の窓
 がとれないから部屋の中は暗い。しかしその反面暑さ寒さの外気の遮断には有利です。
 一方日本の建築は木材が豊富に産したから「まぐさ式」と言われる柱と梁の構造で壁を
 作らなくてもいいから、大きな開口が可能である。しかし外気の影響をもろに受ける。
 私は、住まいはその土地に産する建材を使い、長い年月鍛えられた伝統的な工法の建物
 が一番合理的だと信じています。石造りは重厚で外の自然現象を制御出来るが、レンガ
 なども含めて「組積造」といわれる物は地震に弱い。最近中国で起きた四川大地震では
 数万人の死者を出した地域の家も「組積造」の建物が多かったようです。その点地震国
 日本にはその工法は向かないようです。

◆陰翳について
 日本でも昔は日差しを避けるために深い庇を設けました。その辺のことを谷崎潤一郎は
 「陰翳禮讚」を1934年に書いています。もうすでにそのころでも谷崎が嘆くような薄っ
 ぺらな深みのない西洋的な建物が横行していたのだろうと想像します。今の日本の殆ど
 の家が深い庇を持たず、明るい部屋だけが価値あるがごとく明るければいいとばかりに
 ガラス窓だらけの家になってしまったようです。晴天の夏の日差しの紫外線をもろに浴
 びる部を、人体に影響を及ぼす害や落ち着かない居場所の喪失を文化的、近代的、洗練
 された生活と思い込むのはいかがなものかと憂うこの頃であります。

◆シエスタについて
 私も職場と家が歩いて五分と掛からない近さにありますから12時から2時まで家に帰り
 ます。食事をして30分ほどシエスタを取ります。期せずして私はラテン系の習慣を享受
 しています。また珍しい異国の文化を紹介してください。楽しみに待っています。





モリモト倒産    2008/11/29

 東証2部上場のマンション分譲のモリモトが東京地裁に民事再生法の適用を申請した。
思えばバブル崩壊の1994年ころ、地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災が起こった時期に
モリモトの仕事をした。 永代橋の自分の設計事務所を止めて日本橋の熊本さんの曉設計
事務所に入った年である。
 川崎市の溝の口や大田区の糀谷そして世田谷の上祖師谷に建つマンションの設計をした。
モリモトの事務所はまだ自由が丘駅の近くのプレハブの事務所ではあったが、十年近くの
うちに中堅のマンション業者となったようだ。我々はしかし上記の物件の後は取引がなか
った。この業界は土地を持ちこんで企画しなければ設計を貰えないのである。だから不動
産屋から土地の情報をもらい、その土地にマンションを計画した物をディベロッパーに持ち込
んで、採算が合えはゴーとなるわけで、それこそ限りなく基本計画をしてもなかなか実施
までには至らなかった。今思えばこの前後は苦労の多い十年だった。





不動産の所有権について    2009/7/3

 「シリーズ・歪んだ風景-沈みゆく家」の最終回で取り上げる、不動産の所有権につい
て何度も専門家であるE氏に問い合わせたが回答をよこしてくれない。私の件は重要度が
低いのか、金にならないから無視されたのか、それとも単に物忘れが非道いためなのか。
とにかくいくら待っても返事がなく、全く当てに出来ないことが判った。そこで現役の不
動産会社を経営している安芸さんに電話で頼んでみた。快くOKしてくれたので、質問事
項を前もってメールで送ることにした。
 これは一戸建ての家とマンションなどの区分所有法に関わるものとの違いがあるのかど
うか判らない。あるいは共通の単純な個人の所有権の問題なのか。ともかくも舞台がマン
ションの中の問題なので、それについての権利や規制を定めた法律を知りたい。

1.住宅ローンの残る住民が所有権をもったまま、その負債を完済しないで行方不明にな
  ったっ場合。債権者はその所有権を自分に移すことができるか。もしあるとすればど
  のような手続きが必要か。

2.負債のない住民が行方不明になった場合。その権利は永久にどこにも移換されないか。

3.もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を、都市再生をはかる公的機関が
  整理できるか。もし出来るとすればどのような法律のもとに執行するか。

4.もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を公的に再生することが出来ない
  物件を「闇の力」によって不正に統合する場合はどのような詐欺手段が考えられるか。




Eさんからのメール   2009/7/5

 念願の「シリーズ・歪んだ風景-沈みゆく家」の最終回用の資料がEさんから届いた。
依頼して半年ぶりで非常に助かった。判らない点、外のバリエーションがが存在するかあ
るかどうか詳しく資料を読んで、あれば再度教えて貰うつもりだ。

Q1住宅ローンの残る住民が所有権をもったまま、その負債を完済しないで行方不明にな
  った場合。債権者はその所有権を自分に移すことができるか。もしあるとすればどの
  ような手続きが必要か。
A 債権者には様々な種類があり、どのような債権者かということがまず問題ですが、答
  えを単純化するために、ローン債権者(一般的には銀行)と管理組合(管理費にかか
  る債権)の二つに限定します。
  この二つであれば、答えは単純になります。
  結論的には、所有権を移すことは極めて困難ですし、むしろ不可能というべきでしょ
  う。金銭債権は、訴訟提起をし、判決を得て当該判決を根拠に土地家屋を競売し、満
  足を得る、ということになります。金銭債権としてはそれで十分だからです。
  その過程で自ら競売で落とすということが可能ですが、それは偶然の産物というべき
  でしょう。
  行方不明者を相手に訴訟を起こすときは、債務者を履行遅滞にするために公示催告し
  ます。行方不明者ですから、応じないでしょう。そこで民事訴訟を起こします。民事
  訴訟も相手方に訴訟を起こしたことを通告する必要があり、これは、行方不明者の場
  合は訴状の公示送達をします。
  前述の公示催告も公示送達も裁判所の前の掲示板に掲示することによって行われてい
  ます。
  行方不明者ですから、期日に裁判所に出頭して反論するということはあり得ないので
  ただちに結審ということになり、勝訴判決が直ちに出ます。
  こんなことになるのは、民事訴訟は当事者主義が貫かれていて、反論しなければその
  主張が正しいとして判決が行われるからです。

Q2負債のない住民が行方不明になった場合。その権利は永久にどこにも移換されないか。
A その通りです。所有権の絶対性と説明されています。本人の意思以外で所有権が移転
  することは有り得ません。

Q3もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を、都市再生をはかる公的機関が
  整理できるか。もし出来るとすればどのような法律のもとに執行するか。
A 行方不明者という理由で特別に扱う制度は我が国には有り得ません。強制的に土地等
  を使用する方法は、道路等の公共的な施設を設置するために、公権力による強制収用
  の方法があります。これは成田空港用地を国が取得するためにやった方法です。都市
  再生のような理由で強制収用を行っていいかどうか、かなり議論を呼ぶでしょう。
  ただし、マンションの場合は、その建て替え等では、集団の多数意見が尊重される仕
  組みとなっています。
  その場合、意見の申出等で前述の公示催告等の方法を使用して、実質的に本人の意思
  を無視して実行していく方法があるように思います。しかし、これには、これから更
  なる勉強をしないと俄かには困難なものがあります。
  具体的に崩落しようとしているマンションをどのようにしたいのか、おっしゃってい
  ただくとその方法が見つかるかもしれません。

Q4もしそのような権利の残る所有者が行方不明の物件を公的に再生することが出来ない
  物件を「闇の力」によって不正に統合する場合はどのような詐欺手段が考えられるか。
A 一つは、単純に偽の売買契約です。
  もう一つは、本人の同意があったという文書の偽造です。
  いずれも行方不明ですから、短期的には問題になりえません、本人が気づいても後の
  祭りということになるでしょう。
  私はこの文書偽造の方法をお勧めします。一番単純で一番簡単だからです。
  法的には刑法に触れる方法ですので犯罪ですが、そこは闇の力ということになります。
  尚、マンションの場合は、闇の力に頼ることなく、誰かが偽造して後は誰もが知らん
  顔をする、というのが一番ではないでしょうか。これは古来から日本の伝統です。ど
  この村でも、この掟を村八分で守っているではありませんか。





分譲マンション管理費問題  2010/1/27

今朝2010/01/27の朝日新聞に「分譲マンション管理費-住まぬ人に増税額適法」という記事があ
りました。私はずいぶん前に管理組合の仕事から離れていましたのでこの問題が話題にの
ぼっていることを知りませんでした。当時から賃貸の部屋が増えると管理や環境に支障が
でることは身をもって承知していました。
「部屋をもちながら自らはすんでいない「不在所有者」には「居住所有者」より額を上乗
せしていいかどうかを争われた訴訟の上告審判決では26日「上乗せは許される」との判断
を示した。これは管理組合の活動が「居住所有者」に負担をかけ、不在所有者との不公平
感を和らげる手段として認められたものだ」と書いてあり、さもありなんと思いました。
万理さんのマンションでは早速この件に対して検討に入ったということは、管理組合が健全で
ある証拠でしょう。
私の「沈み行く家」はいかに管理組合の弱体によって、共同体が滅びてゆくかもテーマの
一つでした。区分所有の生活形態は様々な問題を抱えていることを、みなさんも知っても
貰いたいと思ったことでした。
「らぶれたー」の 「寡守(かす)」と「未時去(みぢこ)」はこれからどうなるでしょうね。
あわや落花狼藉かんらからから。
チリ人はご推察の人、しかし夜間飛行の前任の老パイロットとパチパチの頭脳明晰・矢理
久利上手・一寸異端女性ピエロのパイロットに摩り替わったことはご存知ないみたいです
ね。この世はだましだまされの世界、簡単に信じてはいけない。と中島義道はいっていた?


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夢 2

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月13日(火)09時14分49秒
  .


                 夢 2 2010-2012





   2010年、『てふの夢』 第23号 『夢碍无(むげん)』 第24号と立て
   続けに「夢」が入るテーマが続いた。もともと夢に対して関心がある赤松氏は
   この年より「無限回廊」という題の、まるで夢の世界をかけめぐるかのような
   作品を旗揚げする(現在も続いている)。科学的な考察と、夢と想念の世界を
   文学的に表現していくこと、両輪で迫っているようにも思える。





「同人α前書き-てふの夢」*より 2010/5/31     *同人α23号

◆ いまちょうど老子を読んでいる。窓を開けると暗闇の向こうから気になるほどの大き
 さで間断なく聞こえる沢の音も、窓を閉めると闇と無音の世界である。そんな時山荘の
 本棚で寝る前に睡眠薬代わりに読むものを探しているとき、たまたまこの本が目につい
 たという訳だ。期せずして神野佐嘉江氏の表題と一致したのも何かの縁なのだろう。
 まえがきにある老荘の思想は原始の世界、闇や無音や空や混沌の世界へ誘ってくれる。

◆「てふの夢」は「胡蝶の夢」という言葉で前から知っていたが荘子だとは思わなかった。
 老荘思想は老子、荘子(そうじ)、烈子、淮南子(えなんじ)と継承されていくが、道
 教という宗教になるといささかその思想と違うもののような気がする。なぜなら老荘思
 想は死後の世界は描かれてはいないので仏教やキリスト教などの現世と来世という基本
 的な構造とはちがうからだ。

◆また儒教と道教の違いは、いかに社会秩序を確立するかの問題をあつかって支配者の立
 場から見た儒教にたいして、老荘思想は個人の生き方、思想に目を向け無為自然を基本
 としたもので、何ら腹がふくれるものでもなく、なにかに役立つものでもない。

◆夢にちなんでは「てうの夢」の他に「邯鄲の夢」(または「粟粒一炊の夢」)というも
 のがある。
 「てうの夢」が今生きている世界がはたして現実であるか、それとも夢の世界であるの
 か、何が真実であるか確信が持てない。
 「邯鄲の夢は」は唐の時代に盧生(ろせい)という貧しい若者が、うたた寝を始めた時
 に、旅館の主人が蒸していた黄梁(こうりょう)がまだ蒸されていないほんの一瞬の間
 に自分の一生の夢を見てしまった。そこで人の一生というのは、このように短く、はか
 ないものだという故事である。





「しんき郎とかげ郎を読んで-2」より   2010/6/14

◆ファンタジーの文法「物語創作入門」と銘打ったイタリアの詩人で童話作家 のジャン
ニ・ロダーリ著の本をずっと昔、神野氏から頂いたことががあった。
童話を書くつもりではなかったが、SF小説や一般の物語に挿入する夢の話に  不思議な
雰囲気の気分を表現したい思っていたからだ。

童話の世界も夢の世界に通じる自由性がある。現実の「因果関係」「時間」「空間」「モラル」
「約束事」などの拘束から解放されて、空を飛んだり、人や動物に成り変わったり、過去
や未来に飛んで行けることができるから愉快だ。
そういう意味では童話という手法はうってつけであり、子供の自由な発想の奇妙奇天烈な
物語のなかに入り込み楽しむ事が出来るのである。たまたま集まった今の同人達はおしな
べてイメージを縦横無尽に飛ばす能力に恵まれていると思われる。現に宇宙や夢や仮想の
世界を描いた作品が多いと言えるのではないか。





「鈍色の空 合評のお礼-1」より   2010/6/25
*注)◇評者 ◆作者

◇1から遡って読んでみると、様々な女性が出てくることに改めて気づかされた。:

◆今まで女性との関係を詳細に記述することがありませんでしたが、今回はそのことを意
識して描きました。私はとにかく若いときからいままで女性にたいする定見を持ち得なか
ったので、むしろ性別を超えた独りの人間として接しようとしてきたと思っています。
若いときは女性をすべて自分を超えた存在として、憧れの目で見ていたようです。想念の
世界でアリサやレナール夫人に思いをはせても、現実の世界ではそのような純粋な思いが
持続するとは思えませんが、人は未だにそれを求め、文学や演劇や映画の世界に浸るので
しょう。実際はほとんどの人生においては、逃れられない些末な雑事がほとんどの時間を
支配していて、夢見るような幸せな恋心だけでは生きては行けないことはとっくに判って
しまいました。

◇たまたま作者から紹介された本が二ヶ月かけて先週図書館から通知がきた。タイミング
であろうか。一気に読み終えた。自然の描写、人間の描写等、読み比べる限り、作者の方
が工夫、ぬめり気、彩り、空気が一枚上手かと思った。
物事を客観視するところも似ているが、作者の方がもっと冷たく見ている。 その本とは
赤松次郎が汗をかき三省堂まで行き購入してきた本であった。本人より私の方が先に読ん
でしまった。:

◆佐伯一麦著の「木の一族」を読んでから、私小説の書き手として私は昔から彼に一目お
いていました。このたびの「誰かがそれを」のなかの「ケンポナシ」はこの木の話だけで
28ページにわたって書き、「誰かがそれを」では夜中に聞こえてくる訳のわからない気
障りな音について38ページを費やしている。これが純文学の世界なのであろう。
今回は以前の評価と違って私にはちょっと批判的な印象が残った。 それは個人の好みの
問題だろうが、この物語のリアリズムは想念の世界の夢や美や謎などの知的な好奇心をく
すぐるものがないのが不満に思えた。
と言うことは私はエキゾチスム・神秘主義・夢などといったものや、抑圧されてきた個人
の感情、憂鬱・不安・動揺・苦悩などを記述しようとするロマン主義的な傾向をもつとい
うことだろうか。





24号課題「むげん」の考察   2010/7/2

それにしても「無限」とは恐ろしい怪物を持ち出してきましたね。いま野矢茂樹著の「無
限論の教室」という本を本棚から見つけ出して見ていますが、およそ数理的なことに興味
のある人にとってはおそろしく難解で厄介なものと思います。この本の最初に「無限とい
うのは大小の概念とは別物、数や量ではない」と書いてあります。だから私は「むげん」
という言葉は夢限・夢現・夢幻・夢玄・夢源・無源・霧言・霧幻・霧眼程度にしておこう
かと思います。しかし、だから、皆さんの「無限」という怪物をどう料理するか密かに期
待している次第です。





「「蝶の夢、人の夢」を読んで-1」より 2010/7/9

私は人の深層心理に興味を抱いていたので、岩波書店のフロイト全集22巻をいま毎月購入
している。しかしなかなか読む暇がない。フロイトによると現実には達せられない願望の
表出であり、まずい行動の自己弁護であり、いろいろの加工を加えられているため、その
願望が何であるか、その屈折した状態の夢は解析するのに熟練を要するという。フロイト
の夢判断は少々性的な解釈に偏っていると思う。現実の暮らしの中では現れない人間の隠
された深層心理が夢の中では自然の法則や倫理観や因果関係や時間、空間の束縛から解放
されて現れてくるので面白い。

夏目漱石の「夢十夜」や石川淳や内田百や吉田健一の短編に出てくる、何とも不思議な情
景、そこはかとなくただようよるべなさ、面妖さの世界は私を惹き付ける。アリスの姉は
「私はあなたのように自由に夢、冒険ができないの。あなたが羨ましいわ。私はいつでも
待っているから、あなたはいつでも自由に冒険をしなさい。でも『アリス』であることを
忘れないようにね」という言葉はいろいろの問題を含んでいる。
私からの万理さんへの宿題
 1)「アリス」であることを忘れるとはどういうことか。
 2)冒険が出来る人と出来ない人の違いはなんであろうか。





「無限回廊のプロット」より  2011/1/2

◆ ある夢
 食べたものの遺伝子を取り込む人間の夢
 牛肉を食べて牛になったり、スイカを食べて種なしスイカになった。





「『あした天気になーれ・第四回』*感想のお礼」より  2011/9/21   *同人α28号

◆夢の話
たまたま最近フロイトについて書いた本を読んでいたら、夢判断のとっかかりはフロイト
自身の見た夢を解析したことから始まったとあった。彼自身にエディプスコンプレックス
の葛藤があったという。しかし学説を確立するために自分の体験を克明にデータにをとり、
ギリシャの悲劇を故事を例にとって追求するという、体系を確立する人の情熱と執念は並
ではないといえよう。

そして我々が見る夢についての解釈はそう単純ではない。フロイトによると、夢は自分の
行為の慰め、正当化、願望がそのままの形で現れる場合と、潜在的な願望が形を変え歪曲
されて現れる場合があるという。このような夢の変装を見破り隠された願望を探り出すた
めには、四つの夢の性質「不安」「退行」「抑圧」「検閲」について知っておく必要があ
ると言っている。
今回のカラマツ・ジローの夢は何だったのか、仮面の多い輩の夢をおいそれとが判断する
ことは間違った解釈を導き出す事になるかも知れず、正しい答えを導き出すには素人では
手に負えなくなってしまう。

万理さんは「この夢の節が今回の作品の中でどんな役割を占めるのかがよくわかりません
でした。次章(五回)以降のお預けでしょうか」と書いているが、その説明が次会にある
かどうかはカラマツ・ジローの心模様次第で、その夢の解釈もまた読者のみなさんの想像
を自由に勝手に飛ばしてもらって結構であります。





「天使ごっこ・悪魔ごっこ(7)九月を読んで」より  2012/1/4    *同人α29号

最初のころの号の不思議な浮遊感、どこまで夢かどこまで現(うつつ)かわからない表現
に作者独特の個性を見つけ感心していたから、この号ではじめて悪魔「晶」と天使君「秀」
が明確に表明さたころがちょっと違和感を覚えた。いや実はもう少し前「晶」が学生生活
を終え、社会に出てどんどん物語が現実味を帯びてきたころからの思いだったのかもしれ
ない。しかしこれは私の趣向という一方的な期待感であったから、なんら作者に強い注文
をつけてベクトルの方向を変えさせようというつもりはさらさらなかった。だが今回、最
初の読み始め印象とはちがい、またあの夢か現(うつつ)の間に浮遊する「晶」と「秀」
の関係が見事に表現されていて、これはなかなかいいぞと思った。

◆詩について
  詩といえば昨年の大晦日に駿河台下の三省堂へ行き、現代思想の特集「ニュートリノ/
 相対性理論」と「詩をどう読むか」・テリー・イーグルトン(岩波書店)の二冊を買っ
 て、正月休みに具えた。その詩の本によると「詩における言葉はいつも使うありきたり
 の言葉でなく、言葉への特別の自意識をもつようなものを選ばなければならない。
 言葉にはそれぞれに固有の響き、高低、密度があり、詩には他の言語芸術よりもそれら
 をたっぷり利用しなければならない」とある。

  今回の詩<朝流れる光の粒>を読むと、情景は不思議な浮遊感と隠喩に富むが、もう
 一つ統一されたイメージ、韻律、リズム感は少ないようだし、文語、口語の混在に違和
 感があるような気がする。韻文と散文のちがいは勿論韻やリズムなどの有無の違いもあ
 るが、作者が自由におこなう「行の切り替え」も大きな要素と成る。改行によって意識
 の変化・飛躍をさせることももあるし、その一瞬の沈黙の間に緊張感や強調感をもたら
 すのではないだろうか。その点でみると行の長さも不揃いだしリズム、同じテーマによ
 るリフレインもなくどこに焦点があるか判らない。・・・ちょっと厳しい評でしたか。
 だが作者は独特の鋭い言葉、想念、象徴、隠喩、シュール、ウイット、アイロニーなど
 を豊かに持ち合わせていると思いから、これから創作を重ねるうちにきっと素晴らしい
 ものが出来ると確信している。





「あした天気になーれ 第6回(最終回)*評のお礼」より    2012/3/10    *同人α30号

「赤目四十八瀧心中未遂」を書いた車谷長吉の言ではないが、「小説はいかに人物を描く
か」。はたしてカラマツ・ジロー、細君、チキン・ジョージの三すくみ掛け合いや人物像
がうまく描けているかどうか気になるところです。ご愛読ありがとうございました。
私の一番書きたかったのは第4回の夢の話。女性がカラマツ・ジローの左腕にすがり寄り
「あなたは今までずっと私を受け止めて呉れなかった」と言ってジローの目をのぞき込む
ようにじっと見つめた。男と女は常に細い糸の引き具合、夢見て恋して諦める。
そんなだばだばだの世界・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=SlFWzNfC6Yk&feature=related





山荘便り   2013/3/10

  先日ポール・ハーディング著「ティンカーズ」(小竹由美子訳 白水社)という本を読
み終えた。ちなみに題名の「ティンカー」とはどういう意味か。辞書によると「いかけ屋」、
「へたな職人」とある。
 物語は時計修理人の主人公ジョージ・クロスビーが死ぬまでの八日間に、父親のハワー
ドや家族との思い出とともに、様々な幻覚をみるという筋である。その父親は森のなかの
人々の要求を叶えるために、ティンカー、ティンカー、ティン、ティンとバケツやナベな
どの金物のぶつかる音をさせながら、荷馬車で色々な生活雑貨を積んで売り歩く暮らしを
していた。時には鋳掛け屋、鍋細工師としての仕事もしたが、たいていはブラシやモップ
の行商人だった。

 主人公ジョージの死の床での思考はすでに朦朧としていて、白昼夢にちかく時系列に従
わないもので、読者の私にとっては筋を追うことに難儀をした作品だ。とはいえ、私の読
書傾向は推理小説や冒険小説や時代小説のように筋を追う物語よりは、意識の流れを描く
ものが多いようで、いつも苦労している。しかし好みとはやっかいなもので、謎解きや事
件の進行など喜楽に読める作品でも、好みでないものはすぐに途中で投げ出してしまうの
だ。それに名前と場所と環境を変えただけで同じプロットで繰り返されるシリーズものの
小説等、その作り手の安易さ、読者の興味を刺激することばかりに気を配った作品、最後
にどんでん返しを得意とする技巧をこらした作品にはうんざりだ。



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すきま風 2

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月 4日(日)13時37分48秒
編集済
  .

すきま風 2  2009-2011





世界沈没

 「世界沈没の恐れについて」にいみじくも碇さんの書かれているように、天敵のない人
間の一人勝ちの今、人類の将来は危うくなっていくように私も感じます。
 産業革命以来人口が増え続けました。それにともない人々や産業が大都市に集中しまし
た。いまやいろいろな面で効率の良い社会を作くりあげた「集積利益」が、留まるところ
を知らない欲望でもはや「集積不利益」に転じています。人口集中による交通の渋滞、空
気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、偏狭な民族主義や拝金
主義や利己的な人々の心の荒廃などであります。
 過去にはコレラやペスト、インフルエンザなどの病気の猛威によって、また絶え間ない
大きな戦争のなどで人口が減る事もありました。これは天の配剤だったかも知れません。
地球はそんなことで壊れることはなく、もっとはるかに強かでタフですが、この地球上の
人口が100億になったらますます過密になり食料やエネルギーの奪い合いになり、人類自
らの歴史を閉じる恐れもあります。碇さんの報告を見てそう思いました。
 俳句では 観月やひとりくらしのひとり酒  が私は一番すきです。昔井上靖の「あす
なろ物語」に 寒月が掛かれば 君を偲ぶかな 愛鷹山の麓に住もう という詩を思い出
しました。碇さんの句はそこに居ない人への思いが深く心の奥底に沈んでいるように思え
ました。

「碇さんの作品の合評」より  2009/2/13





定額給付金

 これでも選良の考え出した政策かと疑うほどの、なんともお粗末な定額給付金がいよい
よ支給されることが決まった。もはや選良と呼べる議員はほとんどみあたらぬが・・・。
さてそれを受け取る、あるいは拒否する、矜持を保つ者、そうでない者の思いやいかに?
●与党議員は呟く:これで選挙が戦える、票が買えた。
●野党議員は呟く:これで新たな社会の狂想曲が始まる。そのうち化けの皮が剥げる。
●詐欺師の親分は:いまが千載一遇の時、腕の見せどころ、全国をくまなく歩き騙し取れ。
●麻生総理は訴える「詐欺師に告ぐ!! 罪一等を減ずるから瞞した金を即刻使ってくれ。

「ついに定額給付金の支給が決まった」  2009/3/6





違法献金

 今朝の朝日新聞のコラムに「検察には説明責任がある」という、ジェラルド・カーティ
ス米コロンビア大教授の意見が載っていた。「今回の東京地検特捜部による小沢一郎・民
主党代表の公設第一秘書の逮捕と事態の展には、解せないものがある。逮捕から1週間あ
まりたつのに、検察当局は強制捜査に踏み切った理由については説明をしていない。これ
はどうしたことか。
 この事件は普通の政治スキャンダルとは質的に違う。数ヶ月以内には総選挙がおこなわ
れ、政権交代が取りざたされている、この微妙な時期に「政治資金規正法」という形式犯
で、次期首相になる可能性がある人物の公設秘書をいきなり逮捕するとは、きわめて異例
である」。という記事である。
 まさに体制が変わることを好しとしない力が働いていると勘ぐりたくもなろう。与党、
野党を問わずたいていの議員は「政治資金規正法」の塀の上で活動していることを国民は
感じている。だからといって疑惑を晴らすなといっているのではない、そのことよりもも
っと重要なことは、長く続いて管理能力を失って制度疲労をおこしている与党の続投を認
めるか、アメリカのように行き詰まった社会を刷新するために政権交代を求めるかである。
よくいまの民主党は政権能力がないという意見があるが、やらせてみなければわからない。
政権が変わらなければ錆付いた欠陥だらけの組織は新しく生まれ変わらないと思う。マス
コミは政治家がやる気をだすと不倫などの個人的なことで本人の足を掬ったり、ささいな
スキャンダルで面白くおかしく騒ぎたてたりするが、我々はそれに目を奪われることなく、
いまの日本の政治に求められている本当に重要なこと何なのかを見極めなければならない
と思う。

「違法献金事件」より 2009/3/12





WBC

 O氏の美容院での会話のレポート面白く読みました。
しかしその店員の 「これはそんなに騒ぐ程の事じゃないですよ。その理由は出場国でプ
ロの球団があるのはアメリカ、日本、韓国だけで、後は素人相手だし、アメリカは一線級
をあまり出していない」には多少の異論があります。
そこでいろいろの観点から野球というスポーツを考えてみましょう。
1.プロの球団がある国について
  上記の国だけではなく、台湾、中国、フィリピン、カナダ、メキシコ、 ドミニカ共和
   国、プエルトリコ、ニカラグア、イタリア、イスラエルなど 思ったより多いと思いま
   した。
2.アメリカは一線級の選手を出していないについて
   アメリカのダイリーガーの約70%は外国人であるといわれています。
  だからすごい一線級の選手はそれぞれの母国から出場しているわけですか ら、アメ
   リカの選手がすべて超一流の選手ばかりとは言えないでしょう。
3.日本と韓国のチームが勝ち残った勝因は
   体格や運動能力にたよった他の国々の力任せの戦いと違い、その不利を補うために技
  術の緻密な研究と鍛錬による頭脳的な戦いにあったと思われます。

4.サッカーやラグビーなどの運動と野球の違い
   野球は攻撃する時間と守備する時間がはっきりと分かれていますが、他のスポーツは
  一瞬にして攻守が変わります。だから投手とバッターによる勝負がほとんどの野球と
   違い、その他のスポーツは全ての選手が攻守に関わってくるからスピート感に満ちて
   いて常に緊張しています。攻撃の側のチームは打者以外はなにもしないで見ているだ
   けでしょう。

  体の筋肉の使い方もまた全く違います。 その他のスポーツは走ることが主であるため
   体全体の筋肉をバランスよく使うが、 野球は球を投げるにしてもバットをもって球を
   打つにしても片方の筋肉だけ使い偏った運動で出来上がっています。 攻守が厳密に別
   れているルールのゲームといい、 肉体のバランス上からいっても選手の筋肉の使い方
   に偏りが  あると思います。
  といろいろ考えてみると野球というゲームは、 他のゲ-ムとはやはり異質なものと見
   えます。 現代はスピードの時代、野球は勝負を決するのに他のゲームより時間がかか
   るし、攻守の瞬時の交代がないために緊張する時間がとぎれます。 一時間前後で勝敗
   が決まる  他のスポーツに人気が集まるのも判るような気がします。 さて、野球もう
   かうかしてお  られません、もう一度その時代遅れを取り戻すために一層の改善が必
   要と思われます。

「WBCの話」 2009/3/24





追加の小言

◆ 東京オリンピック招致について、私も今更という感じを持ちます。虚勢の強いシンチ
 ャンですから、死ぬ前に歴史に名を残したいのでしょう。むしろ未だに開催されたこと
 のないアフリカや南アメリカに譲るという度量がないのでしょうかね。メダリスト達も
 体躯協会などに属しなければ活動出来ないという足枷をはめられているのでしょうから
  可哀想なものです。
◆定額給付金については、将来を見据えた政策とはとても言い難い代物と思います。やは
 り選挙目当ての撒き餌でしょう。どこに隠していたのか、それとも二年後に国民からし
 っかり徴収するのか、もっとミーハーに受けそうな大盤振る舞いの追加予算を出してき
 ました。責任を感じなければ国民の金を使うのは楽しそうですね。政治屋さん公僕さん!!
 私はその餌に釣られたふりして使いましょう。もとは私が納めた税金ですから。
◆大型連休は人混みと渋滞がいやですから、家に籠もってテビのニュースで皆さんの忙し
 く動き回る狂想曲を見て楽しみましょう。金もETCも搭載していない、単なる「引か
 れ者の小唄」に過ぎないだけの話です。
◆タレントの政界進出は、能力が備わっていれば拒む理由はありませんが、能力がありそ
 うな振りにだまされないように。もともと受け狙いが職業だから、人の心に響く心地よ
 い言葉を見つけ民衆をそそのかすことには長けているでしょう。東京のシンチャンや大
 阪の泣き虫君や宮崎のサイヤ人(ドラゴン・ボール)など多士済々。声の大きいだけの胡
 散臭い熱血漢を千葉県民はよく選んだもので、民度が伺いしれるようですね。そのうち
 選良と言われる職業はテレビ経験者で満たされそうだと危惧します。マンガ好きの金持
 ちスネオ君の政治手法でマンガやアニメが教科書になるかもしれませんよ・・・今に。
 国民みんなコスプレを着せられ外国の旅行者を迎える観光立国にしたら将来千年これで
 食えるかも知れません。
◆民主党の辞めないジャイアンについては,私は別の見方を持っています。彼がやって来
 た政治資金の処理は厳密にみれば、かなりきわどいですが違法ではないと思います。ほ
 とんどの議員がやっていることで、それは法の不備によることでしょう。私は政権を交
 代して数十年におよぶ自民党の悪政、管理能力不足によってガタガタになった国の機能
 を立て直すには、ジャイアンの豪腕しかないと考えます。その既得権を失いそうな人達
 の危機感が今回の秘書逮捕になったと思います。ここはぐっとがまんして政権交代の可
 能性のあるジャイアンに賭けたいのです。汚いの潔いよくないのと言った感情論で後退
 するような信念のない政治家はいりません。だから民衆が政権交代という変革より小さ
 なスキャンダルに惑わされて、政党支持の態度をコロコロと変える安易さが判りません。

「小言幸兵衛さんの小言によせて」 より 2009/4/23



森田健作氏を告発する会

 別のホームページでも書きましたが、吟遊視人さんの話題について私も感心があります。
タレントの政界進出は、能力が備わっていれば拒む理由はありませんが、能力がありそう
な振りにだまされないように。もともと受け狙いが職業だから、人の心に響く心地よい言
葉を見つけ民衆をそそのかすことには長けているでしょう。東京のシンチャンや大阪の泣
き虫君や宮崎のサイヤ人(ドラゴン・ボール)など多士済々。声の大きいだけの胡散臭い熱
血漢を千葉県民はよく選んだもので、民度が伺いしれるようですね。そのうち選良と言わ
れる職業はテレビ経験者で満たされそうだと危惧します。マンガ好きの金持ちスネオ君の
政治手法でマンガやアニメが教科書になるかもしれませんよ・・・今に。
 しかし1000円払って「森田健作氏を告発する会」に参加するのは止めておきましょ
う。意見はおおいいいますが、これは千葉県民の問題ですから彼らに任せて、高みの見物
とすることにしましょう。

「森田健作氏を告発する会」について より2009/5/12





靖国神社参拝

 F氏6月4日投稿について、私なりの異論を述べます。「日本の代表たる首相が靖国神社
を参拝しないのは、中国や韓国やその他の国の非難に負けて、日本の伝統や文化や歴史の
独自性を全うしないという行為は、情けないことである」と主張されています。 しかし
これは視野が広くリベラルな風鈴さんとは思えない一方的な乱暴な解釈と私には思えまし
た。問題点は3つあると思います。一つは靖国神社、二つ目はA級戦犯、三つ目は参拝の
問題
◆靖国神社
 戊辰戦争以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉死した日本の軍人、軍属等を祭
 神とする、東京招魂社という一介の神社から、国威発揚のために戦前は内務省が人事を、
 陸軍・海軍が祭事を統括するものとなった。戦後は、東京都知事認証の単立神社(単立
 宗教法人)となり神社本庁との包括関係には属していない、と一応政教分離の形をとっ
 てはいるが、いまだに政府機関のなかに繋がりを持った部署もあるという。そして、も
 っぱら天皇のために戦死した軍人などをまつる靖国神社は刑死・獄死したA級戦犯を七
 八年に合祀(ごうし)し、侵略戦争を“正義の戦争”とする立場を鮮明にしている。小
 泉首相の靖国神社への参拝強行は、同神社の侵略戦争肯定の立場を共有するものです。
◆A級戦犯
 A級戦犯とは戦争犯罪人の処罰を定めたポツダム宣言にもとづき、極東国際軍事裁判
(東京裁判)で処罰された人達である。
 サンフランシスコ平和条約で、日本は東京裁判などの軍事裁判の結果を受け入れること
 が規定されており、法的には日本は国家として判決を受け入れている。それより私は日
 本国民が自ら戦争責任を追求することのなかったということである。ドイツはいまだに
 第二次世界大戦の戦争犯罪裁判をしているという。近隣諸国や日本国民に多大な犠牲を
 払わせた指導者が、やむを得なかった、成り行きだったということで責任を回避
 することは許されないことだと思う。
◆参拝の問題
 中国や韓国は戦犯者が一般の戦没者と合祀されていることを問題にしているのであっ
 て、国のためになくなった戦犯以外の人たちを祭り参拝することに反対してはいない。
 個人的に今の靖国神社にお参りすることは信教の自由であるから一向に問題はないが、
 公的立場で国を代表する人たちが参拝することは政教分離からいってもおかしいと思う

 アメリカのアーリントン国立墓地のような、あらゆる宗教の戦没者を祀ることのできる
 無宗教の施設を早く作るべきである。
 風鈴さんは、日本国の象徴及び日本国民統合の象徴である今の天皇が靖国神社の参拝を
 拒否していることをご存じであろうか。

F氏の「靖国神社参拝について」より 2009/6/6





脳死問題

 真夜中の二時頃にふっと目覚めた。そして隣で熟睡している細君の規則正しく呼吸する
寝息を聞いていると、ふと「脳死ははたして本当に人間の死として正当性があるのか」と
いう以前から抱いていた疑問が再び湧いてきた。
熟睡しているときは脳は働いてはいない。しかし「自律神経系」により循環、呼吸、消化、
発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝のような機能は脳が休んでいる時で
も律儀に働いているわけである。だとすれば、脳が死んでも生命体としての機能は生き続
けていると言わねばならない。逆に考えると、心臓や肺などの自律神経系が壊れたら、す
なわち脳だって生き続ける訳にはいかないということだ。
 だから、脳死が死と法律で定めることには違和感がある。脳死であれば当然食をとった
り動いたり意志を伝えたりはできないから、いずれ死に至るのは必定ではあるが、だから
といってまだ生体が生きているのに死の宣告をする行為は許されるのか。そこまで社会の
便宜に呼応して良いものだろうかと思った。

「再び脳死問題」より 2009/8/5





2009年衆議院議員選挙

 このたびの衆議院選挙においはて色々の見方があるが、私はしがらみや情実ではなく個
人個人が自分の頭で考えて決断をくだすようにやっとなったかという感慨を持たせるもの
だった。たとえマスコミなどの面白おかしく書きたてる情報に影響されたとしても、沢山
の情報を取り込み自分の頭で考えた訳だから、戦後持ち込まれた民主主義がやっといま市
民のものになりつつあり、それが自分たちの生活は自分たちで決めるという地方自治への
思いが少しづつ根付いて来たように思えた。
 一方、自民党の大物達の敗北の弁を聞いていると、麻生首相のせいだとか民主党の甘い
ばらまき政策のせいだとばかりに言っているが、長年党に居座った人達の能天気ぶりに呆
れてしまった。国民は50年以上の一党支配で、政・官・財の構造というハード面でも、
公務員の奉仕精神や企業のモラルというソフト面もガタガタになってしまっている現状に
幻滅したからである。そして、民主党がはたして既得権や利権構造などをぶち壊して、新
しいパラダイムを構築できるかは未知ではあるにもかかわらず、自民党の自浄能力のなさ
に見切りをつけたからであると私は思っている。
 この選挙結果において自民党は壊滅的打撃を予想され、それでもまだ再生する可能性は
残っていた。しかし小選挙区制と比例代表制の欠陥というべきか、森 喜朗のような古い
手法の派閥の領袖達が小選挙区で落ちながら、比例代表でソンビのごとく生き返ったこと
である。新しい改革の力を秘めた若い人達が押しのけられて、党内調整に長けた古株が依
然として跋扈する自民党にはもはや未来はないと思った。世の中の変化を感じることも出
来ない古株は、火鉢のまわりで現状を嘆き昔の手柄話に慰めをもとめる姿がふさわしかろ
う。だから渡辺嘉美のように心ある若手は離党して新しい党に結集したほうがよいと私は
思った。

「戦い済んで日が暮れて」より  2009/9/2




大学入試不正事件

   皆さんの投稿を見ているといつも問題点の分析をしないで、十把一絡げの偏った意見
が多いように思える。この事件を論ずるにはまずいろいろの観点があることをどうして区
分けしないのか。そうすれば、簡単ではないにしても少なくともそれぞれの問題解決の方
法が見えてくると思うのだが。
まず
1. 学生の倫理観の問題
  大学合格の必死の願いがあったのは理解できるが、己の心のなかの良心に照らし合わせ
て見たのか。そんなにしてまでそのことに賭ける意味があったのか。
たとえ不正が見つかることなく合格したとしても、一生その負い目は自分の心に付き纏う
ことはないのだろうか。
  私も二度そのような誘いがあった。それが不正と言えるかどうかは単純に判断はできな
いが、一度目はさる代議士の秘書から大学の裏口入学への斡旋の話があった。もう一度は
大学を出て就職するときにまたその秘書から、大企業への斡旋の申し出があった。これら
はこちらから話を持ちかけたことはなかったが、その当時は代議士の秘書達は票を集める
ためにという当然の仕事だったようで、知り合いの子息には声をかけていたようだ。しか
し私は一生自分の力以外の方法で得たものにたいして負い目を見ることを厭ったので、そ
の二つの申し出を即座に断った。希望大学や選考の学部選択も、そしてこのような斡旋も
また両親には相談したことはなかったので全く親は知らなかったであろう。結果として希
望の大学や大企業には入れなかったが、そのとき私の心に宿った正義や倫理感そして独立
自尊の精神が今の自分を作っていると思っている。結果が良い悪いはべつとして・・・。

2. 手段の問題、防止の問題
  最先端の技術を使った不正の方法が判って、そのメカニズムが悪いという論はいただけ
ない。古代中国の科挙の試験でさえそのようなカンニングがあったようだから、これから
もそう簡単にこのようなことは一掃できないだろう。いろいろな方法が出現するだろうが、
一つ一つ対処する他はなさそうである。

3. 刑罰の問題(偽計業務妨害容疑)
  どんな法律で取りしまるかということは専門家でないから判らないが、その一方その条
文がないから罰を与えられないという考えもまたおかしい。この程度のことでそこまで懲
罰を求めたり、大げさに騒ぐこともあるまいという意見もあるが、それもまたおかしい。
真面目な受験生にとっては、同じ条件の下に選抜されることを前提とするならば、このよ
うな公正を損なうことになる不正を見逃すべき問題ではないと思うだろう。たとえ不正が
ばれることなく受験に成功した場合は、当然成功した生徒の中には彼の代わりに落とされ
た人もいるだろう。それを考えると、間違ったことをしたのだから、軽重はともかくそれ
なりに懲罰を受ける必要があると思う。

4. 社会的影響
  そんな不正の行為者の代わりに落ちた学生は、知らないうちにその人の進路を狂わされ
たというべきで、罪悪感も感じない不正な人が増えることは社会的公正さを保証されない
社会になるだろう。やり得の思想がはびこらないのか、正直な生き方が馬鹿を見る社会が
いい社会なのか。
  高度成長時代、バブル景気の時代、二年前のリーマン・ショックの嵐に晒されたアメリ
カの自由至上主義による拝金主義の歪みは反省されなければならない。
  生活者と関係のないところでなされる、儲けるためだけの石油や食料の投機はマネーゲ
ームを呼び、強者・弱者、富者・貧者の格差を生じ、このような社会的公正を欠くことは
結果的に不安定な社会を生むことになる。だからこの問題は些細なことではなく、これか
ら未来に向かっての大事な心の問題、価値観の問題、生き方の問題なのだと思う。

戯評-大学入試不正事件について   2011/3/4

1180

 

すきま風 1

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月 4日(日)08時28分7秒
編集済
  .

すきま風 1  2007-2009





間尺の合わない理不尽さ

 この世の中はじつに不都合なことが多い。例えば法律、加害者のためではないかと思わ
れるような人権に関するもの。例えば証拠不十分なため詐欺罪が成り立たないとか、昨今
の法の盲点をつく某大臣などなど。また、子供に知らない人は皆暴漢かも知れない教えな
ければならない社会は悲しいことだ。

 役所の窓口は実に不親切です。判らないからこそ教えを請うているのに「こんことも知
らないのか」というような不遜な態度をする。担当者の名前を聞いて「上司を出せ」と言
えば多少態度は改まるのだが、そこまでさせられる不快さは自己嫌悪を伴うこともあり、
後々まで嫌な思いが残ってしまう。そういう態度の担当者だって社会の全てを知っている
訳ではなく、時には違う立場に立ったとき自分の無能さを恥じることだってあるはずだ。

 そのような面倒なことを勉強したいという好奇心が強い人や金や暇を惜しまない人はそ
れもいいだろうが、職能と言われる人達を身近な友達として持っていることは、たとえ電
話のなかのアドバイスだけでも、精神的にも助けになることが多い。例えば医者・弁護士
・会計士・建築士・司法書士など。しかしもしそのような人が身近にいない場合でも、困
った時は費用がかかってもそれらの職能に頼んだ方が効率もよく安心できるので極力そう
するようにしている。

 このごろはあれは納めたのかなとか、もうそろそろ納税の時期だがその納付書が来ない
のはおかしいなどと気を病むことはしなくなった。彼らは絶対に請求を忘れて取りはぐれ
することはないと信じるから。しかし一度十数万円の還付金があるという書類が来た。私
はその件で還付される覚えはなく、事務所の経理を依頼している経理士に調べてくれるよ
うに頼んだが、決算や確定申告をした当人も還付の理由が分からないといってきた。もし
向こうが間違っていたとしたら、絶対に言ってくるからという結論にいたった。その後、
郵便局にも税務署の書類もあって照合したから間違いはなく、まあともかく十数万円は懐
に入ったのである。しかしいまでもその還付の理由が判らないし、今でも戻せと言ってこ
ないのであるからそれは正当なものであったのだろう。

 それはいいとして、予定納税という制度があり、前年の税額に見合った金額を一年分前
払いしろというものだ。そこまではともかくしょうがないが、一寸でも遅れると延滞金が
付いてくる。そんな馬鹿な事があるか、前払いする金に金利を付けるとは、前払いする金
から金利を引いて安くしてやるというのが理屈ではないかと怒りたくなる。

 人生知れば知る程悲しみを増すように、長生きすることはそのようなたくさんの間尺の
合わない理不尽さを背負い込まなければならないことか。一つ一つ解決していく根気も少
しずつ衰えて来ることが老いなのか。
]
「後見人始末記・その1-感想」より  2007/5/26





突然の辞任

◆ 安倍首相の突然の辞任劇には子供じみたものを感じたのは私だけではないだろう。同
  情する部分もあるが、最高権力者としてはいささかどうかと思う。きっと官僚や自民
  党の反対勢力によるイジメに屈したのだろう。それにしても辞め方が美しくない。
◆ 「美しい国日本」を創ろうと提唱した張本人が一番「美的感覚」から遠いところに居
  たのではないかと感じられる。囲碁でも大敗する時は「投げ場」をつくるといって、
  確かに負けましたという状態をつくり石を置き、それ以上勝負をしない、所謂「投げ
  出す」のである。それは相手の勝ちを認め、自分の負けを宣言するという一種の美学
  である。
  結局は確固たる理念も、ことを勧めるために必要な果敢な決断力も持ち合わせなかっ
  たということで、首相としての器ではなかったと言えるのではないか。

「独・偏・戯評」-安倍首相辞任について」より 2007/9/12





「国家安全保障」論

 攻め入られた場合はどうするかとか、国の主権を侵さたらどうするか、とかが現実的な
問題かどうかは仮定の話だから想定の仕方では「核には核を」とか、いや非武装中立が理
想だという、いろいろの考え方があるが出来るわけです。しかし私個人の日本を取り巻く
現状認識では北島氏の論におおむね賛同します。その理由は
◆自国内の不協和音から眼をそらさせるため、外に敵をつくり必要以上に脅威を煽るのが
 為政者・権力者の常套手段だから。北朝鮮の瀬戸際外交、アメリカのテロの脅威などを
 主張して無謀な戦争に駆り立てたことが良い例である。それに軍拡を望む人々、それに
 より利益を享受する政治家、財界の一部がいる。
◆国民の生命や国家の主権を守るためなどといった大儀名分を掲げて、庶民の善意や素直
 さを良いことに、その悪巧みを覆い隠して主張する。
◆これ以上軍備を拡張しても効果は少ない。現に飛び抜けた軍事力をもっているアメリカ
 でさえアフガニスタンやイラクを制圧できないのだから。
◆国境の近辺の小競り合いや、力の誇示や挑発は想定出来るが、強力な軍備を持ったから
 といって、相手の国に攻め入って完全に打ち負かす外はそのような問題を完全に解決す
 ることはできないだろう。
◆人々の平和や命を守るために人殺しの武器を携えて戦争する(他国の人々を殺す)という
 こと自体が自己矛盾である。そこに気がつけば、即現実的な問題の解決が望めなくても、
 それを目指して進むという精神を失ってはならないと思う。
◆きれい事をいう者とか勇ましい奴の尻馬に単純に乗ってはいけない。それは為政者・権
 力者側の走狗かもしれないのである。

 「国家安全保障」論の根拠とされる、いわゆる脅威論について 感想より 2008/4/4




地球温暖化

 地球温暖化に対する解決方法はまだ世界の国々の十分な理解と実行において足並みは揃
っていない。また北海道サミットにおける「途上国への原子力導入のための基盤整備」が
必要であるという途上国向けの決議は、CO2の排出は減少するかも知れないが、いささ
か毒をもって毒を制するような違和感を覚えた。核兵器ばかりではなく核廃絶運動の意味
のなかには、原子力発電も含めたものと考える私には、別の深い思惑(原子力発電のノウ
ハウを持つ国の商業的な思惑)が潜んでいるのではないかと疑いたくなるのである。
 排出権取引というシステムにもまた、何だか「地球温暖化を防ぐ」という高い理想を「売
買という現実的な損得勘定」に置き換えなければ進まないという、人間の弱点を利用した
システムのようでスッキリはしない。
 政府は排出ガスを減らすために個人個人の努力を奨励するが、まだ使える物を破棄して
省エネの家電製品の買い替えることがはたしてそんなに効果が期待出来るのか。新しい省
エネ製品もまたエネルギーを使い、ガスを排出しながら作られるからだ。それはちょうど
贈答品の派手なやり取りで景気が良くなると勘違いするのと同じで、田舎の蔵の中は使わ
れもしないキッチュな贈り物で満たされ、なんら人の暮らしを豊にしない、見せかけだけ
の繁栄と同じように見える。
 我々は今、産業革命以来の大量生産大量消費の時代が豊かさの証であるという思想を見
直さなければならない。エネルギーの無駄遣いを止めなければならない。ということを北
島氏の文から私は受け取った。

「地球温暖化について」の感想 より2008/10/21





カザ空爆

 ますます紛争は拡大して地上戦に移りそうです。これは吟遊視人さんのいう通り全く理
不尽なことです。このようなことを許している欧米の正義とやらは突き詰めれば国益が最
優先のものでしかないということが判ります。
今日に至ったイスラエルの問題は二つあると思います。
 一つは、紀元前721年「北王国イスラエル」が、アッシリア帝国に滅ぼされてアッシリ
アに捕囚され、紀元前586年には「南王国ユダ」も新バビロニアに滅ぼされユダ王国の民
は「バビロン」に捕囚される。それ以来亡国の民となって世界中に散らばっていく。しか
し国々での土地の所有を許されない根無し草の生活は、勢い金融や学問や音楽などの芸術
に向かっていった。その土地の者はよく考えてみれば、土地を耕したり物を生産したりす
る自分たちよりもユダヤ人が経済や学問や芸術の世界を支配して上流の生活に収まってい
るのに気づいた。そこからユダヤ人への差別と排斥の感情が生じた。ユダヤ教という戒律
の厳しい宗教で結ばれた排他的な人たちではあったが。決してユダヤ人がその国の法を犯
すような人たちではなかった。
 二つ目は、第2次大戦のあと欧米の国々は、国内で行われていた差別や排斥などの罪の
意識と、経済や学問や芸術の面での隠然たる支配にたいする恐怖もあって、一種の厄介払
いの思惑もあって、数千年も前のユダヤ人の国家であったイスラエルに再び建国させたの
である。そこにはパレスチナ人がすでに長い年月住み着いていたにもかかわらずである。
当然ユダヤ人とパレスチナ人の人口や経済的な力関係のバランスが崩れるのも意に介さな
いで・・・。だからイラクやソマリアやルワンダやケニヤの紛争の責任はすべて帝国主義
を標榜して世界を蹂躙した大国のエゴによるものである。しかしそれにしても今のイスラ
エルはアメリカという老虎の威を借りた狐のようではありませんか。
 とまあ、このように吟遊視人さんが心配されるまでもなく、アンチ体制、アンチ常識、
アンチ仲良し主義の臭いは捨てた訳ではありませんので。

 「イスラエルのカザ地区への空爆のこと」 2009/1/4





イスラエル戦争犯罪特別法廷設置

 イスラエル戦争犯罪特別法廷設置を求める署名を今日しました。被害状況の写真の中に
衝撃的なものがありました。崩れた建物の間から多分もう死んでいると思われる、頭だけ
出ている子供の写真。
 ハマスが打ち込むロケット砲によるイスラエルの被害者数十人と、イスラエルの正規軍
による攻撃で死亡したパレスチナ人の1300人に及ぶ被害と比較しても、その犯罪性は
歴然としていると思いましたので署名しました。

「イスラエル戦争犯罪特別法廷設置を求める署名」より 2009/1/25





イスラエル戦争犯罪特別法廷 2

 M氏の「まともな感性」は吾にありと言っておられますが、そうでしょうか?1700年
前のことはともかく、一度現代のイスラエル国家の成り立ちを調べてみてください。パレ
スチナ人の住んでいる今の土地にかなり強引に入植した経緯が分かります。パレスチナ人
は[軒先を貸して母屋をとられる]という表現がぴったりするようなもので、イスラエル
の建国はかなり強引で無礼な行為に感じられます。
 その当時イギリスが植民地として今の土地を統治していましたが、イスラエル人の入植
を制限したイギリスに対して、イスラエル人はテロ行為を行ってその権利を獲得したので
す。だから今のハマスのテロ行為と同じことをやってきたといえます。しかしパレスチナ
人のそのテロ行為はイスラエルの国家成立・その後の差別・蹂躙の被害者であったわけで
イギリスにたいするイスラエル人のそれとは全く反対の意味があります。
 中東戦争に関わった国益や面子に偏った西洋の大国やアラブ側などの仲介による話し合
いなど、根本的な解決にはあまり期待できない。だから「イスラエル戦争犯罪特別法廷」
を設けて、イスラエル建国以来の史実を検証した上での戦争責任を、世界の「まともな感
性」での判断に訴えることは意義があると考えます。ただ現実に行われるかどうかは判り
ません。しかし例え現実的でなくても、そのような考えの人々が少なくない事が判れば無
視はできないでしょう。関係各国もそのうち軌道修正して中立的な考えに至るかもしれな
い。その意味でも現実的な妥協点を見つけることばかりでなく、基本的な理念は必要です。

2009/1/26





イスラエル問題  2009/2/9

 望遠鏡氏が書かれた影の権力者-5 は良く調べられたもので、私のように多忙な者に
とっては非常にありがたいと感謝します。ただ私の投稿文だと思われるものにたいするコ
メントがあり、少々言わんとするところを十分説明、その意を汲んでもらってないような
感じを持ちましたので少し釈明したいと思います。
 1.「第2次大戦のあと欧米の国々は・・・数千年も前のユダヤ人の国家であったイス
  ラエルに再び建国させたではありません」にたいし:私は欧米諸国がユダヤ人に正式
  に建国を奨励し承認したとは書いていません。ユダヤ人の違法な移住を制限すること
  が出来なくなって黙認したという意味で書いたわけです。
 2.「イスラエル人の入植を制限したイギリスに対して、イスラエル人はテロ行為をし
  ててその権利を獲得でもなく」:これもまた彼等が入植する正当な権利を獲得したと
  いうことを言ったわけではありません。ただユダヤ人が、パレスチナ人のロケット砲
  攻撃や自爆テロなどの行為にたいして、いかにも己の側に理があると一方的に非難す
  ることは出来ない。自分達もかつてイギリスにたいして行ったテロ行為があったにも
  関わらず、敵前から五十歩逃げ出した者がはたして百歩逃げ出した者を蔑むことがお
  かしいと言いたかった訳であります

 以上点が私の言わんとすることでありました。望遠鏡氏が言われるように、亡国の民が
長い間自分の国を持つことを希求した経緯は私にもわかります。しかし私の今回の問題の
一番重要なことは、イスラエル国家の建国に当たって、何百万という不法なイスラエル移
民が先住のパレスチナ人を差別・虐待した歴史であります。
 飛躍した例を許してもらうとすれば、歴史以前に南方や中国や朝鮮などから渡來して来
て、混血によって生まれた日本人とその領土に、昔の祖先のルーツを頼って大量の不法流
民が進入して来て力を持ち、現に住んでいる国民を北海道などの辺境の土地に閉じこめた
想像してみてください。イスラエル建国では、古代や中世ならともかく近代になって起き
たのことを私は憤っているのです。
 最後に、望遠鏡氏の「ユダヤ人は驚嘆すべきことをやり遂げた民族です」と書かれてい
るのを見ると、ユダヤ人のその行為を賛美しているように聞こえてきますが、私だけでし
ょうか。それとも少々の皮肉を込められているのでしょうか。
そして、詳細な資料による考察を提示と、「皆さんの漠然とした案を補正出来れば」とい
う考えには納得できますが、最終的にこの資料に基づいて己がどのように判断したかを期
待する私は、いつも肩すかしを食らっているような思いがしています。

「偏西風-イスラエル問題」 *重複掲載   2009/2/9





就任演説

 いささか話題が去ってしまって、一周遅れの最終ランナーのような気持ちですがオバマ
大統領の就任演説を聞いて感じることがありました。
 大統領は国民に向けて所信を発し、首相は党の方を向いて行う。
アメリカのように直接国民が投票して決める大統領制と、日本のように「内閣総理大臣は、
国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」という議院内閣制では首相は直接国民
から選挙で選ばれた訳ではないがら、いろいろ違いが出てくる。またそれから生じる大統
領制と首相制の権力の違いでもある。大統領は議会の決定に必ずしも拘束されないが、首
相は国会の多数決でものごとを決めなければならないから、勢い与党の議員の顔色と野党
の牽制で始終する。だからオバマ大統領の演説のように、「苦労は多くても一緒に仕事を
しようではないか」といって国民に直接語りかけている。
 それに反して麻生首相は常に廻りの味方や敵を意識していて、国民に目を向けた所信表
明が身近には感じられない。オバマ大統領の就任における素晴らしい言葉による演説を聞
いて感銘する反面、麻生首相の所信表明が我々国民へ語りかける力や意志が感じられない。
オバマ大統領が掲げた大きな目標は、現実にはたくさんの障害物に出くわすだろうが、そ
れをものとせず果敢に挑戦しようという意気込みはアメリカ国民に勇気を与えるもので、
今の日本の首相や政治家や官僚の体たらくをみるにつけつくずく羨ましいと思った。

2009/1/27





名ばかりの管理職 2009/2/2

 私が大学一年生の時受けた教養講座の法学教授が、開口一番に投げかけたのが「悪法も
また法である」というソクラテスの命題だった。まだ入学したばかりのバキューム・ヘッ
ドにはじつに悩ましいジレンマ問題だったことを記憶している。もし「悪法であるなら守
らなくていい」となれば法治国家としての体をなさないし、「悪法も法であるから遵守し
なければならない」となれば自然法に背くこともあるというわけだ。
 マクドナルド判決文を読んだ時に二つの問題があると私には思われた。
一つは「管理職」という定義の問題
二つ目は実情の問題
I氏は「管理職」の定義が明確でないから、マクドナルの店長が「管理職」ではないと断
定して判決を下したのは違法であると言っている。たしかに労働基準法における「管理職」
の定義は曖昧で明確にしてからでないと有罪か無罪を判定することはできないという主張
は「悪法も法である」という明確な法実証主義の系譜であり、二つ目に実情問題と相対す
るものである。「管理者」(ここでは会社側のいう管理者としての店長)と一般の従業員
との仕事の質の違いは何だろうか。一般の従業員が客に対するサービスにたいして、店長
は人事考課の実施・アルバイトの雇用など労務管理だとすれば、単純で判りやすい。
 しかし実際の店長の仕事は管理業務だけでなく、客が居る間は一般の従業員の仕事をし、
店を閉めてから管理業務をするという過酷な労働を強いられていることを見れば、残業手
当も休日手当も支給されない、手取りの金額も一般従業員と同じとなれば、経営者は法の
盲点を突いた狡いやり方だと思う。
 この判決に対するI氏の違法判断は「悪法も法である」のようにも私には思える。私は、
会社からノルマや利潤追求を科せられて、賃金や労働時間といった過酷な労働を飲まざる
をえない実態をみるにつけ、店長の言い分に同情するものであります。その一方で「管理
職」の定義を一日も早く確定し、合法的に「悪法も法である」を「良法」に返る努力をす
べきでしょう。

「「名ばかりの管理職」とは何か-感想」より 2009/2/2





電磁波

リニアに「反対」市民団体が発足
 朝日新聞朝刊に「リニアに「反対」市民団体が発足」という記事が載っていました。
「JR東海のリニア中央新幹線計画に反対する市民団体「リニア問題を考えるネットワー
ク」が2009年2月7日、発足した」
 全国自然保護連合代表の川村晃生・境内教授らが呼びかけ、東京、神奈川、山梨、長野
などの沿線都県の市民や地方議員ら20人余りが山梨県内で集会を開き、結成を決めた。
反対する理由として、建設による自然破壊に加え、電磁波による健康被害、中間駅の建設
費負担が自治体税制を圧迫する可能性を揚げている。
 では、電磁波とはいったいなんで、私達にどういう影響があるのかということに関して
調べてみました。
●電磁波の発生源は、発電所、変電所、送電線、家電製品のテレビやラジオの電波、温熱
 効果でおなじみの遠赤外線や、紫外線、医療や材料検査等で利用されているガンマ線、
 X線などであります。
●電磁波が人体に与える影響は、ピリピリとする刺激作用、生物の免疫低下、脳内ホルモ
 ンへの悪影響、遺伝子の損傷があると指摘されています。
●電磁波過敏症とは室内の家庭用電気製品の他、屋外にある電線や街灯など電気の流れて
 いるところに近づくと、激しい頭痛や胸苦しさ、吐き気、めまいなどの症状が現れ、電
 気製品から離れると症状が消えてしまう人のことです。
 最初に目、皮膚、神経に症状が現れ、そして次に呼吸困難や動悸、めまいや吐き気など
 の症状が現れてきます。さらに悪化すると、疲労感やうつを伴う頭痛や短期的な記憶喪
 失、手足のしびれやまひが起こってくる場合もあります。
 リニア中央新幹線計画ではそれらの健康被害や自然環境に及ぼす悪影響の公正で正確な
 客観的評価がなされているのだろうか、そうでないとすれば問題であります。
 資料は探偵・興信所/総合探偵社アーストの環境調査のホームページより

 「電磁波のこと」  2009/2/11

1171

 

α20号奮闘記

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月 2日(金)22時31分46秒
編集済
  .

              α20号奮闘記



   「結論として今回の19号はなんとか努力してみたいと思います」と、
   割り付け後の目を酷使する細かな調整作業を買って出た同人仲間に言ったものの、
   その3月後の20号出版ではますます目の調子が悪くなり大分てこずったようだ。
   20号寄せ書は、同窓誌「斜光」や文芸誌「α」の名称のいきさつ等が書かれて
   いて、なかなか興味深い。記念すべき20号、一号から出版に力を入れてきた人
   らしい熱の入れ具合が伝わってくる。この頃から編集/印刷といった作業がこれ
   までのようにできないことを実感し、今後の出版体制作りに取りかかり始めたこ
   とが行間に読み取れる。(編集部)





「Iさんからのメール」より 2009/8/1

古賀 様
今日は仕事中で思うに任せず、失礼しました。寄せ書きの件、趣旨がはっきりして助かり
ました。なんとか書けるよう努力してみます。なにしろ雑事が多すぎて・・・、親類縁者
が多いこと、それぞれにトシをとったことも大いに関係します(^-^)
 ところでお願いがあります。同期生のあいうえお順の名簿を送信して頂けますか。
45周年の時から住所などだいぶ変わっていると思います。クラス別のは45周年時の緑
の冊子に変更を書いていますが、50音順の方が探しやすいので、ほしいのです。

Iさんへ
 同好会や同窓会でお会いする機会もなく、随分ご無沙汰して居ります。
まだ現役でご活躍の様子、元気そうで何よりです。当方は医者知らずだけが取り柄だった
のですが、最近はすっかり医者に目を付けられ、なかなか解放してくれません。考えてみ
れば「村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん」の歳を遙かに超えていますので、さも
ありなんという所でしょう。
 「同人α20号出版記念の寄せ書きの件、なんとか書けるよう努力してみます」という
貴女の返事を頂き喜んでいます。
内容は何でも結構です。私はいつも決められた表題と擦れたことを書くことを好み、また
一向に気にしません。
 私が今書こうと思っている途中の文章を例にとると「私が文を書く理由はいくつかある。
一つはもの覚えが悪いと自覚しているから、時々の思い出を忘れないため。もう一つは自
分の考えを書き留め発表することは動物のマーキングと同じく人の反論や同意や評価を得
て、己の存在を確認するためである。会話だと音楽と同じようにその時限りで過ぎ去って
いき、どんなに素晴らしくとも再現は不可能である。自分の存在を人の脳の片隅にちゃっ
かり刷り込ませるには、会話の上ではよほどのインパクトを与えなければならないだろう。
それにはいささか私の力に自信がない。しかし文章であれば常に目の前に自分の主張を再
現出来る有利さがある。私があの世に行ってしまった後でも、あんな妙な友人、親爺、祖
父、親族がいたのだなあと少しは想い出してくれればいいのではないかと思っているので
ある。言ってみれば存在の悪足掻きの記録みたいなものだ」
 名簿の件早速お送りします。ただし完全な物ではありません。 その訳は2008年までは
データの修正は完了していますが、いまだ今年の同窓会のデータは幹事より修正依頼があ
りません。私の名簿の必要性がないと考えるのもまた幹事の意志でしょうから、もともと
私的に名簿の管理を行っているのですから、私からお節介に申し出ることはしないつもり
であります。そういうわけで完璧でないことをご承知のうえ受け取ってください。





「同人α20号出版記念によせて」 20号寄せ書きより  2009/8/8

同人α20号出版記念によせて-100号に向けて出発
 同人αを出した時にはそんな長くは続かないだろうと考えた人も多いことだろう。とも
かくここまでよく続けられたものだいう感慨を覚える。
 年四回の出版はかなりハードである。先ず出来不出来はともかく自分の原稿を書かなけ
ればならない。それから編集・校正・印刷と続き、作品集をホームページに掲載しなけれ
ばならない。普通はそこでホッと一服させてくれるのだが、そうは問屋が卸さない。まも
なく「合評」が始まり、各作品を数回読んで批評をしなければならない。それが次号の編
集作業の近くまで続くのである。まったく休む暇はない。「合評」という制度を誰が作っ
たかと恨みたくもなるのだが、その反面麻薬みたいなものでこれがないと物足りないとい
う禁断症状を起こすまでに至った。だからその俎上に載せる作品を書かないことは「おい
てけぼり」にされそうな気がして、ついつい毎回投稿する羽目になってしまう。
 私が文を書く理由はいくつかある。一つはもの覚えが悪いと自覚しているから、時々の
思い出を忘れないため。より価値あることを思考するために、安心して雑事を消し去り頭
の中を空にできるメリットがあること。もう一つは自分の考えを書き留め発表することは
動物のマーキングと同じく人の同意や評価を得て、己の存在を確認するためでもある。
会話だと音楽と同じようにその時限りで過ぎ去っていき、どんなに素晴らしくとも再現は
不可能である。 自分の存在を人の脳の片隅にちゃかっかり刷り込ませるには、よほどの
インパクトをあたえなければならない。 話上手ではないからその自信は全くない。書く
行為は私にしてみれば存在を確認するための悪あがきみたいなものだ。
 それからもう一つ、ものを書く趣味はなんといっても金がかからない。真に鑑賞するこ
とを忘れて、いやその眼力もないのに、オモチャやマンガ、高価な絵画、骨董品などの偽
物蒐集や、キャバクラ通いなどの道楽よりもはるかに、身の回りにスペースも、また金銭
的な迷惑を掛けて親族の不興を買うこともない。
資料を購入しても精々本代くらいなものだ。また五分も歩けば図書館があり、無料で借り
る事ができるし、自分で目的の資料を見つけられなければ司書に調査を依頼すればよい。
一週間か二週間もすれば区立の図書館や国会図書館から資料を提供してくれる。
 昭和20年の終戦一週間ほど前にB29の爆撃で障害を負った友人がいた。彼の追悼文
を書くために空襲の日付や被害状況を郷里の図書館で調べてもらったことがある。また辻
邦生の小説「夏の砦」のなかに出てくる「スエーデン王のグスタフ侯のタピスリ」が現存
するのかどうかという疑問を抱いた。「実はあれは本当に空想でありまして、私の知識を
寄せ集めてつくったもので」と辻邦生自信が「辻邦生作品全6巻-6」月報Ⅳの「異国の
街で」の開高健との対談で暴露している。ということを真砂図書館で調べてもらったこと
もある。

   君よ知るや南の国
   レモンの花咲き
   緑濃き葉陰には、こがねのオレンジたわわに実り
   青き空より、やわらかき南の風
   ミュルテは静かに、ロルベ-ルは高くそびえる。
   君よ知るや、かの南の国。
   かなたへ、君とともにゆかまし。愛しきひとよ。

 ゲーテの「ミニヨンの歌」が森 鴎外・堀内敬三・会津八一・大久保健治などではなく
本田 清訳であることも知った。
また今回の「連絡船」についての資料を長崎の図書館に提供してもらったが、それらの資
料は数回の電話のやりとりと数百円のコピー代で済ますことが出来た。
 私の両親は名も無き衆生ではあったが、父は回想録を母は四〇冊の日記を残して逝った。
その遺伝子を多少は引き継いでいるのか、書くことを厭わない。それに慣れてくるとそれ
が最上かどうかはわからないが、その方法が見つかった。ひとつのテーマさえ浮かべば、
後は時間の問題だ。
 まず「20090730読書について」などという題を付けて、2009年のフォルダにしまい込む。
書きたいことを項目として列記しておくだけで、この時点で一気に書き終わろうとしては
いけない。いたずらに気が焦るだけである。資料等など時間を掛けてこまめに集め、書き
たい気になったら少しづつ書き加えて行けば、それなりに何とか体裁も整ってくるわけだ。
そのような表題だけのファイルや書き掛けのものがいくつも仕舞ってあり、いつの日か出
番が来るのを待っている状態である。

 「同人α」という名称については、なにか曰くがありそうに思えるが、本当のところ実
に頓馬な話しでかない。15年前に作った同人誌「斜光」では全国の同人誌200冊の名前を
調べ上げて、ああでもない、こうでもないと「ゴロ合わせ」や「同人誌の主旨」などを象徴
しようと苦労して決めたものだ。しかし「同人 α」はいよいよ立ち上げようとした電話の
中で、
「名称なんてどうでもよかやんねー」とOさん。
「だめだよ、長年連れ添った夫婦のあいだなら、「あれ」「それ」で判るだろうが、会員
を募集するならとにかく「α」とか「β」とか、なんでもいいから付けなくちゃ」と私。
「じゃあ、名称は「α」に決めましょう」とOさん。そう言うわけで思い入れも情緒もへ
ったくれもない有様で、名よりも実という誠にドライなものだった。
 さてこれから100号を目指して進むわけだが、一年に4冊、20年で100号に達するこ
とになる。我々も九十歳前後になるが、全く不可能ではないであろう。 数字を気にして
「しゃかりき」になる必要はないが、それはともかく色々の個性豊かな人達と交わること
が最大の喜び。これからもまだまだ続くだろう。





小柳さんからの業務連絡 2009/8/15

 16日は、Oさんが京都行きと言うことを言の輪で読み、これを書いています。
今までの予定では、 19日までにゲラ刷りを作っておくべきでしょうが確かその日は、
古賀さんの手術の日に当たり、たとえ前日に原稿を送付しても古賀事務所で印刷するのは
無理だと思われます。
 そこで提案ですが、ゲラ刷りはとりあえずA4版とするのはいかがでしょうか。これな
ら、我が家のレーザプリンタで文章を両面印刷で打ち出し、校正現場に私が持参すること
が出来ます。(残念ながらB5版の両面印刷はできません。) 両面印刷の速度は、業務用
には及びませんが、1分間に22枚とかなり早いので88ページ程度までなら4分で印刷
できます。
 また、ゲラ刷りは、とりあえず手持ちのWクリップで綴じることが出来ます。
もし、そうすることになった場合、ゲラは何部用意しておけば良いでしょうか。必要部数
を、お知らせ下さい。
ところで、今までに用意できていないものは、次の4項目です。
αの表紙絵(Sさん担当)
 これは、ゲラ校正時には、必要有りませんが 表紙絵だけは、先に印刷をお願い出来ま
すか。古賀さん、Oさん、私の原稿  私自身書くのが遅れて、申し訳ないです。
以上の件について、できれば15日中にご返事頂ければ幸いです。
なお小柳の休暇は、24日の月曜日までの一気通貫で取っています。





ホチキスについて 2009/8/20

同人α第20号は150ページ近くになるので、事前にホチキスの調査をした。
銀座伊東屋 3階 TEL 03-3561-8311 開店10:30
MAX HD-12N13  75枚 7,685円
MAX HD-3000FR 110枚 7,140円
MAX HD-3000M  100枚 4,000円





目の治療 2009/8/24

 8月19日糖尿病による網膜症の治療をしてもらった。いつもの眼科の重枝先生ではなく、
専門外来という部門で治療するらしい。どうも重枝先生はこの病院の専属であるが、専門
外来の先生は外の病院からの出向のように思えた。 なぜかというと、治療の説明書には
毎回同じ担当の先生ではないと断ってあるからだ。
名前は失念したが、女性の先生が治療について一通りの説明があり、何か質問があります
かと問われた。
1.私の目はどの程度のシリアスさか?
 先生の説明によると、良性と悪性の二つのタイプがあり、良性は進行しないが、悪性は
 放っておくとどんどん悪くなるという。私のは悪性の初期であるから、血液の循環が悪
 くなった部部の浮腫をレーザーで潰さなければならないとのことであった。もう少し網
 膜症と白内障が進行していたら治療の方法も無くなるということで、危うく間に合った
 かと胸をなで下ろした次第である。
2.小さい活字が見えないのは網膜症のせいか、それとも白内障のせいか
 網膜症を治療しても視力には関係なく、白内障を治さなければよく見えないとの説明が
 あった、10月後半の白内障の手術まで後2ヶ月はこのまま我慢しなければならないのか
 と思うと憂鬱になってくる。
 レーザー治療は先ず左目にコンタクトレンズをはめて瞳を広げ固定する。コンタクトレ
 ンズと言っても普通の薄いレンズを眼球に直接はり付けるのではない。丁度時計屋さん
 が時計を修理するときに片目にはめる接眼レンズみたいな物である。
 瞳をまばたくことなく開いていると、サイコロの目のようなオレンジ色の四角が縦横に
 三列づつ並んだものがあちこち移動して、太陽を直接見るときのような強くて白い光が
 発射される。異様な熱と圧力とチクチクした痛みが感じられる。我慢できない程の痛み
 ではないが、何かが壊れそうな不安な衝撃である。それでも15分ほどで終わった。
 視力はやはり変わらない。網膜症という目の障害がどのような機能低下を及ぼしている
 のか自覚症状がないので判らない。だからこの治療でどこが改善されたかが私には判ら
 ない。とにかく視力が戻るといわれる10月の白内障の手術を期待しよう。





小柳さんより 2009/8/25

 遅くなりましたが、標記ファイルを送ります。Tさん以降は、Kさんの校正された分が
行方不明になってしまったので後で見つけて、もう一度やり直します。田之頭さんの本文
も入れるのを忘れ、抜けています。取り敢えず、ここ々までを印刷してOさんに見てもら
えますか。長岡分は、1行30字に整形するため、かなり手直ししました。





Nさんさんへ 2009/8/26

 私めの目にたいしてのお気遣い、ありがとうございます。小生頭脳や運動能力はともか
く、体だけは丈夫だとばかり過信していましたが、いまでは蛇ににらまれたカエルのごと
くすっかり医者に見込まれて、深情けを掛けられています。
 今回の網膜症のレーザー治療で視力が回復した訳ではありませんので、10月の白内障
の手術までは大きな天眼鏡が依然として必要です。だからいまのところ見え過ぎて世の中
の真実に目の前が真っ暗になることはありません。
 それにしても今回の20号は盛りだくさんで、「知の巨人」である長岡さんには編集を担
当してもらい、随分お世話になりました。だから目が治っても、まだ見えないといって次
号以降もお願いしょうかと内心悪巧みの最中です。
 兎に角仕事を分散して、皆さんにもその楽しさを分けてあげたい・・・などと安直な慈
善家や道徳家みたいな言で煙に巻こうという算段です。





同人α第20号(夏号)出版のおしらせ 2009/8/31

 8月30日同人α第20号(夏号)および記念寄せ書きを出版しました。
外国を除いて国内の会員および購読者の方々には、火曜日(9月1日)頃までには届くと思
いますのでお待ち下さい。
 今回は同人21名中20名、小説-8、エッセイ-7、詩-3、俳句-1、和歌-1の投稿が
あり、しかも愛読者からの20号記念としての寄せ書きを頂き、150ページにちかい分厚
いものとなりました。なにごとも時を経る毎に薄く寂しくなるよりも、沢山の原稿で賑わ
う方がよいようで、まさに多々益々弁ずであります。
 また、一週間に二作品を合評することで、次の号までの日程でこなせるという奇策を考
え出しました。いろいろな難問も皆で鳩首すれば名案が浮かび、時間のない中創作に苦労
したり、編集や校正や印刷でてんてこ舞いしてもなかなか楽しいものです。皆さんも参加
しませんか。そして
 この内容、この厚さで一冊200円、どうぞ秋の夜を楽しんでください。





同人α第20号を作品集に掲載 2009/9/12

 碇さんから要望がありながら、大変遅くなって申し訳ありませんでした。今日やっと同
人α第20号を作品集に掲載しましたのでごらんください。まだ冊子が届いていない方、
そしてこのホームページの訪問者で興味のある方は、この作品集を読んで合評に参加して
みませんか。
 何せ得意のやっつけ仕事ですので、バグが沢山隠れていると思われます。どうぞ間違い
探しのゲームと思って「虫」探しを楽しんでください。そして見つかりましたら当方まで
お知らせください。お願いします。

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α19号奮闘記

 投稿者:資料管理請負人  投稿日:2014年 5月 2日(金)08時42分40秒
  .

              α19号奮闘記




      どうやらこのあたりから目の具合が一層悪くなってきたらしい。
      印刷前の最終編集を迎えてさぞや目の具合が鬱陶しかっただろう。
      こんな時の仲間のフォローはありがたいものだ。(編集部)





「α第19号の表題決定」 2009/2/20

今日、筒井さんよりα第19号の表題が送られてきました。
「空」だそうです。たまたま今、仏教思想の「認識と超越」の本を購入しましたが、仏教
の教えになんだかタイミングが妙に一致したようなのが不思議に感じました。筒井さんが
この言葉を選ばれた経緯はブログに書いてありますので、どうぞ開いてみてください。





「北君から」より  2009/5/1

北君へ
 α第19号の原稿確かに受け取りました。ありがとう。
今日病院に行ってかすみ目をなんとかしてよといったら、やはり網膜症が進まないかもう
一度様子をみて、手術を考えましょうと医者は言いました。その結論は 6月末になると
思います。今日診察にいって視力検査の表を見たら結構見えるが不思議でした。左が0.7
右が0.3らしいのですから、世の中にはもっともっとめの不自由な人も沢山いるようで、
医者の対応をみていると私はまだ良い方なのかなと思いました。もう少し我慢してみるつ
もりです。
それから明日5月2日から山荘にこもり、帰ってくるのは7日になります。暇ができたら
電話してみてください。





大波止の連絡船についての調査依頼 2009/5/8

同人α第19号の為の資料を長崎市立図書館レファレンス係の矢口さんに電話して、下記
の件の資料調査を願う。
   長崎市立図書館 :095-829-4946

◆大波止から旭町の間にあった連絡船(渡し船)
  船の大きさ、乗客定員、航行距離、運行時間
  乗車賃、人、自転車、いつから始まっていつ廃止されたか





「小柳さんからのメール」 2009/5/13

 古賀さんも、目が疲れて居られるのでしょうね。
製本が月末になるのは、未提出の皆さんには好都合かも知れませんね。
 ところで私の方は、自分の原稿が終わった今、わりと暇な状態です。それで、行やペー
ジの整形に手間取っておられるようだったらご遠慮なくお申し付け下さい。字数や、行数
を決定してもらえれば、粗粗の整形は分担できますので。
 何せ、古賀さんが倒れられたら、アルファの作品集は、印刷でもブログでも立ち往生し
てしまいますから。なにとぞ、御身大事を専一にして下さい。


小柳さんへ
 お気遣い有り難うございます。小さい活字が老眼鏡をかけても全く見えません。度の強
いルーペを左手から離せなくなり、困ったものです。この前の診察で、次の眼底検査の結
果を見て、手術するかどうかを判断しましょうと 言ってくれました。
 編集にあたっての貴君の申し出ありがとうございます。なるべく作業を分担する方法を
見つけ出したいと思いますが、ワープロや写真処理やホームページ作成等のソフトがまち
まちで、なかなか美味く行かないのが現状です。
 今回は、O氏も私もいろいろの催しが重なっているため、20日前後の出版が出来ない
と判断しました。思い切って月末まで延ばしましたので、なんとかできそうです。20号
からは、目を新品に取り替えるという訳にはいきませんが、せめて9号の大きさの文字が
読める位まで再生出来たらと期待しています。
結論として今回の19号はなんとか努力してみたいと思います。





α第19号の編集・校正 2009/5/26

 先日小柳氏よりゲラ刷りの校正表を受けとった。今日K氏より校正ゲラ刷りを受け取っ
た。O氏のゲラ刷りは明日シネマ・デ・ジョイで受け取る予定。
それから総合的に全文の訂正をし、せめて29日(金曜)までは70部刷り上がってなければ
ならない。
 今回は目の悪い人のために(かく言う本人が一番悪い。倍率の高いルーペがないと何も
見えない、それと以前から三浦さんの希望もあったし)、字を大きくした。
 ◆ 字の大きさ:9号から11号へ
 ◆ 一行の文字数:40字から30字へ
 ◆ 行数は変わらず40行
 ◆ 普通の濃さの明朝をbold type(強調文字)にした。
1.そのため色々の問題が生じた。まずはEさんの英文で、一行の端部の英単語が別れてし
 まうこと。
2.小柳さんのサブタイトルの強調文字が他の文と同じになり、めだたな いこと。サブタ
 イトルの文字を大きくするか、またはゴシック体に 変更するか、あらためて小柳さん

 と協議する必要がある。






「Tさんと会食」 2009/5/28

 Tさんがα19号製本のために大阪から上京。午後7時に銀座三越前で会った。K君は
用事で欠席、O氏と私の三人で「スペイン料理びいどろ銀座店」へ行く。一日中雨が降っ
ている。時間があったので教文館で白水社の「エクスリブリス・シリーズ」の新しい本を
探す。目が悪いのでこれ以上読みかけの本を増やしたくなかったので購入するのを止めた。
外にでたら、いかにも田舎から出てきた芋兄ちゃんが、H&Mの店((Hennes & Mauritz
が展開するファッションブランド)の場所を聞いてきた。あの年頃はやはりその手の情報
に敏感だなと思った。数ヶ月前マスコミで話題にしていたので、どんな店か様子を見に行
ったことがある。開店当初は数百メートルも並んでいたが、センスも値段も品数もあまり
感心することもなかった。
 料理はパエリア、シャンピニオンの油いため、イカの墨煮、チキンのソテー、チーズと
オリーブの前菜、店で焼いたバケット、赤のハウスワインをグラス一杯ずつ、筒井さんは
全くの下戸であった。兎に角量も味も値段も三人とも十分満足した。一人3,100円也。





α第19号発行にあたって 2009/6/1

 予定より10日遅れの「同人α」第19号「空」を皆さんの協力で無事発行出来てよかっ
たと、ほっとしています。創刊号の頃からすると、作業にも慣れて、今回は不良品が一冊
も出ませんでした。・・・実は皆さんが来る前に一等最初に作った試作品は信じられない
ような間違いの代物でした。表紙と本文が逆さに、左綴じを右綴じに、いくら目が悪いと
言い訳してもイエローカードもので、こっそり処分したしだいです。

◆Eさん
 私のThe Color of the Morning Gloriesの誤訳「朝の荘厳な光の色」を「ものごとをも
 っと深く考える契機になりました」と言って頂いてありがとう。私は神野佐嘉江氏の書
 いた、何の文脈もまだ無い言葉だけの羅列を見て、今まで作り上げ た概念から抜け出
 して、改めてその言葉の響きや成り立ちを考えるとき、新しい自分なりの感覚を発見を
 します。だから通り一遍の概念に慣れすぎる自分を戒め、いつもへそ曲がりな思考をよ
 しとしています。九州・佐賀の私の郷里ではこのような人を「異風者 (いひゅうもん)」
 と呼んで変わり者・頑固者・協調性にない者といって煙たがります。
 打ち上げ会では、貴女の格調ある作品の元になる、人間や自然の観察の方法論について、
 私なりにいくらかの質問を用意していました。しかし北極と南極のように遠く離れた席
 でしたのでそれも叶わず、今度また会う機会にその話は楽しみとして取って置きましょ
 う。
◆Tさん
 わざわざ浪速から来ていただきありがとう。「変な人の集まりはいいなと思いました。
 平凡な私にはとても刺激的です」とおっしゃっていますが、変な人は大抵自分は平凡だ
 といいますから、Tさんもすでに仲間だと思いますよ。食い倒れ文化に鍛えられたTさ
 んと前の晩に食べたスペイン料理が気に入ってもらってよかった。東京も安くて 美味
 い店は探せば沢山ありますから、そちらの楽しみも上京の理由の一つに加えてくだ さ
 い。
◆Sさん
 次の20号の担当を引き受けていただいてありがとう。貴女の踊りや歌舞伎や芸術に関
 する知識は私の知らない世界のものですから、聞いていた楽しいものです。極度に抽象
 化・形式化された歌舞伎や日本画には私なりの異論がありますが、そのうち侃々諤々論
 じましょう。ともかく今度の表紙や題を大いに期待します。
◆Hさん
 久しぶりに「さすらいのビン・ボーニン」の面目躍如たる一刀両断の 論を拝聴しまし
 た。それにしてもSさんとの対決は、まるでお互いに別々の土俵から勝負をしているよ
 うでした。そのかみ合わない論争のずれ具合がなんとも妙で、未来永劫かみ合うこと
 のない、エントロピーが最大のブラウン運動の世界をみるようでした。
◆長岡さん
 この前新聞で奈良のさる古墳が「卑弥呼」のものではないかと考えられるとありました。
 そうなると長岡さんの「邪馬台国九州説」はいささか不利の感がありますがどうしまし
 ょう。それから空海が薦めた寺院の尖塔趣向は性的なものと宇宙的なものの 思想であ
 るとありました。古い塔は下方に丸い饅頭のような台座を付けたと書いてありました。
 これれはすなわちヒンドゥー教のリンガムヨニの形でしょう。・・・とまあ色々と聞き
 囓りの疑問をぶつけて、努力しないでちゃっかり長岡さんの詳しい知識を失敬する心算、
 それと、私の視力がこのままで戻らないとすると編集が難しいので、次回の20号を誰
 か技術的に詳しく、正確に、やる気のある人に依頼したいと思っています。いずれこの
 件につき皆で検討して決めたいと思いますが、私見としては、長岡さんの右に出る人は
 いないなと思っていますが、如何ですか?
◆Oさん・Kさん
 この前のKさんの文の構成でOさんとのあいだで論争になりました。私はまだその 文
 を読んでいなかったので、隣で半分面白がって傍聴していました。これはまるでHさん
 とSさんのバトルと同じではありませんか。二人は時々そのような論争をしますが、感
 覚の問題 性差の問題、知識の問題、趣味の問題か、いずれにしても私は高みの見物に
 徹した方がよろしいようで。
 今日「同人α」第19号-「春号」をクロネコヤマトのメール便で送りますのでよろしく
 お納めください。また作品集への掲載は合評の始まる前、今週末までは作業を終わりた
 いと思っています。本誌の届かない海外のかたは、作品集を開いて読んでください。





同人α第19号(春号)発行のお知らせ 2009/6/1

 5月30日に「同人α」第19号(春号)を、諸般の都合で10日ほど予定日かから遅れま
したが、無事出版することが出来ました。
   小説・・・・・7偏 (1編は英語の作品)
   エッセイ・・・1偏
   詩・・・・・・2編
   紀行文・・・・1編
   オキシモーラン的作品・・・1編  の12編です。
 会員には今週半ばにはお手元に届く予定です。また作品集も今週末までには掲載するよ
うに努力しますので、海外の方及びこの本をお持ちでない方は、作品集を紐解いて来週か
ら始まる合評にどんどんご参加してください。お待ちしています。
なお、同人誌を欲しい方は下記までご連絡下さい。
一冊200+送料80円(3冊までは同じ送料です)





同人αの増版 2009/6/2

同人α第19号を20部作成
牟田さんに10部
HUさんに6部  メール便で送る。





作品集収録のおしらせ 2009/6/3

◆同人α第19号の作品を作品集に収録しましたので、まだ冊子の届かない海外の同人の
 方、このホームページをご愛顧していただいている読者の方、どうぞ作品集を紐解いて
 お読みください。そして自由に合評にご参加ください。
◆Eさん
 「人間や自然の観察の方法論について」などと小難しいことを書きましたが、Eさんの
作品に出てくる情景や真理描写が見事であったので、日頃の観察のたまものだと思いまし
た。そこで私の質問は「人の表情や花や山や気候などの事象の変化をノート等に記録して
いるのですか?」というものでした。
◆長岡さん
 邪馬台国の場所については、決定的な証拠もなくまだまだ推理する楽しみが残ってい
 ますね。あと五十年くらいは謎のままであって欲しいような気がします。
 リンガムヨニは座禅を組む手や忍者が印を結ぶ形もそうだと読んだことがあります。
 知らないで行っていることが、数千年昔の遠い国の思想の影響を受けているものですね。
 それから、編集については私が全てを投げ出すという事ではなく、印刷や製本は勿論
 今まで通り私の所でやりましょう。ただ少し役割を分担して貰えばと拗ねてみただけで
 あります。





視力について 2009/6/8

 昨年の秋頃から急に白内障が進んだ。それまでは左目が0.7右目が0.4だから、その視
力の違いの違和感で、私はよく物が見えないのだと思っていた。しかし病院で視力検査を
してみたが、半年前のと今と比較してもその視力の数値はあまり変わらない。しかし現実
には見えにくくなったことは確かだ。
 まず、霧が掛かったような、スリ硝子を通したような、薄い和紙を目にかぶせたような
見え方である。また明るい横断歩道の白線や白い建物や明るいテレビ画面を見ると、写真
で強い光の当たった部分の周りが白くぼやけるのと同じ、ハレーション現象を起こして見
えなくなるのである。2,3メートル先の人の顔さえ見分けが付かない。
 目のどの機能が悪いかは私にはよく分からないが、どうも明暗が曖昧になっているため
らしい。前に目の機能を調べたときに、物を立体的に認識するためには「形は明暗のしま
模様で認識する」とあったから、きっと明暗の識別が出来ないくらいハレーションをおこ
して、平面の像しか造れないのだと思った。
 三次元の世界を私は二次元の像しか作れない世界にはまりこんでしまった。だから、外
界からの情報の80%は目から得られるというのだから、本も読めなくなった私は、平面
の上をただ本能のまま這い蹲ってうろうろしている、アメーバのような単細胞生物になっ
てしまったような気分だ。


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激甘辛 作品評6

 投稿者:資料管理請負人  投稿日:2014年 5月 1日(木)16時42分28秒
  .

              激甘辛 作品評6
                  21号2009-2010


   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




昔、革命的であった男の挽歌(その7、安曇野便り)    2009/11/24

作者は以前「茜色」に特別な思いがあると告白した。茜色に染まった神秘的な山際の夕日
に魅せられたのか、それともそんな名前の女(ひと)に叶わぬ恋心を抱いた過去があった
のか、私はそれ以上詳しくは問わなかった。作者はそんな思いもあって今、「茜」という
女性を登場させたのだろうか、私には知る由もない。

私も日本の伝統色の色彩とその呼び名に魅されるのである。 「淺緑(あさきみどり)」
「臙脂色(えんじいろ)」「褐色(かちいろ)」「群青色(ぐんじょういろ)」「深紫
(こきむらさき)」「朱鷺色(ときいろ)」「中紅なかくれない」「木賊色(とくさいろ)
「鈍色(にびいろ)」「利休鼠(りきゅうねずみ)」などなど。

また「杣道(そまみち)」とか「小体(こてい)な家」「出来(しったい)」などといった
懐かしい日本語もはや廃れようとしている。時々辞書を引きながら、響きのいい言葉や姿
の美しい文字に出会ったとき、その言葉をつかって文を作りたくなるときがある。そのよ
うに作者は「茜」という文字に魅了されて、いつかその思いを遂げたくなったのだろう。

さて、本題の感想を述べよう。
1.これは私の好みの問題であることだが、P1上部の文で「そんなとき隣人(といって
も300メートルは離れている家だが)の鶴見さん」とあるが、ト書きや( )書きはあ
まり文学的ではないと私は思う。たとえば「300メートルは離れている隣人の鶴見さん」
と書いても良いのではと思うのである。

2.前半の自然の描写や内証は実に素晴らしい。私好みの世界を見事に作っている。これ
は作者の別の資質が発見された喜ばしい作品だと私は思った。

3.しかし「同人安曇野」に投稿された農業再生、財政問題について、滔々と述べられる
後半には一つの疑問を私は感じた。それはこの「同人安曇野」の主旨が依然として明確で
ないのだ。これは文学的な作品を載せるものなのか、そして合評はどんな観点で評価され
るのかが不明である。それとも生活に根ざす様々な問題点を政治的に解決するための研究
や提言を扱う同人誌なのかである。その辺が明確になれば読者の読み方も違ってくるだろ
う。それともそれを含んだトータルナ文学作品として作者は描こうと努力しているのか。
またまた厳しい意見でごめんなさい。


昔、革命的であった男の挽歌という表題について     2009/11/25

今流行の血も涙もない必殺仕訳人の仕業ではないが、作者にとって予想もしていないよう
な問題を指摘され断罪されることは辛いことであろう。しかしこれも泣いて馬謖(ばしょ
く)を斬るのたとえで、これからの創作に生かして貰いたいと思う故である。

万理久利さんの表題の変遷の調査をみて、そういえば私も各号の編集時に作者の表題につ
いて違和感を微かに感じてはいたが、作者の意図を尊重するという逃げ口上ですまし、私
もこのことについて余り深く考えてはいなかった。このところ皆さんの評論を読んで、そ
の表題がこのシリーズの最初の頃の意図と少しずつずれてきていることを感じたのである。

先ず、挽歌とはなにか。挽歌とは「葬送のとき、柩(ひつぎ)を載せた車をひく人たちがう
たう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌。哀悼歌」とある。この意味とすれば沼南ボーイ
さんの言われるように、昔革命的であった男の挫折や屈辱や悲しみの賦でなければならな
い。しかしその後の作品をみれば、その男はやおら蘇生して棺のなかから出でて、安曇野
あたりで現世の不条理を説いている。まさに挽歌とは言えなくなっていることは確かであ
る。この意味でこの表題のままであるとすれば、読者に間違ったサインを送っていること
になりはしないだろうか。

そう言う意味では表題はなかなか難しい。作者がつける表題は物語の概要を示すようなも
のが多く、それが会社の定款のような具体的なものだと、小説の内容を限定し狭めてしま
う恐れがある。そうかといってあまりにも抽象的すぎても、各小説の内容を示唆すること
がないのでイメージが乏しくなる。

さてこの問題を作者はどう解くだろうか、眠れない夜を送りつけたような気がするし、余
りのあら探しに私も眠れそうもない。


いろいろの尺度     2009/11/29

 長岡さん、決してジャブやパンチの応酬が、実りのないことだとは決して思いません。
白けているのではなくむしろ大いに歓迎するところであります。

 さて、皆さんの合評を読んで感じたことは、論点のかみ合っていないものが多いなあと
感じました。長岡曉生さんがいみじくも書かれた「一定のデータを対象に、一定の論理の
下に解析して、一定の結果を得ることを目標とする」には私も同感しますが、残念ながら
そのような土俵が作られていないように思います。
 たとえば小説の手法や構成上のバランスや完成度を論じているときに、書き込まれた内
容の芸術性をを問題にするなどなど、かみ合わないのです。表題に含まれる「挽歌」に対
する説明や、「安曇野」のなかで取り上げられる「農業問題」などの政治性をどう位置づ
けするかについては明確な回答はない。それを重要な問題とみなすか、本意には影響がな
い小さなことだと考えるかの違いのようです。
 これはお互いに自分の中に持っている尺度、物差しの単位の違いによると思われます。
人の考えを計るのに尺貫法の物差しを使う人が、インチやヤードの物差しを持っている人
を納得させることは難しいことです。だから同じ物差しを用意しておいて、お互いに論ず
るとことが理想的ですが、それがまた本当に難しいことであると感じます。
 私はしかし物差しの違う論争が全くつまらないと言うわけではありません。それぞれの
尺度で測った行き違いの問題点が、沢山出てくることはいいことであります。また、論者
が今どのような物差しを使っているかが判るだけでも面白いと思う訳です。だから各読者
には全く間違ったと思われる、筋違いのはちゃめちゃなものも大いに歓迎するという訳で
す。その中から異質で私の想像もつかないような価値が生まれるかもしれないのですから。



テーマ「カオス」による 会話詩をよんで     2009/12/14

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感じた。


たんぽぽ(1)・・・敏夫の場合  2009/12/18

◆周りは倉庫や町工場やスナックなどの混在したところらしい。数十年前はこんな広場も
あったんですね。もう子供が入り込んで勝手に遊び場にできる広場もなくなったようです。
そしてその言葉さえあまり聞かなくなった。そうだ空き地とも言っていたなぁー。
 持ち主もわからない雑草や砂地の場所で、土管などの建材が積んであって、よくの漫画
に出てくるドラえもん、のび太(福田)やジャイアン(小沢)やスネ夫(麻生)などがいじめた
り、いじめられたりしていた場所。

◆街路樹の葉はすでに散っているところから判断して、ブラウニングの詩風にいえば「時
は冬、日は昼、昼は12時半、曇り空の昼食後」というところでしょうか。

◆登場人物11人のうち男性3人、女性7人、背の高い人物はどちらかわからない。どん
な職場だったのだろう、この写真の登場人物からは残念ながら名探偵でも想像できない。
キャッチャーはなんだか気が入っていないし、後ろの背広の男性は筒井さんにつられてバ
ットスイングのまねをしている。皆の視線がバットに向いているから空振りかと見えるけ
れど、キャッチャーのミットには納まっていないという、球の存在が見あたらない不思議
な場面である。背広の男性の右手に二つの球が見えるのがそれだろうか。

などと枕が長いのは本題の精彩に欠けると自覚しているようなもの、どうも真打ちにはと
うていなれそうもない。
私は細部まで検証することが苦手です。建物を設計するにも人それぞれの癖があります。
一つは細部から詳細に検討して要素を積み上げていくタイプ。もう一つは大まかな全体の
機能や配置や動線を考えることから始めるタイプ。私はいつも後の方で、細部の納まりや
びっくりするような匠の技は持ち合わせていない。
そこで大掴みの二点だけ感想を述べたい。

◆一つは、カーチャンがぼくを嫌いな訳は「ぼく」だからなのか。それとも男の子だから
だけなのか。嫌う訳は単に可愛くないとか、カーチャンの言うことを聞かないというよう
な単純なものでなく、もっと深い理由が隠されているような気がしてならない。たとえば、
「ぼく」はカーチャンの前の男の子供で、連れ子たから今のトーチャンに気兼ねして邪険
にした。妹は今のトーチャンの本当の子であるから可愛がる、などが考えられる。それと
もカーチャンは父親に子供の頃虐待されたから男が嫌いになった。しかしそれではトーチ
ャンと仲良くなったということについて理屈が合わなくなる。結局、終わりまでカーチャ
ンのぼくを嫌う心情の解析はしていないから、最後までなぜなのか読者にはわからない。
何かのトラウマとすれば、迷い苦しむカーチャンのそのへんの心情を私は知りたいと思っ
た。

◆二つ目はこの物語は「ぼく」の淡々とした語りで始終しているから、最初はあまり衝撃
を与えなかったが、よく考えるとまさに犯罪に近い物語である。
この敢えて淡々とした「ぼく」の語り口は作者が意図したものだろうか。
「その後ぼくがどうなったかは,とてもぼくの口からは話せない。トーチャンやカーチャ
ンに聞いてよ。 ぼくもトーチャンやカーチャンがどういうか聞きたいよ・・・」で終わ
っている。悲惨な最期を暗示しているが、Tさんのコメントではその2も主人公は敏夫だ
とある。私にはそれがどんな物語になるか謎である。余計なことかも知りませんが、もし
この物語が読み切りで、その2が新しい情況の物語だったら、主人公の名前は変えた方が
いいような気がします。



四国八十八ヶ所遍路みち・旅日記  2009/12/28

両親は生きている時に四国や篠栗霊場巡りをしていた。その篠栗霊場とは、本場の四国霊
場八十八ヶ所とは別に「篠栗四国」「小豆島四国」「知多四国」という「日本三大四国」
の一つで、福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八ヶ所の札所があると、インターネ
ットで調べたらあった。しかし両親がどのような心境であちこち苦労して巡っていたかは
聞いたことがない。私みたいな理屈をこねないから、ごく自然に天命を感謝して巡ったと
想像されるのである。一方私は未だにそんな心境に至らず、今のところ一年発起してその
天命に感謝したり、或いは何かの業(カルマ)を払い清めるために、または作者のように
単にスポーツと割り切って巡礼する気持ちは全くない。たとえ強い信念で思い立ってもそ
の苦労に耐えられないだろうし、すぐに色々の疑問にさいなまれて挫折するに違いない。

再三私は作者に、冒険にたいする意味合いを知りたいというおねだりをしているのだが、
未だにその無理難題に着手してはくれないようだ。ジョージ・マロリーは「なぜ、あなた
はエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」
と答えたという逸話がある。だがそれだけでは無いはず、志向するには理由があるはずと
ある哲学者は言っていた。
すべて解決できないことは神に委ね安心立命を得るか、それともちっぽけな脳みそをかき
回してでも自分で回答をみいだす苦労を背負うかは個人の自由である。私は後者であるか
らこのような偏屈な合評とも言えない感想を書いて、顰蹙を買うことになると覚悟してい
る。Mさんごめんね―。


雄猫勇吉の冒険 (2)  2009/12/31

年が明けてからこの作品の感想を書こうかと思っていたが、次の三つの理由で今日この年
の終わりに書くことにした。
① 大晦の紙面の寂しさを吹き払うために万理久利さんの努力に頼るだけでは申し訳ない
   から。
② 年始となれば自ずと新年の挨拶やら、抱負で自然と賑わうだろうから。
③ イマジン氏のエッセイにいたく感動したから。

さて、今回の作品「雄猫勇吉の冒険 (2)」は実にすばらしいできである。以前のような、
本人はまじめにそう思っているのだが、どうも屁理屈に思える考えを書かれて、それはそ
れなりに面白い見方ではありましたが、今回は堂々と真っ正面から勇吉の立場を詳細に観
察し、己の少年のころの環境と重ね合わせて検証しているところが、じつに深い洞察と無
駄のない表現を伴っていて、名文と私は思った。

最後にあえて一つ注文を付けるとすれば、「勇吉の恋」は次号に回した方がよかった。な
ぜならば、いじめや権力闘争などの社会的な問題について深く論じてきたわけだから、そ
こにまた別のエピソードが加えられると、せっかく見事な問題意識が持続されなくてもっ
たいない。あれもこれもという奉仕精神は得てして最後に何の印象も残さないから不利で
ある。激しく反論していても、最後に謝ったり慰撫したりするいつものO-chanの喧
嘩を見ているごとく、読み手としては結論はなんだったのかと不満が残る。喧嘩するなら
するで、最後まで論調を変えて貰っては困るのである。とまあ、フランスで遊びほうけて
いるOさんまでまな板に載せてごめんなさい。しかし最後の節で私も同じ過ちを犯
したようだ。
イマジンさんの今回の「雄猫勇吉の冒険 (2)」は名作であった。


5年生存率  2010/1/24

◆専門用語
 私はこの表題の言葉を全く知らなかった。親族や知人のなかにこのような病気で多く亡
 くなっているにも拘わらずである。世の中にはそのような専門用語が沢山あり、その職
 業の間では当然のような言葉でも一般の人には符丁のようなもので、何を意味するのか
 まったく思いもつかない言葉なのである。
 しかしよく考えてみると、このての用語は後期高齢者などの呼称と同じく、なんとも人
 情味の感じられないものが多い。管理する側が便利上ラベルを張って置くようなもので、
 我々はそれを全面的に信じすぎてもいけないのではないか。
 後期高齢者といわれても、肉体的にも精神的にも個人差はあり、また5年生存率といっ
 てもあくまでも数字上の確率の問題で、個人に当てはめて判断することにおいては決定
 的なものはない。例外は常にあり全てがそうだと思わされる必要はない、自分は例外な
 のだ思っていたほうがいいと思った。だからこんな言葉が一般化されて、みんなが恐怖
 におののいたり、落胆したりするのであるなら、専門家の間だけのものとして置いて欲
 しいような気がする。
◆エッセイ「5年生存率」を読んで
 作者が病を得てからいろいろの悩みや不安などの苦悩を通して人生観が変わったと述べ
 られている。友人の死や自分の生命の限りを認識するなかで、失うものも多いがむしろ
 得ることの方が多いようだと、己の人生を肯定的に受け入れる精神的な強さと人にたい
 する優しさが作者のすばらしい人格を表している。
 人は悪い状態になってももっと悪い状態のことを考えて、まだ自分はいいほうだと考え
 て踏みとどまる強さがある。私が目の手術をしたとき、二人部屋の隣のベッドの人とよ
 く話をした。最初はその屈託のない人柄に、その人が非常にシリアスな状態であるとは
 思えなかった。しかしそのうち彼は「私は全盲なのです。光はかすかに感じるので視野
 は明るいが、物の形態は判りません」と告白された。では何故再び手術を受けられたの
 かという私の問いにたいして、「このまま放置すれば光も感知できなくなり、暗闇の世
 界になってしまいます。だから光を感知できる機能が残ってよかったと喜んでいます。」
 という言葉があった。
 私は幸い白濁の灰色の世界から鮮やかな色彩の世界へ、そして視力も確実に戻ることが
 出来たが、遂にその辺のことを隣の人に詳しく報告することを躊躇して、ただ以前より
 少しましになりました、といって同じ日に退院して別れた。私はそのとき自分よりもっ
 と難しい情況を耐えている人がいるのだという事がわかり、このエッセイの作者の心境
 も理解出来るような気がした。


肥と筑 第十一回  長岡曉生著  2010/1/25
http://2style.in/alpha/21-16.html

いつもは知らないことばかりで、すでにその巨大な知識への感嘆の言葉ばかり書き尽くし
ていたから、前回までなにを評し質問したらいいのか戸惑っていたが、この度は動物の話
題で私でも取り付きやすかったので助かった。
◆白き牝鹿
 高校時代に副担任だった花山院親忠先生が、春日大社の宮司になられて一冊の本を書か
 れた。市ヶ谷で行われた出版記念の会に出席して求めた本が「春日の神は鹿にのって」
 である。その本の中に今の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の神が鹿に乗って春日大社にや
 って来たという内容だったと思う。
 今回の作品を読み始めて、インターネットで調べてみたら『常陸国風土記』では、神代
 の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いな
 がら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源であると
 書いてあり、しかも現在では鹿島港を中心とした鉄鋼企業を主とした鹿島臨海工業地帯
 を形成していることは、古代のタタラ製鉄をよくした種族と関係がありそうだと思われ
 た。しかしこの作品を読み進むと、驪戎のトーテムが鹿だったことをまさにしっかりと
 書いてあったのには参った。
◆馬
 作品のなかに「元寇の時に、騎馬隊で成るモンゴル軍を運んだのは、操船に慣れた旧南
 宋の漢族と半島の朝鮮族が操る船だったんだ。」と書いてあるのを見たとき、どうして
 蒙古軍が日本を攻めきれなかったかが判ったような気がした。ちょうど朝鮮では高麗王
 国のなかに蒙古の支配に対する反対勢力が生じていた。その勢力が朝鮮の南部及び済州
 島にあって、元と高麗の軍の補給を邪魔をしていた。このことが獰猛な蒙古軍による日
 本攻撃を鈍らせたということである。勿論神風という天然現象の幸運もあったろうが、
 占領するに足るだけの騎馬を用意できなかったことが敗因になったのではないだろうか。
◆熊
 幼時期は足柄山で山姥に育てられ熊と相撲を取ったといい、長じては坂田金時と名乗り、
 源頼光の四天王の一人になったという、まさにその金太郎の生誕地、小さな滝で産湯を
 使い、自然石の上で遊び、熊と相撲をとったという山深い足柄の山の中に、記念館を建
 てるという競技設計に参加したことがある。足繁く現地を訪れる内にその記念館のサブ
 のコンセプトを頭に描いたのを思い出した。それは今では希になっているキビ、ヒエ、
 アワ、ソバを栽培し、古来からの食習慣やその味覚を伝承するというものであった。し
 かし残念ながら第一席になることはなく採用はされなかった。
 ちなみに参考としてWikkipediaの記述によると「日本ではアワ・ヒエ等の主要穀類以外
 の穀類は雑穀類として一括して分類されることが示すように,食品・作物として極めて
 低く位置づけられてきた.しかし,雑穀類の中でアワ・ヒエ・キビ等は日本で古くから
 主食として利用されてきた歴史があり,これら作物が利用されなくなったのは高々ここ
 数十年のことである。」とある。
◆混沌
 荘子のいう混沌については作者がいろいろと考察されているのに首肯するが、私として
 の理屈は簡単なもので目、鼻、耳、口の七孔、すなわち五感を与えられたとき、規律が
 生じもはや混沌ではなくなった、すなわち混沌が死んだと解釈した。ギリシア神話に登
 場する原初神カオスは原初神としては、むしろ空隙(空いた場所)が原義である。だか
 ら中国神話や荘子、道教の有の世界の混沌とギリシア神話の空爆という無の世界のカオ
 スとは少々違うような感じがしたが、長岡さん如何ですか?


「万理久利さんの「肥と筑」十一回の評を読んで」2010/1/23

たとえ書かれているものに対しての知識がなくても、これほど理路整然と批評出来る人は
なかなかいないのではと私は感心した。惚けている万理久利さんしか目に入らない人は、
彼女の真の姿を知らないで慌てて危険きわまりないおじゃま虫だというレッテルを張って
安心しているに過ぎない。もっと危険なものが彼女の冷徹なほどの目であることを無意識
に感じながら、異質なものという言葉で納得しているに過ぎない。この投稿で本当の万理
久利さんの真価が分かっただろう。それともそれもまだ判らない鈍感さを露呈する人もい
るにちがいない。
中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。 ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。そこには相
手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほど
はっきりと言い放つのである。日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に相手
の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の各人
の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんでも開
放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。


原点  2010/2/2

この作品は「養女に貰われて始めて歩いて来たあの道に、喜びも悲しみも無い虚ろな目を
して、しっかりと両手を下げ、爪が食い入る程拳を握りしめ、一人立っている自分を見た」
の言葉に全ての鍵が隠されていると思った。
京子がもし本当の両親のもとで育ったとすれば、天真爛漫に甘えそして自我思い切り表現
したかもしれない。しかし現実に養女として貰われた京子は、もはや五歳の子供でなく五
歳の大人となろうとしたのではないか。それが自分の置かれた環境の安定した場所の条件
と子供心に思った。しかしその子供の厳しい覚悟を耐えるために白昼夢という反対の世界
を創らざるを得なかったのではないか。
だが、京子は小さい頃に誓った、自我を殺すという誓いに無意識に反発を感じるようにな
った。「優しい」「人が良い」「思いやりがある」などと言った心地よい言葉も、自分の
本当の気持ちではない「嘘」や「おもねり」を含んでいるように見え、その欺瞞性で成り
立っている世間に気づいたのではないか。そのように私はこの作品を読んだ。
この作品を読む前に、亮子さんの生い立ちに関する田村さんの投稿があった。私は以前も
書いたが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。し
かし私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想など
は知らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは手
品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不思
議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内を
明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑賞
を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。


恋情の海 1  2010/2/4

古い規範がまだ頭の隅にしっかり隠れているのか判らないが、この手の話は元来私は苦手
であるから、出来れば見て見ぬふりしてそっと通り過ぎたいと思うのだが、いくつかの疑
問点が見つかったので書いてみた。
先ず人に対する恋情なるものが、例えばプラトニックな愛とか、単なる欲情だとかのいろ
いろな形態を列記してあるが、自分なりの一定の見解もなくただ思いつくまま書いてある
に過ぎないように思える。
主人公は娘にたいしてある時から恋情を抱くのだが、作者はそれが既成の事実とし済まし
ているようであるが、なぜどの部分にどのような人格にといった詳しい記述が私は描いて
欲しい、またそれがこの小説の重要なテーマとして一番面白い部分と思うのだが。それと
も主人公がいろいろの形の愛があることを認識するという意図の小説なのか。それとも主
人公が古い規範のなかで、自分の情念の不道徳さに悩み、異常な愛の少数派の苦悩や苦痛
に共感し理解出来るようになったことが主なテーマだろうか。とにかくいろいろのもりだ
くさんの恋情が描いてあって、主人公はその混沌の世界で溺れそうに見える。
とまあ、憎まれ口を沢山叩きましたが、このようなジャンルのものを書けない私の「曳か
れ者の小唄」「減らず口」「田作の歯ぎしり」と思ってください。あしからず・・・。


恋情の海 2  2010/2/5

これが小説としてみたとき、研究書や報告書やエッセイならともかく、近親相姦や同性愛
や片思いやプラトニック・ラブや変態などの様々な愛のあり方において一般論を語られて
もあまりおもしろいとは思いませんでした。
私は小説においては人物がいかに表現されているかが見所だと思いますから、登場人物の
内面の歴史や育った環境やそれによって作り上げられた感覚や考え方を知りたいと思いま
した。ましてや読者とちょっと違う、異常な環境の場合はなおさらであります。それは読
者が必ずしも同意するということではなくても、そういうこともあるだろうと納得するよ
うに詳細に描写してもらいたいということを言いたかったのです。だから主人公が自分の
娘のどこに惹かれ、どうして彼女でなくてはいけなかったか、どうして妻や他の人ではい
けなかったかを延々と追求してもらいたいと思ったのです。
そういうわけで、私のこの小説のテーマはその辺ではないかと私は思ったものだが、人様
々であることを考えれば全くの独善に過ぎなかったようですね。


恋情の海 3  2010/2/7

私の解釈と違い、作者は悩める初老の男の周章狼狽のみをテーマにしたかったことは解説
で判った。それもまた作者の自由であるから、これ以上そのことにたいして言うことはな
い。しかし「人を愛するという事はどういう事なんだろう。相手に惹かれると心を通い合
わせたいだけでなく、体も結ばれたいと思う。それが自然な成り行きなら、抱き合わない
と愛は成就しないんだろう」といっているが、子供に対する愛や動物に対する愛、人類に
対する愛などのいろいろの形の愛がある中で、男女の愛だけに絞られていて、愛欲と結び
つけられている。だから最初「愛」という書き出しからして、私はそんなに愛を十把一絡
げに語っていいものかという疑問をもった。
だから娘に対する愛が突然愛欲に変化したのか、それとも子供に対する愛情と愛欲が同時
に混在しているのか、その辺の分析もなく描かれているところは、いかにも安易過ぎない
のではないか。ただ悩んでいる姿だけを記述して済ましていて良いのか。私はそのへんの
問題に対してもう少し深く主人公の内省として分析を試み記述して欲しかった。
それゆえ「まさに今回のタイトルである「カオス」(混沌)状態の男の観念の世界を描い
ただけ」であって、主人公は「自分の気持ちを書き出し、分析し、記録したいと」告白し
ているその書き出しの宣言を、十分満たしたものではないと私は考える。



BUTTERFLY  EFFECT  2010/2/13

私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では結果;
効果; 影響 感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後まで読
んでも表題とは結びつかなかった。
そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開された
アメリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小さ
な波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないような
大きな波になるということを言うらしい。

しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。
私はここに描かれた池の情景を表現するようなイメージの絵を求めていろいろ探し回った。
Rさんはアンリ・ルソーの絵のようだと言われるが、たしかに「夢」や「熱帯風景、オレ
ンジの森の猿たち」などの森の絵はいろいろの動物や植物が生息するに違いないと思わせ
る不思議な絵である。
片や私は、作者や絵の題名も失念したが、植物や昆虫達を鮮やかな色と繊細なタッチで描
写した、日本画の「草木花虫の細密画」のようだと思った。それはまるで池の周りの多様
多種な生物の営みを一瞬時を止めてたような絵、それとも目には見えない動き・ストップ
モーションのような不思議な静かさに見えた。しかしその絵はついに見つけることは出来
なかった。私が抱いたイメージだから、はたして私が言うようにこの作品に即したものか
どうかは実は確信できないでいる。

都会に住んでいた私がある時一時田舎で暮らしたことがある。人間で溢れた都会で生きて
いる動物、植物の数も種類もなんと貧弱なことか。それに反し田舎の自然では様々な植物、
動物、昆虫の生命が、数そして活力において人間を遥かに凌いでいるのを目の当たりに見
てきた。そこでは蟻や蜂、ぶよ、はえ、むかで、ゴキブリ、蜘蛛、蛇などが主役で、いかに
人間どもは主人面をしていても脇役なのだ。都会の人間はそのことを忘れて生きている。
この作品の語り手は不思議な視点でこの池の様子を見ていると思った。人間側でもなく昆
虫や小動物の側でもない。もっと中立的な、敢えて言えば善悪を超越した人・神の目で事
象を見ているように私には思えた。このことは作者の作品に共通して言えることで、私の
ように自分の世俗的な出来事を並べ立てて、自分で答えを出すというあまりにも人間的な
卑近な作風とは違い、もっと深い真理につながる何かを表現することが出来る、誠に羨ま
しい才能を持ち合わせていると感じた。だから表現された作品が透明感や清涼感それとこ
の世界の全ての事象の奥に潜む不思議さを読者に与えるのではないだろうか。

さて私の評の終りとして最初に抱いた疑問であるBUTTERFLY  EFFECT」の「蝶」が何であ
ったかを究明しなければならない。
銀やんまや蛙や昆虫・蝉・蛇等の目には見えないものが、その池の周りに微かな変化を起
こしていった。そのあるものの正体はなんであったか。
あるとき私は、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質「暗黒物質」(dark matter)につ
いて書いてある記事をみた。宇宙の九割はこの「暗黒物質」で満たされているという。あ
る解説書には「宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないが、光を反射しないために
光学的には観測できないとされる仮説的物質のこと」とある。その物質の候補としてニュ
ートリノ、 ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマターなどがあるというが、 ニュー
トリノ以外はまだ存在を確認されていない。
宇宙の質量の総量が計算上成り立つには目に見えないこれらの「暗黒物質」が理論上存在
しなければなりたたないという訳だ。実際それらは強力な重力を持ち、「重力レンズ効果」
という現象で星間に影響を与えているという。

この世の中は目に見えるもの以上に、目に見えないものの方が多い。ある場所での蝶の羽
ばたきが、そこから離れた場所の未来の天候に影響を及ぼすということが、複雑なカオス
の中で何かに触発されてそれは起こり、そしてそれは予測不可能なのだ。そしてこの世を
実は支配していると思われる「蝶」とは無秩序の世界・カオスを含む森羅万象に君臨する
宇宙の法則がその正体だ。
あなたの頬に微かな風を感じたら目に見えない「蝶」が側に潜んでいるのかも知れない。
そしてたとえ自分の意思だと思っていても、実は遥かに遠く隔てた135億光年の星の瞬き
が、あなたの志向に影響を与えているかも知れない。

私は作者の作品の意図の回答を言い当てることを諦め、自分に納得する解答をのみ求めた。
だから全くこの作品の合評問題の答案としては不合格であろう。しかし作者の文学が与え
てくれる「この世界の営みは人知を越えた不思議さで満たされている」という、善悪を超
越したものの見方を教わったように思える。



『言葉集め星創り五拾番』密と罪の花   2010/2/23
http://2style.in/alpha/21-13.html

神野 佐嘉江氏の混沌の世界で遊ぶ者は、ネジが一本外れたか又は配置を換えした、おめで
たい脳みその持ち主、万理久利さんと私の二人だけなのか。作者の文のなかで目についた言
葉をはじめからトレースしたら、ほとんど万理さんと同じで、重複するからここでは書かな
い。先日言葉とはなにか 丸山圭三郎著を読んでいて次のようなものが目にとまった。机の
冬は、病み上がりの色できしみつづけ:失語症患者の文妙なる屍は、新たなる酒を飲むで
あろう:シュルレアリストの実験詩神野氏の提唱するオキシモーランの会員の一人として、私も不
可解な言葉の文章を作って見たくなった。そこで作ったのが次の十の文章である。意味は各
読者の連想に委ねるという無責任極まりないもので、混沌のプールの中で自由に泳いで、溺
れてくだされ。
汚れた空気 大好評自民党終演 一発合格適正検査 シネマの町 万能細胞主君の理不尽 悪玉論鮮やか
振り込め詐欺 独自の理念を求め  正直者将来夢膨らむ カラダに良品 悪銭が蔓延り要求  無料見積
蕪村門下の 仲南海ここは退屈な星 出馬へ大関名寄岩 小細工なしの真っ向勝負 サントリー名門が いいと思います 機械工業社会に 生徒が発表無謬論 発信しては投資した 武芸一筋破壊的 DL引き出し学芸賞 学力をはぐぐむ ゼロから始め 爆破予告電話入 自分のお墓を整えた 鍵握る男世界的 金融不安を迎え  解放する受賞

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激甘辛 作品評6

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月 1日(木)13時56分53秒
編集済
  .

              激甘辛 作品評6
                  21号2009-2010


   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α21号


昔、革命的であった男の挽歌(その7、安曇野便り)    2009/11/24

作者は以前「茜色」に特別な思いがあると告白した。茜色に染まった神秘的な山際の夕日
に魅せられたのか、それともそんな名前の女(ひと)に叶わぬ恋心を抱いた過去があった
のか、私はそれ以上詳しくは問わなかった。作者はそんな思いもあって今、「茜」という
女性を登場させたのだろうか、私には知る由もない。

私も日本の伝統色の色彩とその呼び名に魅されるのである。 「淺緑(あさきみどり)」
「臙脂色(えんじいろ)」「褐色(かちいろ)」「群青色(ぐんじょういろ)」「深紫
(こきむらさき)」「朱鷺色(ときいろ)」「中紅なかくれない」「木賊色(とくさいろ)
「鈍色(にびいろ)」「利休鼠(りきゅうねずみ)」などなど。

また「杣道(そまみち)」とか「小体(こてい)な家」「出来(しったい)」などといった
懐かしい日本語もはや廃れようとしている。時々辞書を引きながら、響きのいい言葉や姿
の美しい文字に出会ったとき、その言葉をつかって文を作りたくなるときがある。そのよ
うに作者は「茜」という文字に魅了されて、いつかその思いを遂げたくなったのだろう。

さて、本題の感想を述べよう。
1.これは私の好みの問題であることだが、P1上部の文で「そんなとき隣人(といって
も300メートルは離れている家だが)の鶴見さん」とあるが、ト書きや( )書きはあ
まり文学的ではないと私は思う。たとえば「300メートルは離れている隣人の鶴見さん」
と書いても良いのではと思うのである。

2.前半の自然の描写や内証は実に素晴らしい。私好みの世界を見事に作っている。これ
は作者の別の資質が発見された喜ばしい作品だと私は思った。

3.しかし「同人安曇野」に投稿された農業再生、財政問題について、滔々と述べられる
後半には一つの疑問を私は感じた。それはこの「同人安曇野」の主旨が依然として明確で
ないのだ。これは文学的な作品を載せるものなのか、そして合評はどんな観点で評価され
るのかが不明である。それとも生活に根ざす様々な問題点を政治的に解決するための研究
や提言を扱う同人誌なのかである。その辺が明確になれば読者の読み方も違ってくるだろ
う。それともそれを含んだトータルナ文学作品として作者は描こうと努力しているのか。
またまた厳しい意見でごめんなさい。


昔、革命的であった男の挽歌という表題について     2009/11/25

今流行の血も涙もない必殺仕訳人の仕業ではないが、作者にとって予想もしていないよう
な問題を指摘され断罪されることは辛いことであろう。しかしこれも泣いて馬謖(ばしょ
く)を斬るのたとえで、これからの創作に生かして貰いたいと思う故である。

万理久利さんの表題の変遷の調査をみて、そういえば私も各号の編集時に作者の表題につ
いて違和感を微かに感じてはいたが、作者の意図を尊重するという逃げ口上ですまし、私
もこのことについて余り深く考えてはいなかった。このところ皆さんの評論を読んで、そ
の表題がこのシリーズの最初の頃の意図と少しずつずれてきていることを感じたのである。

先ず、挽歌とはなにか。挽歌とは「葬送のとき、柩(ひつぎ)を載せた車をひく人たちがう
たう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌。哀悼歌」とある。この意味とすれば沼南ボーイ
さんの言われるように、昔革命的であった男の挫折や屈辱や悲しみの賦でなければならな
い。しかしその後の作品をみれば、その男はやおら蘇生して棺のなかから出でて、安曇野
あたりで現世の不条理を説いている。まさに挽歌とは言えなくなっていることは確かであ
る。この意味でこの表題のままであるとすれば、読者に間違ったサインを送っていること
になりはしないだろうか。

そう言う意味では表題はなかなか難しい。作者がつける表題は物語の概要を示すようなも
のが多く、それが会社の定款のような具体的なものだと、小説の内容を限定し狭めてしま
う恐れがある。そうかといってあまりにも抽象的すぎても、各小説の内容を示唆すること
がないのでイメージが乏しくなる。

さてこの問題を作者はどう解くだろうか、眠れない夜を送りつけたような気がするし、余
りのあら探しに私も眠れそうもない。


いろいろの尺度     2009/11/29

 長岡さん、決してジャブやパンチの応酬が、実りのないことだとは決して思いません。
白けているのではなくむしろ大いに歓迎するところであります。

 さて、皆さんの合評を読んで感じたことは、論点のかみ合っていないものが多いなあと
感じました。長岡曉生さんがいみじくも書かれた「一定のデータを対象に、一定の論理の
下に解析して、一定の結果を得ることを目標とする」には私も同感しますが、残念ながら
そのような土俵が作られていないように思います。
 たとえば小説の手法や構成上のバランスや完成度を論じているときに、書き込まれた内
容の芸術性をを問題にするなどなど、かみ合わないのです。表題に含まれる「挽歌」に対
する説明や、「安曇野」のなかで取り上げられる「農業問題」などの政治性をどう位置づ
けするかについては明確な回答はない。それを重要な問題とみなすか、本意には影響がな
い小さなことだと考えるかの違いのようです。
 これはお互いに自分の中に持っている尺度、物差しの単位の違いによると思われます。
人の考えを計るのに尺貫法の物差しを使う人が、インチやヤードの物差しを持っている人
を納得させることは難しいことです。だから同じ物差しを用意しておいて、お互いに論ず
るとことが理想的ですが、それがまた本当に難しいことであると感じます。
 私はしかし物差しの違う論争が全くつまらないと言うわけではありません。それぞれの
尺度で測った行き違いの問題点が、沢山出てくることはいいことであります。また、論者
が今どのような物差しを使っているかが判るだけでも面白いと思う訳です。だから各読者
には全く間違ったと思われる、筋違いのはちゃめちゃなものも大いに歓迎するという訳で
す。その中から異質で私の想像もつかないような価値が生まれるかもしれないのですから。




テーマ「カオス」による 会話詩をよんで     2009/12/14

 文明は前の文明が土に戻る前に、その上に新しい都市をつくった。何かに追われるよう
に戦い滅ぼし尽くし支配しカオスの状態になった。ローマの都市の地下は殆ど数千年前の
都市の残骸で埋め尽くされている。その新しい建物もすでに数百年は過ぎているのだ。
 人類は働き食べて寐るなどの基本的本能に於いては、有史以から今まで何の変化もして
いない。飽食、便利、豊、自由な時間、膨大な情報量を享受しているがどこか賢くなった
ろうか。
 この詩を読んで、本来の原始的な生命力を失うほど、人類の欲望が必要以上に肥大化し
ていった、一方悠久の自然がいかに緩やかで清々しいものかの対比を描いた詩だと私は感じた。



たんぽぽ(1)・・・敏夫の場合  2009/12/18

◆周りは倉庫や町工場やスナックなどの混在したところらしい。数十年前はこんな広場も
あったんですね。もう子供が入り込んで勝手に遊び場にできる広場もなくなったようです。
そしてその言葉さえあまり聞かなくなった。そうだ空き地とも言っていたなぁー。
 持ち主もわからない雑草や砂地の場所で、土管などの建材が積んであって、よくの漫画
に出てくるドラえもん、のび太(福田)やジャイアン(小沢)やスネ夫(麻生)などがいじめた
り、いじめられたりしていた場所。

◆街路樹の葉はすでに散っているところから判断して、ブラウニングの詩風にいえば「時
は冬、日は昼、昼は12時半、曇り空の昼食後」というところでしょうか。

◆登場人物11人のうち男性3人、女性7人、背の高い人物はどちらかわからない。どん
な職場だったのだろう、この写真の登場人物からは残念ながら名探偵でも想像できない。
キャッチャーはなんだか気が入っていないし、後ろの背広の男性は筒井さんにつられてバ
ットスイングのまねをしている。皆の視線がバットに向いているから空振りかと見えるけ
れど、キャッチャーのミットには納まっていないという、球の存在が見あたらない不思議
な場面である。背広の男性の右手に二つの球が見えるのがそれだろうか。

などと枕が長いのは本題の精彩に欠けると自覚しているようなもの、どうも真打ちにはと
うていなれそうもない。
私は細部まで検証することが苦手です。建物を設計するにも人それぞれの癖があります。
一つは細部から詳細に検討して要素を積み上げていくタイプ。もう一つは大まかな全体の
機能や配置や動線を考えることから始めるタイプ。私はいつも後の方で、細部の納まりや
びっくりするような匠の技は持ち合わせていない。
そこで大掴みの二点だけ感想を述べたい。

◆一つは、カーチャンがぼくを嫌いな訳は「ぼく」だからなのか。それとも男の子だから
だけなのか。嫌う訳は単に可愛くないとか、カーチャンの言うことを聞かないというよう
な単純なものでなく、もっと深い理由が隠されているような気がしてならない。たとえば、
「ぼく」はカーチャンの前の男の子供で、連れ子たから今のトーチャンに気兼ねして邪険
にした。妹は今のトーチャンの本当の子であるから可愛がる、などが考えられる。それと
もカーチャンは父親に子供の頃虐待されたから男が嫌いになった。しかしそれではトーチ
ャンと仲良くなったということについて理屈が合わなくなる。結局、終わりまでカーチャ
ンのぼくを嫌う心情の解析はしていないから、最後までなぜなのか読者にはわからない。
何かのトラウマとすれば、迷い苦しむカーチャンのそのへんの心情を私は知りたいと思っ
た。

◆二つ目はこの物語は「ぼく」の淡々とした語りで始終しているから、最初はあまり衝撃
を与えなかったが、よく考えるとまさに犯罪に近い物語である。
この敢えて淡々とした「ぼく」の語り口は作者が意図したものだろうか。
「その後ぼくがどうなったかは,とてもぼくの口からは話せない。トーチャンやカーチャ
ンに聞いてよ。 ぼくもトーチャンやカーチャンがどういうか聞きたいよ・・・」で終わ
っている。悲惨な最期を暗示しているが、Tさんのコメントではその2も主人公は敏夫だ
とある。私にはそれがどんな物語になるか謎である。余計なことかも知りませんが、もし
この物語が読み切りで、その2が新しい情況の物語だったら、主人公の名前は変えた方が
いいような気がします。




四国八十八ヶ所遍路みち・旅日記  2009/12/28

両親は生きている時に四国や篠栗霊場巡りをしていた。その篠栗霊場とは、本場の四国霊
場八十八ヶ所とは別に「篠栗四国」「小豆島四国」「知多四国」という「日本三大四国」
の一つで、福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八ヶ所の札所があると、インターネ
ットで調べたらあった。しかし両親がどのような心境であちこち苦労して巡っていたかは
聞いたことがない。私みたいな理屈をこねないから、ごく自然に天命を感謝して巡ったと
想像されるのである。一方私は未だにそんな心境に至らず、今のところ一年発起してその
天命に感謝したり、或いは何かの業(カルマ)を払い清めるために、または作者のように
単にスポーツと割り切って巡礼する気持ちは全くない。たとえ強い信念で思い立ってもそ
の苦労に耐えられないだろうし、すぐに色々の疑問にさいなまれて挫折するに違いない。

再三私は作者に、冒険にたいする意味合いを知りたいというおねだりをしているのだが、
未だにその無理難題に着手してはくれないようだ。ジョージ・マロリーは「なぜ、あなた
はエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから(Because it is there.)」
と答えたという逸話がある。だがそれだけでは無いはず、志向するには理由があるはずと
ある哲学者は言っていた。
すべて解決できないことは神に委ね安心立命を得るか、それともちっぽけな脳みそをかき
回してでも自分で回答をみいだす苦労を背負うかは個人の自由である。私は後者であるか
らこのような偏屈な合評とも言えない感想を書いて、顰蹙を買うことになると覚悟してい
る。Mさんごめんね―。




雄猫勇吉の冒険 (2)  2009/12/31

年が明けてからこの作品の感想を書こうかと思っていたが、次の三つの理由で今日この年
の終わりに書くことにした。
① 大晦の紙面の寂しさを吹き払うために万理久利さんの努力に頼るだけでは申し訳ない
   から。
② 年始となれば自ずと新年の挨拶やら、抱負で自然と賑わうだろうから。
③ イマジン氏のエッセイにいたく感動したから。

さて、今回の作品「雄猫勇吉の冒険 (2)」は実にすばらしいできである。以前のような、
本人はまじめにそう思っているのだが、どうも屁理屈に思える考えを書かれて、それはそ
れなりに面白い見方ではありましたが、今回は堂々と真っ正面から勇吉の立場を詳細に観
察し、己の少年のころの環境と重ね合わせて検証しているところが、じつに深い洞察と無
駄のない表現を伴っていて、名文と私は思った。

最後にあえて一つ注文を付けるとすれば、「勇吉の恋」は次号に回した方がよかった。な
ぜならば、いじめや権力闘争などの社会的な問題について深く論じてきたわけだから、そ
こにまた別のエピソードが加えられると、せっかく見事な問題意識が持続されなくてもっ
たいない。あれもこれもという奉仕精神は得てして最後に何の印象も残さないから不利で
ある。激しく反論していても、最後に謝ったり慰撫したりするいつものO-chanの喧
嘩を見ているごとく、読み手としては結論はなんだったのかと不満が残る。喧嘩するなら
するで、最後まで論調を変えて貰っては困るのである。とまあ、フランスで遊びほうけて
いるO-chanまでまな板に載せてごめんなさい。しかし最後の節で私も同じ過ちを犯
したようだ。
イマジンさんの今回の「雄猫勇吉の冒険 (2)」は名作であった。




5年生存率  2010/1/24

◆専門用語
 私はこの表題の言葉を全く知らなかった。親族や知人のなかにこのような病気で多く亡
 くなっているにも拘わらずである。世の中にはそのような専門用語が沢山あり、その職
 業の間では当然のような言葉でも一般の人には符丁のようなもので、何を意味するのか
 まったく思いもつかない言葉なのである。
 しかしよく考えてみると、このての用語は後期高齢者などの呼称と同じく、なんとも人
 情味の感じられないものが多い。管理する側が便利上ラベルを張って置くようなもので、
 我々はそれを全面的に信じすぎてもいけないのではないか。
 後期高齢者といわれても、肉体的にも精神的にも個人差はあり、また5年生存率といっ
 てもあくまでも数字上の確率の問題で、個人に当てはめて判断することにおいては決定
 的なものはない。例外は常にあり全てがそうだと思わされる必要はない、自分は例外な
 のだ思っていたほうがいいと思った。だからこんな言葉が一般化されて、みんなが恐怖
 におののいたり、落胆したりするのであるなら、専門家の間だけのものとして置いて欲
 しいような気がする。
◆エッセイ「5年生存率」を読んで
 作者が病を得てからいろいろの悩みや不安などの苦悩を通して人生観が変わったと述べ
 られている。友人の死や自分の生命の限りを認識するなかで、失うものも多いがむしろ
 得ることの方が多いようだと、己の人生を肯定的に受け入れる精神的な強さと人にたい
 する優しさが作者のすばらしい人格を表している。
 人は悪い状態になってももっと悪い状態のことを考えて、まだ自分はいいほうだと考え
 て踏みとどまる強さがある。私が目の手術をしたとき、二人部屋の隣のベッドの人とよ
 く話をした。最初はその屈託のない人柄に、その人が非常にシリアスな状態であるとは
 思えなかった。しかしそのうち彼は「私は全盲なのです。光はかすかに感じるので視野
 は明るいが、物の形態は判りません」と告白された。では何故再び手術を受けられたの
 かという私の問いにたいして、「このまま放置すれば光も感知できなくなり、暗闇の世
 界になってしまいます。だから光を感知できる機能が残ってよかったと喜んでいます。」
 という言葉があった。
 私は幸い白濁の灰色の世界から鮮やかな色彩の世界へ、そして視力も確実に戻ることが
 出来たが、遂にその辺のことを隣の人に詳しく報告することを躊躇して、ただ以前より
 少しましになりました、といって同じ日に退院して別れた。私はそのとき自分よりもっ
 と難しい情況を耐えている人がいるのだという事がわかり、このエッセイの作者の心境
 も理解出来るような気がした。




肥と筑 第十一回  長岡曉生著  2010/1/25
http://2style.in/alpha/21-16.html

いつもは知らないことばかりで、すでにその巨大な知識への感嘆の言葉ばかり書き尽くし
ていたから、前回までなにを評し質問したらいいのか戸惑っていたが、この度は動物の話
題で私でも取り付きやすかったので助かった。
◆白き牝鹿
 高校時代に副担任だった花山院親忠先生が、春日大社の宮司になられて一冊の本を書か
 れた。市ヶ谷で行われた出版記念の会に出席して求めた本が「春日の神は鹿にのって」
 である。その本の中に今の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の神が鹿に乗って春日大社にや
 って来たという内容だったと思う。
 今回の作品を読み始めて、インターネットで調べてみたら『常陸国風土記』では、神代
 の時代に神八井耳命の血を引く肥国造の一族だった多氏が上総国に上陸、開拓を行いな
 がら常陸国に勢力を伸ばし、氏神として建立されたのが現在の鹿島神宮の起源であると
 書いてあり、しかも現在では鹿島港を中心とした鉄鋼企業を主とした鹿島臨海工業地帯
 を形成していることは、古代のタタラ製鉄をよくした種族と関係がありそうだと思われ
 た。しかしこの作品を読み進むと、驪戎のトーテムが鹿だったことをまさにしっかりと
 書いてあったのには参った。
◆馬
 作品のなかに「元寇の時に、騎馬隊で成るモンゴル軍を運んだのは、操船に慣れた旧南
 宋の漢族と半島の朝鮮族が操る船だったんだ。」と書いてあるのを見たとき、どうして
 蒙古軍が日本を攻めきれなかったかが判ったような気がした。ちょうど朝鮮では高麗王
 国のなかに蒙古の支配に対する反対勢力が生じていた。その勢力が朝鮮の南部及び済州
 島にあって、元と高麗の軍の補給を邪魔をしていた。このことが獰猛な蒙古軍による日
 本攻撃を鈍らせたということである。勿論神風という天然現象の幸運もあったろうが、
 占領するに足るだけの騎馬を用意できなかったことが敗因になったのではないだろうか。
◆熊
 幼時期は足柄山で山姥に育てられ熊と相撲を取ったといい、長じては坂田金時と名乗り、
 源頼光の四天王の一人になったという、まさにその金太郎の生誕地、小さな滝で産湯を
 使い、自然石の上で遊び、熊と相撲をとったという山深い足柄の山の中に、記念館を建
 てるという競技設計に参加したことがある。足繁く現地を訪れる内にその記念館のサブ
 のコンセプトを頭に描いたのを思い出した。それは今では希になっているキビ、ヒエ、
 アワ、ソバを栽培し、古来からの食習慣やその味覚を伝承するというものであった。し
 かし残念ながら第一席になることはなく採用はされなかった。
 ちなみに参考としてWikkipediaの記述によると「日本ではアワ・ヒエ等の主要穀類以外
 の穀類は雑穀類として一括して分類されることが示すように,食品・作物として極めて
 低く位置づけられてきた.しかし,雑穀類の中でアワ・ヒエ・キビ等は日本で古くから
 主食として利用されてきた歴史があり,これら作物が利用されなくなったのは高々ここ
 数十年のことである。」とある。
◆混沌
 荘子のいう混沌については作者がいろいろと考察されているのに首肯するが、私として
 の理屈は簡単なもので目、鼻、耳、口の七孔、すなわち五感を与えられたとき、規律が
 生じもはや混沌ではなくなった、すなわち混沌が死んだと解釈した。ギリシア神話に登
 場する原初神カオスは原初神としては、むしろ空隙(空いた場所)が原義である。だか
 ら中国神話や荘子、道教の有の世界の混沌とギリシア神話の空爆という無の世界のカオ
 スとは少々違うような感じがしたが、長岡さん如何ですか?



「万理久利さんの「肥と筑」十一回の評を読んで」2010/1/23

たとえ書かれているものに対しての知識がなくても、これほど理路整然と批評出来る人は
なかなかいないのではと私は感心した。惚けている万理久利さんしか目に入らない人は、
彼女の真の姿を知らないで慌てて危険きわまりないおじゃま虫だというレッテルを張って
安心しているに過ぎない。もっと危険なものが彼女の冷徹なほどの目であることを無意識
に感じながら、異質なものという言葉で納得しているに過ぎない。この投稿で本当の万理
久利さんの真価が分かっただろう。それともそれもまだ判らない鈍感さを露呈する人もい
るにちがいない。
中島義道の「人間嫌いのルール」の中に誠実さと思いやりということについて言及してあ
った。 ルース・ベネディクトは「菊と刀」のなかで、一つの逸話を通じて英語における
「sincere」という言葉と日本語の「誠実」という言葉のずれがあると指摘してあるとい
う。あることにたいして西洋人は自ら感じたことをはっきりNOと否定する。そこには相
手に対する思いやりよりも、自分の気持ちに誠実であろとするから弁明の余地もないほど
はっきりと言い放つのである。日本ではおなじ否定でも婉曲に、あるいは懇切丁寧に相手
の気持ちを推し量りながら説明する努力をするという。このたびのホームページ上の各人
の表明はまさに西洋人の「思ったことをはっきり言う」ことが誠実、あるいはなんでも開
放的でよろしいという、短絡的な思い上がりである。
ここで問題なのは、言われた人がどのように感じるだろうかという日本的な良さである視
点が欠けていることであろう。




原点  2010/2/2

この作品は「養女に貰われて始めて歩いて来たあの道に、喜びも悲しみも無い虚ろな目を
して、しっかりと両手を下げ、爪が食い入る程拳を握りしめ、一人立っている自分を見た」
の言葉に全ての鍵が隠されていると思った。
京子がもし本当の両親のもとで育ったとすれば、天真爛漫に甘えそして自我思い切り表現
したかもしれない。しかし現実に養女として貰われた京子は、もはや五歳の子供でなく五
歳の大人となろうとしたのではないか。それが自分の置かれた環境の安定した場所の条件
と子供心に思った。しかしその子供の厳しい覚悟を耐えるために白昼夢という反対の世界
を創らざるを得なかったのではないか。
だが、京子は小さい頃に誓った、自我を殺すという誓いに無意識に反発を感じるようにな
った。「優しい」「人が良い」「思いやりがある」などと言った心地よい言葉も、自分の
本当の気持ちではない「嘘」や「おもねり」を含んでいるように見え、その欺瞞性で成り
立っている世間に気づいたのではないか。そのように私はこの作品を読んだ。
この作品を読む前に、亮子さんの生い立ちに関する田村さんの投稿があった。私は以前も
書いたが、そしてこれは個人の趣向の問題だからそのように思わない人もいるだろう。し
かし私は一つの作品を読むときに、その様な解説や、裏話や、作品を作るときの構想など
は知らない方がいいという考えを持っている。
確かにそのようなエピソードを知りたい、面白いと思う人もいるだろう。しかしそれは手
品師が観衆の関心を得るために、種を明かすという手法と似ている。私はその手品が不思
議で、仕掛けはどのようになっているかと考えるのは楽しいが、手品師が自らの手の内を
明かすことは、まるで蛸が自分の足を食べるように、読者に予断を与え本来の作品の鑑賞
を邪魔するような、食えない話であると思うが・・・如何。




恋情の海 1  2010/2/4

古い規範がまだ頭の隅にしっかり隠れているのか判らないが、この手の話は元来私は苦手
であるから、出来れば見て見ぬふりしてそっと通り過ぎたいと思うのだが、いくつかの疑
問点が見つかったので書いてみた。
先ず人に対する恋情なるものが、例えばプラトニックな愛とか、単なる欲情だとかのいろ
いろな形態を列記してあるが、自分なりの一定の見解もなくただ思いつくまま書いてある
に過ぎないように思える。
主人公は娘にたいしてある時から恋情を抱くのだが、作者はそれが既成の事実とし済まし
ているようであるが、なぜどの部分にどのような人格にといった詳しい記述が私は描いて
欲しい、またそれがこの小説の重要なテーマとして一番面白い部分と思うのだが。それと
も主人公がいろいろの形の愛があることを認識するという意図の小説なのか。それとも主
人公が古い規範のなかで、自分の情念の不道徳さに悩み、異常な愛の少数派の苦悩や苦痛
に共感し理解出来るようになったことが主なテーマだろうか。とにかくいろいろのもりだ
くさんの恋情が描いてあって、主人公はその混沌の世界で溺れそうに見える。
とまあ、憎まれ口を沢山叩きましたが、このようなジャンルのものを書けない私の「曳か
れ者の小唄」「減らず口」「田作の歯ぎしり」と思ってください。あしからず・・・。



恋情の海 2  2010/2/5

これが小説としてみたとき、研究書や報告書やエッセイならともかく、近親相姦や同性愛
や片思いやプラトニック・ラブや変態などの様々な愛のあり方において一般論を語られて
もあまりおもしろいとは思いませんでした。
私は小説においては人物がいかに表現されているかが見所だと思いますから、登場人物の
内面の歴史や育った環境やそれによって作り上げられた感覚や考え方を知りたいと思いま
した。ましてや読者とちょっと違う、異常な環境の場合はなおさらであります。それは読
者が必ずしも同意するということではなくても、そういうこともあるだろうと納得するよ
うに詳細に描写してもらいたいということを言いたかったのです。だから主人公が自分の
娘のどこに惹かれ、どうして彼女でなくてはいけなかったか、どうして妻や他の人ではい
けなかったかを延々と追求してもらいたいと思ったのです。
そういうわけで、私のこの小説のテーマはその辺ではないかと私は思ったものだが、人様
々であることを考えれば全くの独善に過ぎなかったようですね。



恋情の海 3  2010/2/7

私の解釈と違い、作者は悩める初老の男の周章狼狽のみをテーマにしたかったことは解説
で判った。それもまた作者の自由であるから、これ以上そのことにたいして言うことはな
い。しかし「人を愛するという事はどういう事なんだろう。相手に惹かれると心を通い合
わせたいだけでなく、体も結ばれたいと思う。それが自然な成り行きなら、抱き合わない
と愛は成就しないんだろう」といっているが、子供に対する愛や動物に対する愛、人類に
対する愛などのいろいろの形の愛がある中で、男女の愛だけに絞られていて、愛欲と結び
つけられている。だから最初「愛」という書き出しからして、私はそんなに愛を十把一絡
げに語っていいものかという疑問をもった。
だから娘に対する愛が突然愛欲に変化したのか、それとも子供に対する愛情と愛欲が同時
に混在しているのか、その辺の分析もなく描かれているところは、いかにも安易過ぎない
のではないか。ただ悩んでいる姿だけを記述して済ましていて良いのか。私はそのへんの
問題に対してもう少し深く主人公の内省として分析を試み記述して欲しかった。
それゆえ「まさに今回のタイトルである「カオス」(混沌)状態の男の観念の世界を描い
ただけ」であって、主人公は「自分の気持ちを書き出し、分析し、記録したいと」告白し
ているその書き出しの宣言を、十分満たしたものではないと私は考える。




BUTTERFLY  EFFECT  2010/2/13

私はまずEFFECTについて日本語のどの言葉を当てたらいいか迷った。英和辞書では結果;
効果; 影響 感じ, 印象; 趣旨, 意味などがあった。そして一回目にこの作品を最後まで読
んでも表題とは結びつかなかった。
そしてさらに調べていたら「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、
カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視
できない大きな差となる現象のことを指す。カオス理論を端的に表現した思考実験のひと
つ、あるいは比喩である」という説明を見つけた。作者は確かにこの意味の題名を付けたに
違いないと私は確信した。

さらに 『バタフライ・エフェクト』(The Butterfly Effect)は、2004年に公開された
アメリカ映画。日本では2005年5月に公開された。カオス理論の一つ、バタフライ効果を
テーマに製作された。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリ
カで初登場1位を記録したことも解った。
そのバタフライ効果を池と小石を使って例えると、小石を池の中に投げるとまずは極小さ
な波紋を作るが、次第にその波の輪(同心円)が広がり、最初の波紋と比較にならないような
大きな波になるということを言うらしい。

しかしそれにしても作者がこの作品に込めた意図・メタファが私には未だ解らない。
私はここに描かれた池の情景を表現するようなイメージの絵を求めていろいろ探し回った。
Rさんはアンリ・ルソーの絵のようだと言われるが、たしかに「夢」や「熱帯風景、オレ
ンジの森の猿たち」などの森の絵はいろいろの動物や植物が生息するに違いないと思わせ
る不思議な絵である。
片や私は、作者や絵の題名も失念したが、植物や昆虫達を鮮やかな色と繊細なタッチで描
写した、日本画の「草木花虫の細密画」のようだと思った。それはまるで池の周りの多様
多種な生物の営みを一瞬時を止めてたような絵、それとも目には見えない動き・ストップ
モーションのような不思議な静かさに見えた。しかしその絵はついに見つけることは出来
なかった。私が抱いたイメージだから、はたして私が言うようにこの作品に即したものか
どうかは実は確信できないでいる。

都会に住んでいた私がある時一時田舎で暮らしたことがある。人間で溢れた都会で生きて
いる動物、植物の数も種類もなんと貧弱なことか。それに反し田舎の自然では様々な植物、
動物、昆虫の生命が、数そして活力において人間を遥かに凌いでいるのを目の当たりに見
てきた。そこでは蟻や蜂、ぶよ、はえ、むかで、ゴキブリ、蜘蛛、蛇などが主役で、いかに
人間どもは主人面をしていても脇役なのだ。都会の人間はそのことを忘れて生きている。
この作品の語り手は不思議な視点でこの池の様子を見ていると思った。人間側でもなく昆
虫や小動物の側でもない。もっと中立的な、敢えて言えば善悪を超越した人・神の目で事
象を見ているように私には思えた。このことは作者の作品に共通して言えることで、私の
ように自分の世俗的な出来事を並べ立てて、自分で答えを出すというあまりにも人間的な
卑近な作風とは違い、もっと深い真理につながる何かを表現することが出来る、誠に羨ま
しい才能を持ち合わせていると感じた。だから表現された作品が透明感や清涼感それとこ
の世界の全ての事象の奥に潜む不思議さを読者に与えるのではないだろうか。

さて私の評の終りとして最初に抱いた疑問であるBUTTERFLY  EFFECT」の「蝶」が何であ
ったかを究明しなければならない。
銀やんまや蛙や昆虫・蝉・蛇等の目には見えないものが、その池の周りに微かな変化を起
こしていった。そのあるものの正体はなんであったか。
あるとき私は、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質「暗黒物質」(dark matter)につ
いて書いてある記事をみた。宇宙の九割はこの「暗黒物質」で満たされているという。あ
る解説書には「宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないが、光を反射しないために
光学的には観測できないとされる仮説的物質のこと」とある。その物質の候補としてニュ
ートリノ、 ニュートラリーノ、アキシオン、ミラーマターなどがあるというが、 ニュー
トリノ以外はまだ存在を確認されていない。
宇宙の質量の総量が計算上成り立つには目に見えないこれらの「暗黒物質」が理論上存在
しなければなりたたないという訳だ。実際それらは強力な重力を持ち、「重力レンズ効果」
という現象で星間に影響を与えているという。

この世の中は目に見えるもの以上に、目に見えないものの方が多い。ある場所での蝶の羽
ばたきが、そこから離れた場所の未来の天候に影響を及ぼすということが、複雑なカオス
の中で何かに触発されてそれは起こり、そしてそれは予測不可能なのだ。そしてこの世を
実は支配していると思われる「蝶」とは無秩序の世界・カオスを含む森羅万象に君臨する
宇宙の法則がその正体だ。
あなたの頬に微かな風を感じたら目に見えない「蝶」が側に潜んでいるのかも知れない。
そしてたとえ自分の意思だと思っていても、実は遥かに遠く隔てた135億光年の星の瞬き
が、あなたの志向に影響を与えているかも知れない。

私は作者の作品の意図の回答を言い当てることを諦め、自分に納得する解答をのみ求めた。
だから全くこの作品の合評問題の答案としては不合格であろう。しかし作者の文学が与え
てくれる「この世界の営みは人知を越えた不思議さで満たされている」という、善悪を超
越したものの見方を教わったように思える。

1102

 

激甘辛 作品評5

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 5月 1日(木)09時20分5秒
編集済
  .

              激甘辛 作品評5
                  20号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α20号


黒猫と青春の歌謡曲    2009/ 9/8

 先日、リチャード・ギア主演のハリウッド映画「HACHI 約束の犬」を銀座マリオンで
見た。「忠犬ハチ公」のリメークで、筋としては実に単純で判りやすい。しかし何年も戻
ってこない主人を待っている犬はじつにバカだなぁと思う一方、我ながらついホロリとし
てしまった。照れ隠しというつもりはないが、それが何故なのかと考えてみた。
 それはこの犬が主人に寄せる絶対の愛・無償の愛だからではないか。
乳飲み子と親の関係に通ずるものだが、児童虐待、尊属殺人などの社会現象をみていると、
もはやこの無償の愛は人間関係に求めることは難しく、動物と人間の間にしか認められな
い時代になってしまったのではないか。無償の愛は実は強者と弱者の間でしか成り立たな
いのではないか。
弱者は庇護されなければ生きて行けないし、強者はその弱肉強食だけの生き方のみでは殺
伐としていて心が満たされず、弱者の放つ癒しのオーラ・生体エネルギーを必要とするの
ではないか。だからこの世の中は強者ばかり、或いは弱者ばかりでは人間社会が衰退に向
かうのではないだろうか・・・と考えた。

 私の少年の頃は、犬、猫、兎などの動物との暮らしは身近にあった。屋敷が広かったせ
いか、迷い猫、迷い犬、迷う兎などが常にいた。今までのそれらの動物がいなくなると次
の野良が入り込んで来て、いつものように馴染んで住み着いた。猫の名前はだいたい安直
に「白」とか「黒」とか名付けられていたが、犬は柴犬などの雑種で赤犬がほとんどで代
々「ベル」という名前で呼ばれていた。猫も犬も顔中ひねくり回したり、髭を切ったり、
目がねを書いたりといった悪戯をされたにも係わらず、よくなついていた。だから、もの
言わない動物から癒される経験した私にとって、子供が動物に接する環境を与えてやれな
かったことが今悔やまれるのである。彼に弱いものに対する考え方が育ったかどうかが気
になるところではある。

 動物を擬人化した書き方が色々あって面白い。夏目漱石の猫は人間の行動や思考を鋭く
観察している。気むずかしい苦沙弥先生が雪隠で謡曲を呻ったり、隣接する学校の生徒達
がうるさいと大人げなく本気で怒ったり、寒月君の結婚に纏わる虚栄や功名心などの俗世
間の風潮を見聞きして「人間はなんと滑稽な生きものであるか」などとと揶揄している。
 この黒猫と青春はそんな揶揄や苦笑の目線ではなく、実に素直で暖かい目で描かれてい
るから気持ちいい。きっと作者の廻りには無償の愛が溢れているんだと思った。





日本列島徒歩縦断・旅日記   2009/ 9/14

先ずは気になるところから書きましょう。
P20の前半は「である」調ですが、後半から「ですます」調で書かれています。その後も
この調子の混乱が見られるのですが、どちらかに統一した方がいいと思いますが。
次にこの旅日記を読んで考えさせられたことは、いかに寝る場所と食事の確保に苦労する
かということが判りました。現代の満たされた時代と違い、人間がもっと素朴な昔の時代
はこうであったのだろうと思われます。便利さを享受することに慣れた私達は、文明の利
器が壊滅した時には、作者のようなタフな人以外は生き延びれないでしょう。
最後に、数ヶ月前にK君の一周忌に墓参りした時、いろいろの文字を刻まれた墓を見て回
りました。その中に「完歩」というMさんの先手を取った碑文を見つけて、二人で苦笑し
ましたね。その後貴君の墓にふさわしい碑文を考えだしましたか。




吉の冒険を読んで   2009/ 9/14

私はイマジンさんの文章を読んで、いつもその奇想天外なイマジネ-ションに驚き、感動
する。この天衣無縫さに勝てる人は居ないだろうし、鑑賞する方はそのほころびようが実
に楽しい。

◆女房は、「ゆう吉」と書く。娘は「優吉」で私は「勇吉」と書き、娘と女房は、決して
自説を曲げないとあるが、実は作者だって二人以上に相当意固地ではある。

◆作者は猫の「勇吉」を人間並みの人格を持った者として、真剣に張り合っているのが滑
稽である。これは大事な者を求めて熾烈な戦いに明けくれる男同士の姿に見える。

◆祖父母と孫の間に通う無償の愛は、希求するにあたわず作者と「勇吉」の間では成立し
ないようだ。

◆触れたり抱いたりするのと大差ない事なのに、病気やアレルギ-の感染を心配して、猫
と一緒に寝てはならぬという論法もいささか妙である。

◆作者が懐かしむ三世代・四世代が同居する大家族制は、確かに良いところもあったに違
いないが、家族で支え合わなければならなかった社会制度の未熟さに過ぎなかっただけの
話と思う。

◆メスの避妊手術はいいが、オスの去勢はまかり成らぬという主張は、女性の天皇を認め
ないという論法に何だか似ているようだ。女帝の後継者だと長い歴史を通して連綿と続い
た皇室からX染色体が引き継がれないからだめだというさる学者や政治家と同じ論法のよ
うな気がする。

以上の論点を疑問として書き連ねたが、決して私がそれらに対して苦々しく思ってはいな
い。むしろ反対に理論武装する我々とちがい、無防備な断定をなさるところが実にイマジ
ンさんらしく個性的で可愛い所であると私は考えるのであります。




(無題)     2009/ 9/18
◆著者の合評の中で書いた私の「綻び説」を、「私は天衣無縫でもなければ、支離滅裂で
もないのであります」と反論されたところによると少々機嫌を損ねられたのではと、気に
掛かっています。


◆宮刑について
著者が「宮刑」を受けた司馬遷について書いていましたが、まさに司馬遷はその屈辱をバ
ネにしてあの膨大な史記を書いたと言われています。しかしその刑罰は男性ばかりでなく
女性にもありました。だから著者のいう男性ばかりが迷惑を被っているという不平等感は
ちょっと・・・。
話は変わって、司馬遷がその「宮刑」を受けなければならなかった原因は、匈奴との戦い
で敗北し匈奴へ投降した友人の李陵を、宮廷の中で彼が唯一弁護したため武帝の逆鱗に触
れたためでした。
そしてその李陵を題材として書かかれた秀作があります。中島敦著の「李陵」という短編
です。一度読んでみては如何ですか。

◆作品集を掲載しても何の反応もないので、その意義に少々疑問をもちいささか滅入って
しまいました。内輪で散々愚痴をいって拗ねていましたが、先日Gさんのねぎらいの言葉
と、親戚の葬儀に参加した時一回り若い女性のはとこに「実は作品の全部を読んでいる、
そのうち意見を言っても良いか」という言葉を聞いて、まんざら無駄ではなかったのだと、
実に安直に機嫌を直した次第であります。

◆民主党の無血革命ははたして首尾よく達せられるか興味深い。たとえ満足な結果となら
なくても、強者や既得権者に一矢を報い、淀みきった今の社会に新鮮な空気を入れて浄化
しようという目論みには、大いに賛同したいと思う。一方自分達が何を目指しているのか、
何が足りなかったのかの総括も出来ない今だ旧態依然の自民党の姿をみるに、再び新しい
活力を見いだせるかは疑問に思える。むしろ解体して新しい党を組み立てた方が早道だと
思うが・・・。



著者へ最後のコメント   2009/ 9/19
著者の犬猫に対する危惧はよく理解できました。たしかに人間どもが自分たちの都合で生
態系に手を下すことはおこがましいことに思えます。田舎では狐や狸や鼬といった野生の
外敵に襲われるなどして、自然にその数は一定のバランスを保っています。だから放って
置いても野良猫が増えて困るということは聞いたことはありませんでした。
もし、これが本人の意志も問わずに、犬猫のように人間に処置を施したら殺人と同じでし
ょう。我々も心して「宮刑」を受けないように用心しましょう。とはいうものの、もはや
この年齢では生物的な機能は終焉を迎えていますが。

著者の獲得したゴルフの賞品(高級料理屋・きら))についての私の情報に誤りが二つあり
ましたので訂正します。
一つ目は店の名前を「喜樂」と言いましたが、「季樂」が正しい。
二つ目はソニープラザの角を右にと言いましたが、数寄屋橋交差点から銀座四丁目に向か
って次の信号を右へ曲がった3・4軒目です。すなわち、ソニービルの横道からもう一本
四丁目に寄った通りです。
以上いつもの私のオーマンな性格によるいい加減な情報を訂正します。




蛍・その静かな乱舞(北限にて) 2009/ 9/20

よけいな物を排除された暗闇のなかで、研ぎ澄まされた光、色、音だけが読者に迫ってく
る、見事な文である。理屈をこねるでもなく、意図的に作られたのではない文だから、実
に自然に作者の「蛍」に託する思いを私は新鮮に感じた。
作者のこの文体に込めた意図は判らないが、敢えて一つの提案をすれば、一行の文をいく
つかに分けて行替えすると、もっとリズムと心の動きが生き生き響き、完全な詩情あふれ
るものなるだろう。私はこの「蛍」は初手から詩文として読みました。




初心者の俳句  あき もとすけ著  2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-7.html

安芸さんが休養を終え再び登場されたことを喜びます。そうです、おっしゃる通り「参加
することに意義あり」です、「田作の歯ぎしり」「引かれ者の小唄」「犬の遠吠え」と思わ
れようともいいんです。何かを発信すればそれに必ず答えてくれる物好きがきっといて、
その主張に対して共感してくれることでしょう。
安芸さんは偉いなあと思いました。それは私にとって俳句や短歌はよほど時間と心の余裕
がないと目が向かないような気がして、私にとってまだ手が出ないものだからです。神野
佐嘉江氏が歳時記集や俳句・短歌の解説の本を何冊も貸してくれているにも関わらず。
延々と言葉を尽くして語る散文と違い、俳句や短歌は身を削るように言葉を極限まで濃縮
して表現するものだと考えるからです。それは西洋画が人の生き様をこれでもかこれでも
かと生々しく表現することにたいして、日本画のように観念を様式化したものの様な違い
でしょう。
そのようなものに初めて挑戦しようとされたことにたいして感心したのであります。
今回の安芸さんの句に私は空間的・時間的な情景描写に目がとまりました。
空間的描写は
 東京へ 希望の空に 春立てり→故郷から東京への空間移動
 満月に 映して人を 偲びおり→意識が満月に触発されて反射し
                て人へ向かう縁(えにし)の空間ベクトル
時間的な描写は
.恋文を 待ちて冬日の 長かり   →ひたすらに返事をまつもどかしい時間
.ねぶの花 芭蕉気取りで 見ておりぬ→古の大家に成り変わるとというタタイムスリッ
  プ
.初雪に 耐える小枝を 応援す   →文句も言わずじっと耐えている時間
.吾の如し 踏まれて生きる 草の花 →不条理を克服して生きる生命の
とまぁ-、内容を深く吟味するというよりは、全く別の観点からのものであり、本筋では
なかったようですので悪しからず。安芸さんこれからもどんどん新しい創作に挑戦してく
ださい。




肥と筑 第十回   長岡曉生著  2009/ 9/30
http://2style.in/alpha/20-8.html

少し時間の余裕が出来ましたので、「肥と筑」という大作の感想に挑戦したいと思います。
私は長岡さんとは二年半という長い付き合いですので、お互いに微妙な表現も冷静に理解
してもらえるもので、たとえ見当違いや主旨の誤解や気に障る表現があっても許されると
思いこんで居ます。二年半は短いと考える人もあるでしょうが、同人αの校正や編集・出
版その後の反省会などと、実に密な関係でありますから、私は敢えて長い付き合いと思い
たいのであります。それに事があれば二時間掛けて馳せ参じてくれる彼の手にはいつも美
味しいおやつがあり、それも感謝の対象になっていることは間違いありません。

この大作においてはもちろん日本人のルーツ探しという基本的なテーマのもとに、色々の
民族の渡来人の記述が主ではあります。その文献の調査・裏付、それにより蓄積された知
識、この文の並々ならぬ構成力には驚嘆するばかりで、その真偽を判断するということに
おいて私の手に負えるものではありません。
しかし敢えて一つ問題を挙げるとすれば、狂言まわしの役割を担った語り部達であります。
作品の中でも彼等の性格や体格や気質を述べてありましたし、今度の評の解説でも後藤英
夫は加藤剛、芳賀信行は堺雅人、山南文子は夏目雅子という俳優をもってその人達の具体
的な姿を表現したいという作者の意図が見えます。

一方読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろうし、私もNHKの大河ドラマは
殆ど見ていないから、堺雅人や山本耕史についても判りません。一歩譲って知っている俳
優を擬したとしても、それだけではまだ私には登場人物のはっきりしたイメージを描けな
いのであります。それは一体何故なのか、私の表象能力に欠陥があるからでしょうか。
その原因はいくつか考えられると思います。

一つは、この物語を進める語り部達がいつも一緒に同じ舞台に立っているからだと思われ
ます。二つ目は、語り部達のその舞台から離れた時間・空間での個人としての生活、生き
様が描かれていないからではないでしょうか。勿論作者が意図することは日本人のルーツ
を記述することにありますが、切角個性的な登場人物達でありますから、歴史上の真にた
いして人間の不可解さを虚と対比させて書き込んだら、もっと面白い読み物になると思い
ますがいかがですか。・・・とまあ、毎回毎回「ぎゃすぎゃすどんく」の振りをして問題
点ばかり探すのもいい加減にしたらと自戒しています。



再び長岡さんへ   2009/10/2

◆語られる内容が余りにも専門的なもので、なかなか読み物としては構成が難しいとも察
します。しかし読者としては切角教養のある魅力的な人達が出現したのですから、もっと
深く関わりたいと思い、それを売り込まなければいかにももったいないなあと思ったもの
ですから。しかしもともと私みたいな純文崩れの「意識の流れ」などにはまりこんでいる
輩の求めるものとそうでないもの、すなわち物語の種類が違うのかもしれませんが。

◆「読者の中にはその俳優を知らない人も居ることだろう」の部分で、私の言わんとした
ことは、読者にその人物のイメ-ジが可能な長岡さん自身の観察による詳しい記述を望ん
でいるのであります。

◆「歴史上の真、人間の虚」とは過去に記録されたものは固定されていて何ものにも代え
難い。それに対して生きている人間共は虚栄や妬みや嘘で化粧されなかなかその姿を捕ま
えられない。その静と動、裏と表、真と虚・・なんだか自分が何を言わんとしているのか
判らなくなってきました。

◆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味は、はなはなだいい加減な記憶に基づく言葉と意味で、
恐らく両親の里のものではないかと思っています。これもまたうろ覚えですが、「どんく」
とはガマガエル、「ぎゃすぎゃす」とはその鳴き方を模したもの、総じて「人と反対のこ
とを唱える・言い張る」という意味だと思っています。もし解釈が間違いでしたら、その
言葉の使われている地方と正確な意味をご存じの方は教えてください。

◆「赤松さん古賀事務所で照明器の製作を宜しくお願いいたします」と言われても、生憎
光を発するおつむを所有する人は同人αの中には居ないようで、材料の供給がなく製作出
来ません。話は変わって、物書きの趣味やそれを生業としている人、たとえば筑紫哲也や
田原総一朗、鳥越 俊太郎、嶌信彦その他、髪がふさふさなのは何故だろう。



   赤松さん    2009/10/2

   ☆「意識の流れ」などにはまりこんでいる純文学系:
   成る程、赤松さんは、意識も含んだ人の動態に興味があるんですね。私も一応興味
   は有るのですが、何せ経験が浅いので、取り敢えずは人の意識構造、つまり静態の
   描写中心で行く他は有りません。

   ☆作者自身の観察による登場人物の詳しい記述を望んでいる:
   ご趣旨は、了解しました。でも今から急に容姿・性格の記述などを始めたら、読者
   一人一人の懐く像を壊してしまいそうだなあ。

   ☆静と動、裏と表、真と虚:
   裏と表、真と虚などについては、世界中の政治家達の像を嫌になるほど見ています。
   これ以上身の回りから探し出して書くのは、もう澤山だと言うのが本音です。せめ
   て自分が描く世界ぐらいは、世間の夾雑物抜きで静と動を記述して見たいと思って
   居ます。

   ☆「ぎゃすぎゃすどんく」の意味:
   ご教示、有り難うございます。これは、佐賀市内の言葉では無いと思って居りまし
   た。

   ☆物書きを趣味や生業としている人は、髪がふさふさなのはなぜ:
   きっと、頭の中に色んな考えが一杯詰まってはち切れそうになっているので、文章
   や講演として出し切れなかった分が髪の毛になって噴出して来るんですよ。
   その真偽のほどは、慎重に確かめる必要が有りますが。
   長岡曉生




わが街   2009/10/3

私は大阪をあまりよく知らない。それでもまだ会社勤めの三十歳のころ、泉佐野の広大な
公有水面埋め立て地に、製糖工場を設計・監理した時期に、数回立売堀にあった大阪支店
の近辺をうろうろしたことがある。それから数十年経て、姫路で開催された高校の同窓会
に出席する前に、東京の幹事達数人と大阪・奈良・京都を物見遊山した覚えがある。その
時あいりん地区のドヤ街を歩き、もう売春防止法が施行されて数十年も経つというのに飛
田遊郭のやり手婆が赤い膝掛けをして玄関に鎮座し、客を呼び込んでいる様子を見て私の
知らない別の時代の別の世界を覗いたような気がした。そして人間の業のようなものを感
じたとき、梁石日(ヤン・ソギル)の小説「血と骨」を、またこの作品に描いてある路地
裏の飲み屋街は、車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」を思い出した。

それでもなお私の大阪に対するイメージになにか足りないを感じていた。そうだこれはま
さに「じゃりンこチエ」の世界だ。この漫画に出てくるチエは小学五年生というのに、ば
くち好きで喧嘩ばかりしているしょもない父親のテツに代わってホルモン屋「テッちゃん」
を切り盛りしている。チエを取り巻く人達は実にバイタリティに富む、一癖も二癖もある
個性的な人間どもだ。チエはチエで大人に囲まれているせいか実に冷静で、時々ギョッと
するような真実を投げつける。ギャンブルも親爺のテツに比べものにならないくらいに強
い。またに額にある三日月状の傷がトレードマークの寡黙で凄みのあるやくざのような野
良猫の小鉄がいる。

とまあ、作者の意図から外れてしまったかも知れないが、「わが街」から私が強く受け取
った印象である。美味すぎる流れるような情景描写と敢えて言いましょう。最後の「ふり
返るとそこは灰色の街」以降は妙にペーソスがあって実にいい。参りました。




会話詩…テーマ「夏草・青春・猫の恋」より   2009/10/4

確かに人間は黙って過ごす時間を失ってしまった。
居間にあるつけっ放しのテレビの音を遠くで聞いていると、間断のない早口のしゃべり声
と声高な笑いに満ちている。

人はあまりの情報の多さに、一人の人が情感を込めた言葉を言っても、ありきたりの意味
で済ますようになった。人によってその情感は少しずつ違うのにね。だから本当の気持ち
を伝えるために多くの言葉が必要になったということでしょう。なんだか逆説のようです
が 。




猫の風景 2009/10/15

小説かそれともエッセーかの話題で賑わっているが、私は漠然と判っているつもりでいた
のだが、明確にその違いは判らなかった。たしか数十年前に求めた白水社のモンテーニュ
随想録の題名が「エッセー」だったことを思い出した。そこでwikipedia で調べると、ミ
シェル・ド・モンテーニュの『エセー』(1580年)がこのジャンルの嚆矢であり、欧米に
おいては綿密な思索を基にした論文的なスタイルを念頭に置いてこの語を用いることが多
いが、日本においては後述する江戸時代後期の日記的随筆のイメージもあって、もうすこ
し気楽な漫筆・漫文のスタイルを指して用いることが多い。 日本における随筆の起源は
10世紀末に清少納言によって書かれた『枕草子』であるとされる。とあった。

だからこの「猫の風景」をどちらだという論を口角泡を飛ばして展開するという気力はな
いが、欧米においては論文的なスタイルとあり、方や日本においては日記的随筆の気楽な
漫筆・漫文のスタイルとあるので、幅広く解釈して作者がそのように意図するのであれば
そうであって、好みの問題である。だがそこで敢えて言わして貰えば、小説は「私」とい
う人称を使っても読者は作家自身を指さないという暗黙の了解があるように思うし、エッ
セーはまさに作者自身が語ることを読者は認識するというものではないかと思った。だか
らその題材にはあまり関係がないと言える。

さて本題の作品の合評に入りましょう。
先ず最初から三段落目までは「夜の蝶」の生態についての、観察と想像を交えながら実に
見事に表現してある。ここまでは小説風で、語り手が作者でなくて、「私」でも「大江匡」
でも「信如」でも一向にかまわない。しかしそれ以降は作者の顔になっていると思うので
ある。
その違和感はともかく、情景描写は実に丁寧で臨場感があり、虐げられたものにたいする
作者の優しい視線が、なかなかいい。いずれにしてもいろいろと試みたという、全般は秀
作、和歌は迷作、全体は習作と評しました。




猫様々   2009/10/16

先ず題名の「猫様々」の読み方が気になった。「ねこサマザマ」と読むのか「ねこサマサ
マ」と読むのだろうか。読み進む内にRさんは大和の国の出身だから、多分その両方の
意味を込めたものの様な気がしてきた。このことはRさんの説明を待たねばならない。

K君から借りた丸山圭三郎・著の「言葉とは何か」という本の中に、興味あることが書い
てあった。「外国語で話している理解できない言葉は単なる騒音としか聞こえないし何の
感情も生じない。そのように言葉はそれを話す共通の社会、共通の生活体験といった文化
の中でしか理解されないのである。例え同じ動物や同じ事物を語っても、国や言語が違え
ば違った概念が生まれる」とあった。ここまでは私が何をいいたいのか、皆さんには全く
判らないだろう。早い話が、日本人の「猫」にたいする概念と、フランス人のそれは違っ
ているのではないかと思ったからだ。

著者の参考資料のなかにイギリスやフランスの「猫」に纏わることわざがあったが、Sさ
んの書かれたこの号の前書きをみると、猫だまし、猫撫で声、猫っ被り、猫背、猫の額
猫づら、猫舌、猫脚、猫ババ、猫跨、猫股、猫間、猫火鉢、猫鮫、猫の目のよう、猫目石
等々ことわざ、たとえは圧倒的に日本の方が多いと思う。
そこで私は日本の猫好きの人達は、「猫」をとても人間に近いものとして擬人化し、いや
むしろ家族や同胞のように考えている節がある。一方イギリスやフランスの人は「猫」を
人間と同列ではなくもっと野生の動物という認識がつよいのではないか。「仕事猫」など
の言葉があるくらいだから、ギブ・アンド・テイクの言葉が意味するものを考えると私は
そう思った。




吾輩だって猫である 2009/10/25

前向上はなかなか洒落ていて要領がよく描けている。「つむじ」とは面白い名を付けて貰
ったものだ。ところで「つむじ」という言葉だけで「どこかへそまがりのニュアンスがあ
るみたいだ」というのは、ちょっと飛躍過ぎるような気がする。ところで「左巻き」とか
いって、人を揶揄する言葉があるから、その「つむじ」について興味が湧いた。いつもの
ように安直にWikipediaによるコピー・ペ-ストでお茶を濁すのだが、  つむじの向き
右利きの人の95%以上のつむじが右巻き(時計回り)で、両利きや左利きの人は右巻きと
左巻きが半々だという。この考え方を使うと右利きを断定することは出来ないものの、少
なくとも左巻きの人は両利きか左利きの可能性が高いということがわかる ...

さてこの「つむじ」君はどちら巻きであろうか。この小説のなかでの「つむじ」君の独白
を読むと、頭の回転が早そうだから「左巻き」ではなさそうだ。私は吟遊視人氏の常日頃
主張する論に共鳴することが多いので、彼の分身らしき「つむじ」君の説く所には異存は
殆どないと言える。だからその点についての論評はしないが、この小説の構成について感
じたことを書こう。

我々読者は猫の「つむじ」君の独白とみなして読み進むのだが、ただ独白が続くと次第に
著者の姿がそこにちらついてくる。だから語っているのは猫の「つむじ」であることを時
々思い出させるような仕掛けが欲しい。漱石の猫は、苦沙弥先生や世間の滑稽な様子と常
時対比させることによって、最後まで主人公が猫であると我々は読むのである。
もう一捻りするとすれば旅人-M氏が行っているように、時々「つむじ」君の飼い主たる
著者と違った意見もあればなお面白いものになりそうだと思いますが。




当世グランマ気質  ルービン・良久子著 2009/10/26
http://2style.in/alpha/20-18.html

この作品を読んで、「当世グランマ気質」とはどういうことを意味しているのか、私には
確たるものがつかめませんが、それはともかく良久子さんの創り出す情景描写は、私にア
メリカ映画のシーンを思いださせるものでした。 そして書かれている地名を見るに付け
またアメリカを放浪したいという心を掻き立たせました。

ベルヴュー市の良久子さんのお宅を訪れたのはもう25年前になりました。シアトルから
湖の浮き橋を渡った美しい街でした。庭にあるリンゴの老木が印象に残っています。

モンタナ は訪れたことはありませんが、長距離バスのグレイハウンドでソートレイクか
らシアトルに行く途中で、近くを通ったような記憶があります。またリバー・ランズ・ス
ルー・イッツの舞台だったことを思い出しました。模範的な長男とブラッド・ピットの演
ずる破滅的な性格の次男を描いた、とてもいい映画でした。

ヴァーモントはホワイト・クリスマスという映画の舞台。
クリスマス・イブの日はいつもこの映画を私は見ます。アメリカの一番良い時代、そして
その豊かな暮らしや風景は私の青春時代の憧れの的でした。

兎に角この作品はまだ若かりし頃の私の夢を思い出させました。 有り難うございます。
そしてこのシーンのような時間、私にとっては親しい友人と昼食と一杯のビールを飲みな
がら過ごす時間が一番幸せな時間だと最近は思えるようになりました。さて、これから目
の修繕に行って来ます。




Jetsam and the Bees   2009/10/29

jetsamを辞書で引くと難船の船体軽減のための投げ荷とある。詳しくは判らないが、嵐に
あって漂流・難破している船が生き延びるために、よけいな荷物を海に投げ捨てて、船体
を軽くして助かろうとする行為のことだろうか。

遠い昔、私の父達が乗った帆船も漂流・難破した時、そのような行動を取ったのだろうか。
聞いた話では、ニ本のマストは折れ、伝馬船は流され、操舵室は強風の為に吹き飛んだと
いう。そのように投げ捨てられた、或いは落下した漂流物をjetsamと言うのだろうか。
どこから来て何所へ流れていくのか判らない猫の物語を象徴した名前であることに読み終
わって気づいた。最初から最後まで物語の行くすえを暗示する意味深な言葉である。

著者の作品はThe Color of the Morning やSkyline にしても短編ではあるが、実によく吟味
された食材を最高の職人によって作られた、色や味や匂いの見事なバランスの会席料理の
ように隙のない、緩みのない、大すぎるわけでもなく、また不足してもいないという見事
な作品である。私は日本では動物や植物を擬人化して慈しむといつか書いたが、この短編
を読むと、作者はある意味でJetsamを人格があるような、同じ生きているものとしての
慈しみと尊厳の目で見ていることが感じられた。それは猫かわいがりといった人間側の満
足ではなく、猫の本姓を尊重した接し方をしているということであろう。
最後に三つの作品とも、事象に対して決して作者の意図や思い入れを書き込まないことが、
かえって深みと謎めいた感じを読者に与えるのだろう。

さて、本日私は目の再生工場から無事帰還しました。全盲の同室の人との交流・手術の一
部始終のことについて、たくさん観察してきました。
そして結果は、今までいかにモノトーンの世界をすごしていたかが判りました。この世の
中はこんなに白・黒のはっきりした形と艶やかな色彩に満ちていたのかと驚きました。今
までは自分の見ていた世界がそんなに灰色で歪んでいたのかと思いました。間違った視野
で何でも見ていたのかと疑い、本当はもっと単純明快な世界ではなかったのかと思ってい
ます。

それから、Jetsam and the BeesのO氏による翻訳を作品の後に掲載しましたので、参考に
してください。

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激甘辛評4

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月30日(水)17時15分45秒
編集済
  .

              激甘辛 作品評4
                  19号2009



   「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。
   この人に評されるのが嫌で数年前に集団脱会したわけでもあるまい…。



  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。




同人α19号


昔、革命的であったおとうさんの晩夏・・・その6「同人安曇野」便り 2009/6/9

◆この作者の作品を読むときこれまでも、それが創作ものとして感想を述べればいいか、
 思想としての評価を対象とすべきか迷うことが多い。
 そこには主人公の「私」、「前にも言ったように」とか「再び言おう」とか「私の認識
 は以下のようなものだ」などの語句からは作家の影の姿を想起させるものであり、小説
 としての仮想の世界へ突然現実の生身の作家が現れるようで、違和感があると言える。
◆「同人安曇野」に投稿した農業問題をそこで滔滔と述べることも、合評会でその作品の
 評価において芸術的評価はさておいて、司会者・茜が次のようにまとめた。

 「農業再生についてのプログラム、政府の財政的な保障、などこの作品にかんしての趣
 意はほとんど皆さんの賛同を得ていると思います。問題は政府ならずとも、財源をどこ
 に求めるかでしょう。筆者がここまで明確に試案を提出されたわけだから、その財源に
 ついてもきっとその出所を検討されたことと考えます。次回後半部分の合評会の初めに
 時間をとって、筆者にその説明をしてもらおうかと思っています」

 という、農業問題の解決にかんする討議で始終するところは、何だか「同人誌」として
 の成り立ち、主旨と違うような感じを受けた。
 或いはその様な主旨の同人誌であって、私の間違った思いこみであるのかもしれない。
◆そしてまた、この小説に出てくる主人公の考えはいかにも概論的であり、私が以前読ん
 だ小説「生活の探求」の都会のインテリの生き方に疑問を持った杉野駿介が故郷に戻っ
 て農業を嗣ぎ、体験を通して農業問題に目覚める姿の方によりリアリィティを感じるの
 である。
 とまあ、勝手なことを書いたが、もしこれが論文やエッセイの形をとり、作者が自分の
 考えを直接語るのであればなんら問題はない。実は舞台裏を明かせば、先日19号のゲ
 ラ刷りを目の前に作者とO氏と私の三人が論じ合ったのがこの部分なのだ。しかし作者
 はこの方法で作品を創る意義を強く示した。だからこの難しい創作方法の成功を祈りた
 い。



「作者の反論について」 2009/6/13

 作者の「安曇野便り」の合評において、農業問題についてあの様な長文の理論を数ペー
ジに渡って展開するのは、小説という想像の世界を創り出す行為においてそぐわないので
はなかろうか、と私もO氏と同じ感じを抱いた。
 どのような物を書こうが一向にかまわないが、合評という場でなされた議論にたいして、
自分の真意と違うことを強制するなとばかりに「一切受容しません」と言い切るのは、合
評という主旨にたいしての理解がなされていないように思う。
 彼の反論を見ていても、「為にする」議論ばかりで、冷静にお互いの言い分を理解しよ
うという努力が感じられない。なにも人の意見に全て従えと言っているのではない。相手
の意見と自分の意見の相違を真摯に討議していくという度量、柔軟性が欲しい。一を言う
と十の「為にする」論をしてくる。
 作者の作品にたいする私の微妙な感覚は、今回の反論を見ていると理解し合えない、い
くら言ってもその真意が伝わらないような思いがした。
為にする議論(タメにするギロン)
議論において、その結果としての結論を出すことを目的とせず、まず結論があって、議論
をしたという体裁を整えるために行うもの。



「作者の合評のお礼について」 2009/6/14

手法について
 確かに私は氏が目指している手法を繰り返し問題にして批評してきたと思います。だか
ら氏はそのしつこさに「何回もその意図するところを説明しているのに、ちっとも理解し
てくれない」というもどかしさに、思わず感情的な(これは私の感じたもので、他の人は
そうでもないかも知れない)言葉の吐露があったと判断しました。
 氏が何か新しい挑戦を試みることには吝かではありますが、私はまだその手法に違和感
を感じ続けていることは確かです。このシリーズの第15号「ひとり芝居『天の魚(いを)』」
や第17号の「農業問題」、今度の「農業悶題」がこの手法でありますが、このような長大
な解説は論文か講演のものと私は感じていて、小説のなか登場人物の情景描写や筋とこの
主張との関係で、どちらに主体があるかという判断に戸惑ったからです。それは現に第16
号では「地球温暖化について」という問題を独立したエッセイの形で纏められていて、私
にとってはこの方がずっと判りやすい手法で、氏が日頃から社会問題に通暁されている主
張が素直に読みとれるからです。しかし氏が引き続きこの手法で創作されても、私はもは
やこの件についての問題提起をしないことにしましょう。願わくば新しい挑戦には反発や
異論がつきものですので、それを肥やしにして進むくらいの柔軟な姿勢を私は望みます。





浪速の空から 2009/6/12

◆表題の「空」はそれこそ哲学的な難しい概念である。丁度いま私は長岡氏の紹介で求め
 た、仏教の思想集「唯識論」のところを読んでいる。
 それによると、心の中の表象があるのみで、外界の存在物は無いという思想であり、
 「色即是空」、色すなわち目の前の現実と見える物は全て心の現象であって存在しない
 ということでしょう。これは茂木健一郎の言う、思想や科学や宗教は人間の頭の中で考
 えた、すなわち想念の産物であるということにつながるのではないか。今目の前に見え
 ている物の存在ははたして真実か、見えない場所に移動してもその物が存在していると
 いう確信がもてるか、私には確信が持てない。とすればやはり外界の現象は実在しない
 という意味だと私は考えた。
◆私は最初に作者のホームページへの投稿を読んだとき、この人に上方の「世話物」を語
 らせたらうまいだろうなと思った。今回はまさに予想に違わないものだったと、膝を打
 つ思いである。
◆「バカ」と「アホ」で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってしまうのは並の才能では
 ない。また、あっちに引っかかり、こっちにまっかりとぎくしゃくした生硬な私の書き
 物とは違い、作者の文は実に流暢で、上手の手によるボールの投げ合いのような、真打
 ちの掛け合い漫才のような楽しさである。それに関西弁の柔らかさと惚けたユーモアが
 混じり合って見事に調和して、しかも面白がらせようと手練手管を弄することもなく、
 実に自然に書けていると思った。そして紅涙を絞る「情物」を注文するのはチト早すぎ
 ましょうか?



「浪速びとさんへ」 2009/6/17

 「案の定,古賀さんに[バカ]と[アホ]で4ページにも渡って、臆面もなく綴ってし
  まうと言われて,実は僕は[やっぱり・・・]とうなだれたのであります」

とありますが、決して否定的に受け取らないでくだい。これは「自己流捻千家(じこりゅ
うひねせんけ)」を自称するへそ曲がりたる小生の、その筆力に対する違った表現の賞賛
の評であります。
題名は失念しましたが河野多惠子のエッセイに、ある何でもない平凡な一つの言葉につい
てアアでもないコウでもない、表、横、裏、上、下と色々の観点から見た考察を、数ペー
ジに渡って述べてものを読んだ事があります。作家とはものごとをよく観察して、様々な
例証を示し同じテーマを違った言い方で繰り返して読者に印象づけるという、さすが言葉
で勝負する職業だなと大いに感心したものであります。
 だから、面白いエピソード一杯の文章は、読んでいるときは笑ったり、悲しんだり、驚
いたり、その文と内容に上手だなと感心しますが、本を閉じた途端にその感動も雲散霧消、
何を述べられ何を言いたかったのかをすっかり忘れてしまいます。だから「バカ」と「ア
ホ」のように一貫したテーマで色々の変化球を駆使して読者に投げかけるものは実に印象
に残ります。もともと、人間は一回こっきりで物事を理解出来るとは小生思っていません。
繰り返し繰り返し、飽きるほど囁かないと読者は頭の中の引出しの隅にしまってくれない
と思います。・・・などと、かなりしつこく独断と偏見に満ちた考えを述べました。ごめ
んなさい。





葛藤 2009/6/23

 葛藤という言葉については、真剣な皆さんの論争に充分言い尽くされたと判断して、こ
れ以上私の見解を述べずに横目で見て通り過ぎましょう。
確かに語り手が現在の私と過去の私を「ゆめ子」として、客観的に描くという手法は見事
に成功しています。しかし「私」と「ゆめ子」と他に人との関係が判るまでは、最後まで
読まなくてははっきりしません。頭脳明晰な人であれば一度で理解できるでしょうが、ぼ
んくらには何回も何回も繰り返して読み込まなければ判らないのであります。葛藤や生き
方などを語る小説の内容を云々するよりも、まずそのような人間関係の把握という些末な
努力を読者に要求るのはあまり得策とは言えないのではないでしょうか。
 もちろん小生のような単細胞でない人を対象にしたならば、こういうぼやきはないでし
ょうが。普通の読者がその関係を曖昧のまま読み終わって、再度検証しなければ理解出来
ないならば、そのまま読み捨ててしまうだろうと思いました。その意味でも早い内に人間
関係が判るような表現を挿入して判りやすくして、本題である主人公の葛藤の具体的な要
因や、それに伴う真理描写に力を注いで欲しいと思いました。ここではさらりと触れられ
ていて、読者の想像に任せてるに留まっているようです。私は主人公の「空」に至るまで
のぐしゃぐしゃした葛藤に苦しむリアリズムを書いて欲しいと思った。
 作者が小説に新しい構成を求めた意図は理解できました。そしてその内容もまた「人は
色々の問題を抱えながら生きることの難しさを味わっている」ということを充分に表現で
きていると思いました。





肥と筑 第九回 2009/6/29
http://2style.in/alpha/19-4.html

 さて、難物の作品「肥と筑」の合評の締め切り日は、容赦なく私に襲い掛かって来る。
それは昔に受けた怠け者の期末試験のトラウマの再現だ。あのころは部活動や麻雀、音楽
や読書、旅行などの目先の興味にばかり酔いしれて、隙あらば本分たる学問から目をそら
すことばかり考えているという、道草人生の始まりである。そのため、この作品の奥深い
知識には今更ながら驚くばかりである。加えて、その輝きに目が眩んだ訳ではないが、こ
のところ視力の悪化で活字が追えなくなるとい苦渋を味わっている。・・・などと言い訳
を使って今回の合評をパスさせて貰おうかと思案していた。
 とここまで書いたが、皆さんの合評が面白く一寸口を出してみたくなった。長岡さんが
北島君との「基本線」が同じだという認識にはO-chanと同様、私もちょっと違うの
ではないかと思う。
 北島君の基本線についてはもう言うまいと思っていたが、要するにフィクションの形を
とるとすれば、作者の生の声を感じさせたら興ざめだろうと言うことです。長岡さんのは
それぞれの登場人物に語らせるという形をとっているから創作物としては納得がいくとい
うことです。いずれにしろ土俵や物差しがそれぞれ違う者の同士が意見を言うのだから、
100%の理解が得られるとは考えていない。そのことは承知の上出来る限り自分の考えを
力説することはいいことだ。
 旅人ーMさんの評はブラックユーモア的なところがある。人のために何もしていないと
いうを負い目を感じている露悪的な私と違い、旅人ーMさんはボランティア活動もよく行
い、実に誠実で真摯な人柄と思える。しかし時として実につれない言葉の礫を投げかける
ことがある。
お客に一体「何を売りたい」のだろうか
 (1)「知識・説明」を売りたいのだろうか?

 (2)出てきた品と説明で、顧客の判断で値打ち物を選んで買って欲しいのだろうか?
・・・は実に強烈だなあ。いくら皮肉屋の私でもここまでは書けないなあ、恐れ入りまし
た。
 ところで私は「肥と筑」は私達日本人の成り立ち、すなわちルートを解明するという私
の好奇心を満たす創作だと思いますので、肝心なところはブラックユーモアで語るのでな
く、長岡さんの血と涙と汗の作品をもう少し真面目に読んであげたらと思った次第であり
ます。





りらの空 2009/7/8

 りらの空という題もちょっと変わっていますね。そこにはどうもこの詩の深い意味が潜
んでいそうな気がしました。
 私はかつて同人α第8号「シリーズ・歪んだ風景-記憶」のなかで、亡き両親やまだ郷
里で暮らす兄の姿や表情を正確に再現出来ない自分の記憶の曖昧さを書いたことがある。
鮮明に記憶する術としては、流動する行為の中のある瞬間を抜き取って、絵や写真や脳の
ある部分に焼き付けるといった固定する作業しか方法はないのではないかと思った。
 泳ぎ好きのかえるさんが「一枚の絵が描かれていくところを想像しながら読みました」
といみじくも言われるように、まさに幸せな家族の薄れゆく運命である記憶を永遠に自分
の頭のなかに留めようとする。両親の印象や花の色や位置、空との関係などを丹念に記憶
するための描写に心を注いでいる詩人・画家・写真家である作者の姿がある。
私は作者が「言の輪」に投稿している文においては、余りにも例えや言い換えや専門的な
表現が多くて、内容の重点が判らず明確なイメージを作れない事がある。しかしこのよう
な詩の世界では見事に作者の芸術的才能を認めるところとなる。
 ◆童話のように小さく老いた父と母
 ◆この空と花の位置をどうしよう
 ◆ 花は大地に似合いすぎて迎えられているのはいつも人間
などの言葉は確かに作者独自のものである。散々使い古された言葉、誰かからの借り物、
愛とか恋とか友情んどといった安直な美しい言葉ではなく、その人しか表現出来ないよう
な言葉で表現することが優れた詩人だと私は考える。





「絵空事」を読んで-その1 2009/7/13

ブログの写真とコメントを見て
ダンテの「神曲」を「新曲」と書いているところなどは、いかにもO-chanらしく天
衣無縫、些細なことには囚われない、まさに「地獄門」の前に立つ永遠の淑女ベアトリー
チェといったところでしょうか?
ダンテがフィレンツェを追放された後、ヴェローナで「神曲」を書いた。その家を見た、
二年前のイタリア旅行が懐かしく想い出されました。

さて本題、いつものように作者の作品は実に滑らかでよどみがなく、上手い情景と心理描
写に満ちた文章に感心するが、いくつかの疑問が残った。いつもの作者の主張を信ずると、
褒められることも大好き、反面けなされることもまた一寸好きという複雑な性格の作者だ
から、密の味は人に譲って私は苦みや辛みのスパイスを効かした評を書こうと努力しよう。
でもそれは「苦み」であって、決して「嫌み」ではない。

1.表題の「絵空事」とはこの小説でなにを表しているか。読み終えてもそれが判らない。
むなしさを覚えたとき、幸せな今までの生活が本当に自分が望んだものでなく、別にもっ
と充実した生き方が有ったのではないかと悩むことなのか。 絵空事という言葉は確かに
「実際の物とは違って誇張され美化されて描かれた絵」を言う。P33の上から2段落目に
「ついあれこれ「もし」を思ってしまうという記述はあるが、主人公がその世界に思いを
馳せるという具体的なシーンは書いてない。もっと現実とかけ離れた空想に浸る主人公を
読んでみたいと思った。

一遍に書くと勿体ないから、まだまだその2、その3と評は続きますよ・・・。



「絵空事」を読んで-その2 2009/7/14
2.人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや
観念が流れるように連なったものであるとする考え方がベルグゾンの提唱しているもので、
意識の流れという文学的な手法がある。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、ヴァー
ジニア・ウルフの『灯台へ』などである。 しかし私も物知り顔に得々と自慢できるわけ
ではなく、二つの小説は読みかけの本棚に何年も置き去りにされて、時たま続きを精々数
ページ捲られるといった有様であるのだ。
それはともかく、この「絵空事」という小説は主人公の意識の流れを全編にわたって告白
したものだが、記述された出来事に主人公の切羽詰まった緊張感が感じられない。 その
内証に厚みが感じられないのはどうしてだろう。作者は意図的にそうした書き方をしたの
だろうか。



「絵空事」を読んで-その3 2009/7/15

3.作者の今までの傾向を見ると、どうも主人公の意識から解放される自然描写や他の人
の行動や様子を描くという手法は用いられていないようだ。 それは作者の視点の欠如か
或いは感銘を受けても全く記述する意味を認めないのか判らない。延々と続く意識の流れ
に小石を投げて違った変化に驚くような、或いは寿司に添えてあるガリのような箸休めと
いいた読者の意識のリフレッシュの効果、あるいは音楽や絵や花や月に託する心の描写で
暗に主人公の思いを複合的に表現することだって可能だし、自然描写と心理描写がちょう
どいいバランスで表現される文章を期待するのだが。これもまた作風と言って済ませてい
いものか、私には判断出来ない。作者から「自分の心深く追求探索し、悶々とするのでし
ょうね。赤松さんの思考の傾向か好みか。自問してみて下さい」と鋭く切り替えされて、
自問してみました。やはり持論からちっとも外に出れない己の姿が見えてきました。



「絵空事」を読んで-その4 2009/7/16

4.合評の賑やかさにつられて、思わずもう一度「絵空事」を読んでみた。
このまま沈黙していると、皆さんが遙か高みの世界へ行ってしまい、
私は人気のない田舎の道端に一人置き去りになりそうな気がしたからだ。そこで私が最終
的な結論を出したのは、主人公の性格や生き方にたいする疑問や注文ではなく、書き方に
あると思った。

作者が流れのままに幸せに生きてきた麻子だから、そんなに深く思い悩んだことは今まで
なかった。だから自主性も深みもないと作者は解説している。たしかに読者が呆れるほど
馬鹿な人物や、嫌みな輩の物語を創作することもあろう。悔しがったり、イライラしたり、
「ばかたれ」とか「このあほが・・・」と読みながら歯ぎしりする物語もある。そこであ
りきたりの麻子の生き様に異論を感じることも承知で、いやむしろ計算ずくの意図が見え
隠れしていると思うほど、平凡で退屈な受け身の生き方をする主人公を書きたかったのだ
ろう。その意味では読者に異論を抱かせるとい効果は達成できたのではないだろうか。

そういう意味で私は一連の作品からそのような主人公を作者が描こうとした意図は理解で
きる。しかし初めから終わりまで時系列に述べられる内証は、やはり工夫をしないと読者
に緊張感を持続させることは難しい。夢想や回想などの時系列を断ち切る方法で書く工夫
があっても良かろうと感じたことである。この暑さでトチ狂った輩の、外れの深読みとお
笑いください。





テーマ「空」による、会話詩 2009/7/20

この詩を読みながら、O氏の魂胆をハタと理解した。こんなことを今頃になって悟るとは
なんと私も鈍くなったことか。 この「言の輪」の画面が19号のテーマ「空」に合わせた
「空色」であったとを一月ばかりも気づかなかったことである。人の何気なく放った些細
な言葉に傷つくことがあるかと思えば、このような秘められた思いを読み取ることも出来
ない自分が見えてきた。これでもかこれでもかと諭されても真意を理解できないこともあ
るというのに、ましてや簡潔な言葉に凝縮された思いの作者の詩においてはなおさらだ。

そしてこの実に優しい詩のなかに込められた意図は、くだくだ述べられた解説よりも強烈
に私の心に響いた。
「自然は終わらせるために人を産んだのかもしれない」、最後のこのセンテンスに込めら
れたメッセージは、人間はいままで何をしてきたか、そしてどこへ行くのかという、生命
の根源的な意味合いを問うという重い詩であったことに気づいた。





江戸五街道・踏破記(2) 2009/7/27

「一体どういう意図でこのような目標を決めて実行しようと思うのかという所です」とい
みじくもO氏が言っているように、私もその点を一番知りたいといつも思っていることで
ある。それが判らなければ私には、作者の行動を評価する資格がないと思っている。単に
普通の人がしないから或いはしようと思わないから、そして出来ないからと言うことだけ
で安易に偉大なことだという判断はしたくない。ユングの定義した「すべての本能のエネ
ルギーの本体であるリビドー」、作者を動かしたその正体がなんであるかが一番興味があ
るところなのだ。

◆P47の「旅行記、紀行文などというものは、面白くないと思うこともあります。 今回
のような、「街道踏破」を目的とした旅の場合のように、ポイントになる観光名所、観光
スポットを訪れたとしても、そこに深い知識・興味もなかったり、旅で出会った人もない、
ということであれば、尚更です。  旅に関する、心の変化や感情の高ぶりなどがなければ、
何も書くことなど思い浮かばないものなのです。今回の「甲州街道・踏破」は、そんな
心境に近いものでした」
◆P48の「「日光東照宮」がゴールだとすると、距離は、約・150km。1週間足らず
の 行程である。「早いとこ、片付けずちゃえ!」。そんな雰囲気である」
◆P49の「何か目標を立て、それに立ち向かう時、目標を追い込み・自分自身を追い込み
ます」

などの文章を見ていると、この艱難辛苦の行動の意図や目的が何なのか判らなくなる。私
みたいに身の回りの不思議さを頭の中でこね回し、宇宙の果てまで往復したり、生命の謎
に悩まされたり、意識や無意識、善、悪、などの難しい問題の廻りを堂々巡りするの疲れ
て、旅人-Mさんのような冒険をやり遂げる気力も体力も「リビドー」もない。有り体に
言えば私は単なる怠け者に過ぎないということかもしれないとも思った。さて、いろいろ
変なことを書いたが、自分に出来ないことを旅人-Mさんがちょっと羨ましかったのかも
知れない。最後に是非その行動の源がなんであるか、目的を達成した時の満足感・達成感
あるいは別の感慨などの心理を書いて欲しいと思った。





kyline 2009/8/30

ガスが見るのを避けて来た島では何があったのか。いまの孤独や喪失感の原因はなにによ
るものなのか。遠い昔は子供のいる幸せそうな家族を連想させるが、それらの疑問にはな
にも答えていない。

向日葵は首を垂れ、夏うりは摘み取られないまま腐っている、盛りを過ぎてうち捨てられ
た描写はガスの姿と重ねあわされている。
緑色のベンチの廻りから水辺へ、そして水平線に浮かぶ島へとの視点の動き、またじっと
ベンチに座って過去を振り返る思索という静寂から、何かを決心して立ち上がり歩き出し、
船をこぎ出して行く、そのとき一斉にコオロギが声高に鳴き出しという動への変化が見事
に表現されている。

私も主人公の人物や生い立ちや心情を情景描写で表現できることを常に目指している。
一度「歪んだ風景-記憶」で試みたが、どれくらい成功したかは判らない。
しかし、このエラさんのSkylineは主人公ガスが何一つその謎を解明してみせなくても、
読者に強い印象を与える。最後のシーンの「海へと漕ぎ出した」は、もう一度心のよりど
ころを見つけるために、水辺線に浮かぶ島をめざしたのか。それとも絶望のあまりに自ら
の命を絶つために彷徨い出たのか、読者の解釈にゆだねられているように思える。

最後に、本当は二週間くらい時間を掛けて自分の力で訳をしたいのだが、それも叶わず、
O氏の見事な訳があったればこそ、間違わずにこの素晴らしい作品を鑑賞できたと感謝し
ている。





《言葉集め星創り五拾番》 神秘相撲 神野佐嘉江著 2009/9/1
http://2style.in/alpha/19-12.html

書かないでもいいよと神野佐嘉江氏は合評を辞退したけれど、やはり投稿をお願いする立
場の私としたは、いやそれだけではなく詩というべきか散文というべきか、この難解な読
み物にいつも魅了されているからである。

ある時は短歌でありある時散文詩であり、まさにミクロ量子の世界とマクロ宇宙のとっく
みあいの様な、まるで神秘相撲そのものの狭間で私の脳は攪拌され、ブラウン運動のよう
なランダムな混沌の世界を彷徨ようだ。

一つの単語に全く意味の違う形容詞がくっつき、分節となり文章へと変化する。そして不
思議にそのはちゃめちゃな言葉に正当な意味があるかのごとく私に迫りくる。
本当のところ、用語をあげてその変化を検証しようと思ったが、相当の時間を必要とする
ことなので、今回は勘弁してもらいましょう。
それにしても神野佐嘉江氏の独自性は群を抜いていますね。

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激甘辛 作品評3

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月30日(水)13時45分52秒
編集済
  .

                激甘辛 作品評3
                               17-18号2008-2009



      「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。


  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。





同人α17号

 そこで、一寸した疑問が湧いてきた。アメリカやフランスでは日本の文字に魅される人
が多くなったとか。若いアメリか人の腕の入れ墨に「台所」と彫ってあったのには噴飯も
のだが、日本のTシャツに書いてある英語にもいい加減なものもあるから、おあいこであ
ろう。確かに異国的なものへの憧れはあるだろうが、書を芸術とするのは中国や日本のよ
うな漢字を使う国だけであろうか。ローマ字やその他の国々の文字を芸術の対象とする考
えを持つ文化が外にあるかが知りたい。



テーマー「間柄」による、会話詩 2008/12/8

この詩はメタファーを読み取るといういつもの癖で作業が許されるものなのか、またその
ようなものを作者が意図していないのか、私には判らない。それほどこれは自然体の無垢
の心で読み取る詩なのだろう。

たぶん作者は私を取り巻く人達のような悔しさや惨めさなどの不条理の世界で生きること
から開放された人生に違いない。私も戦後の貧しさのなかで屋外にしつらえられた仮設の
五右衛門風呂に入りながら、秋の空の雲を動物や乗り物になぞらえた記憶がよみがえった
ものの、いまの自分は随分遠くまできたものだという感慨をもった次第である。
そして、とてもこれは作品の評としてはほど遠いとものと自覚しているのであります。



昔、革命的だったお父さんの挽歌…その5安曇野から 2008/12/14

 前半の時間の考察はなかなか面白い。しかし、「今の瞬間だけをそのつど生きている生
き物には、時間は生起してこない。時「間」の成立には「これまで」と「これから」の「間」
が生きられることが不可欠なのである。」にたいして、ちょっと意地悪に時間の定義を知
りたくなった。
 私が以前読んだ橋本淳一郎の「時間はどこでうまれるのか」という本の中に、哲学者マ
クタガートの時間系列があった。それは時間のA系列、B系列、C系列という考え方であ
る。
   ★A系列の時間とは、常に「現在」という視点に依存する時間のことを言う。生き
    ている自分にとって、時間はいつも「今現在」である。いわゆる主観的な時間で、
    われわれが日常的に感じているのは、このような時間しかないわけだから、人間
    的時間と見なして良いだろう。
   ★B系列の時間は、物理学的時間に対応しているが、それは物理学的時間の一部で
    ある。具体的にいうと、デカルトやニュートンが考えたような客観的時間のこと
    で、相対論や量子論が明らかにした時間は単純に座標軸に刻むことができないの
    で、B'系列、B''系列などの分類しなければならない。
   ★C系列は、もはや時間とはよべない。それはただの配列の事である。簡単な例で
    述べれば、1-秋田さん、2-石川さん、3-岡山産・・・などの、単なる名簿
    であって、それらの数字の間に、時間的な順序関係は何もない。このような時間
    とはかんけいのないたんなる配列を、C系列と呼ぶ。
 しかし、マクタガートの結論は、A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。C系
列は時間とよべるものではないから、結局「時間は実在しない」と述べている。
 後半の食料やエネルギーそれを取り巻く世界の環境問題などが主人公の口から論じられ
ているが、データが生々しく解説風で、フィクションという小説形式のに取り入れて論ず
るにはそぐわないような気がした。もう一度主人公の頭の中で醸造されたエキスとして上
手く語れないのだろうか。
 最後に「 そして、このことが茜と本来の人間的な関係を築くことができそうな気がす
る。「本来の人間的な関係」とはどういうことかと問われそうだが、それは肉体的な関係
よりも彼女の全体を知りたいという知的好奇心から情的連帯感を求めたいことだ。
私が生きるうえで茜の存在が一つの価値観としてあるような期待感が備わることだ。
それほど彼女には不可思議な魅力があるということかもしれない。」という件で締めてあ
るが、本来の人間的な関係を築こうとする意図と、現実の世界の問題の解析との天秤がど
ちらに傾くか、気が気ではない。



さくらそう 2008/12/19

◆学生時代、知人が話す大阪弁にその当時はあまり良い印象を持たなかった。なんとも複
 雑な感情をともなうもののようであったり、別の解釈ができそうな不思議なニュアンス
 を感じたりして、総じて曰くありげで不真面目に聞こえたものだ。それは少年の頃育っ
 た郷里や東京での生活で交わされる直裁的な言葉とは確かに違っていた。東京弁を野球
 に例えて直球だと見なせば、大阪弁は掴み所のない変化球、魔球のような感じがしたの
 だった。愚直に可否をはっきり表現していて潔いような感じを与える東京弁と反対に、
 大阪弁はその中に色々の感情が詰め込まれているようで、肯定しているかと思えばやん
 わり拒否しているようでもあり、一筋縄ではいかないぞという思いを私に抱かせた。さ
 てそこで大阪弁とはどのようなものなのかの概略を改めて調べてみた。
  * 文末の省略 (例)これが大阪城でおま。 あんじょうさせてもろてま。
  * 連音・促音 (例)プラッチック(←プラスチック) やーもっさん(←山本さ
   ん)
  * 「だす」 共通語の「です」を大阪城だす。
  * 「おます」 (例)これが大阪城でおます。
  * 否定形の表現 (例)膝は笑えへんやろ。 そんな奴おれへんやろ。
  * 「もうかりまっか」
 大阪は商人の町として発展したために曖昧で互いに角を立てない表現が発達した。文末
の省略はその象徴的なもので、一見すると肯定しているのか否定しているのかはっきりし
ないことがある。と書いてあった。     (Wikipedia)
◆しかしこのところ筒井さんの作品を読んでいるうちに、なかなか大阪弁のやわらかさや
 断定しない言葉の情緒を、これまたいいもんだと迂闊にも感じ始めている自分があった。
 いまでも男性の話す大阪弁にはいささか違和感を感じるのだが、女性のそれは強い性格
 の女性に痛めつけられた私にはこの上なく癒しの響きがあって惹かれるものである。
 しかしこれもまた十把一絡げにすることも乱暴なことで、たぶん個人差の問題でもある
 だろう。中には私の手に余る女性もいるのかもしれない。
 だが、一方灰汁の強い大阪弁を最近は噸と耳にしなくなったような気がするのは私の錯
 覚だろうか。だんだん地方色が薄れてきて標準語に引きずられてきているのかもしれな
 い。そう言えば東京生まれの息子の「鼻濁音」も聞いたことない気がしてきた。そのよ
 うに独特の地方色がなくなってしまうことは残念なことである。
◆とまあ、作品の評の前にずいぶんと頓馬なことで紙面を費やしてしまった。これで終わ
 りにするのも間尺が合わないから努力してみよう。
 この作品は皆さんの評されるように、シリアスな物語を流れる水のごとくなめらかに語
 られている。しかし敢えて評すれば、点と点を結ぶ「線」、主人公と関係を持つ人人々
 の「面」の記述で、高さや深さや時間の交差といった多次元の構造になっていないのが
 物足りない気がした。もう少し流れの中に障害物や、瀬や淵や曲がりくねった複雑さが
 欲しい。最後に一番知りたかったのは夫がどうして主人公から離れていったかの記述で
 ある。しかしまたこのような淡々とした作風もあっていいようにも思えた。



《言葉集め星創り五拾番》より 弐拾六番
 元旦を生む
神野佐嘉江著   2009/1/14
http://2style.in/alpha/17-8.html

 〇一つは、文字が会話をなしえない単なる記号として、まるで筑豊炭坑の捨石(ボタ)
山のようにゴロと裸のまま転がっているようだ。
 それらが〇〇では二つの言葉がくっつき合って、なんだか常人の頭には存在しない判じ
物のような言葉が生まれ出でる。 「へその梅」、「干柿浣腸」、「炭のような卵子」、
「歳神の超音波写真」「性別正月」そして・・・。
 〇〇〇ではそれに動詞や形容詞などの述語がくっついてきた。すこし意味をなしてきた
が、なお身近な科学法則には当てはまらないことばかりだ。この広大な宇宙に未だに存在
の証明されていない、でもあるとしなければビッグバンの仮説に影響してくるダーク・マ
ター(暗黒物質)の侮れない力のように、間尺に合わなくても真実を含んでいるのかもしれ
ないと思う。
 さて正月のめでたさと生命の誕生を祝って書かれたものだが、物質から生命が発生する
ときはこのようにオドロドロの奇々怪々な、きれい事では済まされない経過をへて、かわ
いい赤ん坊の誕生となるのだ。
おめでとうひっひっふー 子孫繁栄ひっひっふー (福笑いひっひっふー 万歳ひっひっ
ふー からっ風ひっひっふー。
まずはめでたしめでたし。



・「蛍」・・・道しるべ 2009/1/20

◆ なんとも心地よい物語なので、点字の仕組みの説明のところで船を漕いでポトリと冊
 子を落としてしまった。クラシックの演奏を聞いていて途中から気持ちよく眠るのは、
 いい演奏の証拠であると某文化人が言っていた。「歪んだ風景」の中に住む者にとって
 も皆さんの評の通り、意味の取り違いによるあざ笑いや、冷たい目を背中に感じること
 もなく、優しさや思いやりのいっぱい詰まった世界がとても心地よかったからでしょう。
◆目が覚めてからすぐにシステムや算法(アルゴリズム)に反応したのは、点字の決まり事
 に興味を持ったからだ。六個のポイントで「かな」を表せるという単純なものだから、
 コンピュータ上でそのまま本を読むように「かな」を打てる「点字ソフト」を作るのは
 簡単ではないかと思った。そのようなソフトがすでに市販されているのかどうかかは私
 にはわからないが。
◆私は作者のように人に優しく、ボランティアなどの奉仕精神もなく、ただ自分のことだ
 けにめいっぱいで過ごしていることを時に恥じる者であるが、綺麗すぎるものごとの中
 に潜む負の部分を見過ごす訳にはいかず、すぐに水を差して白けさせるという困った性
 格だ。一度でもいいから、作者のような純愛の物語を作って見たい。しかし無理でしょ
 うね。


フランス便り 秋 2009/1/22

 先の「沈みゆく家」の評に対して、作者たる私自身がくだくだと言い訳を一杯書いてし
まったことを、てらいや自己顕示欲やひけらかしに思えてきて、今は実に後悔している。
作者は書くだけでいいのに、あとは解釈をそれぞれの読者の感覚に任せればいいのに、と
いう常日頃思っていたにも拘わらず理屈をこねて自分の考えを押しつけたことに滅入って
いるのである。
 さて、それはともかくフランス便りを楽しく読まして貰った。行ったことはないが、そ
のような長閑な街の雰囲気を映し出した作者の素直な記述に、遠くに居ながらにしてそこ
ら中を作者ご夫妻達と一緒に散策しているようないい気分になった。
◆墓の話
 先日この「言の輪」に、この歳になると体のどこそこが悪い等と言った 病気の話で持
ちきりになるという記事があった。そのうち我々も前期高齢者のまっ ただ中に突入する
からきっと墓の話で盛り上がるだろうよなどと思ったものだ。
 11月だから日本の秋分の頃よりは2月ほどずれるが、墓前に備える菊の花だとか、火
 葬だとか、家族揃って墓参りするという習慣が日本とフランスはそっくりであることに
 少なからず驚いた。
 ところで、泉岳寺にある赤穂浪士の墓は有名だが、東京でも名のある故人の墓を訪れる
 ことが趣味だという人も多くなっているという。この前「歩くハイマーの会」で吉祥寺
 から玉川上水を歩く中で、太宰治や森鴎外などの墓も回ったが、いつも新しい花で華や
 いでいるという。私はそのような人の墓には何の興味も湧かないので、そう言う人はど
 のような意図で探索するのであるか不思議である。
◆キノコの話
 種類も多く四季を通して実る野いちごには毒はない。毒々しい真っ赤な蛇イチゴはいか
 にも腹痛を起こしそうだが、不味いというだけで無害であるという。
 しかしキノコは毒があるのも多く、素人では判定が難しく手を出さない方がよいようだ。
 新聞でキノコ狩りに出掛けた家族が、山を下りてくる途中で通りがかりの人に貰ったも
 のを食べて中毒したというニュースがあった。人にあげる人も、またそれを何の疑いも
 なく素直に食する人も、どっちもどっちである。その後その家族が死に至ったかどうか
 は判らない。
◆写真
 このエッセーを一段と魅力あるものにする手だてとして、場面場面の写真を添えては如
 何と亮子さんに提案したい。



あなたと私 2009/1/31

 いつものように取っ掛かりがないときは言葉の意味をあちこちと調べ回っていると、な
にやら問題点が浮かんでくるものだ。 今回はこの詩のキーワードである「縁」「絆」
「間柄」を片手では持てないくらい重くて厚い「字通」で調べてみた。
 それらの意味を私の独断と偏見で捏ね回すと、「縁」とは他生からつながる結びつきで、
生まれたときから定まっていて、自らの意志で変えられない運命である。「絆」とは生ま
れた後で自ら築き上げる人と人の繋がりである。「間柄」とは自分を取り巻くそのような
人たちとの空間的、時間的距離関係であるとしてみたが、その解釈にあまり自信はない。
 「あなたと私」という詩は作者が相手との関係を密にしたり、疎にしたり、肯定したり、
否定しながら考察を進める、自分探しの詩であると思う。
  一度産まれたら 切るに切れない・・・の「絆」
  神々の計り知れない叡智か・・・・・・の「縁」
思い違いの冷たい風が握り合った手の間を、よせては引く波のように繰り返す心もとなさ、
えにしに絡め取られた男と女・・・のベクトルの彷徨う「間柄」掴んだと思ったらするり
と手のひらの間から抜け落ちるもどかしさ、作者は未来永劫その危うい関係から逃れられ
ないだろう。肯定と否定の対句による流れの快さ、彷徨う心の惑いがよく表現されていて
良い出来と思いました。しかし時間に迫られた習作、あらがきのような印象をもち、欲を
言えばリズムにのるように言葉の長さを整えて、使い古されたものではなく詩的な言葉の
隠喩を使ってイメージを広げるようにしたらと勝手に思いました。



オールド・マン -父去る日- 2009/2/14
 ブログの写真について昌平坂探偵所の赤松次郎としてはこの写真もまた3人のうち当人
はどの人かという推理を、長岡さんの時のように分析したくなりました。しかしよく眺め
るとそんなに思案することもなく判りました。右の人はムスリムのベールを被っている。
真ん中の女性はまだ若い子供のようだ。たとえ清水さんのこの旅行が十数年前の写真とし
ても、やはりその女性よりも幼くはなかっただろうから、左の女性が作者に間違いないと
決定した・・・とまあ余計な遊びをしてしまった。
 今まで共に生きてきた父を回想する作者は、敬い、慈しむ父への感情を直接表現するこ
とではなく、抑制された目で静かに、生きるとは、老いとは、死とは何かという普遍的な
真理を求め探っている。そして最後の6行で初めて作者の父の死に直面している。それま
でのメタファーは実に効果的で見事にこの詩に清廉と深さとを与えている。ちなみにメタ
ファーはアリストテレスの「詩学」のなかで、「通常の言葉は既に知っていることしか伝
えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」と述べている。



同人α18号


マグマ 2009/3/8

 人知れず内に潜む心の情を熱いマグマにたとえて歌った詩。だれも己の秘めたるものの
大きさや重さや激しさを知らないという。それは日々の暮らしの中でかいま見た、人間関
係における愛情・嫉妬・羨望・失望などの喜怒哀楽に翻弄される己を深く内証した詩であ
ると思います。「誰も触れてはならぬ、如何なるものかを、誰も尋ねることはならぬ」の
部分はまさに深く関わればそれだけ己が傷つくことを言っているのでしょう。
 しかし疑問点が無いわけではありません。「砂を噛むほどの寂しさ」とは作者独特の感
覚であると思うが、どういうものか私にははっきりしたイメージが沸かず、不可解な言葉
として残りました。
 それから、「人も山も」は先に人を火山に例えているから、「人も」は不要に思え、重
複した感じを受けます。同じくその他の節も「人間は」ではなく「山は」とし擬人化した

「山」を主語として通したほうがいいのではと思いました。
 そして最後の言葉である「赤い命を燃やす「山」を最初の主語である「人(または人間)」
に戻した方がいいのではと思いましたが如何でしょうか。



「マグマの評について」 2009/3/9

 長岡さんから話を振られたので白状します。花粉症で目と鼻をクシャクシャにして参っ
ている脳を駆使してこの詩をよんだ時に、まず最初に浮かんだのは主語がいろいろ変化し
ていること。それにより視点が定まらないのが気になりました。表現しようとする目的・
内容・意図は充分評価できますが、もう少し構成上の推敲に努力されたらもっと素晴らし
いものになったと勝手に思っています。長岡さんも人が悪いなあー、赤松次郎からいわず
もがなの言を引き出すなんて・・・。



肥と筑 第八回 長岡曉生著 2009/3/15
http://2style.in/alpha/18-7.html

 どうも作品の内容について質問を探すことに四苦八苦しているのが実情であります。裏
を返せば、まさにそれは長岡さんの論にたいして確たる反論を見いだせないという我が不
勉強を如実に表わしているのであります。しかしへそ曲がりの赤松次郎らしく、大海に浮
かぶ、ちっぽけな史実という島々を結ぶ線に、飛躍や食違いや強引な接合という弱点がき
っとどこかにある、と目を皿のようにして探すのだですが、皆目見当もつきません。それ
は作者の知識が私の思い及ばぬほど宇宙的な壮大さ、深淵さでとてつもなくすごいものだ
からでしょう。 せめてロッキ-ド事件の榎本三恵子が証言した「蜂の一刺し」のように
「まいった」と一本とりるような意地悪な質問をしてみたいものです。
◆骨相学
 海人族などの渡来人が日本の各地に拡散するとき、先住民である縄文人・弥生人との関
係、どのようにして融合していったか。
 有史初期、古事記や日本書記のころにも帰化人が貴族の三割くらいを占めていたと読ん
だことがありましたが、大阪の人達の骨相を調べたら、朝鮮の人達に極めて近いひとが多
いと聞いたことがあります。 縄文人・弥生人・北方騎馬民族・南方海人族の骨相的特徴
は?
◆出雲のズーズー弁
 松本清張の「砂の器」のなかに東北地方ばかりでなく山陰地方でにも存在することに言
及されて、それが犯人を追いつめていく筋だったと記憶していましたが、あまりに昔読ん
だので定かではありません。
◆曼荼羅を描いた本は私も持っていますが、人間の奥深く探求した思想を視覚的・象徴的
 に表したもの。個々の真理探究をする西洋の思想にはないものであり、その統合された
思想の世界は精緻さと深さに満ちていて驚くべきものですね。今読んでいるアーヴィン・
カリヴァン著の「CosMos」がまさにこの宇宙の統一理論の基礎のなっているような
気がしています。
◆法曼荼羅と深層意識のアーラヤ識について、以前なにかの哲学者の本のなかで読んだこ
 とがありましたが、長岡さんの紹介された【認識と超越<唯識>仏教の思想4(角川書
店)】を購入しましたので、もう一度読んでみたいと思っています。
次号の表題「空」を解説するなんざぁ、長岡さんも策士だなあ。



『桃源郷』に行った男 2009/3/26

 「不老不死の実」を食べるのを止めた方がいいというガイドの言葉の理由が書いてない。
これは村の人々が経験上それを食べてしまった人の将来の不幸を予感しているためなの
か。とば口でそのことを詳しく記述しなかったし、明子と別れる事情も説明しないのもま
た謎を残したまま筋を進めるという作者の企みなのか。そうだとすれば、なかなかの策士
であります。
 ところで、作者のこれまでの主人公を調べてみると、私はある共通点があることを見つ
けた。この小説の安夫、「鎮魂歌」の武田泰之、「牡 丹」の翔、「蛍」の朝比奈美代子な
どの主人公達は、深刻にじっと耐えている風でもなく、成り行きに任せて飄々と生きてい
るようだ。困ることがあっても自ら足掻いてでも問題を解決するという生臭い性格ではな
さそうである。清いと言えば清いし、善良だと言えば誠に善良である。問題の前で立ちす
くむ子供のような、無垢さを感じる。
妻を愛する夫であれば、「不老不死の実」を食べて自分だけ不老不死になるのではなく、
「アピトーユ渓谷」に出かけて行って、明子のために実を取ってくるだろうと思った。そ
う言う発想にならないところに、主人公の異質な感覚がある。
 私も以前「不老不死」のテーマで「三つの願い」という中編のSFものの寓話を書いた
ことがあるが、主人公は実に惨めな人生を過ごさなければならないといった結論であった。
なにせ人間や動物やそのたの生き物がすべて滅亡した、殺伐とした世界を一人生き続けな
ければならないからだ。話し相手もいないので言葉も失し、頭脳も退化した姿は、まさに
肉体は生きていても人間としての尊厳は精神活動の停止で保たれず、まさに死んでいるの
と同じといえよう。一体不老不死とは・・・安夫の結末はいかに? それにしても作者の
いつもの見事な構想には脱帽します。



性についての雑考 2009/4/7

 私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
 エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
 「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
  (1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
  (2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。



色模様 2009/4/20

◆ブログの写真を見て
 作者は不思議な人である。まるで剣客塚原卜伝の「無手勝流」の使い手のよう に、一
 見隙だらけのように思えて観客をハラハラさせるが、結局は己のなすがままにち ゃっ
 かり勝利を手にしているという希な人である。
 その姿もクレオパトラか楊貴妃か藤原紀香のように傾城の美女という訳ではないが、男
 の心を惑わすような妙な魅力が備わっていて見飽きない。女優でいえば「足ながおじさ
 ん」に出たレスリー・キャロンか、「アパートの鍵貸します」のシャーリー・マクレー
 ンあたりだろうか、好き嫌いは別として・・・。

◆さて本題の「色模様」の感想を書くが、一言でいえば信子の「心模様」を見事に書きき
 ったもので、いよいよ私好みの「純文学」の世界へ入ってきた作品と言えよう。 何が
 「娯楽小説」でなにが「純文学」かは人によって解釈が違うようだ。 だからこの問題
 は微妙で一筋縄ではないようだから、こうであると今私が断じることはなるべく避けた
 い。参考として先日朝日新聞2009/3/25の「文芸時評-「結末」の問題-齋藤美奈子」
 はこう言っている。
 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
 ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいか
 に描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定
 義を思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
 壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前で
 トンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
 わり、あとに引きずるものがない。
◆そこで「色模様」については、足を絡ませたり。耳を噛んだり、指を絡ませる等の肉体
 の接触で男女の関係を表しているが、この辺は通俗小説じみている。しかし「私が首に
 なって路頭に迷ったらあなた面倒見てくれる?」の会話における男と女の心理が面白い。
 男は自分の立場上不可能なことだと必死で説明し自分を守ろうとする。女は無理だと判
 りながら「安心しなさい、ずっと面倒見てあげるよ」という言葉だけでも言ってもらう
 ことでふっと湧いた不安が癒されるのである。そのへんの機微が男には判らない。私も
 細君にそのような問い掛けをされたとき、真剣に理屈をくどくど説いて、答えを出そう
 ともがくのであるが、「女の気持ちがちっとも分かっていない」「言葉は只、慰めを言
 わない手はない」などと叱られるのである。世間を見ると「歯の浮くような」言葉をよ
 くする男の方が、女性を幸せにするのかもしれない。だが私みたいな朴念仁にはなかな
 か出来ない辛い仕事である。

 男と女の繋がりは、一緒に側に居たい、それが心地よいと思うかどうかの問題で、不倫
 だろうとなかろうと当事者以外が問題にするようなものではないと私は思う。男も女も
 今の相手と違った魅力の人々が一杯いるわけだから、それぞれの人を好きになってはい
 けないという倫理感は、他人に押しつけるべきではない。そういう面での信子の生き方
 には、決まり切った世間の通念に囚われない心の自由を感じる。だから今の彼との間に
 何らかの束縛感を覚えたとき、信子はすんなり別れてしまいそうな気がする。
 この小説は、そのような結論の出ない、たゆたいのなかの信子の暮らし振りが非常によ
 く書けていると私は思う。また筋の纏まりもよく一人称で語られているので人間関係も
 判りやすい、よくできた作品里私は思う。




自然染色のぬくもり~シルクのトンネル~ 2009/4/27

◆先日聴きに行ったウィリアム・モリスの講座と相まって、私にいろいろと考えさせるも
 のを提供してくれた。
 モリスについては学生時代に建築学科の教養として「アーツ・アンド・クラフト運動」
 という芸術運動の提唱者であったという知識は微かに持っていた。しかし今回の講座自
 体は、かつてモリスのデザインした壁紙などを継承して製作販売している会社の主催す
 るものであったので、レジメもなくスライドだけの説明で、内容も私の知っている知識
 を超えるものでもなかった。それはともかく、1800年代イギリスの産業革命の時代
 にそのクラフト(手作り)の良さを見直すという運動は、そのまま現代の問題として生
 きているのである。そこで安価に大量に製産される工業製品と、自然のものを使った手
 作りのものの違いをいつもの癖で考えてみたいと思う。
◆それらの違いはどこにあるか。
 たとえば、絹や麻や木綿などの天然繊維と化学繊維
 天然繊維は湿度や温度などの自然現象にうまく対応した長い人間の暮らしに沿て使いこ
 なされた暖かみがある。一方工業製品は強く、かつある種の特性には秀でているが天然
 繊維のもつ多様な特性がない。
 たとえば、草や木や動物による天然染料と合成染料
 天然の染料は様々な色を含むやわらかな中間色が多いような気がするが、合成染料との
 違いは私にも判からない。
 たとえば、土や木や紙や石などの天然建材と新建材といわれる工業製品
  建材においても同じく、天然の建材は自然の移りかわりに微妙に対処する能力があるが、
 新建材は別の要素を併用して補わなければいけない。
 たとえば、レコードなどのアナログとCDなどのデジタル音楽
 デジタルで情報を記録するCDが出るまで私達は、レコードというアナログの記録を再
 生して音楽を聴いていた。それは針とレコードをトレースする雑音も一緒に含めて鑑賞
 していた訳だ。だからCDの音が雑音を含まず、純粋な音の再現だと頭では思えてもな
 んだか薄っぺらで深みのない感じを受けたものだ。私はヴァイオリンやクラリネットや
 笙のように、位相の違う波形の音がいくつも重なって創り出す音に感動する。だから今
 でもラックスマンの管球アンプ、ナガオカのレコード針を使い、思い出の名演奏のレコ
 ードをタンノイのスピーカーで聞いているマニアの想いも判らないでもない。
 結論として、いくつもの要素を含む天然のものは総じて、色や音やテクスチャーに深み
 をもつ複雑系のもので、使えば使うほど、時間が経てば経つほど味わいを増すようであ
 ることは確かである。ただし安価で大量に供給される工業生産品と違い、希少な材料と
 手間と時間とを要する手工芸品が高価なものになり、庶民の手から遠ざかり金満家のた
 めのものになるところは、すでに150年前のモリスの時代からのジレンマになってい
 る。・・とまあ、作者のエッセイを読んで、こういうとりとめもない感想を抱いた次第
 である。




パイオニア十号 2009/5/4

 なりたい職業の最初は忍者、それから新聞記者の特派員としてアメリカに行き、カウボ
ーイになりたかった。やむを得ず学業成績を問わない公務員になった。作者のこの辺の見
解も常人とは違い、読者にとっては非常に隠喩的で刺激的である。
 また、東欧で昔の領主の館を買い、小さなホテルを経営したいと思う一方、ビルマの山
奥で少数民族とともに仕事がしたいと思うが、「私はこれまで常に、自分の希望する世界
を生きてこなかった」と嘆く。
 作者はその名の通り、実は我々が生きている現実の世界ではなく、イマジネーションの
世界でいまも暮らしていると私は確信する。神が動物を創造した際に、余った半端物を用
いて獏というキメラを創ったそうであるが、貪欲に夢を食べ続けている獏のようではあり
ませんか。
そして、宇宙船パイオニアのように宇宙空間で孤独な旅を続けながら、時折我々の住む現
実の世界へ接近してきて、知的刺激を与えてくれる特異な人である。
◆Wikipediaより
 獏(ばく)は、人の夢を喰って生きると言われる中国から日本へ伝わった伝説の生物。
 この場合の夢は将来の希望の意味ではなくレム睡眠中にみる夢である。悪夢を見た後に
 「(この夢を)獏にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見ずにすむという。
 体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎にそれぞれ似ているとされる。。




The Color of the Morning Glories 2009/5/5

 まじめに自分で訳して感想をと思い努力したが、長文の箇所でお手上げになったので馬
込の先生の手を借りた。ところが作品の題であるMorning Gloriesが「朝顔の花」とは
つゆ知らず、「朝の荘厳な光の色」などと、とんでもない迷訳となっていたのである。三日
ほど掛けて訳したのだが、いまさら時間のなさと辞書のせいにはしたくはなく、やはり素人
の出る幕ではないらしい。
それはともかく、この短編はある一時(いっとき)の場面の中にこれほどの密度の高い想
念を作り上げられたもので、作者の並々ならぬ力量と才能を見た。
 この先品は18号のテーマである「色」について、red、green、blue、 bright blue、deep
blue、yellow、pale yellowなど七種類の記述もさることながら、私が注目したのは種々の
情景の記述の中に「二項対立」の関係で成り立っているのを見つけたからだ。
たとえば少年(男)とおばあさん(女)、低い(少年)と高い(おばあさん)の視点、過
去と現在の情景、動と静、静寂と激しい音、平安と5.11という大事件等々。これほど
一幕ものの短編のなかに深い想念を重奏の音楽のように奏でたことは実に見事であると私
は思った。



「エラさんの作品から感じたもの」 2009/5/8

 G氏の評「作者は何を言いたかったのか」を読んで、私は「二項対立」の構文に目が
眩み、それを書くのを忘れていた。
情景描写に徹して感情を記述しない表現から感じるものは、単に平和への希求、再生への
希望を訴えたかったばかりではない、もっと深い宇宙や生き物の持つ根源的な宿命、人類
の愚かさについて述べられているように思う。「猿の惑星」の最後の場面のように、遠い
星間を長い間旅をして着いた未知の惑星が、朽ち果てた自由の女神像を見たとき、地球だ
ったことが判ったシーンのように、人類が今まで営んできた歴史はなんであったかと問い
直さなければならない。そのことを深く静かに表現されているように思えてならない。

1080

 

激甘辛 作品評2

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月29日(火)16時37分5秒
編集済
  .

                 激甘辛 作品評2
                                200814-16号



      「友達を無くすなあー俺は!!」とあった。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。



  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIをクリックすると当該作品
   を読むことができます。





同人α14号


ウエストポート  ルービン・良久子著 2008/3/1
http://2style.in/alpha/14-2.html

 「ウエストポート」は情景描写のみごとさ、プロットの面白さはいつも関心させられる。
 それは常日頃陶器や絵や写真に興味を持ち鑑賞したり製作したりといった生き方をした
 人でないとなかなかああいう自然の色や時間による変化の描写は出来ないと思う。
 しかし、大勢の人が右へいくならば自分は左へと行くような天の邪鬼を自認するものに
 とって、何か人の言わないことを無理に探し出すことに自己表現を試みるという悪い癖
 で敢えて評すれば、筋の破綻はなく納得出来るもので、しっかりと納まっているが筋の
 進みが重点に置かれていて、心理の描写「意識のながれ」が少ないのが不満である。




肥と筑 第四回 長岡曉生著  2008/3/11
http://2style.in/alpha/14-3.html

◆またまた秋の風鈴なみの無粋な季節はずれの感想を書きます。早い時期に書けば楽なの
 に皆さんの素晴らしい意見の出た後で、気の利いた、大向こうを呻らす、人と違った観
 点のものを書くことは非常に難しい技でありまして、怠けた罰と諦めましょう。 この
 「肥と筑」のような壮大な読み物は真剣に評するとなれば、四書五経は勿論のこと亀甲
 文字や金文字などの資料集を読破しなければならないから、異常プリオン蛋白による
 牛海綿状脳症のような私のプヨプヨの脳ではとても無理なことであります。だから個々
 のことに対する質問や疑問ではなく、別な観点から眺めて見ましょう。

◆論文か小説か?という命題が前々回あたりから話題になっていましたが、論文とすれば
 取り上げられた資料が果たして真であるか、事実にはない想像のものか、または風説に
 よる単なる噂に域を出ない物かなどの判断をいわゆる専門家の集中砲火を浴びてボコボ
 コにされる運命が待っているでしょう。ところがそれを小説というスタイルにすれば資
 料と資料の膨大な時間と空間を繋ぐ大胆な推論という便利なものも許されるに違いあり
 ません。そういう風に見ると作者の意図を十分発揮させるためには小説というスタイル
 を選んだことは正しいと言えましょう。登場人物の性格描写が不十分だの、皆が等価に
 扱われていて統一感がないということでしっかりとしたイメージを読者が作り上げるこ
 とが出来ないので戸惑う、などということはまた別の問題でありましょう。

◆初期値のごくわずかなずれが、将来の結果に甚大な差を生み出す(バタフライ効果)の
 「カオス理論」や、ものの予測のできない空間的、時間的変化や動きを表す「1/Fゆ
 らぎ理論」などのように、歴史上の資料という小石を池に投げ込んで出来る波状が大き
 な波となって拡大するように、初期値の選択で違った結論に到達することだってあり得
 る事でありましょう。色々の説、色々の論が生じても何が真実で何が間違っているかの
 判断は俄につきがたい問題も多く、それがかえって推論の面白さでもあります。

◆世の中には、鉄の箱である飛行機が空を飛ぶのは信じられないと思う人は多いと思いま
 す。ベルヌーイの定理などの流体力学を使ってその浮力を証明しているが、どうもそれ
 だけでは解明できない部分があるという。しかし現実に飛行機は空を飛ぶわけですから、
 鐸木康孝著による「物理学の理論はすべて近似である。ケプラー法則に従って運行刷る
 惑星は一つもないし、ニュートンの法則に従って運動する質点とか剛体というものはひ
 とつもない。正しいか、正しくないか、ということは、物理学では問題にならない。問
 題になるのは精度である。誤差の極めて大きな理論に対して、これは誤りであるという
 判定がおこなわれることはある。この理論は正しいという判定をこなわれてことは一度
 もない」などや、とにかこの世界の出来事は「 99・9%は仮説」という竹内 薫著のよ
 うに、この世の中でまだ解明されてないものがほとんどであるという。

◆だから私は「肥と筑」を小説として書き上げたというふうに、作者の意図をくみ取った
 つもりだ。はたしてその真偽はいかに。 そして、今回もまたまた「カオス理論」や
 「1/Fゆらぎ理論」などといった奇っ怪なものでお茶を濁してごめんなさい。




愛13題  碇民治著     2008/3/17
http://2style.in/alpha/14-4.html

 俳句に関しては全くの門外漢なの碇さんの「愛13題」の句の善し悪しを評することは
出来ませんが、盲蛇に怖じずにて自己流の感覚的なことを書きますと、現代俳句において
2、3の疑問点があります。これは天の邪鬼たる私の偏った意見かもしれないので、もし
的外れであれば遠慮無くご指摘ください。
◆俳句の約束事 :碇さんが示してくれた数多くの約束事を見て、このような約束事を造
 ることは、句の本当の意図からだんだん離れているのではないかと感じました。俳諧の
 初めの頃はもっと自由闊達で、野太く、直裁的ではなかったのではないでしょうか。
◆漢字:漢字やカタカナやひらがなから受ける視覚的な印象もまた大事で、その配分やバ
 ランスも読者に与える感じは違ったものになるでしょう。視覚的にみますと今回の碇さ
 んの句の印象は漢字の部分が多く目に付きます。難しい言葉が必ずしも鬱陶しいといく
 ことではなくて、ひらがなの間に配置された少ない漢字の大いなる効果もまた考慮され
 ていいかも知れません。
◆字足らず字余り:
 拝むや・・・・おろがむや(5文字)
 雪解川・・・・ゆきげがわ(5文字)
 菊美しき・・・きくはしき(5文字)
 碧きかり・・・あおきかり(5文字)
 などの字足らずや字余りの処理の仕方もあまりにも5・7・5に当てはめるという約束事
 に囚われて、不自然で姑息に見えてしまうのは私だけでしょうかね。以上言いたい放題
 失礼しました。



プラトニック・ラブ  2008/3/20

◆ プラトニック・ラブという題をみて、九鬼周造の『「いき」の構造』に出てくる江戸
 っ子の思いを遂げられない恋、諦められた恋をまず思い浮かべた。それから肉体的に結
 ばれることなく、遠くから思いを寄せるだけの貴婦人に対する精神的な中世の騎士の愛
 を思い浮かべた。そのような現象はそこら中にいつも溢れるように存在していると言う
 のに、こんどもまた「言葉」の定義からはいるという私のいつもの悪い癖が出てしまっ
 た。
 とにかく、プラトニック・ラブという用語はどこから来たのかを納得しないとどうも先
 へ進めないというから始末に負えない。
◆そこで安直にWikipediaで調べてみると、プラトニック・ラブ (Platonic love) とは、肉
 体的な欲求を離れた、精神的な愛のことである。プラトンも実は男色者であったが、そ
 の著書の『饗宴』の中で、男色者として肉体(外見)に惹かれる愛よりも精神に惹かれ
 る愛の方が優れており、更に優れているのは、特定の1人を愛すること(囚われた愛)
 よりも、美のイデアを愛することであると説いた。
◆また、九鬼周造の『「いき」の構造』のなかで語られる、身分の違いや人妻などの女性
 に心を寄せるものの決して成就しない忍ぶ恋であり、諦める恋である。そこに江戸っ子
 の意気地、やせ我慢の美学が感ぜられ、それが究極的な「粋」だと言っている。そのよ
 うなものを私は勝手に「プラトニック・ラブ」と呼ぶような気がする。
◆さて、著者の小説のなかで語られるものをみると、そのような二人の関係がはたして「プ
 ラトニック・ラブ」なのかどうか疑問に思われる。肉体的に結ばれないからそうだとは
 単純に言えないような気がする。肉体を離れた関係がはたして男女間で成立するのかと
 いう命題も、小説のなかでも運命の同じ船に乗り合わせたという同志的な関係、親子・
 兄弟関係に生ずる愛に似たものなどといった考察もあり、なるほどと思うが結論は出て
 いない。
◆あなたはこの物語の主人公の立場になったらどうするか?と問い投げかけられているよ
 うで、安易に答えをだしたら見透かされそうで躊躇する。そしてこの問題を見事に解決
 する解答を今の私は見付ける事が出来ない。たぶん自分がそのような立場になったとき
 は七転八倒・周章狼狽するであろうと思うだけである。常日頃観念ではこうしようと想
 定していてもその時はたして建て前通りに自分が行動するか自信がない。
 夫婦の関係を断ち切るか否かは、夫が妻にたいして人格的に「存在」にたりえると切に
 思っているかによるだろう。ただ便利なだけか、それともアイリーンに無いものを妻に
 認めているかどうかに掛かっているのではないだろうか。それでもなおそう簡単に割り
 切ることはこの世の中では難しい。個人個人の性格にもよるだろう。その許容の範囲が
 100%から0%の間のある割合以上で我慢できるか、或いはできないかの数値は個人差
 によるところでから、この命題は個々の読者の性格に委ねられて、一向に正確な結論は
 出ないわけだ。
◆今まで著者の作品が語ってきたものを見ると、恨みや悔恨や怒りの情などの激しい人間
 の負の部分が語られないという傾向がある。これは作者が意識的に軽妙、洒脱なスタイ
 ルをとっているのか、それともそのような作者の性格に根ざす無意識の表現の結果なの
 か、どうであろう。
◆最後に「プラトニック・ラブ」の対極にあると思われる男女の関係を書いた中上健次著
 の「赫髪」(あかがみ)を紹介しよう。
 これは並のポルノ小説よりすごい性交の描写で全体が綴られている。しかし決してポル
 ノ小説のような卑猥さはない。むしろ人間の精神と真反対の肉体のすごさを表現してい
 て、中頭健次の才のすごさでもある。こういう人間の営みもあるのかと私の知らない世
 界があった。ポルノ小説を一度書いてみたいといって「性の波紋」をものにされたK
 氏にも一読を勧めます。



定年退職後の日々第三回…日曜日 午後の喫茶店 2008/4/12

◆久しぶりに時間が出来たので「定年退職後の日々」を初回から通して読み 直した。は
 たして主人公の山本さんは自分の死を認識しているのだろうか。そのへんが 曖昧だっ
 たので先日「ぼてじゅう」をつつききかつ飲みながら、作者に問うてみた。「自分でも
 判りません、これからどういうふうに山本さんが動くか想定していません」という答え
 が返ってきた。これはまるで原子のブラウン運動のごときランダムで混沌、やはり並の
 人間の考えが及ばない著者独特の「融通無碍」の世界なのだ。
◆私であれば、送別会の帰りに感慨にふけってしまった山本さんが、駅の階段を踏み外し
 て転んだ折り運悪く頭を打って敢えなく逝ってしまったとか、通り掛かりの十七歳の少
 年に理由もなくいきなり刺されて死んでしまったとか、読者というより自分を納得させ
 るためにくだくだ理屈をこねるだろうと思った。そのへんのところが私と著者との趣向
 や気質の違いなのだろう。
◆この小説があの世とこの世を行き来していることについて考えたことがある。私がこれ
 まで読んだ本の中にもそれを扱ったものがあった。村上春樹の「羊をめぐる冒険」「世
 界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「 海辺のカフカ」、田口ランディの「コ
 ンセント」それから埴谷雄高の「死霊」などがある。自分の中では「あの世とこの世」
 を「無限と有限」、「想念と現実」と読み替えてみた。その辺のところを同人α第2号
 の前書きで書いている。
◆同人α第2号の名をの「想」に決めた経緯を曲がりなりにも理屈をつけて説明しなけれ
 ばなりません。私は常日頃、宇宙の果てはあるのかないのか?無から有は生まれるか?
 はたして無限の世界はこの世に存在するのかしないのか?などの眠れない問題に悩まさ
 れて来ました。しかしもうそろそろ独断と偏見をものともせずに自分のなかでそれらの
 難題に決着をつけなければならないと考えました。いま現在我々が生きている世界は有
 限の世界と認識していて、石や花や実数などは手に取って確かめることができます。し
 かし実態のない無限の世界を「想念の世界」とみなせば、各の頭の中には神や虚数や妄
 想などあらゆるものが存在することが可能であるし、宇宙の果てと思われている130
 億光年のかなたまで瞬時に出かけることも出来るのです。
 そして、我々は「想念の世界」の神々や多くの先人の思想から実人生に大いに影響を受
 けるとともに、この世の美しい花や自然やすばらしい人の生き方に感動して、ふたたび
 音楽や絵、詩や小説などの「想念の世界」へフィードバックして行きます。そしてその
 世界へ積極的に働きかけることで、かつて北君が巻頭言で書いたように「これから僕た
 ちは人生を深く生きることなる」のことば通り、残された時間を想念の世界を通して自
 己表現に努めたいと思います。そういう訳で今回は題名を想念の一字をとって「想」と
 した次第であります。
◆さて、ブラウン運動の原子のように融通無碍・混沌・渾沌の「山本さん」にどんな結末
 が待っているか楽しみである。
◆ブログに掲載の著者の両親の写真はお二人の波瀾万丈の人生を読み取りたくなるような
 誘惑に駆られます。父上は上海や大連や満州当たりで暗躍する諜報機関を取り仕切るの
 謎の人物のように、一寸危ない感じがして不思議な魅力がありますね。




次元から次元へ 第一 神野佐嘉江著2008/5/1
http://2style.in/alpha/14-11.htmll

 斉藤孝の「声に出して読みたい日本語」という本がある。そこには有名な詩や文章が紹
介されているが、名文を浪々と朗読してみると、言うに言われぬ心地よさがある。
 6万年前人類の祖先がアフリカで誕生したとき、まだ文字はなかった。己の感情や同胞
への危険の警告の音は発していたにちがいない。だからこの詩を音にもどして、雪隠で謡
曲を呻る苦沙弥先生のように、野天の風呂で月を見ながら広沢虎造の十八番である「清水
次郎長」を歌う熊さんのように、我々もひとつ丹田に力をいれて姿勢を正し思い切り喉を
開き、思わせぶりな身振り手振りで感情を吹き込み「一ぅあきあがる、わきあがる、うき
きあがる、しゃば、しゅば、さばえなす」と叫んでみようではないか。 世俗にまみれた
「言葉」が声に出すことによって次元を逆戻りして原始の息吹に帰っていくに違いない。
 作者曰く「皆に苦労ばかり掛けていると思うし、僕も皆のをまめに合評をやっているわ
けではないので、今回この作品の合評はパスと宣言して、皆の負担を軽くしてください」
と依頼されたが、敢えて私はその作品の鑑賞に挑戦した。そして私は難解だと言われる神
野佐嘉江氏の言葉の意味を探るのではなく、もう一度音にもどしてやればそこから新しい
何かが感じ取れるような気がした。



同人α15号


西郷札と江藤新平をかくまった人小倉処平  2008/7/4
http://2style.in/alpha/15-9.html

 江藤新平の率いる佐賀の乱は大久保利通等の陰謀によりでっち上げられた理由によると
いう研究書を読んだことがある。もともと江藤新平は乱を起こそうとする不平士族を説得
するために下野したと言われているが、その間に公金横領の疑いありということで反乱軍
として追討令が出されたという資料を読んだことがある。征韓論そのものにおいても佐賀
出身者のなかでも江藤新平・副島種臣達と大隈重信・大木喬任達とはもともと意見が違っ
ていて、一枚岩ではなかったのだから藩としての反乱を起こすほどの江藤新平の考えはな
かったのではないだろうか。碇さんが読まれたものと同じものだったかもしれないが、友
人から貰ったその資料を誰かに貸してあげたような気がして、今は手元にない。
 とにかく江藤新平について私が強烈な印象をもったのは、近代化のために富国強兵と中
央集権を目指して突き進む国家権力のシステムのなかに、民衆の権利を意識した「行政訴
訟法」を制定した民権論者であったことである。あの時代このような権利を認めたという
ことだけでも偉大なる人物であったと私は評価する。
法による秩序を信じ近代国家を目指した人が、権謀術数の権力闘争のなかで抗弁もゆるさ
れない裁判で晒し首の刑に処せられたことは、「士族を廃めさせたうえ梟首という強引さ
は、法も司法もあったものではなかった」と司馬遼太郎はその著書『歳月』において語っ
ている。



肥と筑」第五回長岡曉生著 2008/7/19
http://2style.in/alpha/15-15.html

◆「知の巨人」についての長岡曉生さんのクレームがありましたが、けっしておちょくっ
 てニヤニヤしているわけではなく、心底私はそう思っているものです。それに比べて、
 さしずめO氏が「痴の巨人」なら私は「稚の巨人」といったところですか。
◆製鉄の話で小さい頃のことを想い出しました。
 私の父は戦後小さな鋳物工場を経営していました。そのためそのことについて私は色々
 のことを見聞きしていました。樋口さんの「付文」に出てくる銀色の無臭で硬いコーク
 スが珍重されていることも知っていました。コールタール、ピッチなどの不純物が混入
 している石炭では高温を得ることができません。だから高価なコークスを使用して、解
 体された軍艦などの鉄くずとを混ぜて溶鉱炉に入れて燃やして銑鉄をつくります。どろ
 どろに溶けて太陽のようにまぶしく輝き、線香花火のような火花を散らす鉄を、上半身
 裸の男達が鉄の柄杓で受て、鋳型に流し込みます。車の部品やら、橋桁の受け材やら、
 鍋などに成型されます。九州の夏の夜などは普通でも寝苦しいのに、溶鉱炉を使った日
 などは、工場と壁一つ隔てた同じ建物の住居では地獄のような暑さで、まともに寝られ
 たものではなかったことを記憶しています。
(中略)
◆ところで「肥と筑」の評はどうなったとお叱りを受けそうですが、私はこの膨大な小説
 が終わってから総評をしようと心に決めています。だから、「彼奴はまた敵前逃亡を図
 ったな」といわれそうですが、そうではなく興味の尽きない作者の風貌を解析して見た
 いという誘惑に駆られました。
 「赤信号 皆んなで渡れば 恐くない」的な護衛船団方式の中では、この「いひゅうも
 ん」ははなはだ厄介な存在です。無視するにはあまりにも穿った理を唱え、受け入れる
 には安逸をむさぼっている者も艱難辛苦の努力を覚悟しなければなりません。ものごと
 を理に照らして判断し、間尺に合わないことには豪も妥協せず、自分の考えを頑なに押
 し通す「いひゅうもん」は、表面だけの付き合いや対面だけの仲良しクラブにとっては
 まるで喉に刺さった魚の骨か、理由の分からない肋間神経痛のような忘れ去ることの出
 来ない不快感を発生させるものでありましょう。
 だが、並の人間が理解できないような深遠な考えと信念を持った「いひゅうもん」に私
 は「肥と筑」の作者を重ね合わせました。このような作品は彼しか出来ないもの、その
 意味に於いては強烈な個性の持ち主だと考えます。私はいつも自分にしか出来ないもの
 を見いだし、いかに実践するかを見つけたいと思うと同時に、いつの日かあいつは「い
 ひゅうもん」と呼称されることを夢見ています。



鎮魂歌  2008/7/23

 物語としては構成も最期の物語の締めくくりとしての情景も見事に決まっていて、よく
纏まっていると思います。今回の創作で旅行記だけをみて判断していた私の先入観が見事
に破られました。そういえば、同人α第10号「美」の作者が描いた少女像も並々ならぬ
技量を認めていた訳ですから早く気づくべきでした。
さて、例によって天の邪鬼の本領を発揮していくつかの疑問を呈して見ます。
 人を殺したり、陵辱した時のおぞましさ、罪悪感へのおののきは詳しく語られず、ただ
やむを得ない過ぎさっていくだけの情景としてのみ語られ、泰之の心に深く残る傷として
の様子は表現されていない。「人間の条件」の梶は体制のなかでの非人間的なことに抗い
ながら、それでも無力な己に思い悩む主人公が描かれている。
 シェークスピアの「マクベス」のように、荒野で3人の魔女に出会い、「万歳、コーダ
ーの領主」、いずれ王になるお方」と呼びかけられる。そしてマクベスとマクベス夫人は
共謀して王を殺害する。しかしマクベスはバンクォーの幽霊を見ておののき、マクベス夫
人は殺害の時汚した手の「血が落ちない」とつぶやき発狂する。己の欲望に負けて犯した
人間の罪の意識を激しく持つ二人はいつまでもいやされることはない、といった人間の業
の深さを表現している。
 泰之は逃れられない過酷な境遇をただ耐えるだけで、その非人間的な不条理を心のうち
で抗うことをしていないのが不満である。だから珠枝から誘われるままに交情するのだが、
女性にたいする好悪や性欲への渇望は示されず、ただ成り行きに従うという主体性のなさ
が目に付き、当然の行為が唐突な感じを受けるのは否めない。また珠枝の心情も心の内を
語られていないので、最後の墓参りのシーンで憶測するほかはない。
 こういう作風もあるのも分かるが、なにごとにもことを荒立てるという性格は私だけで
あろうか。このところ「落書き帳」の事件で問題点を指摘したにも拘わらず十分な説明や
反論もなく、いわゆる無視された腹いせに「鎮魂歌」をやりだまにしている訳ではない。
心豊かな作者と「斜に構えた」私の性格の違いであろうか。この辺のところの作者の反論
を期待する。



昔、革命的だったお父さんの挽歌・・・その4 安曇野便り 2008/7/29

 長い長い題を読む。実は編集の時にみた彼の題は違っていた。原題は「安曇野便り(そ
の4、ひとり芝居『天(あま)の魚(いを)』」だった。しかし「昔、革命的だったお父さん
の挽歌」シリーズの一部だからということで、現在の題になったものだ。ところでいつも
長い題を好む北島氏の傾向はどうしてであろうか。そこのところの考えを一度追及し真意
を吐露させてみたい気がする。
◆茜との予期せぬ交情を、離婚した妻・桐子の幻影におびえる主人公が不思議でならない。
 そこには不倫でもなく、なんら思い悩む道徳的な負い目はないと自分に言い聞かせなが
 ら、桐子の前で取り繕う心情は何故であろうか。
◆「同人安曇野15号」の合評会での茜の明るい様子をみて、茜の心の内はどのようなも
 のであるか推し量り兼ねる主人公の戸惑いはよく書けている。
◆「苦海浄土」の話は「同人安曇野」に投稿したという情況を描くことで、自然にうまく
 挿入されている。しかし、ここまで詳しく長い解説は別の話になってしまい、「安曇野
 便り」の小説としてのバランスを欠いているように私には思える。
◆P462段目の4行 「地元の人との付き合いは(目的がない限りは)」の 括弧書きは
いかにも説明的で、以前にも「再び言うが」とか「前にも言ったように」な どの説明的
な文が散見されるたが、文学としての態をなさないと思うのだがいかがです か。



同人α16号

「而今」と「前立腺がん」  2008/9/16

◆いつもお逢いする時はブログの写真のように、にこやかで屈託のなさそうに私には見え
 ていたタノさんですから、こんなシリアスな経験をされたことなど考えてもいませんで
 した。私もサラリーマンを辞めてから35年以上なりますが、その間一度も健康診断な
 るものを受けずに、病気で通院するなどとは夢にも思っていませんでした。しかし2年
 ほど前から両足がひどく痺れ、やむなく病院に診察に行くことになりました。やはり病
 気と対峙する覚悟を決めるまでは、これからの自分の生き方に戸惑い悩みを克服しなけ
 ればなりませんでした。
◆「而今」とはなかなか良い言葉ですね。私も最近タノさんと同じ心境になりました。過
 去も未来も幻想に過ぎない、今の一瞬のみが現実に実在する。だから過去に引きずられ
 たり、不確定な未来に一喜一憂するよりは、今をしっかり生きようということだと思い
 ます。そこで頭に浮かんだのはキルケゴールを初めニーチェ・ハイデッガー・ヤスパー
 ス・サルトル等が提唱した人間の実存を中心におく実存主義という思想です。またまた
 コピー・アンド・貼り付けの安直な方法をとりますが、以下はWikipediaより
 実存 (Existenz) の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して
「実存」とした。語源はex-sistere (続けて外に立つの意) 。
 実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越
 を主張する思想である、とされる (「実存は本質に先立つ」) 。時間の流れの中で、今
 ここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質
 を否定された自由な実存として、予め生の意味を与えられることなく、不条理な現実の
 うちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わ
 ることの出来ない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることは出来ない
 [要出典]のだ、とする。生を一旦このように捉えた上で、このような生を、絶望に陥る
 ことなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ともされる。
◆作品の評としてはなっていませんが、私が一月に一度の通院も専門医の判断まかせで、
 頼り切っている私と違い、このような正確なデータと状況の克明な描写には驚きました。
 下世話に一病息災といわれるように、私の病気を性もない仲間と覚悟してこれからも一
 生付き合っていく覚悟でいますから、これからもタノさんの元気を分けてください。



定年後の日々・・巴の妊娠  2008/9/17

 私も同人αの「樂」第13号に「シリーズ・歪んだ風景-異星人」という奇妙奇天烈な
文を書きましたが、ただワープロ変換や翻訳システムの不備を揶揄たもので、基本的には
我々の現在住んでいる地球の理屈から決して逸脱することはありませんでした。
◆女性の場合は男性と違って、20代や30代は年齢とともに微笑派が増加していくもの
 の、40代でピークとなって、それからは、やや下降線をたどる。女性は、どうも赤ち
 ゃんに対するする興味は40代が最高のようである。
◆木村先生の説に依れば「不老長寿者は、最も利己的な、異端の動物なのです。
◆そこで男性は、子孫が増えることが、自分の生存を危なくするという潜在意識の警告に
 従って、老人の顔になる人が多いのです
◆しかし、子供が欲しい女性だって、不老長寿者はほとんどが独身であり、夫婦生活をし
 ている者はほとんどいない。何故だろうか?
 「それが、不老長寿者の無限増殖を抑制する唯一の仕組みなのです。子供を産もうと思
 って愛情生活をすると、その二人は、離婚したり、相手が不慮の事故等で死亡すると一
 年以内に、再び相手を見つけないと老化して死んでしまいます。急激に老化しますから、
 相手はなかなか見つかりません。などなど、著者の小説は私達が長年苦労して築きあげ
た定説と思われる知識を、あざ笑うかのように無造作に、まるで洗濯機の中で引っかき回
し、挙げ句の果ては真っ白な脳に洗い清めようと意図する宇宙人の陰謀ではないかと思わ
れる。いちいち内容や用語の考察をすることが全く的外れで、ピエロになりそうな恐れが
あるから私は評する努力を躊躇した。きっと著者は、20世紀の最大の巨匠ジェームズ・ジ
ョイスの「フィネガンズ・ウエイク」や「ユリシーズ」などと肩を並べる奇書をものにし
ているのかもしれない。



「揺らぎ」による、会話詩 2008/10/3

詩の解釈は実に難しい。俳句や短歌のように作者が言わんとすることが判りやすいのと違
い、理屈なしにただ感じればいいといってもメタファーを多く含む現代詩の鑑賞は実に厄
介なものがある。
 海とか波とかの響きや字面も人によってそのイメージは違ってくる。だから作者が言葉
を発した瞬間からそれは一人歩きし、一生懸命読者に理解されるようにと意図された散文
と違い読む人の解釈次第で変化していく。
美しい海や岸に寄せ来る絶え間ない波の動きもある時は、私にとって単に心地よい響きと
開放されたさわやかさだけではなく、海の底知れない広がりと深みは恐れを抱かせるし、
無限の運動は私に逃れられない束縛と映り息苦しさを覚えさせる。
 そして、この詩が最後の「?? だけど、潮に引き戻されていく・・・。」という一節によっ
て、その意味するところを私は解釈出来ないでいる。




女であること 2008/10/8

 まず作者が「女であること」と表題をつけたことについて、その意図するところを私は
明確に捉えることが出来なかったことを白状しなければならない。
 それはともかく、人間の誕生について多田富雄の「生命の意味論」ではつぎのように書
いてある。男と女の生物学的差異については、女の染色体はXX、男の染色体はXYであ
るが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、人間はもともと女になるべく設
計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝子で、血液凝固・色覚・免疫細
胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に男をつくるためだけの遺伝子ら
しく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫で長持ちするようにできている
のである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男でも女でもない状態であり、基
本型がきまってから男にでもするか程度のもので、Y遺伝子のためにむりやり女の体を加
工して男にさせられた結果だという。
 生き物のなかにはある時はオス、廻りの環境がかわるとメスになるものがあるらしい。
だからシーザーが大いに悩んだほどのルビコン川のような隔たりは、男と女の間のには無
いのかも知れない。私達も男性の心の中にも女性的な部分もあるし、女性もまた男子的な
性格の人もいる。その境界は曖昧で、男らしくとか女らしくといった生き方はそれほど明
確に有るわけでなく、生来というよりはむしろ社会的な規範の中で作り上げられた結果の
差異のようだ。そして同性愛者が常にある一定のパーセンテージを閉めていることを見る
と、昔は異端の烙印を押されたものだが、現象的にみると民族の違い程度に認識する必要
が有るのかもしれない。しかし私はひげ面の男同士が抱き合ってキスしているのを見ると
「どうして」と思うのであるが・・・。
 作者が描きたかった同性愛についてのテーマを自分なりに考えてみたので、前置きが長
くなった。本題の合評としては、指の感触や思い入れは個人差があるもので、そんなもん
かとか、そうだそうだと自分の体験に照らし合わせるような個人的な感覚なので評はしな
い。そのかわり、作者の物語の描き方については2、3 の疑問がある。
 作者は敢えて現在の満足な環境の中に、ある種の物足りなさをもつ女性を描きたかった
のだろうが、読者には保坂和志がいう「体験のもつ一種問答無用の強さ」が感じられない。
「そして万一自分が同性愛者である事を悟ったとしても、これまで築いて来た全てを捨て
る事は出来ない。綾子には2度と会うまいと思った」など、今までの創作においても同じ
く深く悩むとか悔やむとかの心理の葛藤を敢えて書かないで、淡々と描いているようにも
思える。読者としてはこの終わり方に物足りなさを覚えるとともに、これからがこの物語
の始まりだと思うのだが。
 最後に参考資料として国際医学会やWHO(世界保健機関)の見解を載せてあるが、ど
うもこの創作の内容を補完するための言い訳じみていてどうかと思う。創作は創作として
その物語のなかに読者を引き込むだけでよいのでは。研究書やレポートではないのだから、
楽屋裏は見せない方がよいと思うのだが




明治維新前後の佐賀偉人百人 碇民治著 2008/10/16
http://2style.in/alpha/16-8.html

 18歳以来佐賀という郷里をはなれて半世紀にもなるので、碇さんの書かれた佐賀の偉
人達の足跡は初めて知ることも多く、今更ながら私にとって非常に興味深く読んでいる。
佐賀で暮らしていた頃はいつも身近なものより遠い都の方ばかりに目がむいていて、機会
があれば郷里を飛び出す算段ばかりしていた。だからその頃は己が育った足下の街の歴史
や偉人については興味も示さず冷淡だったと今は思う。その後もあまり帰属意識のなさと、
過去を振り向かない主義が禍して、郷里への思いも喚起されることもなくこのまま忘れ去
っていくところであった。過去に裏切られた故郷での人間関係や価値観の違いに基づく心
の底に沈殿している暗い思いがそうさせたのかも知れない。
 幸い碇さんが無意識に拒んでいる頑なな私に郷里への思いを再び向かわせてくれたよう
だ。これからも後九十数人の偉人についての記述を楽しみにしている。





「肥と筑」第六回 2008/11/2
http://2style.in/alpha/16-12.html

 海運業であった我が先祖の生業を知っている私にとって、今回の船の話には特に興味が
沸いてきた。
 渡来人の船は右舷漕ぎであっただろうと書いてあるが、それがどのような構造であるの
か、推進するに当たってどのような直進する力になり得るのか、その漕ぎ方が外の方法よ
りも有利であったという理由が知りたい。
 私は父の回想録を編集するに当たって、祖父と伯父と十八歳の父の三人が二本マストの
二百トンくらいの帆船で塩田港から有明海を抜け、風待ちしながら二週間かけて韓国の釜
山まで有田焼を積んで貿易していたという船について、船籍・洋船か和船かをお台場の船
の博物館で調べたことがある。父の従兄弟の人に聞いたところでは、真っ黒な船体で船尾
が丸い形をしたものだったから、おそらく洋船であったろうという曖昧な記憶しか聞けな
かった。
 徐福一行が最初にたどり着いたのは杵島の竜王崎(佐賀県杵島郡白石町)だったが、こ
こに上陸するには困難な場所と判断されたという。そのことを有明町の海童神社にある石
碑にはそのことが書かれているそうである。その海童神社の近くで船乗り家業をしていた
遠い祖先が除福伝説に関わりを持っていたなどという夢を持ってみたような気がしてきた。
 複合構造について、文字や刀の考察も面白かった。切る刀と突く剣の違いもいろいろの
民族の嗜好性や必要性についての考察も読んでみたい。
 この小説はものごとの出所を探し当て、その後各民族が変化させていったことを究明す
る、とてつもない比較文化論であることを遅まきながらいま悟った次第である。これで一
回分の購読料が200円は安すぎる気がしてきた。だからこの物語が完結した暁には一冊の
本として我が工房で作ることをお薦めしたい。

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激甘辛作品評1

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月29日(火)10時07分50秒
編集済
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             激甘辛 作品評1
                              9号2007-12号2008



     「友達を無くすなあー俺は!!」とある。
   当たり障りない作品評になりがちな合評の中、この人は感情を入れず、一貫して
   率直な作品評をいれているように読める。褒められて書く気がでる、不足を指摘
   されて発憤する。他方調子にのって手抜きをする、欠点の指摘や疑問に対しバカ
   にされたと思い怒る。要は受け手の資質の問題なのだろう。




  *電子評論集に掲載されていないものをとりあげています。
  *現在の電子作品集に掲載されているものは、下記URIを
   クリックすると当該作品を読むことができます。




同人α9号


親と子         2007/1/23

 これは難解な推理小説のようで、「何んかいな」といいたくなる「名作」か、はたまた
「迷作」なのか。たった四ページの中に、由美、おば様、ママ、ポポ、父、孫、娘、祖母、
昭子の人物が登場する。それぞれの記述、独白が誰を指しているか私には断定できないの
である。理解しようと鉛筆をなめなめ相関図を完成させようと試みるが、決定的な証拠が
なく犯人はするりとフィッリプ・マーロウの目の前をすり抜けて行く怪人二十面相のよう
につかみ所がない。

 しかし一見幸せそうな家族や満たされていて何の不安もないような家庭にも底流には隠
された辛い物語があるものだ。誰の回想や独白か判らずともこの物語にはペーソスがあり
普遍性があり繊細な女性しか書けない世界である。

 英語の先生が突然日本文学に目覚めて、源氏物語のように主語抜きの小説を試みたのか。
それとも理解できない私はもはや認知症の世界に片足を踏み入れてしまったのか。ここは
一つO氏自らその相関図を完成して私の疑問を晴らしてください。





同人α11号


選択五題 碇民治 著   2007/6/18
http://2style.in/alpha/11-4.html

◆ 鉄仮面氏のように物語りを膨らまし、想像の翼の羽ばたくままに語られた物語は誠に
  楽しく、その創造力には脱帽するが、私は評としてはそこまで仮定に基づく憶測や想
  像をすることが、作者にとって果たして望んでいることだろうかといつも評や感想を
  述べる時悩むのである。
◆ またO氏のいうように作者の意図をどう理解したらいいか分からない句もある。
  これは、句に携わる人達の決まり事や用語に対しての私の不勉強のせいかも知れない。
  その一方、説明しなければ素人には分からないものをつくる意味はなんであろうか。
  私は共感の得られる情景や思いを、この短い語句の中にいかに盛り込むかが一番難し
  い作業であろう。その点私はその世界に閉じこめられることをいつも拒否している自
  分がある。
◆ 「選択五題」は確かに作者の生活の中で生ずる「岐路」でどちらの道を選択してきた
  か、またその選択した道ではない別の生き方に思いを馳せるとともに、そのときの決
  断に悔恨めいた感情も微かに感じられるのである。それはまた私の迷いや思いの残照
  と確実に共鳴した。





肥と筑 第一回 長岡曉生著 2007/7/12
http://2style.in/alpha/11-9.html

◆ことばへのこだわり
  この一家はことばやものごとなどを世間的なありきたりの解釈に飽きたらず、自ら調
  べ挙げ解明しようという旺盛な好奇心とそれを楽しむ性格が描かれているようだ。私
  もまた色々の出来事に使い古された意味や解釈に反発し、疑いの目を持ち、自らの解
  釈を作り上げようと足掻くのではあるが、それはまるで「こんなものが効くのか」と
  いう旦那にたいして、藤原紀香が「あんたのその疑い深そうな目が好きや」と応ずる
  殺虫剤のコマーシャルが気に入っていてまさに言い得て妙である。
  ついでに、これは私がいままでに評価するコマーシャルの名作の3つ目に付け加えよ
  うと思う。一番目は松平健が西洋人のバックダンサーと踊っている「コナカ」のCM。
  なんとも事大主義的で臆面もなく無意味なことをやっているところ。
  もう一つは「メガネスーパー」のCM。桃太郎と犬・猿・キジの家来達、そして赤鬼
  ・青鬼達が行進するアニメだが、一人として歩調を合わせないところが見る者の脳み
  そを攪乱して、真も善も美も糞ったれというはちゃめちゃさがいい。よくこれで製作
  費を貰えたね。
◆ 問題提起
  ある本で「学問的業績を評価された人は、必ずしも答えを見つけ「真理」に到達した
  人ではなく、より豊かな実践を拓いていく新たな丁番を創り出した人。何かある問題
  に答えた人よりも、むしろ問題を創り出した人である。」というのがありました。そ
  の点同人αの連中は常にピントはずれのような、一笑に付すような提案や計画や思い
  つきを真面目に言い出す人が多い。それが同人αの資格審査の条件であったかと思え
  る節がある。とにかく人と違ったもの、人には無いものを尊ぶ風潮を私は好きだ。
◆ 家庭団欒
  まずは知的で、そうかといって各々が個人主義の固まりでなく、和気合い合いの後藤
  家のような家族は今の日本では希であると思う。その意味では理想的な親子関係で、
  作者の家庭がそうであるとすればうらやましい限りである。我が息子などは、学費を
  貰う間はそれなりに付き合ってくれたが、卒業して就職してしまうと歩いてこれる所
  に住んでいながら、催促されて渋々月に1度位しか顔を見せない。美味いものが好き
  だから、神楽坂の志満金で鰻を食おうとか、銀座のて天丸でてんぷらを等と言って連
  れ出すのだが、最近医者より「1日1,800kcalに押さえないと恐ろしいことになりま
  すよ」とどこかのテレビの番組みたいに脅されたので、息子を連れ出すのに新しい手
  だてを見つけ出さねばならなくなった。「お父さんはもう長くはないぞ」という脅迫
  めいた科白に効果を期待するか。
◆ 「肥と筑」はこれからが楽しみ
  司馬遼太郎の小説は実に面白く読ませるが、語ることが膨大すぎて最後に残る「こと
  ば」がつかめない、というようにならないことを、vacuum headを代表して最後に
  一言申し添えます。





選択、その後    2007/7/22

彼の独特に社会の不条理にたいする憤りとそれに伴う運動の体験は、青年の頃にノンポリ
であった私にとっては貴重な知識を与えてくれるものであり、また私が既に忘れ去ってし
まった正義感を失わず持ち続ける氏の生き方は貴重である。
その一方、物語として見るとき私は多少の小言を言いたくなるのである。それはまだ創作
を始めて日が浅い故であるかもしれないが、語りの中に共感するような心理的な葛藤やあ
るいは自然の色彩や光による微妙な移り変わりの描写などの表現が足りないような、ただ
ひたすらに情況の説明と筋を追うだけのものに見えてくるのである。

◆ P39-8行目:その山あいで自分があたかも主人公になったような気分で気ままに生き
  ている。の意味がわからない、この物語の「私」は常に主人公ではないか。それでは
  この山あいでの主人公は何であるのか?
◆ P39-34行目:離婚の理由は妻が私を嫌いになったのではなかった。今の自堕落な生
  活からむかしの行動的な「私」をもう一度取り戻して欲しいとの願いから、私を発憤
  させるために離婚を突きつけたとある。例え妻も自分自身をあらたに出発させようと
  いう意図があったとしても、それだけで離婚という選択をするであろうか。そこには
  もっと相手に対する嫌悪や憎しみや軽蔑などといった内面の激しい葛藤があるはずで
  ある。その辺の記述が欠けているから読者の深い共感は得られないのではなかろうか。
◆ P40-31行目:繰り返すことになるがの文はいかにも説明的で無駄だと思う。
◆ P41-23行目:(何度も使ってきたが・・・)も同じく不用。
  最後にこの物語があまりにも藤本敏夫・加藤登紀子の生き様と重なり合っているのが
  気に掛かる。
  随分言いたいことを書いたが、才能のある方だから嵐の夜に訪れた「佐久間茜」によ
  って生じる、これからの目の覚めるような新しい世界への展開を期待しよう。





同人α12号


稲作今昔物語り(1) 碇民治著  2007/8/31
http://2style.in/alpha/12-1.html

◆ いまの世の中はこの食べ物は「美味い」の「不味い」のと言いながらその苦労も考え
  ずに能天気に批評する風潮に染まっています。たしかに私もいつからでしょうか「食」
  を自ら生産することや自ら採取するための知恵も、そしてその原始的な生き方の大切
  さも忘れ去っていることに気づきました。
◆ 「鉄腕、ダッシュ」という、ある東北地方と思われる里山を舞台に、稲や果物や野菜
  を作る過程をさるアイドルグループに体験させる日本テレビの番組があります。これ
  をみると、実に農作業おける先陣から受け継がれたもの作りの知恵なくしては作物は
  満足に育たないことが判ります。
◆ 農機具商を営む父のもとで育った私ですが、今回碇さんの文によりそんなに農作業が
  進歩した機械により「樂」になったのかと、恥ずかしながら40数年前しか知らない
  私には驚きでした。冷房の効いた、GPS付きのすぐれものですか。
◆ くりかえし早苗をつかみ挿しにけり
  昔は梅雨の雨に濡れながら横一線にならんで人力で植えたものです。毎年親類の家に
  手伝いに行っていた頃はまだトラクターもなかった。それは大した仕事もしない子供
  にも辛い作業で、それ以来土をいじる仕事を敬遠した思いがありました。いまは胡瓜
  やなすさえ作れません。いまさらながらその時々に農業の知恵を教わっておけばよか
  ったと思います。





肥若葉は萌えて  三浦和子著 2007/9/26
http://2style.in/alpha/12-5.html

◆ 作者が俳句や和歌だけでなく今回新たに小説という創作の世界に挑戦されたことを高
  く評価します。自分には出来ないと思っていても書いている内になんとか書けてくる
  もので、是非これからも続けて自分の才能とその楽しみを見付けてください。
◆ 私も長岡さんと同じく、先ず「肥若葉」という言葉について興味を覚えました。歳時
  記や季語をいろいろと調べましたが結局判りませんでした。もし既製の言葉であれば
  その出所を、もし作者自身の造語であればどのような若葉を表現したものか詳しくご
  教示ください。
◆ 主人公は定年を迎えて自分の居所を探しに出掛けることから始まる物語は、失われた
  社会との繋がりの部分をどう満たすかを模索するという共通の問題でありましょう。
  その点で多くの人達と共感出来るテーマだと思います。
◆ いよいよ箱根の思い出をきっかけに内証の世界へ入っていく。新しい創作を通して、
  作者が表現する人間や自然にたいする考え方、人と違った個性を見付けることを私は
  楽しみにしよう。





定年後の日々パート4  2007/10/12

下世話に「残り物に福がある」という諺はよほどの運が必要のようで、このところ論ずべ
き良いところは既に賢明な皆さんの筆になってしまっている。いきおい遅れてきた者の話
題に乗れない悲哀やら、冷や飯食いの居心地の悪さを感じているのだが、それでもなお何
か人と違った見方の評を探してみようと努力するという、私がいつも陥るていたらくのパ
ターンである。だからどうしても負の面を探すということで、刺激的な効果を狙って作者
の自尊心にダメージを与えることを承知の上でアルカロイドを仕込むことになる。

◆ 構成としては、村上春樹の「羊をめぐる冒険」・「世界の終わりとハードボイルド・
  ワンダーランド」・「海辺のカフカ」などに出てくる山深い僻地にあるこの世とあの
  世の世界へ主人公は迷い込むみ、再び戻ってくるという自分探しの旅の物語のように
  思えた。しかしこの小説はこのまま終わるとすれば行ったきりで、この世とあの世の
  間の三途の川の手前で、六文銭を何処かで落として渡れずに立ちすくんでいるだけの
  主人公になってしまう。読む方もなんだか大好物の食べ物を途中で取り上げられたよ
  うな、血湧き肉躍る映画をこれから本番という時に停電するような割り切れない思い
  になった。
◆ 私は会社に8年間しか勤めず、若いときに自ら会社を去ったので、定年退職者をとり
  まく人々の間でこのような複雑な思いが交差するという記述を非常に面白く読んだ。
  しかし廻りの人たちの思惑を主人公が説明しているような書き方や時系列から逸脱し
  ない、すなわち時間的に過去・現在・未来を行き来したり、空間的な別の場所を舞台
  にした物語の一部を挿入したり、人物だけでなく天然現象や動物や植物などの記述も
  織り交ぜて、立体的に物語を作っていく手法でないように思える。この物語の記述は
  平べったい一次元と一方にしか進まない時間による記述で物語りに深みがない。川の
  流れに瀬や淵や曲がりくねりがあるように四次元のふくらみを表現して欲ししい。そ
  れから「赤目四十八瀧心中未遂」を書いた車谷長吉は、小説とはいかに登場する人物
  を生き生きと表現できるかであると言っている。また博覧強記的な知識も、一度作者
  の頭の中で疑問と共に分解され、再度組み立てられたようなものではなく、通説など
  の匂いがして、どこかで聞いたようなことが多く、作者の個性や人格から発せられた
  ような独特の言い回しや言葉の表現が観じられないのは「観光立国日本」の時もそう
  だった。
◆ とまあ、散々なことを書いてしまった。ここまでくるとさすがの作者も皆さんのよう
  にしっかりとした検証もしないで言いたい放題、批評にもならないものを読まされ、
  怒り心頭に発したでしょう。「大きなことを言っておまえはどうなのか」とブログの
  写真の姿で詰め寄られると、私は二の句も告げられず許しを請うのみにて。
  *◎◎さんごめんなさい。     友達を無くすなあー俺は!!





パロディ2題(出合いと別れ)  2007/10/27

◆ 安倍さんの「坊ちゃん宰相」振りはなかなかよく書けていて、首相になって職務を放
  棄するまでの離散劇は毎日のニュースで私もつぶさに見て知っていました。だから欲
  を言えば私の知らない事情についてのパロディを今度書いてください。
◆ 例えば、山本なにがしの気狂いじみた安倍政権擁立への情熱は何故かとか、平沢 某
  の主君への恋々とした忠誠心はどこから来たのか、等々安倍さんを持ち上げた人々の
  滑稽な三文芝居・狂想曲の顛末はまだ「総括」と「落ち」は着いていないと思われる。
  そして性事と政治の世界では言葉はいらないとばかりに、ついに我々国民の理解でき
  る言語では語られることはなく、永田町の闇の奈落で廻り舞台をどうまわすかを画策
  する影のシナリオライターの暗躍を炙り出してもらいたい。
◆ 安倍さんが自民党の代議士先生達を魅了したのは何だったのでしょうね。
  毛並みの良さが、田舎代議士の卑しい身分にも関わらず貴族の真似事をするというあ
  の「スノッブ」感覚をくすぐったのでしょうか、それとも金の匂いや猟官の思惑から
  か。急がないと与党の天下も危うくなったし、毛並みと見てくれが売りのあの程度の
  人物を担ぎ出した自民党員の見識や感覚がもはや格段に低下しているという思いにい
  たる。実は自民党員は影武者であり、数臆年も連々と我々の中に住み続ける「遺伝子」
  のような「官僚」が本当の支配者なのかも知れない。だから見かけの日本の代表が誰
  であろうと一向に体制が揺るぐことはない、これはもしや一流国の最良の最終の理想
  的な姿かもしれない。





同人α13号


性の波紋(その3) 2007/12/11

◆ この手の克明な性描写は、それに対する意識が開放されている現代の若者と違い、
  まだ昔の規範を引きずっている私にとって趣味ではないから言及しないでおきましょ
  う。
◆ 「据え膳食わぬは男のなんとか」について、夏目漱石の「三四郎」のなかに次のよう
    な筋の文があります。三四郎が上京する汽車の中で知り合った女性とよんどころなく
  同衾することになった。彼は一つの布団の真ん中に手ぬぐいを丸めて棒状にして結界
  をつくってその女と寝た。しかしなにも起こらなかった。朝起きるとその女は三四郎
  に「いくじがないのね」と言った。女が交情を望んでいたのか、それともそうなって
  も仕方がないと覚悟の上だったか三四郎にも分からない。女心の分からない三四郎の
  逡巡は美弥子に「strey sheep」と言わしめたようにこの小説全体のテー
  マでもある。sheepは気の弱いという意味もあり、なんとなく煮え切らない男の
  心情を象徴しているようでもある。そう言えば「性の波紋」の主人公も既成秩序への
  全面否定、前世代への全面不振、権威あるものへの全面敵対などにたいして果敢に挑
  む反面、桐子や茜に対しては常に受け身であり、茜との関係にたいしても離婚した桐
  子への後ろめたさを感じる。
◆ 「来週の土曜日には桐子がやってくる。その三日後には合評会があり、いやおうなく
  茜と再会する。私はどのような言葉と表情で彼女らと接すればいいのだろうか」など
  と自戒し、自らの意志による結果としての意識や覚悟がなく、六十歳にもなって自立
  した大人としての人格がいまだに育っていない感じを受けた。
◆ 表現としてはP101行目「前号で述べたように」とか、同16行目「さて茜のことに
  戻ろう」という文は前号でも述べたように、報告書や論文のようで文学的表現ではな
  いと思う。この感覚は私だけのものであろうか意見を問います。





肥と筑 第二回 長岡曉生著 2007/12/21
http://2style.in/alpha/12-6.html

bird・brainの私が「肥と筑」をものにする巨像のような作者の頭脳に対峙するのに、どの
ようなスタンスを取るべきかいまだに決まった見解を持ち合わせていないのである。そこ
で連載の途中だからといって物事の結論を先延ばしにするという私の得意の奥の手を使い
たいのだが、皆さんの努力を見るに付けそうもいきません。逃げることも問題を処理する
方法として一つの文化であるという社会も世界には存在するという本(危機のモラル マ
レクラ島のフィールドから 船曳建夫著)を読んだことがあるが、ここで放棄することは
編集に携わる者として許されるものではないと思った。そこで旅人-Mさんや、長岡さん
の手法に習って、正面からでなく搦め手から迫ろうという魂胆であります。
◆ さて文学とはどのような芸術の範疇に入るかと調べてみると、次のように分けること
  が出来る。
  1.【時間芸術】
    その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術
    の総称。すなわち、音楽、文芸など。
  2.【空間芸術】
    芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられ
    て、人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なも
    のに建築、彫刻が含まれる。
  3.【総合芸術】
    建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調
    和した形式で表出される芸術。すなわち、舞踏・演劇や映画など。
◆ そこで「肥と筑」が論文か小説かということが話題になっているが、小説とはなんぞ
  や?
  小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。内容では、随想や批評、
  伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。なお、英
  語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり、
  もともとラテン語で「新しい話」を意味する。
◆ 小説は次のように分類される。
  長さ・発表形式による分類
   短編小説・ショートショート・中編小説・長編小説・連載小説
  内容による分類
   私小説・恋愛小説・青春小説・冒険小説・歴史冒険小説・秘境探検小説・海洋冒険
   小説・推理小説(ミステリー、ミステリとも)・サイエンス・フィクション(SF)・
   ハードSF・スペースオペラ・サイバーパンク・スチームパンク・ファンタジー(幻
   想小説)・ライトノベル・ホラー小説(怪奇小説)・怪談・歴史小説・時代小説・伝
   奇小説・武侠小説・児童文学・童話・絵本・官能小説(劇画系,美少女系,耽美系
   などに分かれる。)・教養小説・鍵小説・企業小説・経済小説・政治小説・ゴシッ
   ク小説・スパイ小説・大河小説・心理小説・芸術家小説
◆ ついでに純文学と大衆文学の区別は
  小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されること
  が一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
  芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
  小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるよ
  うになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を
  分けて考え るのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。

さて結論として「肥と筑」は歴史的資料を扱っているが純然たる論文ではなく、登場人物
に語らせるという散文で作成された虚構の連載物語でもあるが史書でもある。だからから
小説が伝記、史書と対立するものであるという定義があるゆえに複雑だ。それは私の書い
た「歪んだ風景-異星人」のように言葉遊びに徹すればそこに描かれている内容はぼやけ
てくるし、内容を重視すれば言葉遊びは余計なものだというジレンマは常に作者に付きま
とうわけだ。一方読者の好きなように解釈すればいいとばかりに開き直ることも出来るの
だが、「肥と筑」の作者は物語と史実のどちらに重きをおくのか、それとも両方をと意図
しているのであろうか。両立出来るものを見事になしたとき長岡氏の頭脳は一層輝きを増
すだろう。





浅野川のほとりで   2008/1/2

◆金沢は私も一度訪れたことがある。しかしここに描かれている浅野川や卯辰山などの場
 所はほとんど縁がなかった。ただ室生犀星の「性に目覚める頃」を読み、犀川のほとり
 にあるという犀星の育った不遇のころの雨宝院を探したことがある。また犀星の詩のな
 かに「青き魚」などといった青色の言葉が多いのに気がついた。そして彼が特別この色
 に惹かれた理由でもあるのか疑問に思い、私が文学を専攻していたら卒論のテーマに選
 んだかもしれないとその時思ったこともあった。
◆「浅野川のほとりで」に描かれている若い頃の忙しくも生き甲斐のある生活は、高度な
 文化と歴史を持つ地方都市の生活がいかに心に残るものであったか、作者は水を得た青
 き魚のように活き活きと描写して居られる。主人公を引き立たせる舞台はまず川がある
 こと、きれいな水が流れていること、人口が多すぎないこと。40~50万人くらいの
 都市が一番暮らしいいといわれている。私も長崎に4年ほど住んだが、高度な文化と歴
 史と人口の条件は満たしているが、残念ながら滔々と流れる清流は揃わなかった。
◆ 最後にこのような疑問を投げかけるのは良くないといつも気をつけていた。本来なら
 悪い話を先にして、最後にいい話で締めくくるべきであろうのにと悔やまれるのだが、
 もし気に障るようでしたら、もう一度前にもどって読み直しし、この文の前で閉じてい
 ただきたい。さて、

 疑問その1
  P26 上段から10行目あたりの「辞令が出た以上は赴任して頑張るしかない。くよ
  くよする性格ではないので、気持ちを切り替え新天地に望みを掛け、おおくの友人に
  見送られて梅田の駅を後にした」という心境は夫の心境と思われるので、作者が言い
  切るのはおかしいのではないか。・・・夫はそういう思いであったろうと憶測する書
  き方でなくては、作者の考えになってしまうのでは。
 疑問その2
  全体的に言い切りの形が多い。例えばP26 1行目「昭和45年3月。大阪万国博覧
  会が開かれた都市。」とか 中段の「泉鏡花・室生犀星・徳田秋声の三大文豪等の生
  地といことでその文学碑が人目を惹く。」等々
  江戸っ子の歯切れの良い言葉使いのように、判りやすい反面いささか蓮っ葉な感じを
  与え、しっとりとした情感が記述出来ないのではないだろうか。「そして」とか「そ
  れから」などの接続詞などの多用も猥雑になることもあるが、適宜に使えばいかにも
  高度な文化の中での暮らしぶりが清い水が流れるような情感をもって伝えられると思
  うのだが。






樹木との付き合い・波乱   あき もとすけ著  2008/1/5
http://2style.in/alpha/13-8.html

◆同人αの合評をしているので評論というものを知りたくて、このところ家にある新潮社
 版の小林秀雄全集十四巻を拾い読みしている。小林は部分的な表現や齟齬を指摘するの
 ではなく、全体的な印象や考え方の評論が多い。それらは本丸に突き進んで結論めいた
 業物を「さあどうだ」とばかりに広げるわけでもなく、搦め手から知らん振りしてじわ
 りと攻めてくるから、なかなか一筋縄ではいかないのである。だからよく読まないと本
 意がどこにあるか、それを見つけるまでに難儀をすること請け合いだ。私もそのうち何
 とかその神髄を会得して合評の質を高めたいと思っている。
◆大木への憧憬
 私も樹木には関心がある。特にイイギリは郷里の九州ではあまり見かけた事がなかっ
 たので、横浜から六本木の会社まで通う東横線の祐天寺駅の手前にあった赤い実をつ
 けた大木は何だろうと思ったのが最初だ。平吉の訪れた国立自然教育園にも沢山ある
 のも知っていたし、立川の昭和記念公園の入り口付近にも大木があった。イイギリは
 冬がいい、真っ白な雪の中であればもっと印象的であろう。廻りの落葉樹の葉が落ち
 てしまった中に大手を広げて仁王立ちした大木が、真っ赤な房状の赤い実をぶら下げ
 て一人自己主張をしている様は擬人的でさえある。
◆さて本文についての感想を書こう。自然のなかの木々の描写や少年の頃の田舎の思い
 出も的確に描かれていて読者を納得させるものである。また株の世界、その売買シス
 テムなど経験のない私にとっては目新しく、ああこういうものかと情況はわかった。
 しかし、次の二点で納得いかないと思った。
 1.プロットにおいては「鶴の恩返し」や「浦島太郎」が見え隠れしている。
 2.人物の性格においては大木に心を寄せる人物と投機に走る人物がどうも性格上しっく
  りしない。世の中にはそういう人もいるとことは否定しないが、この場の平吉の自然
  に対する精神的な清さと、生き馬の目も抜くような非常な世界の人間に違和感がある。
やはりこれは「○○の恩返し」というプロットを意識した設定で、らくさんが言及してい
るように別々の物語にした方がいいのではないかと思った。





楽しみ  2008/1/14

 これは作者が将来本格小説を書くために試みた習作、すなわち人物描写・スケッチとみ
た。だから私はここで評という評は書けそうにもないし、また書くほどの材料も見あたら
ないので、今はメモ的なものを書きとどめて置くことにしよう。
 この「楽しみ」の人物は、馬込村の魔女の一家のことだと私は「惚けて(とぼけて)」
認識しよう。そして先に話題になった「惚」の下記の意味付けを下敷きに解釈すると、
◆「ほれる」:ある異性がたまらなく好きになる。…に恋をする。
◆「ぼける」:知覚がにぶってぼんやりする
◆「ほうける」:夢中になって…する、とことんまで…するの意を表す。
◆「とぼける」:知っていながら、知らない、というふりをする。しらばくれる
 一家は実に「ほれる」・「ぼける」・「とぼける」ほどの破壊的な打ち込みかたもなく、
ごく庶民的な欲望というか、楽しみをお持ちで、一人を除いてそれほどほどの執着をされ
ていない。しかしよく観察するに、血は水より濃いことを図らずも証明している。それは
只一人の血族以外の先夫「弘」だけが家庭を顧みないほど、魔女以外の女に「惚れ(ほれ)」
そして「惚け(ほうけ)」たという事実だ。作者はこの真実に気付き書き分けていたのだ
ろうか。いや気付かなくても書き分けることのできる才能をこの魔女はもっているようだ。






定年後の日々について 2008/1/23

 天衣無縫というか融通無碍と言おうか、著者の豊かな発想のこの小説をじっくり読まな
ければならないのですが、いずれこの物語が大団円にいたった時に纏めて評しましょう。
と言うわけでいつものように走り回っていますので気が付いた部分の質問だけで勘弁して
ください。
◆主人公の廻りの人々が首尾良く昇天しないで今なお冥界と現世の狭間で徘徊している様
 子が書いてあるが、その人達が意図しないであの世に行ってしまったから現世への未練
 があるからなのか、冥界でも食えないで現世で稼がなければならないからか、それとも
 他に隠された重大な目的を担っているのか、いまだ謎である。
◆ 奴隷については社会制度としての奴隷と、個人的な体験としての奴隷感がごちゃ混ぜ
 になっている。前者はそこから抜け出すことは許されないがサラリーマンが奴隷である
 と思う状態は、自らの意思で自由になれる。だから、どんなに奴隷であると主張しても、
 方やその状態にうま味を享受しているかぎり、笑止千万なことである。殆どの自営業者
 が零細で、忙しく一生働かざるをえないか考えると、それもまたサラリーマンと同じ奴
 隷の状態と言えなくもない。その中で一つの救いは、従事する人がその仕事を好きであ
 るということだろう。
◆いつも著者の小説に出てくる主人公は深い悲しみや、喜び、悔しさ、憎しみと言った感
 情が書かれていないようで残念である。そのうち読者の紅涙を絞るような感動的な作品
 を期待する。以上、自ら自覚した訳でもないのに、公的呼称の高齢者の仲間にはいらさ
 れて憤慨しているさる自営業者の呟きであります。






居酒屋「清月」  2008/1/31

◆筋は特別珍しい、刺激的な、謎めいたものではなく、誰にでも何所にでもあるようなも
 のだが、テーマが最後まで一貫していて判りやすい。そして色々の人物を登場させると、
 一般に猥雑になり易く何を言いたいのか、だれがどのように係わっているのか、判じ物
 みたいな物語になるのだが、一人一人の人物の特徴や考え方まで想像できるような描き
 方はみごとである。
◆この物語を貫くテーマは、主人公が弱者に対するやさしさを十分持ちながら、勇気を持
 って救い出すという行動に移せなかったという自分の意気地無さや、欲情に負ける自分
 のいやらしさにたいして痛恨の念を抱いている。それはまた青年の頃の過ぎ去った卑し
 さと思っていたのだが、大人になった今でも「清月」での市役所の役人の醜態と自分も
 あまり変わりはしないのだという思いに苛まれるのである。この辺の描き方はすごいね。
 私も「シリーズ・歪んだ風景」で描きたいと常日頃思っている、隠れた人間の心の襞を
 見事に描き切った小説であると思った。
◆最後にブログの写真のなんとこの小説の圭一の、ハッシュや酒に溺れ、放蕩三昧の満た
 されない日々の生活が見え隠れする、そのようなすさんだ青年の姿を彷彿とさせる、名
 画の一こまのようだ。

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長岡さんはどこにいるか

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月28日(月)14時29分30秒
編集済
  .

       長岡さんはどこにいるか




         『肥と筑 第七回』 17号 前書添付写真

        


「長岡さんはどこにいるか」 2008/12/24

 私立探偵家業にあこがれる赤松次郎としては、単に感覚で捉えることなく手元にある
2008年2月2日高級料亭「日本橋さくら水産」での同人αの新年宴会の写真をもとに、
長岡さんの若き時代の顔を推理してしてみた。まずそれらの提供された資料をA3に拡大
印刷してルーペで見ると、その範囲は簡単に絞ることができた。前列左から1番目と2番
目が絶対怪しい。しかしどちらが正しいかは赤松次郎には俄に判じることができない。顔
の作りは二人とも非常に似通っていてハンサムで、まるで兄弟のようだ。表情に至っては
同一人物の晴(は)れの日と褻(け)の日の顔の違いくらいにしか見えないのである。
そこで次郎は、判断できないでは探偵として話にならないから、次の三つでえいやっとば
かりに結論を下した。
 1. 所持品で見分ける方法
   一番目の人はナップザックを持っている。長岡さんがこのようなものを好むかどう
   か、またはいままで会うときに持って来きたかは覚えていない。
   二番目の人は本を持っている。これは長岡さんの多読・多知識を憶測するに、非常
   に有力な根拠である。
 2 姿勢から見分ける方法
   ブログと新年宴会の3枚の写真のいずれも、向かって左側(当人の右側)の顔が前に
   出ていている。これは長岡さんが人に見せる顔の方向がいつもそうであるという癖
   なのだろう。
 3. 人と違った意見を言いたがる赤松次郎の習性による。
 よって、赤松次郎探偵による結論は、前列の左から二番目が目的の人物と断定した。




後日談1

「窓辺にて-山荘便り」より 2008/12/28

◆長岡さんよりクイズの正解者の吟遊視人氏と私の二人に何か商品をくださるという。私
 達に共通するものという示唆がありましたので、左翼的な思考を矯正するための毒薬か
 水責め、スペインの蜘蛛、猫鞭、鉄の処女、ユダのゆりかご、火頂、石抱き、皮鞭、ラ
 ック、猫の爪、リッサの鉄棺、ガロット、貞操帯、などの拷問の道具かもしれない。い
 ずれにしろ楽しみに待っています。





「当て物の賞品」  2008/12/30

 長岡さんの説明の通り「下町のナポレオン」と「黒霧島」の2本でした。
私としましては昌平校の長岡教授の「私立探偵の独立免状」をいただけるだけで大満足、
これで迷子の猫だけではなく人間共の浮気調査、思想調査、身元調査に精を出せるという
訳です。





  「長岡さんの説明」より 2008/12/30

   いや、今回の当て物、私が皆さんにどう見られているかが良く解って
  私としては結構楽しませて戴きました。というわけですから、ご心配は、ご無用に願
  います。お二方に共通する物としては、度々の酒の席で確認していた物、そう、焼酎
  です。特に昌平坂探偵所の所長様は、醸造酒がお飲みになれない事を、考慮致しまし
  た。奥方向きのチョコとかも、考えない事も無かったのですがそうすると私と同病の
  所長様には、大ハンデになりそうなので避けることにしたのです。
   もう一つ、薔薇の花も候補として考えました。と言うのも、三男の小・中学校の同
  級生の女の子の家と今でも親しくしているのですがこの家と言うのが、薔薇の品評会
  で総理大臣賞を貰ったことのある薔薇農園なのです。ですから、我が家からのお祝い
  に、薔薇の花束を贈ることは良くあります。
  (薔薇は茨城の県花ですし、我が家のそばには薔薇中心のフラワーパークが有ります。)
   でも、つれあいに相談した結果、殿方にはやっぱりアルコールということに成りま
  した。若しこれから先、木の花咲哉姫様にお祝いの品を送る必要が有れば迷わずに、
  特大の深紅の薔薇の花束を送ることに致しましょう。






後日談2


  2608 無限回廊 第三回 2011/4/14

            

  長岡曉生さん・賛   認識No.17 エヴァ マリー ゼノン

  紅顔の美青年、**中年なのか。これは同人α17号、拘りの作品「肥と筑」の7回
  に提出のもの。な かなかの男前です。ピントの合わないカメラの具合にすぎないの
  でしょうか。
  17号の時私はいなかったけれど、「α」の歴史探索でお目にかかった。あの難しい
  肥と筑を書く人はどなたかとわくわくしたものです。今とどう繋がるか、目と鼻でし
  ょう。あの探る目と嗅ぎつけようとする鼻、手元の本は(書類)は検証資料にちがい
  ありません。春画、春本の可能性もあります。もちろん研究、検証資料としてです。
  知的好奇心のまま、論理にもとずく解き明かし、そしてホロスコープの世界までにど
  んどん進んでいきます。今のお姿はそれなりに歴史を重ねなかなかのものになってい
  るのでしょう。
  今回の作品無限回廊第三回ではまた別な一面、可能性を感じました。やはりあの「目」
  は、もっと先を見ていたのかもしれません。

  ※今回の震災被害地にお住まいのようです。大地震の揺れでつい目の玉をうっかり落
  としたとか、以来揺れる度に目が落ちそうになり、写真の手配もつかないということ
  で不詳エヴァが書かせていただきました。
  ※17は縁の深い数字です。たまたま思い起こした写真にたどりつきましたら17号
  でした。これでキマリでした。作品キャラはNo.13「頭脳監察官」です。これもまた
  なかなかの姿です。冊子にその姿が紹介されています。





無限回廊 第三回 感想の前に 2011/4/19

まずはブログに掲載されている著者のポートレートについて・・・。
「この写真は、数年前(???)に中学校の関東同窓会を東京で開いた時の写真です」と
い う長岡さんの「肥と筑 第7回」の著者のコメントおよびポートレートに提示された
ものの なかの一部をトリミングしたものでしょう。当時その写真をみて、長岡さんはど
こにいるか というクイズを著者自らだされたことがありました。それにたいして私の答
えを下記のような推理のもとに出した結果、見事に当って焼酎一本ゲットしたことでした。



  無限回廊 第三回 評のお礼 投稿者:長岡曉生 投稿日:2011年 4月21日(木)23時17分

  ◆赤松さん
  ★著者のポートレートについて
  そう、いきさつは御指摘の通りです。
  この時の正解は二人だけでした。中でも論理的な推理の下に的中させたのは、昌平坂
  探偵所の所長ただ一人でした。流石です。

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猫「道」 (2)

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月23日(水)22時19分32秒
編集済
  .

        猫道(ねこどう)(2) 2011-2013




   2010年の記録をひっくりかえしても、猫一匹登場しなかった。
   この年は寅年だったから猫も忙しかったのだろうか。 それとも
   筆者の方が忙しかったのか。
   2011年6月にやっとその姿を現す。大地震による余波だろう
   か、「猫になりたい」とある。
   2012年4月に30回目の引っ越しをし、一匹の猫と出会った。






「あした天気になあーれ・第三回」の評1 投稿者:万理久利  2011/6/30

【構成力】

作者は毎回季節の情景から入る。鳥や植物に煌めきを与え、この作品が立つ季節を教えて
くれるのだ。そこでいつも通るビルに囲まれたポケットパーク、そこに猫を登場させ、結
びもこのポケットパークの猫で終わる。(中略)
そしていよいよ、目玉人物、チキンジョージの登場となる。三毛猫探しから帰ってきた、
段取りまでつけて。そんな彼を呆れながらも麻雀のプロとして尊敬する主人公。
次に、もう一つの目玉女房だ。ジョージとのからみは凄みを否が応でも想像させる。

最後はポケットパークにいる猫たち。(中略)
それにしてもこの作品は笑いと、涙の世界だ。 迫力がある。

浅田次郎 プリズンホテルを思わせる猫たちの動画をどうぞ。配役が決まっています。
http://www.youtube.com/watch?v=O3h348uGtNg





凄すぎる顔ぶれ 2011/6/30

「浅田次郎 プリズンホテルを思わせる猫たちの動画をどうぞ。配役が決まっています。」
の裏社会を構成する猫たちの顔は凄すぎる。「三つの願い」にでてくる「カポネ」もこうい
う顔だろうか?とにかくこの社会は顔が命、片目がふさがったり、顔が捻れていたりとその
バランスの崩れ加減は、過酷な闘争の歴史を物語るものだろう。悪顔猫のシリーズの面白い
小説が一つ出来そうだ。






「あした天気になあーれのコメント」 2011/6/18

      

我が輩は猫になりたい。
猫は人間の体重の約15分の1。猫は一日16~20時間眠る。猫の摂取カロリーは人間の2400
/15=160kcal。14時間動き回る人間と比べれば一日100kcal以下でも十分である。鶏ささ
み100g(105kcal)。牛乳100cc(65kcal)。だから2・3日食べなくても生きて行ける。人
間の跳躍力はせいぜい50cm。猫は体高の5倍すなわち1.5m。人間ならさしづめ8m跳べ
ることになる。ちなみに、蚤は体高の100倍。人間にすると150m、まるでウルトラマンみ
たいだ。

猫と人間の採食、運動能力の効率の差は歴然としている。そしてなんて人間は無駄なこと
をたくさん欲しがるのだろう。飛行機だってコンピュータだって携帯電話だって原子力発
電なんて猫には必要ない。現にそんなものの恩恵に浴さなくとも平気で生きている。我が
輩も来世は猫となったあるがままに生きよう、「樽のディオゲネス」のごとくに。
そして、今度の「あした天気になあーれ」は我が輩の横に写っているオスの三毛猫が主人
公である。どうぞよろしくと言っていますニャー。
http://www.youtube.com/watch?v=pOEXFJ9qHvc&feature=player_detailpage





「あした天気になあーれ-評のお礼」より 2011/7/9

*◆評者 ★作者
◆猫って笑う動物なんだろうか。これが男優だとして、また猫が笑うとして、この写真は
一体晴れには猫の笑い顔、雨には猫の怒った顔を使うのかな。とすれば、雨用に適した写
真を別途用意する必要が有りますね。
★笑った猫の撮影では「またたび」のご褒美をたっぷり与えました。また、猫は水にぬれ
ることが嫌いですから、捲土重来を期して雨に日はもっぱら寝て過ごさせます。そのキャ
ラクターは下記の写真をご覧ください。

      





◎◎子さんへの手紙より  2012/6/7

拝啓
 このところこの山荘付近は花が咲かない時期に入りました。もう少しするとたくさん蕾
(つぼみ)を付けた薔薇(ばら)達が一斉に咲き出すでしょう。栗鼠(りす)には鬼胡桃(おに
くるみ)を二粒づつ、野良猫にはペットフードを毎日テラスに置き、手懐(てなず)けてい
る最中です。朝は栗鼠(りす)が、午後からは下の部落に住んでいるらしい白い猫がやって
きます。この猫はどうもペルシャ猫かシャム猫か、西洋の猫の雑種のようであり、かすか
に黄色がかった胴体の白と、頭と尻尾の一部に日本猫でないような模様をしています。
今朝は散歩の途中で鼬鼠(いたち)の仲間の貂(てん)を見ました。新緑だけではなく、引っ
越して来た当時の黄色の花で一面の山吹の群衆のような色彩が欲しいこの頃です。
(以下略)





「絵を見に行く」より 2012/2/4

 昨日長岡さんの末っ子小柳景義さんの卒業・終了作品展を東京芸大まで見に行った。家
を出て散歩がてらに通った不忍の池回りの景色があまりにも素晴らしかったので写真を一
枚パチリ。人になれた5・6匹の野良猫をからかいながら上野公園をゆっくり歩いた。噴
水公園の全部、東京都美術館などの回り、どこもここも大々的な整地工事のための仮塀で
囲われていたが、完成すればどのように成るのだろう。いつものホームレスの青テント村
も撤去されていて、綺麗になっている。彼等も将来にわたってここらから閉め出されるの
だろうか。帰りにそこを通るとき多くのホームレスが屯していて、遠くの同じ方向を見て
いた。最初はなにが起きているのか判らなかったが、まもなく赤十字のテントの場所で炊
きだしが行われるのを待っていたのだ。(以下略)





山荘便り 2013/3/1

一週間程前に迷い猫が台所の窓を見上げていた。ちょうど数年前に貂が覗いていた様子の
ことを思い出させるシーンだった。そしてまた昨年の春、そっくりの白ろ猫が数回訪れた
ことがあったが、その猫は遂に居着かなかった。近所の人に聞くと親猫は車にひかれて死
んだという。そう言えば山の下の集落で親子をよく見かけていたが、今の迷い猫はあの子
猫かと思った。

毛並みは全体的に白っぽいが、野良猫生活で薄汚れたのだろう、真っ白とは言い難い。
額と足と尾に微かな灰色の虎模様が入っているので、猫図鑑で調べて見たがどうも混血ら
しく判然としない。それでもトンキニーズという種類に雰囲気が似ている。まだ人に馴れ
ていないので、捕まえて詳しく調べることができない。だから年齢も子供なのか大人なの
か、雄か雌かの性別さえも判らない。しかし目の色はすこぶる美しい。 アクアマリンの
宝石のような魅惑的で上品でエキゾチックな異国の薫りが漂う。

細君は「モロ」という名前を勝手につけて餌をやっている。その名前のいわれを問いただ
すと、ミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロ(1452~1508年)から取った名前「moro」
であるという。私に相談することもなく、またそのよりどころも説明することもなかった
が、しつこく聞くと今読んでいるマキャヴェッリに関する本に出てくる人物の名前を頂戴
したという。ミラノ公と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチが仕えた主人であり、ミラノ公の
愛妾チェチリア・ガッレラーニをモデルに描いた「白貂を抱く女性」が有名である。

この「moro」はこのところ家の外の零下10度を耐えて生きているのだから結構タフ
にちがいない。餌をやったり寝床を提供したりしているが、家の中では飼わない主義であ
る。また都会のペットのように着物を着せたり、抱いたりはしないつもりだ。だからこの
家が居心地が良ければ居着くだろうし、自由な野良の生活が望ましければ、また山の下の
民家が恋しければいつの日か自らここを出て行くだろう。私はだから「moro」の好き
なようにさせようと思っている。





山荘便り 2013/6/7

梅雨というのに一向に雨が降らない。だから太陽の光は十分満ち足りているにもかかわら
ず、朝夕はセーターとジャンパーが手放せない程肌寒い。標高1000メートル近い高さの
せいだろうか。春先山吹がこの辺りを黄色で一斉に染めたが、山荘の蔓薔薇や紫陽花やブ
ラックベリーなど、蕾はあるもののその後なんの花も咲かず、ちょっと寂しい。

最近もう一匹の野良猫が時々庭に訪れるようになった。三食昼寝付きという暮らしを保証
され仕官した我が家の猫、モロが羨ましいのかも知れない。細君はその新参の猫をカトー
と名付けた。あのローマ時代の 吝(しわい)な大カトーの名前である。どのような意味
でそのような仇名を細君が付けたのか、私はまだ問うていない。それにしてもモロに顔や
毛並みがそっくりで、兄弟ではないかと思っている。なぜなら体は大きいがモロと喧嘩す
るでもなく二匹とも三メートルばかり離れて黙って座っていることが多い。

私は朝八時を過ぎると屋敷の上の道に出て散歩に出かける。最近は下のテラスか藪の中に
いるモロを上から呼び、しばらく待っていると黒く防腐塗装を施した木製の階段をおずお
ずと登ってくる。私がゆっくり歩き出すと三メートルばかり距離を置いて付いてくるよう
になった。前に飛び出したり、藪や他所の屋敷に入り込んだり見え隠れしするのは私をか
らかったり試したりなどの遊びの積もりだろうか。散歩に小一時間ほど付いてくるという
ことはモロにとってどのような感情があるのだろうか。人の顔を見分けたり、自分の志向
した自由な意志、記憶などを観察するに、まんざら知能が無いわけではなさそうだ。兎に
角、私と迷い猫とがこのようになるまで三ヶ月ほどの時間が必要だった。しかしまだ私の
膝に乗るまでには至っていない。





シリーズ・歪んだ風景-鐵橋 第五回 著者前書きより
2013/9/13

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赤松次郎の代理として
小生の諱は「moro(モロ)」と症します。今回は主人・垢待二浪(あかまつじろう)
が生業のため多忙で、寝子の手も借りたいと常々申しておりましたので、勿論小生の餌代
を稼いで貰わなければという重いもあって、主人に代わってボードレールとゴメンネを書
いている私大であります。

小生と主人の係わりは「斜光第18号-迷い猫」に詳しく哨戒されていますが、「moro」
とは、ミラノ公ルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァ通称イル・モロからとった名前で、
主人の細君が強引に名付けたものであります。そのかわりもう一つの渾名である「サルト
ル佐助」については実存主義に傾倒している主人がつけたものであります。


        

さて、昌平坂探偵事務所の分室、中町探偵事務所の万理久利女史が小生の出生の秘密を探
りあてましたので、この際その貴重な報告を記録として留めることにしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「moro」またの名を「サルトル佐助」
投稿者:キメラ17号(万理久利) 投稿日:2013年 9月 7日(土)16時52分11秒
甲斐の国は富士山麓に住む鈍色太夫という郷士の飼い猫で、本名はモロ助である。
青木ヶ原樹海の中で猿と遊んでいるところを鈍色太夫に見出され。その飼い弟子となった。
古雄賀流の忍者猫の血統だか修行した経験はない。生まれつきの極度のロンパリだったた
め、忍者にはとてもなれないだろうと考えた親猫によって青木ヶ原にそっと置き去られた
捨て猫だったのだ。太夫に拾われた後、 じっくりと鈍色流実存主義を叩き込まれた。
[サルトル佐助]は太夫がつけた芸名である。

鈍色太夫に鍛えられたサルトル佐助は、後に十一期十勇士の1匹として知られる。 同じ
十勇士で伊賀くり忍者猫の糊塗更道蔵は、ライバルでもあった。
本郷春の陣で[またたび護憲派]に敗れた後、太夫の住む富士山麓に落ちのびたという。
鈍色家の家訓「自由であることは、自由であるべく呪われていることである。」は代々受
け継がれ、今でも富士山麓に行くと太夫とサルトル佐助の子孫が仲良く暮らしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、よく考えてみると「シリーズ・歪んだ風景-鐵橋」の紹介とは難の姦計もなく自慢
話に雄割ったことをお詫び致します。    「サルトル佐助」 2013.9.12

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夢もろもろ

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月20日(日)11時15分32秒
編集済
  .


                     夢もろもろ 1
                         2007-2009




     フロイト全集に挑戦するくらいだから、夢について触れた文章が増えるのも当
     然であろう。想念の世界を描くことが多いことから言っても、フロイトの夢の
     世界に興味をもつのも当然であろう。
     現実を生きる表向きの世界、信じて裏切られるとか、騙される、といったこと
     がまかり通る世界に対して、嘘のない、嘘がつけない、洗いざらしの想念(心)
     の世界に惹かれるのだろう。   (編集者)





「今日から日記に挑戦!!」 より  2007/1/13

フロイトの「不気味なるもの」・・・フロイト全集第17巻P30
同じ事態の反復がある一定の条件のもと、一定の状況と結びつくと、うたがいの余地なく
不気味な感情を引き起こす。この感情はいくつかの夢の状態が示す寄る辺なさを思い出さ
せる。
例えば ・不案内の街の路地を歩いても何度も同じ街角に出る。
    ・身の回りのナンバー例えば六十二という数字が同じ一日のうちに何の関連も
     なく係わってくる。




フロイト全集17   2007/3/11

■ 戦争神経症者の電気治療についての所見
  自分の生命に対する不安、他人を殺せという指示にたいする反抗、我が身を情け容赦
  なく押さえ込む情感に対する拒否感といったところが、戦争逃亡的性向を養う最重要
  の情動源泉であった。
  その苦しみの故に病気へと逃亡した患者を、健康な状態すなわち軍務遂行可能状態へ
  戻すために電気治療を施された。それは病気を治療されるほうが、健康な状態より苦
  痛で過酷であるということにより悲惨な電気ショック療法がとられた。

■ 夢学説の補遺
  夢には「欲望夢」「不安夢」「懲罰夢」の三つがある。

■ 女性同性愛者の一事例の心的成因について




「所得税支払い」より  2007/3/12

フロイト全集4及び戦後短編小説再発見4を購入。
今度のフロイトは夢解釈Ⅰで面白そう。前2巻も早く読破しなければ。




「母の日記」より    2007/3/17

先日から風邪気味で体調は最悪。最後は声もつぶれ、夜中じゅう悪夢にうなされた。昨年
の正月といい、今回といいなぜか私の帰省は望まれていないような気がする。悪魔祓いが
狐を追い出す煙と鞭が必要か。




フロイト全集4「夢解釈Ⅰ」  2007/3/30

フロイト全集4  20P、39P
■ 夢の内容は常に、本人の人格、年齢、性別、地位、教養の程度、馴染んだ習慣、これ
  までの人生全体で経験した出来事などに、多かれ少なかれ規定される。
■ 夢源泉を完全に列挙してみれば、結局四つの種類が数えられる。それらはまた、夢そ
  れ自体の分類にも応用されている。第一は、外的な(客観的な)感覚興奮、第二は、
  内的な(主観的な)感覚興奮、第三は、内的な(器質的な)身体刺激、第四は、純粋
  に心的な刺激源泉である。
■ 心臓病患者の夢は概して大変短く、驚愕を伴う覚醒で終わる。その夢の中では、ほと
  んどいつも、陰鬱な条件下での死という状況が役割を演じている。
■ 肺疾患の患者は、窒息、雑踏、逃走などの夢を見、目立って多くの人が、悪夢に襲わ
  れる。
■ 消化器疾患では、夢は、食物を摂ったり吐き気を催したりすることに関連した表象を
  含む。




「フロイト全集4」  2007/4/20

夢問題の学問的文献(H) P124
精神病という現象と夢という現象にはかなり広い範囲の一致がある。
■ ショーペンハウアーは「夢は短い精神病で、精神病は長い夢である」
夢解釈の方法 P134
■ 象徴的解釈
  夢内容を全体として視野にいれ、夢とは別の、了解しやすい、そして何らかの観点か
  ら見て類同的な内容で、一挙に代替させることである。
  閃きや直感にかかわるところが大きい。
■ 暗号方式
  夢を一種の暗号文のように扱って、個々の印を決まった鍵に従って既知の意味の印へ
  と翻訳することである。




「夢の歪曲」  2007/5/28

フロイト全集大4巻-P206
夢のほとんどは欲望成就である。一見そのように見えない「半欲望」のような不幸な夢で
も、分析すると歪曲された欲望成就が隠されていている。




奇妙な夢  2008/3/31

 今朝妙な夢を見た。やっとの思いでローンを組んで建てた自分の家についてであった。
それは現実にある山荘とまったく違った建物で、屋根裏に雨水が30センチばかり貯まっ
ていて、なんで水を抜かないかと細君を叱っていた。だが、屋根裏がプールみたいになる
ことも、細君に向かってそのようなありもしない責任を詰って暴言をはくことも現実には
全くあり得ないことである。しかしフロイトも言っているように、倫理的・道徳的・科学
的・物理的などのおよそ現実の世界では当然制約されている状態でも、夢の中ではそれら
の束縛から解放され、空を飛んだり、人を平気で抹殺したり理屈に合わない要求をしたり
するのである。
 私は仕方なく一カ所の軒先の鼻隠しに5センチばかりの穴を開けて天井裏の水を流して
いたが、埒が明かないので家の北側に回り壁を押していたら我が家が南側にひっくりがえ
ってしまった。細君は庭の向こうでお隣さんと楽しそうにだべっていて知らぬ顔である。
私はあわてて南側に戻って家をエイコラショともとに戻したのである。天井裏の水といい、
家を人間の力で倒したり起こしたりといった不思議な現象は夢のなかだからのことであろ
うが、なんとも奇妙奇天烈な出来事であった。
 それにつけてもそんなに簡単に建物がひっくり返ることは考えられなかったので、基礎
を調べたら、アンカーボルトが基礎の中に埋め込んでないことが判った。それから建物の
内部も非常に粗悪で自分の意図したものではなく、大工の赤池さんを自分は信用していた
のにと、その裏切に憤慨していた。まだ家のローンも半分以上も残っているし、建て替え
るには2重の負担を背負わなければならないと悩んでいた夢だ。
 フロイトに言わせると夢は現実の代償行為だといっているが、私の夢は何を暗示してい
るのであろうか。現実の山荘は腕の良い大工の赤池さんによる製作で、構造的にも空間的
にも、テクスチャーにおいても私のイメージ通りの出来映えであるというのに。




夢についてその1  2008/4/4

 またまた変な夢を見た。海外旅行へ行く日のことである。細君ととある成田空港の近く
と思われる駅に隣接する広場に集合するため来たのだが、添乗員が見つからなくて戸惑っ
ている。その広場には高校野球の開催式典のために数十校がプラカードの後ろに整列して
いる甲子園の状況とそっくりで、それぞれのツアーの添乗員のもとに点呼も終わっていた。
 私達夫婦は遅れた不満をお互いに詰りあっていたが、旅行する間くらいは機嫌良く過ご
そうではないかなどと気を取り直しながら駆け込んだわけだ。だが我々の荷物も届いてい
なくて、添乗員も見つからないので少々慌てた。飛行機に搭乗する11:00まであと一時間
しかない。 細君は添乗員を、私は荷物を探すことを手分けして、人混みのなかに入って
いったのだが、そのうち細君も見失った。携帯電話で居場所を突き止めようと思ってそれ
を取り出してみたら、今まで使っていたものではなく操作もわからない。液晶の画面も出
ないので何回も何回もキーを押し直している夢だった。
 この夢の示唆するものは、日頃と違った環境に立ち入った不安の表れと思われる。ちな
みに現実は今回は細君のみイギリスへ行く予定で、私は8日の間仕事を開けることが出来
ないのでやむなく中止した。しかしイギリスやアイルランドの小説や詩の足跡をいずれ訪
れたいという希望は捨てていない。
 それはともかく、この夢に登場する鄙びた田舎の殺風景な駅の広場はいかにもありそう
なものだが、今まで行ったことのない場所である。夢は逢ったこともない人物や見たこと
もない場所などを創造することができるのであろうか。それとも意識しないながらも現実
に一度どこかで経験しているのであろうか。そのような無意識のものを組み合わせて物語
りを造っているのであろうか。北君の言うように怖いこと、気になっていること、こうあ
って欲しいと思うこと、楽しい思い出などが起因となって夢見るのであろう。朝起きて覚
えている夢は20分前に見たもので、それ以上経たものは忘れてしまうそうである。




夢についてその2  2008/4/5

◆「同人α」第3号に載せた「シリーズ・歪んだ風景-影」に書いたように私の夢には色
 彩はあるものもあるが影がない。そして私の夢には会話がない、小鳥の囀りや小川のせ
 せらぎなどの音がない。
◆ところが行ったこともない場所や逢ったこともないのない人達が登場することが不思議
 でならない。その様な状況を勝手に夢の中で作り出すことができる能力が私の脳にある
 のか。それとも、いつかどこかで知らないうちに経験したそれらの一つ一つのことを、
 脳の暗い襞の片隅に記憶していて、それらの事実の記憶の断片を紡いで形を洞察すると
 いう表象能力の顕われなのか。
◆表象能力といえば、二次元のさいころの絵から経験によって蓄積された見えない向こう
 側を想像して立体に見立てる能力である。建築を学んだ時に、この表象能力がなければ
 二次元で表す設計図は描けないし、そういう人はこの仕事に向いていないと教わった。
 就職して先輩から、問題のある図面を描いた人がいたということを聞いたことがある。
 例えば周り階段と構造の梁の関係。梁がそこにあることを立体的に思い及ばない人は、
 階段の途中に梁が出てきて、潜るか跨ぐかしなければ通れないといったことである。
◆実際に私が経験したものは、随分昔の建物で未だに使用されている日比谷公会堂の階段
 がそうだ。階と階の中間にある踊り場の真ん中を上の階の梁が横切っている。もうちょ
 っとで頭がぶつかるような低さで、背が高くなった若者はかなり危険な代物である。そ
 れともその建物が建立された時代の人達の背がそれほど低く、あまり支障が無かったの
 かは判らない。いまでは、あの建物の用途と空間の規模から判断してもバランスを欠い
 たもので、設計ミスと言われても仕方ないであろう。
Wikipediaで夢について調べてみた
◆夢とは睡眠中に起こる、知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する現象を
 さす。
◆ 夢は人間に限られた現象ではなく、ほとんどの温血動物が見るとされる(ただしハリ
 ネズミの一種に例外がいる[要出典])。人間同様に睡眠中に、覚醒活動状態の脳波を示
 したり、反射運動である尻尾をふる、鳴き声をあげる発現などが確認されている。
◆ メカニズムについては不明確な部分が多く、研究対象となっている。例えば、浅い眠
 りに陥るレム睡眠中に見るとされ、ノンレム睡眠時は発現されないと考えられていた。
 しかし、最近ではノンレム睡眠時にも夢を見ることが確認されている。たとえば、フラ
 ッシュバック性の悪夢はノンレム睡眠時に起こることで知られる。だが、夢が現出して
 くるルートが比較的解っているのは、レム睡眠時で、PGO波という鋸波状の脳波が、
 視床下部にある端網様体や、後頭葉にかけて現れる。この PGOが海馬などを刺激して
 記憶を引き出し、大脳皮質に夢を映し出すと考えられている。
◆夢を見る理由については現在のところ不明である。 夢の存在意義を定めようとする説
 はさまざまあるが主に
  * 無意味な情報を捨て去る際に知覚される現象
  * 必要な情報を忘れないようにする活動の際に知覚される現象
   の二つが有力である。
◆ 夢には時間軸が存在せず主観時間でのみ知覚しているとも考えられている。これは、
 目が醒めた時点で記憶されている夢の多くは覚醒前20分以内に見た物とされているが、
 夢の中では実際の睡眠時間よりも長い、数時間~数日に感じたというケースが多いこと
 による。
◆文学作品
 * 「夢十夜」(夏目漱石)
 * 「ドグラ・マグラ」(夢野久作)
 * 「パプリカ」(筒井康隆)
 * 「冥途」(内田百閒)
 * 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(フィリップ・K・ディック)
 * 「豊饒の海」(三島由紀夫)




「詩的真実」  2008/5/20

脳と仮想」  茂木健一郎
◆詩的真実  (Wikipedia)
 ゲーテ: p.154 「藝術の真実」「詩的真実」 ただし、この場合の藝術とは、狭い意味
 での藝術作品に限定されない。)
 〈確かに夢の中の出来事は妙に生々しく、仮想の世界の方が現実よりもより真に迫って
 感じられる。だから現実が必ずしも真の姿をとらえているのかどうかは言い切れない〉

◆意識の流れ (Wikipedia)
 米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に最初に用いた心理学の概念で、
 人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念
 が流れるように連なったものであるとする考え方のことである。
 アンリ・ベルグソンも時間と意識についての考察の中で、ジェイムズと同時期に同じよ
 うな着想を得て、「持続」という概念を提唱している(ベルグソンとジェイムズの間に
 は交流があったが、着想は互いに独自のものとされることが多い)。
 [編集] 文学上の手法としての「意識の流れ」
 この概念は後に文学の世界に転用され、文学上の一手法を現す言葉として使われるよう
 にもなる。すなわち「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、
 特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」を表す文学用語として「意識の
 流れ」という言葉が用いられるようになる。この用法を最初に使ったのはイギリスの女
 性小説家、メイ・シンクレアだとされる。
 人間の思考を秩序立てたものではなく絶え間ない流れとして描こうとする試みは「意識
 の流れ」という語の成立以前からあり、 最も早い例としてはローレンス・スターンの
 『紳 士トリストラム・シャンディの生涯と意見』などがあるが、特に近現代の意識の
 流れを用いた小説には心理学の発達、殊にジークムント・フロイトの影響が見逃せない。
 意識の流れ手法を用いた代表的なイギリスの小説家としては、ジェイムズ・ジョイス、
 ヴァージニア・ウルフ、キャサリン・マンスフィールド、ドロシー・リチャードソンな
 ど。この手法を用いた作品として挙げられる例にはジョイスの『ユリシーズ』、ウルフ
 の『灯台へ』、フォークナーの『響きと怒り』などがある。
 また、内的独白や無意志的記憶という用語で表されることもある。
 〈日本の作家では古井由吉あたりか〉




「沈み行く家 第3回の合評のお礼」 より  2008/9/15

 誠に丁寧に評していただき有り難うございます。かつて親兄弟、親友そのた私に関わり
のある人達からこれほど真剣に感心を寄せていただいたことがあるだろうか。虐めや無関
心による引きこもりの子供達や、老人の孤独死などの人間の繋がりの希薄なこの世の中で、
このような絆を持つ私は実に果報者であります。たとえ批判的な感想であってもそれを評
するには少なくとも4、5回は読み直さねばなりません。その努力は学生時代のテスト勉強
のような忍耐と努力が必要と思われます。 この歳でまだあの偏微分の解き方がまったく
わからないと焦っているテスト前の恐怖の夢を見るというトラウマをかかえていますから
そのへんの辛さは身に浸みています。




金縛り  2008/10/30

◆金縛り
 医学的には睡眠麻痺と呼ばれる睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。
 不規則な生活、寝不足、過労、時差ぼけやストレスなどから起こるとされる。脳がしっ
 かり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入って
 いるのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。
 これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっ
 ている。ただし金縛りの起きる状態がほとんど就寝中であることから学者の説明は睡眠
 との関係についてである。覚醒状態においての「金縛り」というものについては科学的
 にはほぼ未解明であり、精神的なものに起因するとされることも多い。




「沈み行く家の合評へのお礼-その1」より   2009/1/10

 私は村上春樹の「スプートニクの恋人」は読んでいませんが、「東京奇譚集」などを読
みますと、偶然の重なりが何かに導かれたことのように感じられて不思議に思われること
が度々あります。
 ◆ドッペルゲンガー現象について
  私の中に幾度となく妙な現象を体験したことはあります。それがドッペルゲンー現象
  であったか、単に夢の中の出来事を現実と間違えて思い込んでいるのか判然としませ
  ん。
 ◆不気味なりものについてはフロイトが言う「不気味なるもの」という定義の中に同じ
  事態の反復がある一定の条件のもと、一定の状況と結びつくと、うたがいの余地なく
  不気味な感情を引き起こす。この感情はいくつかの夢の状態が示す寄る辺なさを思い
  出させる。
  例えば ・不案内の街の路地を歩いても何度も同じ街角に出る。
      ・身の回りのナンバー例えば六十二という数字が同じ一日のうちに何の関連
       もなく係わってくる。
 ◆赤松次郎は己の姿のなかに父の面影を見て一種の「不気味なるもの」ととらえた。
  また、村上春樹の小説に出てくるもので、私が彼の小説に接する以前に書いた「三つ
  の願い」やその他の場面の記述のなかで、妙に一致する記述を見つけた時もそうだっ
  た。村上春樹の場合は「ねじまき鳥クロニクル」では「井戸の中」、私の作品では深
  い縦穴、そして「不気味なる」情景の記述に「ジョルジョ・デ・キリコ」の表題は失
  念したが「車輪を回す少女」の絵を取り上げている。 これは彼の「生と死」、「この
  世とあの世」、「聖なるものと邪悪なも」などといった、 漠然とした「心の中に住み
  着いている暗闇」を好んで描くといった趣 向が私の描きたいものと一致しているよ
  うな気がするのであります。神秘主義というほど確たる自覚はありませんが。




変な夢   2009/3/8

 懸賞設計に応募する作品を徹夜で仕上げるも、締め切り日や提出先を書いた募集要項が
みあたらない。自信作の先品を提出しようとしたが、今日の日曜日までだったか、明日の
月曜日までだったか、提出先はどこだったかと慌てている場面だ。

悶々とする夢現の中で、頭に浮かぶ作品の横書きの説明書の文章がうまく編集できない。
改行をすると文章が消えたり、前の文につながらなかったり、そのうち脈絡のない文字だ
けのものが頭に残る。うまくいかない行動に堂々巡りをしていて悩ましいかぎりだ。
 仰向けになってその文章を考えているのが苦しくなって、そこで横向きに体を変えた。
そうするとその文章も水平ではなく、己の左右の目の方向に横書きの文字が並ぶ。これは
どうしたわけであろうか。頭に浮かぶ想念は、絶対的と思われるの現実の水平、垂直の概
念は脆くも崩れ去った。今まで頭の中に浮かものの位置関係を深く考えたこともなかった
のだが、目をつぶって見るものはちゃんと頭の方向に合わせて横向きに映るという、新し
い現象の発見をした。
 まさに、現実と虚構(想念)の違いであり、もし目を覚まして見ている原稿と頭の中の
文が同じ方向であったらもっとおかしいことになるだろうと思った。ものごとの知覚は現
実そのものでなく、脳を通して認知することで、必ずしも見えたもののそのままでという
ことか。自分に自分を瞞したり、瞞されたりしているようでもある、不思議なことである。




「逆さまの世界」より  2009/3/30

3.夢の中の世界
 変な夢をみた。仰向けに寝て横書きの文章を見ていたが、苦しくなって横向きに体を変
 えた。そうするとその文章も水平ではなく、己の左右の目の方向に横書きの文字が並ぶ。
 これはどうしたわけであろうか。頭のなかでは上下左右の補正を自動的にしているらし
 い。絶対的と思われるの現実の水平、垂直の概念は脆くも崩れ去った。今まで頭の中に
 浮かぶものの位置関係を深く考えたこともなかったのだが、目をつぶって見るものはち
 ゃんと頭の方向に合わせて横向きに映るという、新しい現象の発見をした。
 まさに、現実と虚構(想念)の違いであり、もし目を覚まして見ている原稿と頭の中の
 文が同じ方向であったらもっとおかしいことになるだろうと思った。ものごとの知覚は
 現実そのものでなく、脳を通して認知することで、必ずしも見えたもののそのままでは
 ないということか。知覚の上で自分が自分を瞞したり、瞞されたりしているようでもあ
 る、不思議なことである。







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異風者

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月19日(土)13時56分44秒
編集済
  .



                        異風者





異風物さんへ 2002/11/7

異風物というペンネームは郷里で言う「いひゅうもん」のことでしょうか?
辞書には「異風」とは・・・普通とは違った風体、姿、やり方、風習、風俗。また連歌の付句
の形のひとつとあり、また「斜光」第二号の田辺氏の明解国語辞典には「いひゅうか」を気難
しいと解説してありますが、私の感覚ではちょっとニアンスが違います。
「人と違ったものの感じ方・考えをする人」と、或るいはそのように敢えて考えようとする人
を個性派・変わり者とする意味の方が「気難しい」より本質を衝いているのではないでしょう
か。そのような個人主義の人が共同体の中ではなかなか迎合しないので「箸にも棒にもかから
ない」とか、「ぎゃすぎゃすどんく」・「天の邪鬼」などと揶揄されるのでしょう。

しかし、「全会一致は無効」とするユダヤ法の意味でもそのように異論を唱える御仁は貴重で
あります。あるアメリカ映画で全員ですばらしい結論を承認する時一人だけ反対する老人がい
ました。なぜか?彼は主張した「全員賛成では民主主義が成り立たない」!

ところで、先の同期会の箱根旅行で私に「俺は異風をモットーとする」といった、NHKドラ
マ:山本周五郎:春がきた)にでているひげ面の主人公にそっくりの貴君がこの「異風物」で
すか?そして貴君の論は私の意見に近いということは、私もまた「異風者」でしょうか。





異風者氏へ 2003/12/4

ずっと昔、読書家の異風者氏から最先端科学の「複雑系」の話を聞いた覚えがありました。
そのときはたいした興味を覚えなかったが、最近「量子力学」・「超ひも理論」などをへて
「複雑系」の本を読みました。

ところで、「noriさんへ」の投稿をみると堅物ばっかりと思っていた異風者氏もそのよう
なユーモアの持ち主であることが判って嬉しいですね。

小生も自分ではよく出来たと思うのですが、そのようなダジャレを息子から「親父ギャグ」と
白い目で一笑にふされ続けています。しかし、「親父ギャグ」は江戸時代よりつづくダジャレ
を継承していて言葉遊びの一つの文化でしょう。同音異義や何かに見立てる掛詞などを瞬時に
組み立てて表現することは並の業ではありません。

話はかわって、異風者氏は「読書会」ば自分と違う傾向の本をテーマにしているとこのHPに
書いておられたが、それは違います。参加した人が次の本を決める訳ですから、漫画・エロ・
科学・哲学・神学等、そのジャンルは問いません。

そう言うわけで、是非「読書会」に参加されて、私共を「構造改革とロジステック方程式」や
「零式艦上戦闘機」の迷宮へ誘って欲しいと思います。





「肥と筑」第5回感想 より 2008/7/19

◆「知の巨人」についての長岡曉生さんのクレームがありましたが、けっしておちょ
くってニヤニヤしているわけではなく、心底私はそう思っているものです。それに比
べて、さしずめO-chanが「痴の巨人」なら私は「稚の巨人」といったところで
すか。

◆製鉄の話で小さい頃のことを想い出しました。
私の父は戦後小さな鋳物工場を経営していました。そのためそのことについて私は色
々のことを見聞きしていました。樋口さんの「付文」に出てくる銀色の無臭で硬いコ
ークスが珍重されていることも知っていました。コールタール、ピッチなどの不純物
が混入している石炭では高温を得ることができません。だから高価なコークスを使用
して、解体された軍艦などの鉄くずとを混ぜて溶鉱炉に入れて燃やして銑鉄をつくり
ます。どろどろに溶けて太陽のようにまぶしく輝き、線香花火のような火花を散らす
鉄を、上半身裸の男達が鉄の柄杓で受て、鋳型に流し込みます。車の部品やら、橋桁
の受け材やら、鍋などに成型されます。九州の夏の夜などは普通でも寝苦しいのに、
溶鉱炉を使った日などは、工場と壁一つ隔てた同じ建物の住居では地獄のような暑さ
で、まともに寝られたものではなかったことを記憶しています。

◆私は「いひゅもん(異風者)」に憧れます。ここにその「いひゅうもん」についての
天野 勇吉の「あんころじいの方言放言」というエッセイがあります。少々長いが載
せてみま しょう。
早稲田大学をつくった大隈重信とか、日本赤十字社の生みの親といっていい島義勇と
か、いずれも幕末から明治初期にかけて大きな仕事をした人たちですが、そのなかで
ぼくがいちばん好きなのは、江藤新平ですね。この人はすごい。ダントツにすごい。
なにがすごいって、こんなラジカルな理論派は、めったにいるもんじゃありません。
しかもその理論のスジを通すための熱狂的なエネルギーを持ち合わせている。幕末に
佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加、明治維新後は新政府の司法卿(法務大臣)と
なって近代日本の司法制度をつくりあげると同時に、徹底した能力主義と人権主義を
確立するなど、たいへんなことをやってのけた人です。「私の友人の友人にアルカイ
ダがいる」なんてノーテンキなことを言っている法務大臣とはワケも違うし、デキも
違うすごい人ですが、数年後に政府内の意見の対立から下野して佐賀に帰り、佐賀の
乱にまきこまれてしまう。で、最後は自分が作った刑法で処刑されるという、数奇な
運命をたどった人でもあります。
これが「佐賀人」というものじゃないか、と、ぼくは思っているんですね。
で、「こういう人を佐賀の方言ではなんというんですか」と、ぼくを呼んでくれた人
に聞いたら、すぐに答えが返ってきました。
「いひゅうもん」
そうです、いひゅうもん。佐賀人の気質をひとことであらわすのはこれっきゃない。
標準語では「奇人」とか「変人」とかいうことになるんでしょうが、それともちょっ
とニュアンスが違う。「佐賀もんが通ったあとには草も生えない」という言葉がある
そうですが、そこでいう「佐賀もん」は、たんに「ケチ」とか「よくばり」という意
味だけでなく、「キョーレツな個性派」というイメージもあるんじゃないでしょうか。
たぶん、いひゅうもんのモトは「異風者」でしょうね。威風堂々ではなく、江藤新平
のように「異風堂々」。ぼくのイメージのなかに住む佐賀人の、それが原型です。

◆ところで「肥と筑」の評はどうなったとお叱りを受けそうですが、私はこの膨大な
小説 が終わってから総評をしようと心に決めています。だから、「彼奴はまた敵前
逃亡を図ったな」といわれそうですが、そうではなく興味の尽きない作者の風貌を解
析して見たいという誘惑に駆られました。
「赤信号皆んなで渡れば 恐くない」的な護衛船団方式の中では、この「いひゅうも
ん」ははなはだ厄介な存在です。無視するにはあまりにも穿った理を唱え、受け入れ
るには安逸をむさぼっている者も艱難辛苦の努力を覚悟しなければなりません。もの
ごとを理に照らして判断し、間尺に合わないことには豪も妥協せず、自分の考えを頑
なに押し通す「いひゅうもん」は、表面だけの付き合いや対面だけの仲良しクラブに
とってはまるで喉に刺さった魚の骨か、理由の分からない肋間神経痛のような忘れ去
ることの出 来ない不快感を発生させるものでありましょう。
だが、並の人間が理解できないような深遠な考えと信念を持った「いひゅうもん」に
私 は「肥と筑」の作者を重ね合わせました。このような作品は彼しか出来ないもの、
その意味に於いては強烈な個性の持ち主だと考えます。私はいつも自分にしか出来な
いものを見いだし、いかに実践するかを見つけたいと思うと同時に、いつの日かあい
つは「いひゅうもん」と呼称されることを夢見ています。





「今年最後の「同人α」の編集会議および忘年会」より 2010/12/23

今日は新しい会員になった「異風者(いひゅうもん)」氏達と今年最後の編集会議を
本郷三丁目の駅のそばにある「駒忠」で開催しました。出席者は異風者、長岡曉生、
万理久利の各氏と私の4人。神野、旗名涯(はたなはてし)氏の二人は多忙、碇氏は
遠くて参加出来ずに誠に残念でした。
とにかく、普段は寡黙で人見知りする事においては人後に劣らぬシャイな異風者氏の、
酒が入ると目を見張らせるような冗舌になり、一同そのエネルギーには驚嘆した次第
であります。





「いひゅうもん」より 2008/7/21

◆私が「いひゅうもん」にたいして確たるお答えはできませんが、調べたところによ
れば 確かに「異諷者」を「いひゅうもん」と記述してある資料をみつけました。
*異風者(いひゅうもん) (単行本) 小嵐 九八郎 (著)
* 映画『人間の翼』の監督は岡本明久さん(58)。古本屋で『消えた春』を見つけ
「石丸進一の人柄にほれて」映画化を思い立ったという。原作の牛島さんに話を持っ
て行ったところ「ぜひ映画化してほしいです」という答えが返ってきた。
佐賀の言葉で「いひゅうもん」という言葉があるのだが、岡本さんは石丸進一の「い
ひゅうもん」ぶりにひかれたという。「いひゅうもん」とは漢字で書けば「異風者」。
牛島さんの記述によると《へそ曲がりで、極端なテレ屋なるが故に、己の感情を率直
に表さず、しかも偽善者ではなく、偽悪家……といったところだ》。
郷里では多数派の人が「あの人は『いひゅうか』」という言い方の中に、人の意見に
いつも反対する御しがたい変わり者という「負」のイメージを感じていまいましたが、
今よく吟味してみると、やはり単なる気まぐれなへそ曲がりの変わり者というより、
天野勇吉のいうように、理に厳しく、通説や世間の風評に付和雷同しないで考えを貫
く人という「プラス」のイメージとした解釈したい。





「異風人さんの再登場」 2008/9/18

 久し振りに異風人さんの登場楽しみです。投稿文を見るに、まだその独特な観点と
論理の冴えは見えませんが徐々に気力も回復して、その異風振りがもどることを期待
します。
 貴君が言われるように「あえて言わせてもらえれば万華鏡、つまらないものをあた
かも本当にあるかのように美しい虚像を見せる密閉された空間ということ」と喝破さ
れていますが、茂木健一郎に言わせれば「全てが己の想念を通して認識されているゆ
え、この世の出来事はみな仮想である」ということ。だから難しい相対性理論も恋愛
も「万華鏡」の中身と似たようなものでしょう。
 ところで私はこのホームページにふさわしいと願った名称は「ニューロン・カフェ」
でした。人間の脳の中で情報を一手に引き受けているニューロンたちが井戸端会議よ
ろしく三々五々とカフェ集まって、あることないことの情報を交換して楽しむという
意味を込めての提案でしたが・・・。





「M君への手紙」より 2011/9/19

拝啓 悠々自適の貴君が羨ましく思います。 小生、今まで遊び惚けてきた報いで、
「たつき」のために一生現役を貫かねばならないようです。

もともとも小さい頃から物を創ることに興味があり、職業も建築という創造の世界に
進みました。一度は就職しましたが会社勤めにおける責任のなすりあいや虚勢などの
人間的な確執が下らなくて、33歳の時に会社を辞めたという、サラリーマン失格の小
生でした。また貴君がかつて建築構造の技術者について喝破された通り、一匹狼、ロ
マンチスト、芸術家肌、ウソが許せなくて情に厚いこと等々はまさに自分もそうかな
と思うことがあります。またそのような志向を持っていることも確かです。そして今
の仲間達もまた世間で言えば奇人・変人・異端(佐賀では異風者)の形容詞が付きそ
うな面白い連中で、同じ空気や匂いのなかで付き合うことは甚だ愉快なことです。

追記:異風者について広告時評の天野祐吉が面白いエッセイを書いています。 佐賀
の異風者の典型は江藤新平である。異風者とは単に変わり者、頑固、鼻つまみ者とい
うことではなく、理のあるところ説を曲げず、世相に迎合せず貫き通す人を言うので
はないかと書いています。まあそのような人は漱石の「草枕」の冒頭の文章のような、
世俗には疎まれ生きにくい生き様が想像できます。





「無限回廊 第六回を読んで」より 2012/1/3

 「フィネガンズ・ウェイク」にあってはハンフリー、イエス・キリスト、トリスト
ラム卿、トリスタンの恋人イゾルデ、アダム、イヴ等々であり、「無限回廊」にあっ
ては、神農炎帝、季炎、赤松子、ヘルメース、アフロディーテ、アイネイアース、壽
夢、七娘、季礼、孫悟空、ザインなど、その飛び方は並ではない。
 また一見博覧強記でとりつく島もないほど理屈っぽく、頑固で妥協を知らない「異
風者(いひゅーもん)」の典型みたいな作者が、とてつもなく洒脱で「剽げ者(ひょ
うげもん)」でユーモア、ウイット、諧謔、隠喩に富むセンスの持ち主であることを、
親しく付き合わない人達には想像もつかないであろう。とにかく「無限回廊」に登場
するバード・ブレイン、グレイ・ブレイン、エヴァー、カミノの物語はこれからも、
それぞれの個性のもとで回し書き物として面白いものになるとあらためて確信した次
第である。

882

 

斜光のこと

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月16日(水)18時10分53秒
編集済
  .

              斜光のこと αのこと





「斜光」編集会議報告   2002/6/29  (BBS 落書き帳)

みなさんへ
このフォーラムもおおくの仲間が開いてくれています。
同人誌斜光への関心も一層深まってきております。そこで斜光編集の様子もお報せしてはどう
かとの意見も出始めましたのでここに編集会議内容を掲載することにします。なお編集に関し
てご意見ご要望があればこのフォーラムへ書き込んでください。

1. 開催日時;平成14年6月22日(土)
2. 出席者;編集委員10名
3. 主な打ち合わせ内容
・ これまでの投稿者…31名
・ 投稿を予定はしているが、現時点での未投稿者…13名
 →6月末期限で投稿をお願いする
・ 「編集後記」、「色眼鏡」、「風の便り」、「作品に一言」等の原稿にはそれぞれのタイト
  ルを明記のこと
・ 「斜光ホームページ」のPR。ホームページアドレス<URL>を裏表紙下部に掲載する
・ 「ふうけもん会」「読書会」「鳥見会」等のサークル活動を風の便りで紹介する
・ 10月19日の<佐賀;同窓会>に間に合わせるために、今後次の予定で進める
(1) 8月10日(土)校正会議→校正チェック完原稿の返却期限<8月末>
(2) 9月初原稿の最終チェック
(3) 9月中までに印刷渡し
(4) 9月末までに印刷完了
(5) 10月初からの発送





新しい投稿者歓迎!! 2002/10/6 (旧同人α掲示板)

「斜光」第7号もすでに手元に届いている方もあると思います。そこで紹介されました「斜光」
ホームページへようこそ!!

「斜光」の誌は年に一回のおつきあいですが、ここでは毎日の意見交換の場で、すでに一年の
試運転期間にこのようなたくさんの楽しい付き合いをしてきました。はじめて「落書き帳」を
開いてくださった皆様も大いに落書きをしてください。一番下の欄の管理者をクリックすれば
自分の原稿の修正・削除が可能ですので、恐れることなく書き込んで下さい。まずは勇気をだ
してなにげない日々の感想から・・・。





「斜光」パイロット版について 2004/ 9/27 (旧同人α掲示板)

「斜光」パイロット版について私にも言わせて
その当時400部も発行する同人誌にするという大それた考えはなかった。ただ仲間同士で手作
りで何かを創ることに喜びを味わいたかった。私は日本中の同人誌について図書館で調べあげ、
2・30の候補の題名を書き出し、われわれの目指す誌にふさわしい名前を4人で検討した。北君
の武満徹の作品からと思えるノヴェンバー・ステップス (November Steps, 1967年)以外の
提案はなく、その2・30の中から選ぶことになった。

そして残ったのが「斜行」と「斜光」の2つであった。昭和35年卒業と佐高を掛け、加えて「サ」
を「シャ」と発音する郷里の訛りで味付けし「シャコウ」としたわけである。
O-chanの書いた通り、「斜光」を推していた私がトイレに発った瞬間に3人の推す「斜行」
に決定した。まだ討議の途中と考えていた私の思惑は甘く、冷徹な民主主義の数の論理に押し
切られたしまった。

散々回り道の人生を歩んできた私はこれからの行く手にせめて「光」を望んだわけだが、0号
を手にした人から「私はまっすぐな道を歩んできたのに」 という意見もあって創刊号では
「斜光」に戻したいきさつがあった。

しかし、今考えると「光」はなんだかカルトの宗教の匂いがするようで、もっと率直に自分の
生き様を表した「斜行」でもよかったような気がする。





「自己流を貫く」 2007/2/13

「天声人語」2月13日
フランス歌謡界の長老 シャルル・アズナブール(82歳)が「最後の銘打った日本公
演を続けている。歌手でも役者でも、流れの速い芸能界で長く一線にとどまるには二
つの道がある。軽やかに時流に乗るか、頑固に時流を貫くか。シャンソンの名手には
後者が少くない。

私も「斜光」との和解で、皆さんの説得や取りなしがあって、「もう仲良くしてもい
いか」と思ってしまいそうになるが、やはり当初「個人の自由」を認めなかったとい
う経緯と彼らの考え方には妥協すべきではないと思う。
それが頑固といわれようと・・・。





「X氏のポートレート及び賛」より 2008/1/8 (旧同人αブログ)

◆X氏が、限りなき同窓会誌に近い同人誌である「斜光」を見放すように決別したの
は、決してイデオロギーの対立があったからではない。それはほとんどの世の重大事
が取るに足らないように見えるものから端を発するように、じつに卑近な諍いから始
まり、最後は同人αという別の冊子を立ち上げるエネルギーにまで大きくなったので
ある。
 よそから見れば些細な行き違いのようだが、食い物の恨みは末代まで残るというで
はないか。その当時は私も、たとえそう思っていたとしても決して口には出さなかっ
たであろうことを、有力な編集委員であるB君により、実にあっけらかんと「Xさん
の料理はありゃ何だ味も飾り付けも最低だ」と酒の勢いで宣ったものだ。それ以来華
麗なる馬込村の社交場から彼等一族は抹殺されて今にいたっている。





「いひゅうもん」より  2008/7/21

◆同人誌「斜光」については碇さんの説明の通りでありますが、少し詳しく説明しますと、
高校卒業周年記念に作った「青春のあの時」という冊子を執行部が編集しました。それが
とても面白かったので、あるとき飲み会で田村さん、田辺君そして私の3人が「あのよう
な冊子が一回きりではもったいない」といことになって、我々だけでも同人誌を作ろうで
はないかということになった訳です。
 「斜光(しゃこう)」という命名の経緯は全国の同人誌の名前を200ばかり集めて、
最終的には碇さんの説明にある「佐高」「昭和35年卒業の35」を佐賀弁のなまりを加
味して「しゃこう」と呼び、なおかつ一生を一日と考えれば、50代を午後3時ころの斜
めに射す太陽の光に照らされた時間、「斜光」とした訳です。
 実は創刊号は「斜行」でした。人生はあちこちと迷いながら生きると自覚しての名称と
して田村さんが推し、「斜光」を推た私が敗れました。それはちょうど、このホームペー
ジの名称である「言の輪」と「ニューロン・カフェ」の攻防と同じものでした。
 しかし斜光第10号に至って、今回の(*落書き帳)「掲載拒否」の雰囲気が流れ始め、
例のごとく個人の自由を制限するようなことには我慢ならない田村さんと私は「斜光」と
袂を分かつことになり、今は「同人α」を立ち上げてそれを主体に活動をしています。

◆それにしても「言の輪」に投稿する人達のエネルギッシュなことには驚かされます。
「村のはずれの船頭さんは ことし六十のおじいさん」などと歌っていた幼少の頃は本当
に六十歳と言えばおじいさんに見えたものですが、皆さんは前期高齢者と言われようと難
しい問題に挑戦して真理を探求することを厭わないという、なかなかの強者揃いでありま
す。




同人α19号合評より  2008/9/27 (旧同人α掲示板)

 遠藤周作の「沈黙」という本がある。病気や迫害などで苦しむ信者がキリストに救
いを求めるが、神は奇跡をおこして民衆の直接の苦痛を解決してはくれなかった。た
だ苦しむ人達の話を最後まで静かに聞いてくれたいう内容である。それはとりもなお
さず肉体的な苦痛よりも精神的な苦痛に真剣に向き合ってくれたということである。
遠藤周作はキリスト・神の行為について深くて重い思索をしている。
 じつは私達数人が「斜光」や「同人α」をつくった原点が、現役から離れた時社会
への参加の機会が減ってくる寂しさをどのように克服するかということだった。それ
は少なくとも仲間うちで絵や音楽や創作という自己表現を通して認め合うということ
で、人間としての存在感を確信する所にあるのではなかろうかと考えたのである。そ
れが「斜光」や「同人α」というものだった。
夕子もこれから社会のなかで自己表現できる場所と、一人の人間としての存在を認め
られる何かを見つけられればいい。





「ペンネーム考その2」より  2009/12/6

同人誌「斜光」を立ち上げてからまもなく、ペンネームは是か非かという一大論争に
なった。私はペンネームOKの論を張り、もう一人は駄目という。そこには「斜光」
が同窓生を主体とする同窓会誌であるという認識があったらしい。だから本名で書か
ないと作者が誰か判らず、読む気がしないという。私は資金的にも公の同窓会に寄る
ところもなく、自立しているから完全な同人誌である、読むか読まないかは作者を知
っているどうかではなく、内容が面白いかどうかの問題である、と主張した覚えがあ
った。たとえ彼の言うことに百歩譲ったとしても、個人名を「和彦をかずひこ」とか
いても「シズエをしずえ」と書いても、それは戸籍に載っている通りの名前と違うと
いう言い分に至っては、パラノイア的な極端さを私は感じた。そう言う人は同じ思想
や出身や年代の集団に固執し、多様な価値観を認める開放性に乏しい人だと言わざる
を得ない。
結局は編集委員会の結論として、ペンネームを禁止はしないが、出来るだけ本名で書
くようにしようという、玉虫色の結論で決着したのである。
その時私が主張したのは、人はその時々で自分の気分に合った着物を着て楽しむよう
に、人間の複雑な心模様のもとに創作する文の作者名も、本名と別な思い入れのもと
にあっても良かろうという論法であった。確かに私達が創作ものを主体に本を作ろう
としたことにたいして、 同期生の動向を主体にする「情報誌」として考えるという
目的の違いがあったのだが、 最終的に「斜光」は同窓生の情報誌に近くなり、私は
「斜光」と別れて「同人α」という純粋な同人誌に移行した。





「オブジェクション-1」より 2010/2/27 (旧同人α掲示板)

古賀さんと私は北島さんが言ってくれた様に、「斜光」の固定した組織、投稿資格他
の規則、「落書き帳」の検閲、更には暗黙の内での貢献度比例の発言の重さ等に閉塞
感を感じ、もっと自由にやりたいと思って抜けたのに、何故彼が今再び「斜光」と同
じ様な事を言い出して来たのか、理解に苦しみます」 (X氏)

私は「斜光」の組織や規則が嫌だったわけではありません。「斜光」以外の個人的な活動
を束縛されたから辞めたのです。規約や細則には24時間「斜光」に奉仕しなければなら
ないとは規定してなかった。また規定してあったからといって個人の自由な時間の行
動を拘束するようなものであったら、初めから参加しなかったでしょう。





「決別の賦」より 2010/3/21

◆15年前設立した「斜光」と同じように、5年前に設立した「同人α」を掲示板封鎖
という形で以前の仲間の元から去らねばならなくなった。そこに相容れぬ志の違いが
あったが、私は両方の同人誌に私のできる精一杯の役割を果たしてきたつもりである。
しかし志半ばにして別れなければならない悔しさは、長くない私の人生に消すことの
できない悔いを残すであろう。石もて追はるるごとくと唱った啄木の詩「ふるさとを
出でしかなしみ 消ゆる時なし」や、理想主義は敗退しダブリンを石もて追われたシ
ェリーのように・・・。





「同人α問題」より  2010/4/1

Xさん
これはあくまでも私と貴女の個人的な繋がりと、忌憚ない見解を示すもので、北島氏
や東内氏にはこの文は送りません。

一時は長く同じ道を歩んできた貴女だったので、不満を残しながらも惻隠の情でもっ
て上手く納まると良いなと思いました。しかし亮子さんや貴女の最後のメールを受け
取って、私の考えも変わりました。まるで我々が横車を押して同人αを不法占拠して
いるかのごとく、早く精算して出て行けと言わんばかりの認識しかないことがわかり
ました。こちらは貴女が行動を起こした事について悪いとは決していってはいません。
しかしその原因を忖度するにおいて感情的な好悪を持ち出されると、やはり解決は困
難になります。

これはもう一度どのような問題だったのか総括してからでないと前に進めないと思
い、過去のログを読み直してみました。
「言の輪」上での私のオブジェクションその1からその8の最終回までと、貴女達の
投稿を読み直すと、これからの同人αをどうするかという議論の段階から、突然の3
月9日からおよそ15日までの間の一方的な貴女の行動により、同人αのこれからの路
線の議論から、同人αの存続や帰属の正当性の議論へと対処すべき問題点が全く変わ
りました。

蒸し返すのは嫌だと貴女に言われそうですが、過去ログをみて判断すると、貴女達は
新しい活動を目指して同人αを出て行ったとしか思えません。それは実に潔い行動だ
と思います。私もまた5年前10年間いた「斜光」を考え方の違いで出て行きました。
その時私がプロバイダとの契約者であった「斜光」のホームページも、そしてその外
の全てを残して来ましたが、潔く身を引いたことは今でも自分の行動に恥じるところ
はありません。それは残った人達が良いの悪いのといったことや、自分の立場の見栄
や勝負に負けたとか勝ったということを問題に出しませんでした(個人的には悔しか
った)。しかし自分の志をしっかり自覚して貫くことが自分の好きなことを実現でき
ると確信したからです。

Tさん、いろいろ述べてきましたが、過去ログから私なりに判断して、貴女はすでに
同人αのメンバーではないと考えました。しかし貴女のとった行動を私が非難して居
るわけではありません。ですが、そのように認識している貴女が未だに同人αのメン
バーであるごとく多数派工作までして、自分達の立場を守ろうとしていることが不思
議でなりません。もし貴女が同人αを出て行ったとすれば、同人αに対するその後の
意見は内政干渉であり、一方まだ同人αに在籍しているという認識であれば、同人の
発表の場であった「言の輪」を個人の物として持ち去り、同じ考えの人しか投稿させ
ないという行為は、他の同人や一般の投稿者にたいしてどのような釈明をされるのか、
明確な考えを伺いたい。

貴女ももはや一人ではなく同じ考えの人達がいて身軽に舵を切ることができないよう
に、私も同じ考えの人達が居ます。私もメンバーのなかには好きな人と嫌いな人がい
ますが、それを表明することがいかに不届きなことかを知っています。だからどうし
ても我慢が出来なければ、排斥するよりむしろ私が出て行くことを選ぶでしょう。立
場や名誉や見栄は関係ありません。貴女の行為の発端が好き嫌いの感情でもたらされ
た行為であれば、いつまで経っても現実的な解決は覚束ないでしょう。お互いに知ら
ないうちに不快な言葉で応酬していたかも知れませんが、事実を直視してどちらに理
があるか判断してください。

どうも厳しいことしか書けませんでしたが、これからも度々顔を合わせるでしょうか
ら、感情的に憎しみ合うことだけは避けたいと思っています。
余計なことですが、この文の根拠になった貴殿による投稿文を添付します。

離婚宣言  2010年 3月 9日(火)01時41分
北島さんは「一緒にやりたいならそう言って下さい」と元の莢に収まる可能性を匂わ
せて書いたけれど、私は「そう言って下さっても」もう一緒にやりたくありません。

お世話になりました    2010年 3月 9日(火)17時42分
私達と別れた後、まずは3人で同人誌を始められたらどうですか。こじんまりも嬉し
い物です。αという名称は、欲しいと言うのであれば差し上げますが、掲示板は娘に
聞いた所では、アドレスやパスワード他が全部私と娘になっているので、譲るのは無
理だろうと言って来ました。

新同人募集  2010年 3月10日(水)19時09分
先日離婚宣言した後は、将来の方向も徐々に決まり、楽しくなってきました。無残に
切り倒されたアルファの木の株から、小さな枝と春の若芽が出てきているのを見つけ
た嬉しさです。北島さんと私で、新しい同人を編成します。アルファ同人との仕切り
直しでなく、全く新しい同人になります。古賀さん、小柳さん、万理さんを除き、こ
の新しいグループに参加する方は北島さんか私に、その意図だけをお知らせ下さい。
方法は公の掲示板でも個人のメールでも構いません。

付記  2010年 3月10日(水)19時30分
「言の輪」とブログは今は私個人の物という認識で、ブログから3人のお名前は外し、
約束事は暫定的と入れました。合評は明日から一週間田之頭さん等、新しい体制が決
まる迄、当分今迄を踏襲します。

赤松さんへ   2010年 3月11日(木)09時18分
今後古賀さん、小柳さん、真理さんは暫く投稿をお控え下さい。
私は3月9日に同人αと離婚しました。辞めたのです。決してどなたも追い出したり
辞めさせたりしていません。私が出て行ったのです。「α」や「言の輪」の名称にも
未練はありません。3人の方々はどうぞ別に掲示板を立ち上げて、残った同人達と一
緒に頑張って続けて下さい。娘の手を借りないと何も出来ないPC 音痴の私と違って、
3人共それこそ十数分で出来る作業ではないですか。

今後   2010年 3月11日(木)22時50分
今日は映画の後、このためにわざわざ上京してくれた武藤さんも一緒に、今後の新同
人の進め方について、打ち合わせをしました。その中で古賀さんと小柳さんの投稿に
ついてどうするか聞いてみた所、ちゃんと警告してあるのだから、さっさと削除しろ
という意見から、いや彼らの言い分に反論したいからしばらく待ってくれという意見
があり,それも面白いからしばらく待つ事にしました。

今後   2010年 3月13日(土)18時06分
今日古賀さんからの別件の電話で、23号の発刊も含めαは別に掲示板を立ち上げて
続けて行きたいという話を聞き、私達は創刊号から始める事を自らに再確認した所で
す。脱会しておきながらいつまでもαの名を掲示板やブログに残して置くのは申し訳
ないので、取りあえず新しい同人名が決まる迄、仮称βとしました。





「言の輪」 2011/10/25 (戯評)

小学校の同窓会  投稿者:X 投稿日:2011年10月24日(月)23時45分17秒
それからしばらくして「斜光」を作り、それを皆に衆知させる為に、せっせと同窓会
で顔を売り、その後「言の輪」発行もあり、知らない方にまで気軽に話しかける事が
すっかり習性になってしまい、今に至っています。2つの冊子作成がなければ、今程
色々な人達とおつきあいする事にはならなかったでしょう。


◆おいおい、「同人α」をまず作ってその後「言の輪」を作って別れていったこと、
その同人αは未だに引き続き存在していることはすっかり無視してしまっている。
「斜光」を創った自分、今の「言の輪」の存在をことさらに強調するこの文は、いか
にも意図的・恣意的誹りを免れないだろう。
この人は生きるためにはプライドも矜持も良心も公正さも、精神的なものは全部肥だ
めに捨て去り、その中に落ちたハンバーグでも拾って食べて生きそうな動物的激しい
本能を持っているように思える。

831

 

小さな交流

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月14日(月)17時04分28秒
編集済
  .

             小さな交流





                              ゆるりん


ゆるりん朗読会  2010/11/8

土曜日S君と朗読会に行った。音楽をバックグランドにちょっと怖い話ばかり4話聞いた。
会場のクライン ブルーというパブ&ギャラリーは一度誰かの個展を見に来た覚えがあっ
たが、知り合いの誰のだったか失念した。
日時:11月6日(土) pm18:30~20:00
場所:KLEIN BLUE(クライン ブルー)
   東京都千代田区神田神保町1-7
◆ゆるりんリーディングナイトとは、ナレーターやラジオのDJとして活動している西原
 さおりさんと吉田美穂さんが結成した朗読ユニットであるとパンフレットには紹介して
 ある。http://yururin.com
  これは活動は澤田君も関係している、神田神保町のボランティアグループ「神保町応援
 隊」の活動の一環だと聞いた。
◆朗読の題:川端康成 心中
      阿刀田高   迷路
高橋克彦 母の死んだ家
星新一 ボッコちゃん
◆店の名前クライン・ブルーのいわれはイヴ・クラインという画家の好んで用いた色だという。

     クライン・ブルー

wikipediaによると
ヴ・クライン(Yves Klein, 1928年4月28日 - 1962年6月6日)は、単色の作品を制作する
モノクロニズムを代表するフランスの画家。アーティストとしての活動は晩年のごく数年
である。特に「青」を宇宙の神秘的なエネルギーに通じる最も非物質的で抽象的な色だと
して重用し、自ら理想的な染料を開発した。1957年に、黄金よりも高貴な青「インターナ
ショナル・クライン・ブルー」(International Klein Blue, IKB)と呼ばれる深い青色
(右の画像は近似色)の特許を取得し、ミラノで『イヴ・クライン-モノクロームの提案、
ブルーの時代』のタイトルで行われた個展で、この染料をキャンバス一面に塗布した青色
の絵画の作品群を発表した。また海綿で作ったレリーフや彫刻にIKBを染みこませ青色に
した作品も発表している。




ゆるりん 西原さん より 2010/11/9

 古賀和彦様
こんばんは。お返事が遅くなってしまいました。「ニューロン・カフェ」拝見しました!
ゆるりんのこと紹介くださってありがとうございます。厚かましくお返事してしまいまし
た。古賀さんの作品、読んでます。すてきです。たくさんの物語があって、わくわくしま
すね。ニューロン・カフェ。わたしも書いてみたいです。なんて。さて、音楽ですが、一
部わからないところがあるので当日音響を手伝ってくれたスタッフさんに問い合わせてい
ます。リストが届いたらまたメールいたします。それではおやすみなさい。




西原さん朗読  2010/11/9

西原さん朗読の「夢十夜」を YouTube で私も聞いた。
子供や大人の声の使い分けが流石にうまい。朗読の速度がゆったりとしていて、じっくり
と話の内容に引き込まれるのである。
読書で感じるものと朗読でのものとの違いは確かにあり、読書では理が、朗読では感情に
強く響くようなな気がする。
もともと文で書かれたものにひとの声で語ることが感情というものを新たな要素として加
えるためか。確かにwikipediaでは「朗読とは、声を出しながら文章を読むこと。「音読」
ともいうが、「朗読」には感情をこめて読み上げるという意味あいも含まれる」とある。
これはたしかに別の芸術の誕生のようでもある。たとえば絵に触発されて小説になるとか、
小説を題材に絵をかくとか。あるいは全く違う思想が芸術運動を生むとか。確かに斎藤隆
の「声に出して読みたい日本語」の中で広沢虎三の「石松三十石船」や「白波五人男」の
一節を朗々とうなる心地よさは確かに否定できない。
また、歴史を通じて、文学の享受のされ方は、黙読よりも朗読が中心であったとされてい
る。識字率の低い社会では特に読み聞かせが重要となるが、19世紀のイギリス中流階級の
ような教養のある家庭でも、小説や詩の朗読は家庭内での娯楽の一環として確固たる位置
を占めていた。 wikipediaより
以上これを契機に色々と勉強した。そして、余計なことかもしれないが、西原さおりさん
に詩や文を書いて自分の作品を朗読されることを期待したい。




BGMリス  2010/11/10

 古賀和彦 様
こんばんは。大変お待たせしました。「Mystery」のBGMリストができましたので添付いた
します。「迷路」に使用させてもらっているアルバムはリュート・ギター奏者の菊地雅樹
さんのオリジナルです。一緒に舞台を経験させてもらったこともあるすばらしい音楽家で
す。菊地さんのリュートもヨーヨー・マさんのチェロも音色がもの悲しいので、今回の作
品にはぴったりはまったのでは!?なんて思っているのですが・・・いかがだったでしょ
うか。ではではおやすみなさい。   ゆるりん 西原

ゆるりんリーディングナイトVol.2「Mystery」BGM リスト
“心中”(効果音集から使いました)
“迷路”シャコンヌ/菊地 雅樹リュートによるシャコンヌ集
1.Chaconne in G minor
2.Passacaglia in D
3.Suite in A Ⅰ.Allemande
14.Chaconne in D minor BWV1004
“ボッコちゃん”
 ベスト・オブ・ベスト/クラシック・ピアノ
 DICK 1
15.ジムノペディ 第1 番 サティ
3.泉のほとりで リスト
 “母の死んだ家”
  THE BEST OF YO-YO Ma
 6.ヴォカリーズ(プレヴィン) Vocalise for Soprano, Cello and Piano (1995)
 2.「ボヘミアの森から」op.68~森の静けさ(ドヴォルザーク)
ベスト・オブ・ベスト/クラシック・ピアノ
 DICK 4
 4.シチリアーノ(J.S.バッハ,ガルストン編)
 5.トッカータ(ホ短調)(J.S.バッハ).
6.ヴォカリーズ(プレヴィン) Vocalise for Soprano, Cello and Piano (1995)
《最初と同じ曲》



ゆるりん 西原さんへ  2010/11/10

私の作品を読んでいただいてとてもうれしいです。私たちは無名の素人集団ですが、自分
の存在の目的、価値などの疑問に対して常に興味を抱いて、解明しようと努力しています。
だから自分の頭の中で思考して、そして文字に表現して確かめ合っています。
私達の年齢になると社会のシステムから身を引いて、静かな生活を営まれている人達が多
いと思いますます。そして第一戦で活躍した人も今は自分を評価してくれる場がなく寂し
い思いをしている人を見受けます。だから私は50歳を過ぎたころに、我々がそういう立
場に立ったときの表現の場を作らなければならないと思いました。
もうお気づきかもしれませんが、15年前に作った「斜光」という同人誌は私の出身高校の
同期を主体として作りました。しかしそれが同窓会誌的になってきたところで、創作を主
体とした本当の意味での同人誌を作りたくて、そこを脱会しました。そして同人αという
新しい同人誌を作りました。会員20数名になったところで、またまた考え方の違いで脱
会して行く人があり、今は7名で運営しています。ブログの規約を読んでいただければ明
記していますが、出自、年齢、人種、思想、信念は一切問いません。
ちょっと宣伝になりましたが、最後に私の詩を紹介させてください。作品集の第11号「選
択」のなかの「「シリーズ・歪んだ風景-岐路(きろ)」です。この詩のなかには春夏秋冬と
いう時間の移り変わり、その季節季節の花と香りと音楽を取り入れたという盛りだくさん
の欲張りなものです。舞台はロミオとジュリエットの舞台となったイタリアのベローナと
いったところでしょうか。最後は男と女の別れを示唆しています。
それからBGMを挿入していますが、本当は場面に流れる音楽がセットできればよかったの
ですが、残念ながら技術的にできませんでした。西原さんの評価は如何?
お忙しいようでしたら返事は不要としてください。とにかく「ゆるりん リーディングナ
イト」のBGMの資料ありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。






                            西澤老人


西澤さんからの手紙  2012/3/6

 今日山荘に引っ越すために書類棚の整理をしていたら懐かしい手紙が出てきた。差しだ
し人は碁敵(ごがたき)の元R大使だった西澤老人だ。なんとも先輩としての、い
や子供への心配りのようなその書面に私は今更ながらほろりとした。父の回想録を進呈し
て「大したお父さんだ」という感想をもらったり、東京を離れるときは自分の創った漢詩
を書いた色紙を持たせてくれたりしたものだ。あの寡黙で気むずかしい風体の老人と親し
くしていたのは私だけだったかも知れない。しかし今、その当時は届いたこの手紙を読ん
だという記憶はまったくなくて、今更ながらこういうやり取りをしていたとは少々驚きだ。
 ちなみに西澤老人は私より20歳は年長の人で、その当時は普通の囲碁仲間として付き
合っていたが、実は偉い人だったのだ。

西澤氏:大正一桁生まれ. R大使. N大使(1980年代)従三位叙位 (平成)
 その手紙の内容によると、12年前都落ちして寄食していた母の住む田舎から出した手紙
と、「都市と田舎の狭間で」を書いた「斜光」第5号を送った時の返事らしい。



拝啓
 お手紙とエッセイ拝見しました。少なからず敗北主義的な匂いがあるので心配です。兎
にも角にも佐賀は貴方が少年時代を過ごした故郷でしょう。当時に較べれば簡易でも水洗
便所ができ、電気冷蔵庫も洗濯機も、カラーテレビもある現在は格段に改善されています。
ムカデや蜘蛛やはいるかもしれませんが、昔に較べれば格段に減っている筈です。これか
らも家の内外の状況が改善されれば益々減少するでしょう。幸いに貴方は建築設計の知識
と技術があります。少しばかりの工夫と日曜大工の労力を惜しまなければ、収納場所も増
え、便利で使い具合のいい、皆に喜ばれる改良も困難ではないでしょう。
 アメリカの私の娘夫婦の家も築百年の寄木造り(柱のないツーバイフォー?)の建物で、
前の所有者は共有者が互いに喧嘩していた由で、大きくはあるが手入れはまったくされず、
穢くて荒れ放題でどうなることかと心配していましたが(それだから安く入手したので
す)。婿殿は十五年の日曜大工の結果、見違えるように綺麗で使い安くなりました。保険
屋によれば評価額は三倍位になったそうです。
 ガラクタ類も棄てないで工夫すれば厚生利用も可能でしょう。また使い道のある人に進
呈すれば喜ばれて交際も楽になるでしょう。近所の人のお節介やきは貴方に対する関心の
現れです。魑魅魍魎の音に聞こえるのは、蟲や鳥獣の鳴き声で、暴走族のバイクの音に較
べれば何程のこともありません。馴れてきまます。ネオンの光はなくても、満天の星を仰
げるでしょう。
 私の記憶では、和泉式部は逞しい女性であったような気がしますが、いずれにせよ、水
洗便所も洗濯機も風呂もシャンプーもなかった平安時代の女性は、貴族でも不潔で臭くて、
物の怪や呪術に恐れ脅えてあれな人達であったのです。それに較べれば現代の人達は格段
に恵まれています。また更に良くなる展望をもっています。
 兎に角、敗北主義は禁物です。斗いを避けてはいけません。当面は居直って何事も前進
的に考えて下さい。必ず道が開けるでしょう。東京へ逃げて返ってはいけません。それで
は東京へ帰っても何も良くならないでしょう。心配です。田舎でも充分暮らして行ける自
信をつけてからの上京なら、それなりに再起可能でしょう。頑張ってください。
 老婆心からついお節介な忠告で失礼しました。お容赦ください。

8月31日
古賀和彦 様                    

794

 

男と女

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月13日(日)20時25分18秒
  .



                        男と女




    作品の中にも掲示板の中にも、男と女のドロドロ、かけひき、情愛、
    といったものはほとんど出てこない。鈍色の世界、狭間、この範疇
    にも該当しないようだ。著者にとっては男女のことは秘密の小箱入
    りのようである。記事の中からやっと拾い出した。





男女の差違について

面白い話題なので、以前「斜光」にこの問題について書いた拙文を載せます。
男と女の生物学的差異については多田富雄著「生命の意味論」によれば、女の染色体はX
X、男の染色体はXYであるが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、人間
はもともと女になるべく設計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝子で、
血液凝固・色覚・免疫細胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に男をつ
くるためだけの遺伝子らしく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫で長持
ちするようにできているのである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男でも女
でもない状態であり、基本型がきまってから「夏目漱石曰く『でも・しか』すなわち男に
でもなるか、男にしかなれない」などといった程度のもので、Y遺伝子のためにむりやり
女の体を加工して男にさせられた結果だという。だからアダムの肋骨からイブが作られた
のではなくイブ(女)からアダム(男))が作られたということである。
だから今でもかみさんに頭があがらないのであります。
2007/12/20(木霊)






「性についての雑考 の感想」より

 私としては今更我が性について改めて考え直す気はない。もともとこの手の話題は苦手
で、時代に取り残された部分をまだ心の片隅に潜める方だから、あまり興に乗らないので
ある。また渡辺淳一の小説は一偏も読んだことがないから、彼がどのような高邁な考えを
お持ちか知るよしもないが、ここに書いてあるようなことを訳知り顔に、くだくだと述べ
て一般化することはおこがましいと考えた。
 エロチシズムはもともとどういう言葉であるかを辞書で引くと
 「愛の神エロスに基づく。本来は精神的な愛を意味する」
  (1)愛欲的・性欲的であること。好色的。色情的。
  (2)芸術作品で、性的なものをテーマにしていること。官能的であること。
とあり、私はむしろ原点に戻って精神的な愛を含む性的なものと考えた方がいいような気
がする。だからブログ写真の作者ように何かを求めて彷徨う姿や、コメントの物語のなか
にほのかなエロチシズムを感じるのである。

2009/4/7(旧α掲示板)





「色模様 を読んで」より

◆ブログの写真を見て
 O-chanは不思議な人である。まるで剣客塚原卜伝の「無手勝流」の使い手のよう
 に、一見隙だらけのように思えて観客をハラハラさせるが、結局は己のなすがままにち
 ゃっかり勝利を手にしているという希な人である。
 その姿もクレオパトラか楊貴妃か藤原紀香のように傾城の美女という訳ではないが、男
 の心を惑わすような妙な魅力が備わっていて見飽きない。女優でいえば「足ながおじさ
 ん」に出たレスリー・キャロンか、「アパートの鍵貸します」のシャーリー・マクレー
 ンあたりだろうか、好き嫌いは別として・・・。

◆さて本題の「色模様」の感想を書くが、一言でいえば信子の「心模様」を見事に書きき
 ったもので、いよいよ私好みの「純文学」の世界へ入ってきた作品と言えよう。何が「娯
 楽小説」でなにが「純文学」かは人によって解釈が違うようだ。だからこの問題は微妙
 で一筋縄ではないようだから、こうであると今私が断じることはなるべく避けたい。参
 考として先日朝日新聞2009/3/25の「文芸時評-「結末」の問題-齋藤美奈子」はこう
 言っている。
 娯楽小説と純文学の相違は議論のつきないテーマだが、両者には明らかに感触の違いが
ある。何を描くか(what)に力点があるのがエンタメ系、表現の仕方、すなわちいかに
描くか(how)に力点があるものが純文系、を目安に考えてきた。だが最近、別の定義を
思いついた。
 起承転結全てが揃っているのがエンタメ系、起承転結に拘らない、あるいは起承転結を
壊すのが純文学。ときには着地を決めずに、マットの上でコケる。あるいは着地寸前でト
ンズラしてもいいじゃないか。
 強引に起承転結の揃った「出来のいいお話」、美しい結末に回収される物語はそこで終
わり、あとに引きずるものがない。
◆そこで「色模様」については、足を絡ませたり。耳を噛んだり、指を絡ませる等の肉体
 の接触で男女の関係を表しているが、この辺は通俗小説じみている。しかし「私が首に
 なって路頭に迷ったらあなた面倒見てくれる?」の会話における男と女の心理が面白い。
 男は自分の立場上不可能なことだと必死で説明し自分を守ろうとする。女は無理だと判
 りながら「安心しなさい、ずっと面倒見てあげるよ」という言葉だけでも言ってもらう
 ことでふっと湧いた不安が癒されるのである。そのへんの機微が男には判らない。私も
 細君にそのような問い掛けをされたとき、真剣に理屈をくどくど説いて、答えを出そう
 ともがくのであるが、「女の気持ちがちっとも分かっていない」「言葉は只、慰めを言
 わない手はない」などと叱られるのである。世間を見ると「歯の浮くような」言葉をよ
 くする男の方が、女性を幸せにするのかもしれない。だが私みたいな朴念仁にはなかな
 か出来ない辛い仕事である。

 男と女の繋がりは、一緒に側に居たい、それが心地よいと思うかどうかの問題で、不倫
だろうとなかろうと当事者以外が問題にするようなものではないと私は思う。男も女も今
の相手と違った魅力の人々が一杯いるわけだから、それぞれの人を好きになってはいけな
いという倫理感は、他人に押しつけるべきではない。そういう面での信子の生き方には、
決まり切った世間の通念に囚われない心の自由を感じる。だから今の彼との間に何らかの
束縛感を覚えたとき、信子はすんなり別れてしまいそうな気がする。
この小説は、そのような結論の出ない、たゆたいのなかの信子の暮らし振りが非常によく
書けていると私は思う。また筋の纏まりもよく一人称で語られているので人間関係も判り
やすい、よくできた作品と私は思う。

2009/4/20   (旧α掲示板)





「*沈みゆく家 第六回 合評のお礼その4」より  *同人α19号
http://2style.in/alpha/19-10.html

1.「少女特有の希望といわれない不安」という一文が思わず大きな話題になりました。む
 しろ私の考えを早めにお答えするよりは、皆さんの侃々諤々の討論のままにした方がよ
 かったのではないか今は思っています。
 性差の違いは空間把握能力や言語認識能力などで違うといわれていますが、私は基本的
 な思考力や感覚においては、大きな性差はないと思っています。確かに子供が産める、
 産めないといった肉体的な差異や、社会的な環境において男の生き方、女の生き方とい
 った、長い年月をかけた刷り込みがあったのは確かで、そういう傾向をまだ引きずって
 はいるのだから男と女の違いの考えがあるかのごとき言葉を使ったことを反省している
 訳です。
 もし、性差による大きな思想や感覚の違いがあるとすれば、その謎は実に魅力的で、イ
 マジンさんの言われる「女性の神聖」は解き明かしたい衝動にかられます。実は私も少
 年のころにはそう思っていたふしがあります。お隣のホームページ「木霊」で企画され
 た「七夕様へのお願い事」に「二度生まれ変わりたい、一度は女性に、もう一度はその
 結果をみてどちらかに生まれ変わりたい」と欲張ったお願いをしました。でも今は同じ
 人間としての基本は変わらないと思っています。

4.柴田翔の「されどわれらが日々」の優子のセリフが少女特有の心理を表現しているのか、
 いつか読んで考えて見ましょう。

2009/8/6 (旧α掲示板)





*◇評者 ◆著者

「*鈍色の空 合評のお礼-1」より *同人α23号   http://2style.in/alpha/23-3.html
万理さんへ
懇切丁寧に読み込んでくださって有り難う。以下設問に応じて・・・というより何がなに
やらとりとめもなく勝手に話を進めさせていただきます。

◇1から遡って読んでみると、様々な女性が出てくることに改めて気づかされた。のこと
について

◆今まで女性との関係を詳細に記述することがありませんでしたが、今回はそのことを意
 識して描きました。私はとにかく若いときからいままで女性にたいする定見を持ち得な
 かったので、むしろ性別を超えた独りの人間として接しようとしてきたと思っています。
 若いときは女性をすべて自分を超えた存在として、憧れの目で見ていたようです。想念
 の世界でアリサやレナール夫人に思いをはせても、現実の世界ではそのような純粋な思
 いが持続するとは思えませんが、人は未だにそれを求め、文学や演劇や映画の世界に浸
 るのでしょう。実際はほとんどの人生においては、逃れられない些末な雑事がほとんど
 の時間を支配していて、夢見るような幸せな恋心だけでは生きては行けないことはとっ
 くに判ってしまいました。

2010/6/25



「鈍色の空 合評のお礼-2」より

神野佐嘉江さんへ
◇「著者のポートレートとコメント集」を見たよ。近影かと思ったら数十年前 のだとい
 う。驚いたね。古賀君は昔も今もちっとも変わっていない。ただ、 ジーンズの前の辺
 りの紺が濡れ色だね。するとこれはおもらしか。それなら 近影と思えなくもない(笑)。

◆「ゆき」の中の「ゆきこ」との道「ゆき」は唯一次郎の女性にたいする微妙 な心の動
 きを詩情として感じていただき非常にうれしかった。その1から最 終回までを通じて
 これが書きたかったといってもいいでしょう。「じろうさん、じれったい」といみじく
 も長岡さんが書いたように、遠くばかり見ている次郎の女性にたいする晩成の性格を表
 し、内省としての記述はしませんでしたが揺れ動く若い次郎の心情が表現出来ればいい
 と思いました。

2010/6/26



「鈍色の空 合評のお礼-3」より

長岡曉生さんへ
◇これら全てが鈍色である。とは言え、この尾形の肺炎が、後段の主人公とゆきことの間
 の、かそけき思い出を作る一つのきっかけに成って居るのが、また作者らしい巧みな話
 の進め方と言える。

◆高揚感と現実のままならない憂さとの対比は長岡さんのいうように出来るだけ前後して
 際立たせました。人は何かのきっかけを作っては心の中の澱を希薄しようと試みます。
 私は酒を飲んで憂さを晴らすというと思ったことは一度もありませんでしたが・・・。

◇敢えて交情と書いたが、作者は常に露骨な表現を避け、対象とは距離を置いて淡々と描 写している。これは、作者が持つ想念世界への憧れとそれがもたらす一種の潔癖性なの か。それとも、そのような作中文体に表現を限ろうとする、意図的試みなのだろうか。

◆お礼その2で書いたように私はロマン主義的な傾向があり、「誰かがそれを」のなかに
 出てくる「入れ歯」とか「生理」とか、あまりにも直接的な露骨な表現を避けるきらい
 があります。事実ではあるがあまり余韻のないものを、いかに別の言葉に置き換えて表
 すかはいつも推敲するところで、直截的な言葉や一般に多く使われているものに対して、
 安易に使用して済ますことを厭うからです。これは個人的な趣味の問題かもしれません。

2010/6/27

777

 

「詩学」/西脇順三郎

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月12日(土)04時19分24秒
編集済
  .

            「詩学」/西脇順三郎  2011






詩学をよんで-1

先日、北君から借りた西脇順三郎の「詩学」を今読んでいる。西脇といえば日本に於ける、
我々が目指す「オキシモーラン」のメタファの先達だと認識している。

西脇は「詩学は自然科学や社会人文科学とは根本的にその性質が違う。『詩』というもの
は科学の対象になるものとその性質が違うということである。
『詩』は純粋に想像された世界である。だから詩学というものもみな想像されたものであ
る。想像された超科学的なものを科学として解明が出来ない。それ自体矛盾である。」と
書いてある。
そしてさらに「『詩』という言葉にはそれ自体二つの違った意義が含まれている。内面的
な意味と外面的な意味に分けることが出来る。それで内面的な意味の時は、私は『ポエジ
ー』という名称を付けたい。それは詩の精神とか詩作を読んだときに感じた意識としての
情念である。
外面的な意味のときは私は『詩作』(詩の作品)という言葉を用いることにする。それは
一定の韻やリズムなどの形式の作品をいう。『詩学』という意味に私はポエジーというも
のは何であるかを学ぶという意味である。」とまずその本の序に書いている。
2011/11/24





詩学を読んで-2

さて、西脇順三郎の「詩学」の要点を表題ごとに纏めてみようと思う。そうすればきっと
私の頭の中でその課題に対する分析と理解が増すであろう。私はいままで感銘を受けた本、
たとえば最近ではマイケル・マンデルの「JUSTICE」やアラン全集などを自分なり
に纏めてみたことがある。その結果、一回の読書では半分も理解しないで読み飛ばしてい
ることがほとんどであることが判った。世で言う速読や、一月に50冊読んだという自慢
げな多読者に比して、私の読書は遅々としてはかが行かないので、そんなに知識量は期待
できない。その代わり一つのことを反芻して行くうちに、いままで難しかった学説や理論
や用語の意味が突然実感として理解出来る時がある。まさに理論が情念と一致する「悟り」
となるのである。
2011/11/25





詩学を読んで-3

3-偶然
「偶然」ということは神学とか宗教家の間で言う神の世界、絶対の世界、永遠の世界に対
立して有限の世界、自然の世界、人間の宿命の世界を「偶然」という。
ポエジーはボードレール的に考えれば、精神と肉体との対立の上に立っている。この見地
からすればポエジーは無限と有限との結合の上に立っている。精神を認めると同時に肉体
も認めなければならない。ポエジーは非常に肉体的でなければならないと同時に非常に精
神的でなければならない。ポエジーは「アイロニー」であり、矛盾である。

そういえば止揚という哲学用語があった。wikipediaによると、
ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二
様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した。つまり、古いも
のが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古い
ものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論
が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考
の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。
国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方と
は異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

ポエジーは「アイロニー」という意味は、現実の世界と絶対世界の対立、矛盾の狭間で苦
悩しながら遂には最も価値あるものに昇華されると言うことか。
2011/12/9





詩学を読んで-4

4-想像
ポエジイはいつも新しい関係を創作することによって人間の自然法則と現実をより深く感
じさせるという価値を持っている。すべての存在は関係的である。物質の原子でさえもプ
ラスとマイナスという方向の違った二つのエネルギーの結合から出来ている。

ピカソは「芸術というものは自然と違ったものだから、同じものになり得ない。芸術によ
ってわれわれは自然でないものの観念を表現するのだ」、また「私の場合は一つの作品は
破壊の合計である」ともいっている。
もちろん破壊されたことだけでも一つの新しい関係を結ぶことになるが、それだけではす
ぐれたポエジイではないだろう。その新しい関係が、なにかしら永遠という神秘的な意識
を象徴し、なにかしら哀愁を人間に感じさせなければ、それはすぐれたポエジイではない
と思う。
ポエジイが創作する思考は非現実(イレエール)ではあるが、そうした方法でなければ「永
遠」といったような神秘的意識やあの分析の出来ない哀愁という現実にふれることは出来
ない。ポエジイは感じることであって、理解するものではない。
詩作の目的は超自然または超現実の世界を創作することによってポエジイを人間に感じさ
せることである。

私の場合はこの超現実的創作に従えば、単に自然を写実するだけの具象画に興味を見いだ
せない自分がある。すなわち現代日本画や細密の写実画などの見られる、ただ物体の再現
を目指すもののなかに「アイロニー」や「シュール」さや「現実でない神秘的意識」「哀
愁」といったポエジイを表現していないとみえるからだ。
われわれが目指すオキシモーランの目的は、「現実の世界」と「想念の世界」の鬩ぎ合い
のなかで、理性では感じられない情感を表現することにあると思った。
2011/12/15

742

 

著者写真とコメント集/讃集3

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月11日(金)13時05分21秒
編集済
  .

            著者写真とコメント集/讃集 3
                                 2011/29号-2013/35号





     喧騒の一年を過ぎ、余裕がでてきたのか、古いアルバムからセピアカラーの
     写真もちらほら。著者が言うように「カマキリ」のような姿は、今からはと
     ても想像できない。
     一方、背景に手を加え想像の世界を漂う著者もでてきた。





『あした天気になーれ第五回』 29号
 2011/12/5

                         ニコライ堂
          

この写真は神田駿河台にあるギリシャ正教の「東京復活大聖堂」愛称「ニコライ堂」の南
門の前で、散歩の途中に立ち寄った時のものだ。数本の蝋燭が灯され、立てかけられた聖
像画は東ローマ帝国で用いられたビザンチンモザイク様式のようで、永い歴史を私に感じ
させたものだ。

しかしカラマツ・ジローやチキン・ジョージが、雄の三毛猫、朴歯の下駄、卜占、タロッ
トカード、占星術、はたまた雨男・雨女に頼るとしても、今回私は森の石松よろしく賽銭、
蝋燭代、弁当を用意してもらい、カラマツ・ジローの代参として、天気予報の確率を上げ
るために神様にお願いに来たのではないのである。

さてさて、細君との確執はますます抜き差しならぬ様子を呈してきたことに、辟易してい
ると聞くカラマツ・ジローはどこへ行ったか。チキン・ジョージと例のガード下の薄汚れ
た屋台で、昼間っからモツ煮込みを肴に芋焼酎でも引っ掛けて憂さを晴らしているのだろ
うか、 聖ニコライは知る由もない。






『あした天気になーれ 第6回(最終回)』 30号
 2012/2/11


          

引っ越しばかりしていたので、随分写真も無くしてしまったが、なんとか押し入れの中か
ら昔の写真を探し出した。これは私が高校生の頃我が家の庭の一角で撮った写真である。
年の離れた従兄弟とスピッツらしき白い親犬、犬小屋には一匹の子犬までがちゃんと写っ
ている。
このころより私は朴歯の下駄を愛用していたが、この下駄はどうも違うらしい。黒い鼻緒
の桐の下駄で親父のものではないだろうか。
帽子は白い二本の白線に二羽の鵲をあしらった金色の記章、いかにも間寛一のかぶる高等
学校の帽子そっくりである。セータはやはり鈍色のアラン模様のフィッシャーマンセータ
ーである。どうもこのころから「あした天気になあーれ」や「無限回廊」などという空想
癖の兆しがみられるようである。






『無限回廊 第七回』 30号
 2012/4/15


          

写真コメント               バード・ブレインこと赤松次郎こと古賀和彦
このころは日記も付けていなかったので何時の写真か判然としない。髭をたくわえている
からおおまかな時代は判りそうなものだが、髭にも口髭、顎髭、頬髭などのバリエーショ
ンがあって、それぞれその時その時気分次第で試みてきたから、その時期を特定すること
は非常に難しい。30歳初めからサラリーマンを辞めて、自由業みたいな生業だったから、
比較的やりたいことを気兼ねなく出来たということだ。48歳のころの高校卒業30周年記
念大会では髭面ではなかったから、たぶん40歳の半ばではないだろうか。

さて、今回の無限回廊は前の著者達のとんでもないプロットをいかに収拾をつけ、全体の
方向に軌道修正するかが技の見せ所だと思った。しかし書いてみると自分もまたとんでも
ないストーリーに魅せられて飛びまくった感じがある。まさに時間や空間や理屈を超え自
由自在に遊ぶことのできる合作の面白さを堪能してたものだ。






『窓辺にてーそして、それから』 31号
 2012/6/7


          

光と影の狭間で
たぶん大学二年生のころ夏休みに帰省した折、田辺(森)君と二人で九州一周の貧乏旅行
をしたときの写真だと思われる。大人になるまで偏食、好き嫌いが多く、腺病質、神経質
でカマキリのように痩せた姿が見受けられる。ここは霧島温泉の近くの丸太造りの山小屋
のようだ。たぶん韓国岳に登る前か後かの写真で、窓枠に座った足には草鞋みたいなもの
を履いている。未来は渾沌としていて不安に押しつぶされそうな思いに、いつも不機嫌な
顔をしていたようだ。






『シリーズ・歪んだ風景-鐵橋 第一回』 32号
 2012/10/9


            好奇心いっぱいの孤高の人
          

赤松次郎(古賀和彦) 讃

上の絵は2年前に書いた作品のイメージ画の一部です。脚本中 配役「11」です。
どんな似顔絵を描こうかと考えていたのですが、どうしてもこれに行き着きました。
遠い親戚らしいのですが、ほとんど会ったことも話したことも無い人です。同人誌を通じ
て、掲示板を通じて、赤松次郎がどんな人物かを想像している次第です。
人一倍の好奇心、これは他者及び自分自身、猫のジャンプ力から宇宙の謎にまで向けられ
ているように思えます。知りたがり屋は社会と接触しつつも、いつも孤独、一人。そんな
イメージがあります。
普通のおっさんかもしれませんが、そんなそぶりを決して見せない人でもあります。
                                  万理久利






『3304 シリーズ・歪んだ風景―鐵橋 第二回』 33号
 2012/12/24


          

結界
 二つの川とそこに架かった二つの鐵橋は、その街に住んでいる人が皆感じていたかど
うかは判らないが、空間的にも心理的にも私にとって結界であった。

 結界とはwikipediaによると、自然崇拝である古神道の影響を受けた仏教、密教であ
る山岳信仰でも用いられ、修業の障害となるものが入ることを許されない場所や土地に対
しても用いられる。
  この他、生活や作法上注意すべきなんらかの境界を示す事物が、結界と呼称される場合
もある。作法・礼儀・知識のない者は境界を越えたり領域内に迷いこむことができてしま
い、領域や動作を冒す侵入者として扱われ、無作法または無作法者と呼ばれる。
また、日本建築に見られる襖、障子、衝立、縁側などの仕掛けも、同様の意味で広義の「結
界」である。商家においては、帳場と客を仕切るために置く帳場格子を結界と呼ぶ。

 結界の内に守られた少年時代から結界の外へ飛び出していく私にとって、なにか想像
も出来ない危険に遭遇するか、それとも幸運のもとに己の人生が開けるのか、大いなる不
安とそれ以上の希望が同居する冒険と言っても良かった。
 再び結界の内側に戻ったとき、そこには知己の面影を見て同胞としての安心感を覚え、
一方屈辱、劣等感、苦しみに苛まれた過去の自己嫌悪もまた同時に思い出し、過去と現在、
異境と故郷、夢想と実感、静と動、継続と断絶、饒舌と緘黙、絶望と希望、永遠と一瞬、
安住と放浪等々、様々な「意識の流れ」に押し流されそうだった。






『 無限回廊 第十回』 33号
 2013/1/23


             宇宙戦艦大和艦長
          

バード・ブレインの初夢
super sybogのバード・ブレインはあるとき、太陽系第三惑星の消滅する前に14万8千
光年の彼方のイスカンダルへ放射能除去装置コスモクリーナーDを求めて宇宙戦艦大和
の艦長となって旅立つ夢を見た。パワー・イーターの完成が間に合わなかっこと、最終兵
器であるリターン・パスの全世界の国々への設置に遅れが生じたこともあって、一部の国
の争いで核爆弾によりガイアの人々に放射能汚染の危険が迫ったためだ。これらの預言は
既にモノリスに記録されたものである。






『シリ―ズ・歪んだ風景―鐵橋 第三回』 34号
 2013/3/26

           変装前        変装後

          

変幻自在
オキシモーラン的ポートレートとコメント-解離性同一性障害(多重人格)の悩み

変装前(結界内):
善意無過失、無毒無臭、誠心誠意、青天白日、正当防衛、精力絶倫、
精励恪勤、清廉潔白、是々非々、切磋琢磨、千思万考、全力投球
人様から後ろ指を指されないように謹厳実直に世間を渡り、常に和を重んじ体裁を繕う。

変装後(結界外):
青息吐息、悪衣悪食、悪逆無道、悪戦苦闘、阿修羅道、悪漢無頼、
悪口雑言、阿鼻叫喚、阿附迎合、阿諛追従、阿諛便佞、暗送秋波
善意の底に沈殿する悪意に敏感故、露悪趣味に徹して世間を笑う姿は、
まだ髪と髭は黒々としていた四十五歳頃の私で、まるで数十回も別荘
を出たり入ったりするどうしようもないラッキー・ルチアーノみたいな
悪党面だ。当時このような姿でクライアントと設計の仕事の打ち合わ
せをしていたかと思うと冷や汗ものである。






『シリーズ・歪んだ風景―鐵橋 第四回』 35号
 2013/6/9


          

笑顔が一番
 XとY川に挟まれた結界の中で暮らした小さい頃の写真を探したが、引っ越しの度に少
しずつ無くしてしまい、今ではほとんどそれらしいものは見当たらない。
 これは竹ひごと木の胴体と和紙を使って作るゴム動力で飛ばす模型飛行機である。当時
私はこの遊びに嵌っていて、放課後は道一つ隔てた大学のグラウンドで近所の仲間達と暗
くなるまで興じていた。今の時代と違ってみんな質素な暮らしの子供ばかりであったが、
じつに楽しそうである。
                古賀和彦(赤松次郎、バード・ブレイン、本郷淳吾)

726

 

著者写真とコメント集/讃集2

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月10日(木)22時37分10秒
編集済
  .

          著者写真とコメント集/讃集 2
                               2010/23号-2011/28号





    23号から、古賀氏自らが立ち上げた著者のポートレート専用のブログ
    に、画像とコメントを掲載・保管することになった。 自画像の中には
    化身と思われるものがいくつか見られるが、どれが化身でどれが本体か
    区別がつきにくいものもあるようだ。





『鈍色の空-その3(最終回)』 23号
  2010/6/14


          

半世紀前の「真昼の決闘」・「友情ある説得」のゲイリー・クーパーや、「駅馬車」・
「静かなる男」のジョン・ウェインのように、まだ男が男らしく、女が女らしかった時代
が懐かしい。

これは単なる懐古趣味だけの感傷からではなく、この時代の映画の中の主人公は物事にた
いして心の内になにが正しいかを的確に判断する目を持っているように思えた。その人達
はそれに裏打ちされたゆるぎないプライドや自負が、何とも言えない品格を創り出してい
た。詭弁や策略といった小細工で下らぬ意地や面子を守るためにだけ行動したりせず、理
にかなった主張のもとに攻めるべき時は果敢に攻め、引くべき時は清く引くという、じつ
に清々しい堂々とした生き方をしていたものだ。

残念なことに昨今は、自分の言葉と行動が一致しなくても良心が疼くこともなく、プラ
イドを投げ捨てても何の痛痒も感じない人達がいる時代になってしまった。 感情でなく
「理正(りせい)」で「万理(ばんり)」の本質を突き詰めて「神野(かみの)」領域に
あるかもしれない、「よりよきもの」を志向するという、心のうちなる良心の鏡を持って
いるように見えるゲイリー・クーパーやジョン・ウェイン達は、いつの世になろうとも
「赤松次郎」の憧れの人物像であった。

などと数十年前にスキーで訪れた蔵王の山頂でのカーボーイの格好をした我が写真を見な
がらそういう妄想に駆られたのであります。






『無限回廊 第一回』 24号
  2010/9/11


          

これは近未来の物語、ありそうでなさそうな話である。どうせこの世の現象すべてを正確
に論証することが不可能なら、いっそのこととんでもない世界を作りたいと思った。しか
も作者は一人ではなく、いろいろの専門的な知識に精通した人がそれぞれの章を書き進め
るため、どこへ行き着くかも皆目わからない。だからいままで見たこともない世界を我々
に覗かせてくれるだろう。まずは序章をバード・ブレインが担当した次第だ。さあ皆さん
ファンタジックの世界、異常な世界、倒錯の世界など何が体験できるか好奇心を持って一
緒に出かけましょう。

写真は2月21日第22号出版の後の会議で同人α分裂の兆しを予感して分かれた後の記念
すべき写真。結果として同人αに残り、引き続き活動したのは次の四人であった。

左からグレイ・ブレイン(認識番号13):長岡曉生
真ん中がバード・ブレイン(認識番号11):古賀和彦
右にエヴァ・マリー・ゼノン(認識番号17):万理久利
サカエ・ル・カミノ:神野佐嘉江は後の登場となりますので、しばらくお待ちくください。
  バード・ブレイン記






『趣味と道楽の狭間で(狭間シリーズ1)』 24号
  2010/10/9


          

僕の周りには帽子の好きな友人が何人かいる。僕もその一人である。帽子の効用は夏の太
陽から暑さを避けることや、薄くなった頭を隠すこと、風から髪の乱れを守ること、頭部
保護、防寒などの実用的理由から、またファッションといったものまでいろいろある。

僕が被っているのはジョン・ウェイン主演の映画「アメリカ合衆国の特殊部隊・グリーン
ベレー」の帽子である。だからといって特別僕が軍国主義的な思想が好きというわけでも
ない。長い間自由業を営んできたのでラフな格好でも勤まったものだが、僕は自分の生活
が自堕落にならないように時々はネクタイなど締め、正装をして事務所に出かけたものだ。
その意味では、あるていどの規律的生活を厭うものではない。
実用的でなくても帽子を被る人達は、己の姿を別の人格に見せたいという無意識の願望
があるのではないかという私の考えは、また別の機会にじっくり思索してみたいと思って
いる。

僕は数年前友人のS君と誘いあわせて御徒町のアメヤ横町のガード下にある中田商店に繰
り出した。あるわあるわ、世界中の軍服や勲章や階級章など、戦前の軍国主義の時代に迷
い込んだような妙な気分になった。いくら何でもこのアナクロニズム的雰囲気にはついて
行けない。その後S君はハンチング帽ばかりで、その時僕はグリーンを、彼は黒を一緒に
求めたのだが、この黒いベレー帽を被った姿をいままで見たことがない。さてはあのアメ
ヤ横町への同道は僕のために多少無理をしたのかもしれないと今は思っている。

今回の「趣味と道楽の狭間で」は十数年前に同人誌「斜光」に投稿したもので、狭間シリ
ーズの走りという記念すべきものであった。しかし僕はこの帽子をいろいろ欲しがるとい
う行為は道楽とは言えず、趣味ともいえる実にささやかなものなのだと思っている。

==============================

この写真を見た感想は、確かに「人格が変わっている」ということ に尽きた。いや、と
言うよりも「飛んでいる」という感じを受けた。
しかも、以前にどこかで見た顔なのだ。それは、どこで見た顔だろうと考えている内に、
思い出した。
以前勤務していた研究所の公式テニス部のNo1の顔である。 長期に渡ってTOPの座を
保ち続けた強靱さと自信が形作った顔が この写真の中にそっくり再現されている。
これが、帽子が持つ魔力という物であろうか。
長岡 曉生

==============================

帽子はおしゃれの意外なポイントにもなるが、その他、人格を少し変えてみる、他人を戸
惑わす、そんな力をもつ有力な小道具だ。
筆者はおしゃれというより、後者の理由で帽子に惹かれているのかと思う。
私の母は帽子が好きで春夏秋冬お気に入りの帽子をかぶっていた。彼女の目的はただ一つ
「おしゃれ」。
そんな彼女の子供は全員帽子は苦手でほとんどかぶらない。それでも母の手編みの帽子一
つはみななぜか取っており、冬になるとかぶっている。
母の帽子と買って貰った帽子が手元にある。遅ればせながら「おしゃれ」で時々かぶって
いる。いや人格を変える目的かもしれない。あるいは顔隠し。
ベレー帽姿の筆者は確かにすごみがある。ベレー帽が彼の人格を変えたのだろう。
万理 久利






『明日天気になーれ 第一回』 25号
  2010/11/19

                     戦いに赴く赤松タロウ 認識番号11(早川篤史作)
          

古賀和彦さん 賛
このむつりだんまり遊び人がついに鎧をつけた。ただしこれは戦闘用らしい。
「無限回廊」のバードブレインか、「明日天気になーれ」のカラマツの象徴なのだろうか。
筆は重く、また姿を見ることもめったにない。探偵事務所に入りびったっているのだろう。
実にミステリアスな人間だ。天気予報サイトを立ち上げるそうだが、事務所には温度計・
湿度計・風向風速計・気圧計・雨量計・積雪計・蒸発計・日射計・日照計は一切ない。
朴歯の下駄だけが置いてある。 カラマツ ジローが怒ると敵地に台風を呼び込むそうだ。
こいついったい何者だ。目を細めてニコニコ笑っているジローの顔は仮面に違いない。
 竹内真理矢こと万理久利

= = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = == = = = = = = = = = = =

万理久利さんの「賛」、ありがとう。「酸」「散」「惨」でなくてよかった。
奇数日は「ゆりかごから墓場まで」に関わる病院、学校、ウサギ小屋、葬儀場などすべて
の建物を設計、ただし天国への階段を試みたのだが、途中でどう設計ミスをしたのか無限
回廊に迷いこんでしまった。だから当分引退して悠々自適の生活を送れそうにもないので
ある。
偶数日は湯島聖堂斜向かいの昌平坂探偵事務所で、浮気、家出人、行方人探し、素行調査、
迷子の猫探しと隠れた職業をこなしている。
今回は赤松次郎でもなく、バード・ブレインでもなく、そんじょそこらに掃いて捨てるほ
どいる気の小さいぼやきマンを主人公にした。カラマツ・ジローの姿は、有毒ガス・酸性
雨に満ちた外気から身を守るためブロンズの ヘルメット潜水帽、油くさい炎をはき出し、
ガチャガチャと金属音を発して悪さをするドラゴンのような、ブロンズのオーバーコート
を装備して、BMW ROCKETⅢTouring ('08)star 2300cc を駆使して移動するバード・
ブレインと違い、せいぜい人荷兼用600CCのジムニー愛用なのだ。
  古賀和彦






『晴れと褻の狭間で(狭間シリーズ2)』 25号
  2010/12/19


          

三十年近くも前の写真である。息子が二・三歳になったばかりで、着ているものから判断
すると、端午の節句に着る着物のようだ。写真をフォロー・パンすると右側のチェストの
上には武者人形が飾ってあるはずである。
この後、このマンションには二十年もの永きに住んだ。年齢と今までの引っ越し回数で除
すると2.3年に一度の転居、引っ越し魔のこの私が・・・である。
すでに「晴(はれ)と褻(け)の狭間で」の鬱に悩まされた時期を過ぎていて、家族のために
「さあがんばらなくちゃ」というという気分が感じられる。
しかしその後バブル崩壊に遭遇し、「沈みゆく家」のモデルでもあるこの家を処分せざる
を得ないという永い不況に悩まされたのである。もう一度この時代に戻してあげると神様
が言ってくれても、また苦労をするかと思うとそれもちょっとしんどいようで、丁重に遠
慮申し上げるであろう。






『あした天気になーれ』 26号
  2011/2/27


          

3年前、何かの記念日に銀座並木通りにある「季楽(きら)」での食事の時の写真である。
息子とは「美味いもの」と「コンピュータ」の話題であれば会話が成り立つので、近くに
住んでいてもなかなか寄りつかない彼を呼び出すチャンスでもある。だからできるだけ季
節季節の節目には電話で声をかけて、美味いものを食い歩いたり秋葉原の電気街を散策し
たりする餌をまくようにしている。
細君との関係は、「あした天気になあーれ」の斜に構えた気弱な恐妻家のジローのように、
日頃あのような辛辣な言葉や皮肉の投げ合いが現実にあるかどうかは秘密である。一緒に
なって40数年も経れば、あのような場面が無かろうはずはないと憶測するのは読者の勝
手と言っておきましょう。






『夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で』 26号
  2011/3/21


          

今まさに「斜光」第16号に投稿するための転居についての文「転々流々」を書き終わっ
たところであります。そしてそれは「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」の時代を含む
ものだから、前書きだけでもここで予告しておきましょう。

いままで私はずいぶんあちこちと転居してきた。それが趣味でもなければ、マニアックな
記録に挑戦した訳でもない。風の吹くまま気の向くまま、結果として人より多かったまで
である。それは長じてからはその原因が様々な仕事にやむなく就かざるを得なかったから
ではなく、単に住居を点々としただけで一度も職業を変えたことはない。ましてや孟母三
遷などといったよい環境と未来のためにといった高邁な目的があった訳でもさらさらない。

さて、写真の銅製の作品はcoppers早川(早川 篤史・克己(親子))氏の作品で、作品
名を「ステッキ」-F091といいます。彼等の個展を覗いた日の日記には次のように書
き残していました。
昨日の早川篤史氏の作品がどうしても気になり、夕方もう一度銀座松屋の7階の展示場へ
見に行きました。そして小さい像を思い切って購入しました。今まで30回近く転居した
己の姿を見つけたからです。つばのついた帽子、野暮なコート、右手にステッキ、左手に
大きな鞄、今の環境にちょっと飽きたのでどこかへ出かけるか・・・。
机に飾ったその作品に、未だ「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」の時代の心模様を引
きずっている己の姿を投影して、「ステッキ」という題名から「彷徨える次郎」と名付け
ました。そのうちまた見知らぬ街でこの姿を見かけるかも知れません。






『あした天気になーれ・第三回』 27号
  2011/2/27


          

あした天気になあーれのコメント              赤松 三毛次郎

我が輩は猫になりたい。
猫は人間の体重の約15分の1。猫は一日16~20時間眠る。猫の摂取カロリーは人間の
2400/15=160kcal。14時間動き回る人間と比べれば一日100kcal以下でも十分である。
鶏ささみ100g(105kcal)。牛乳100cc(65kcal)。だから2・3日食べなくても生きて行け
る。人間の跳躍力はせいぜい50cm。猫は体高の5倍すなわち1.5m。人間ならさしづ
め8m跳べることになる。ちなみに、蚤は体高の100倍。人間にすると150m、まるでウ
ルトラマンみたいだ。

猫と人間の採食、運動能力の効率の差は歴然としている。そしてなんて人間は無駄なこと
をたくさん欲しがるのだろう。飛行機だってコンピュータだって携帯電話だって原子力発
電なんて猫には必要ない。現にそんなものの恩恵に浴さなくとも平気で生きている。我が
輩も来世は猫となってあるがままに生きよう、「樽のディオゲネス」のごとくに。
そして、今度の「あした天気になあーれ」は我が輩の横に写っているオスの三毛猫が主人
公である。どうぞよろしくと言っていますニャー。
http://www.youtube.com/watch?v=pOEXFJ9qHvc&feature=player_detailpage






『無限回廊 第四回』 27号
  2011/7/18


          

この写真はいつの頃のものかはっきりとは思い出せない。先日ポートレート用の写真を山
荘で探していたら、セルリアンブルーに真っ白の襟のついたポロシャツを着たライン下り
の船のデッキの上に立っている自分の写真を見つけた。そのシャツはなかなかシャープで
鮮やかな青が際立ったすてきなものだった。しかし私はついぞそんな物を持っていたとい
う記憶さえないのであるが、今ここにほしいと思ったくらいいい色だった。そのようにこ
の写真もいつのものか時も定かではない、遠い昔の髭を生やした気恥ずかしい写真の一つ
である。

さて今回の無限回廊は前回の作者が残してくれた難しいプロットに戸惑い・狂喜しながら、
なんとかうまく立ち回って結論らしきものを先送りした形で次の作者にバトンタッチ出来
たと悦にいっている。そしてちょっと意地悪な思いにニヤニヤするとともに、次号の担当
である万理さんがどのような物語をつくるかが楽しみである。







『あした天気になーれ 第四回』 28号
  2011/9/12


          

私は旅行中、毎晩寝る前に各ホテルのレターペーパーに必ず日記を付けることにしている。
それは絵を描く人が各所の景色や人物や文化をスケッチするのと同じく、ものを書くとい
う趣味を覚えてからの習慣になっている。見たものを正確に分析し整理することで、自分
なりに理由付けし、頭の中の引き出しに納めておく方法としては、実に有用である。

ここは、二千数百年の歴史を刻んだ「まさに近代国家の基本的なシステムを構築した」偉
大な時代の遺跡である。紀元前500年から紀元後500年、一千年間という長きに渡り繁栄
したまれな文明で、その国家を支えた政治思想は下記のようなものであろう。
1.ローマ法を基本とした法治国家であったこと。
2.民主主義であったこと。
3.人種融合政策をとったこと。
4.社会資本の整備が充実していたこと。
 交通路、上下水道、度量衡、幣制などの整備・統一が行われたこと。

フォロ・ロマーノを背に「あした天気になあーれ」のカラマツ・ジローの報告でした。
雄の三毛猫、下駄探しはチキン・ジョージにまかせて・・・。


****************************

古賀さん讃                         長岡 曉生

写真で見る通り、銀髪で長身、そしてにこやかな、そして音楽を愛する紳士です。
とはいえ、その中味はなかなかに複雑かつ新規性に満ちています。
その特徴を幾つか挙げて見ましょう。
 A群
  イタリア旅行が好みである。
  音楽を好む、それにラテン系の踊りも。
 B群
  建築一般に関心がある。
  新規かつ独創的な思考法を持っている。例えば素数好み・無限回廊の提唱など
  工夫好きであり、新しい問題の解決に熱中する。
 C群
  狭間・歪んだ風景・鈍色などが好みである。つまり難解である。
  四季の移り変わりと草木の風景が好みである。
  国語力豊かで単語の知識に卓越している。

上記の全貌は、長い時間を掛けてようやく解ってきました。
だって、鈍色で難解なんだもの。

 とはいえ、私が同人αに入会した平成19年春にも上記の片鱗は見えていました。
1)春号原稿締切りの4月末を跨いでイタリア旅行をなさっておいででした。
  ⇔ イタリア旅行好き と 狭間好み
2)この時の春号への投稿題名が、シリーズ・「歪んだ風景-岐路」でした。
  ⇔ 「イアリア建築」に住む「鈍色」女性の「四季の移り変わり」
  なお、この作品で初めてモノクロ原稿中にカラーの四季の花の写真が導入され
  後になって電子化されたα作品集の当作品に対し初めてBGMが導入されました。
  カラー導入・作品集電子化・BGM導入のいずれも
  古賀さんの工夫によるものです。

 そういえば、この時のαの号数が11号でしたが、11号は素数。
11は、5番目の素数ですが、5がこれまた素数という御念の入った組み合わせ。
それだけじゃあ無い。
11号の原稿が集まったあと、私の初顔合わせ会合でお会いしたαのメンバーが
みな11回生で、私は13回生である、と全てが素数に因む会合でありました。
お互いに、「えにし」だったなあ。

 えーと、もう一つ大事なことを忘れていたぞ。
 写真の背景に見えるのは、古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノで、西暦前6世紀頃から
3世紀末頃までローマの政治・経済の中心地として栄えた場所でした。
ここは、非常に重要な遺跡なのに、通常の観光ツァーには含まれないため、個人的に訪れ
た時に撮ったものだそうです。
 因みに、どうして著者がローマに惹かれ、この遺跡を訪れるのかを考えてみました。
銀髪でローマを愛し、そして建築物に興味を持つとなると
ははあ、当然あの人物の生まれ変わりでしょうね。
 詳細は、α29号の無限回廊でお知らせしましょう。
今、明かされる古賀和彦の前世 なんてね。お楽しみに。に。。みにに。に。??

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シネマの話3

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 9日(水)22時04分33秒
  .

              シネマの話3 2010-2013





「銀座散歩」より 2011/3/6

朝9:30銀座マリオンにて「ツーリスト」という映画をみる。小さなバケツほどのポップ
コーンを食べながら。懐かしのヴェネチアが舞台。それなりにおもしろかった。ミステリ
ー仕立てだが、無限回廊などの筋を考えることに慣れると、自ずと映画の結末が判ってく
るような気がした。それがいいことなのか、興味が半減するのか今のところ自分にも判ら
ない。




「『反物質』の閉じ込め成功」より  2011/6/6

この「反物資」をテーマにした小説が 、ダン・ブラウン著のサスペンス小説『天使と悪
魔』(ANGELS & DEMONS)である。これは『ダ・ヴィンチ・コード』とおなじく2009年ア
メリカ映画が公開された。欧州合同原子核研究所(CERN、ジュネーブ)もその映画を
見て、実際に存在することを知ったのである。
ともかく、宇宙には「暗黒物質(dark matter)」や「反物質(antimatter)」という、興
味を刺激する謎が一杯存在していて、飽きることがない。




「映画鑑賞-ジュリエットからの手紙」  2011/6/14

原題は「Letters to Juliet 」であるから、日本語の題の命名は「ジ
ュリエットからの手紙」とあり、全く逆の意味になる。シェイクスピアの書いた「ロミオ
とジュリエット」に纏わる物語である。イタリアの古都ヴェローナのジュリエットの住ん
だ家の中庭で、五十年前の満たされない恋文を壁に貼った主人公。その返事を代筆する善
意の人達が書いた手紙を貰った主人公が、昔の恋人探しに訪れたことからこの物語は始ま
るのである。まあの映画の内容からすれば両方の解釈があっても間違いではないが・・・。
映画の題名は原題と違ったものがありよくある。用心しないと日本の題は意訳が多いから
間違った印象を持つことになるので、額面通りに信じてはいけない。

この映画の原題と日本名という二つの題名から受ける印象は、図らずも日本的な文化と西
洋的な文化の違いのように私は思えた。受動的な行動パターンの日本的文化と、やはり主
体的な自我の行動性を旨とする西洋的文化的の対比と見た。ジュリエットからの手紙(f
rom)か、ジュリエットへの手紙(to)の問題が面白いなと思った。やはり受動的な
意訳の方が日本人の感情に無理なく訴えるのかも知れない。


数年前イタリア旅行の時尋ねたところであり、美しい古都である。ジュリエッタの家のあ
るパティオも覗いたが、あまりにも人が多くてゆっくり思いをはせることは出来なかった。
この映画のストーリーはハッピー・エンドで終わるアメリカ映画の定番なのだが、
しかし老いた主人公を演じたヴァネッサ・レッドグレーヴがなかなかいい。てらいのない
落ち着いた風格はさすがで、あのように老いたいと思うほどである。おまけに、マカロニ
・ウェスタンでならしたフランコ・ネロもまたいい。ついでに実際にヴァネッサ・レッド
グレーヴはフランコ・ネロの四つ上の姉さん女房である。




ギンレイホールについて 2011/7/27

11期ファーンさんおよびひまじんさんの間で「銀鈴」か「銀嶺」かの問題が話題になっ
ていますが、その端緒は「ドキュメンタリー映画際 投稿者:吟遊視人 投稿日:2011年 7
月25日の『「シネマの会」という毎週一回、『銀鈴シネマ』で話題作を見る同好会があり
ます』の投稿にあります。

この映画鑑賞の会を作った者として、その経緯から解き明かしてみましょう。それは今か
ら9年前、2002年の6月の日記にたまたま散歩していたときの記録があり、そのときの印象
が映画鑑賞会を発足するきっかけになりました。なおその会の正式名称は「シネマ・デ・
ジョイ」(シネマで楽しもう。死ぬまで人生を楽しもうという意味をこめて)と皆で決め
ました。
代表は私、副代表はM.Tさん、H.Mさん、会計はT.Mさん。年会費:1,000円。会員24
名で発足、なお現在私は退会して会員ではありません。

飯田橋の神楽坂をもう一本後楽園に寄ったところに軽子坂(かるこさか)という路地があ
りました。その坂の由来は知りませんが、横町を曲がったすぐの所に一軒の映画館をみつ
けました。約200席のいわゆる懐かしの名画をみせるという場末の小さなもので、そこ
は貧乏学生時代のノスタルジーを彷彿させるに十分な面影を残した、狭さと昔を懐かしむ
ような老年の人たちや若い学生といった客筋で満ちていました。よき時代の雰囲気が廃れ
ていない時空が未だ存在するんだなと嬉しくなりました。もちろん入場料はシルバー料金
の1,000円ぽっきり。この値段で5時間近く楽しめる娯楽はそうめったには見つから
ないと思います。

往年のアン・マーグレットを思わせる美貌の女優と、アラン・ドロンに似た男優の演ずる
「ムーラン・ルージュ」のファンタスチックな物語を主に鑑賞するつもりでしたが、もう
一本の方「ぼくの神様」が思いもよらず秀逸でした。第2次大戦のポーランドが舞台。ナ
チスのユダヤ人狩りから逃れるため親元を離れ一人疎開させられた児童の物語でした。美
しい田園風景の中で起きる大人の戦争という不条理の世界に、子供までが巻き込まれ厳し
い現実に直面する話でした。

このような素晴らしい映画は大作でないだけに、あまり宣伝されず埋もれてゆくのかと思
うと残念です。そのような訳でたまには誇大に宣伝された大作だけではなく、こまめに優
れた小品を探しだして映画鑑賞を楽しんではいかがでしょうか。

さて本題の名称について
銀鈴会館というビルは確かにそこに存在します。またギンレイホーという映画館もそのビ
ルの一角にあります。銀鈴会館はその中に雀荘、酒場、くらら劇場(アダルト映画)、不
動産会社などの入っている総合ビルで、その名称であって「ギンレイホール」はそのなか
の一つです。
念のために銀嶺ホールと私が思い込んでいた名称をWikipediaで調べてみました。この映
画館に関する投稿は「ギンレイホール」か「銀嶺ホール」で数件見つけました。
◆青木塾ブログ:名画座、銀嶺ホール
◆飯田橋ぎんれいホール | 人生、色々、男も色々・・・
◆dietcoker_diaryのブログ : 銀嶺ホール (第9地区)と後楽園遊園地 ...
◆青山808 (4) 飯田橋銀嶺ホール:青山808:So-netブログ

そこで正確を期すために「ギンレイホール」の支配人に直接その名称について尋ねました。
その結果1974年から「ギンレイホール」と称していて、それ以前の記録が見つからないと
いう返事をいただきました。いずれにしてもWikipediaにも「銀鈴ホール」では記載され
ていません、ましてや「銀鈴シネマ」という名称もありませんことを報告します。




「無限回廊 第五回を読んで」より 2011/10/23

「久しぶりの日本で、日本の大手広告会社、アジア支局に勤めるエヴァはすっかりくつろ
いでいた。ほぼ一ケ月の休暇をとれたからだ。金曜の朝もビールを片手に長椅子に横たわ
り読書をしていた。」とあるように、エヴァはどうも酒が好きらしい。
物語の中でもいくつか出てくるが、ここで小説や映画のなかで描かれた有名な場面を調べ
て見た。

◆ダイキリ
 ヘミングウェイが愛飲したフローズン・ダイキリは、ラム酒をダブルにし、グレープフ
 ルーツ・ジュースを入れ、砂糖を抜いたもので、これをパパ・ダイキリと呼ぶ。
  * ラム - 45ml
  * ライム・ジュース - 15ml
  * 砂糖 - 1tsp
◆ギムレット
 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説『長いお別れ』中の代表的な台詞
 "I s uppose IT's a bit too early for a gimlet," he said.
(ギムレットには早すぎる)
  * ジン - (全量の)3/4
  * ライム・ジュース - (全量の)1/4
◆マム
 映画「カサブランカ」の名セリフ “ 君の瞳に乾杯 ”Here's,lookin'AT you,kid とい
 う名セリフと共に飲んだシャンパンが「マム」。フランスのシャンパーニュ地方特産の
 発泡ワインである。
◆ペリエ・ジュエ
 「危険な情事」の中で、サムが、浮気相手のアレックスと飲んでいるのが「ペリエ・ジュ
 エ」これもシャンパン。
■ジャックダニエル
 1978年製作「殺人遊戯」のポスターで、松田優作が持っている酒は、テネシー・ウイス
 キーの「ジャックダニエル」。トウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などを麦芽で糖化、
 さらに酵母を加えてアルコール発酵させる。

若い時は浴びるほど飲んでも平気だった私だが、そのときは酒の味などよく判らなかった。
しかし今、医者から控えろと言われてみると無性に飲みたくなる。昌平坂探偵事務所のフ
ィリップ・マーローを気取って、新宿の高層ビル51階のとあるバーで、きら星のごとく瞬
く様々な色の町の灯りを眺めながら、ギムレットを賞味してみたいと思った。




「北大路魯山人の昆布とろ」より  2012/11/3

昔、息子の寝床で読んでやったユリ・シュルヴィッツの絵本「よあけ」のなかに出てくる、
まだ日も上がらない薄暗い山間の湖、澪を引くボートの印象的絵を思い出す。最近では「き
みに読む物語」という映画で、これもまた朝まだきか夕暮れか失念したが、薄暗い湖をレ
ガッタで澪を引いて漕いでいるの最後のシーンが印象的だった。




「37号「人生詩」を読んで」より 2013/12/19

 神野氏が私の作品に対する評の傾向をみると、情感や情景描写の素直さを指摘すること
が多い。例えば「三つの願い」や今回の「シリーズ・歪んだ風景-鐵橋 第六回」において
は論証的で説明的で理屈をこねたり、理に勝ることを諫めているようだ。
 小津映画の特徴として「説明的な要素を極限まで削ぎ落としたセリフと、端正な構図が
挙げられます。“家族や人生”をテーマに人間心理をついた一言は、多くを語らない分、
作品には観客が想像する“余白”が残されており、自分の境遇に照らして寄り添える魅力
がある」という評価がある。
(中略)
さて、私の説明的作品と違って神野氏の文章は、「言葉集め星創り」「始原へ遡ろう」「パ
ラレル宇宙」「人の像をした美しい青い地球」、 およびこの「人生詩」にしても、全くの
文学的な作品であるから難解極まりないのであるが、そこには知識の披露ではなく、己の
率直な感動の記録だから、小津映画と共通する素直さや清新さが人の情感に触れる作品を
描くことが出来るのであろう。

691

 

同人α編集後記集

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 9日(水)17時03分44秒
編集済
  .

                      同人α編集後記集
                        2010年5月(23号)~2013(38号)






23号『蝶の夢』  2010/5

 今年の始めから言葉の持つ重要さに関しての問題で始終し、その認識の違いでもどかし
い思いをさせられたことである。言葉と行動は一致しなければ何人も人の信頼を勝ち得る
事はできないと私は思うのだが、そのように考えない人も結構いるらしい。
 ちょうどこの事に関して、ずっと昔「斜光」という同人誌に初めて書いたフィクション
で「三つの願い」というものを投稿したことがある。たまたま今回万理久利さんが気に入
ってくれて復刻してくれたので、言葉や約束の重さや深さについてSF風の寓話として考
えるにはちょうどいいと思い、投稿してみた次第である。
 それから同人αの同志の多数が退会していったが、今回の百ページを越える作品集にな
ったことは、残った私達の創作意欲は全く衰えることのないことを証明したわけである。
これからは決して人数の多さだけにこだわらず、少数精鋭をめざして着実に活動したいと
思う。そのうち新しい有能な新人の同志も徐々に参加されるであろうことを期待する。





24号 『夢碍无(むげん)』   2010/8

 この暑い夏、独居隻語の癖(へき)あり。
鳥は飛べるものと当然思っていたが、ふと飛べない鳥のことが気に掛かり調べてみた。す
ると飛べる、飛べないという区分けが正しくない事がわかった。本当は飛ぶことが有利に
生きれることでそれを選んだ鳥と、飛ぶことを放棄してもより有利な条件で生きられるも
のとに別れるのだ。
 飛ばない鳥の方が珍しいのでそれ等を列記すると、アフリカのダチョウ、オーストラリ
アのエミュー、ニュージーランドのモア、南極のペンギン等々。総じて天敵の脅威が少な
い地域で生きる事ができたからであろう。飛びたいかどうかは、長い年月を経て選ばれた
本人の意思次第。下世話な世界で揺蕩(たゆとう)う生き方もまたいいだろう。しかしここ
へ集う者は高く遠く宇宙の果てまで真理を求めて飛翔することを好むようである。ここに
そのことを見事にうたいあげた詩がある。
サムエル・ウルマンの詩である。

    青 春

  青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。
  薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
  たくましい意志、豊かな想像力、炎える情熱をさす。
  青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
  ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
  年を重ねただだけで人は老いない。
  理想を失うとき初めて老いる。

  歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
  苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

  六十歳であろうと十六歳であろうと人の胸には、
  驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
  人生への興味の歓喜がある。
  君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
  人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
  霊感を受ける限り君は若い。

  霊感が絶え、精神が皮肉の勇気におおわれ、
  悲嘆の氷にとざされるとき、
  二十歳であろうと人は老いる。
  頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
  八十歳であろうと人は青春にして已む。




25号 『颯』   2010/11

 「文芸評論家の伊藤氏貴によると「商業誌」と「同人誌」の作風の違いは、 「商業誌」
は徹頭徹尾リアリズムで通すという作品は減っていて、マジックリアリズムだったり、漫
画キャラ化だったりと、日常的には理解しがたい要素がふんだんに入り込んでいる。
「同人誌」は未だに圧倒的にリアリズムであり、舞台は日常である。かつて「身辺雑記」
と揶揄された私小説作品が多く、そのなかでもとりわけ多い話題の一つは、幼少期の思い
出話である」。 と評している。
 しかし「同人誌」である「同人α」の最近の傾向は、私小説的なものももちろんあるが、
水村早苗が目指す本格小説はエミリー・ブロンテの「嵐が丘」のようなもの、すなわち全
くの「フィクション」だが、我々もそれを目指す傾向にあり、その結果その飛び具合もこ
れからの見物である。
 今回は検索を容易にするためにページヘッダー左部分にページと作品名を記した。また
各作品の最後のページの空白に同人の描いた挿絵を入れることを試みた。このように少し
でも読みやすく美しくするための冊子を目指したいと思う。




26号 『仮面』   2011/2

 古希を前に、昨年のグループ抗争や仕事の不況、視力低下などの三重苦という鬱陶(う
つとう)しい事柄をすべて払拭(ふつしよく)できたと思うから、今年は何かと展望の開け
る年にしたい。斃(くたば)る前にもう一度不死鳥のように甦(よみがえ)って見事な最後
の花を咲かせてみたい。花ならマンセル値 3RP 5/14という色の大輪の牡丹に限る。




27号 『こんとん』   2011/5

 この頃は身の回りのものが神隠しに遭うことが多く、しょっちゅうそれらを探し回って
いる自分にはうんざりする。時々PCの中のファイルや不要と思った品々を思い切って整
理することがあるが、必ず必要なものを捨てたことに後で気づいて悔やむのである。
 また何かの用で隣の部屋に行ったものの、自分が何をしに来たのかわからず呆然とたた
ずむことがある。しかもまとめてやればいっぺんに済む作業も、覚束かなくて一つずつ済
まさなければ捗がいかない。やはり私は確実に非在に向かって歩いているようで、考えて
みれば後十回くらいしか春を迎えられないということに気づいた。だからつまらぬことに
くよくよ思い悩まないで生きようと思った。




28号 『震災列島』   2011/8

 唐の詩人杜甫の詩に「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」に由来する古稀
まで、ついに私も生きた訳だ。若い頃はなぜか六十八歳でこの世に「おさらば」するもの
と心に決めていた。その数字になにか意味があったかどうかはっきりと理由付けしたわけ
ではないが、何となくそんな気がして周りの人たちに言いふらしていたことを思い出す。
将来への不安が昂じて、そのくらいでよかろうと自分で考えていたのだろうか。だから、
ここまで生き延びたことを嬉しいという感慨はないまま、その時の予想と言おうか、希望
と言おうか、それをいま二歳も越えてしまっている。
 若い頃よりいろいろの「?」という疑問符をたくさんポケットにしまい込んでいたのだ
が、この歳になってそれらの少しは解決したであろうか。宇宙の真理、生命の由来、生き
ること、自由、平等、正義、公正等々、私の中で明確な答えの見つからないまま、むしろ
その「?」は増えていくような気がする。ただそのような情況のなかで救いなのは、(棺
桶にはいるまで何も解決していないかも知れないが)自分はいまでもそれらの答えを求め
る気持ちだけは持ち続けてたいと思っていることである。




29号 『兆』   2011/11

時々に己の作品リストを見るに付け、拙(つた)ない文章であったが今まで随分たくさん書
いてきたなという感慨を覚える。
 物事を表現するということは他人の五感を通して、作者の姿なり考えなり生い立ちなり
をつぶさに観察されることを意味すると言える。だが自らその表現を望んでいるとしても、
その反面作者は気づかないうちに裸にされた己に恥ずかしさや戸惑いを覚え、誤解・嫌悪
などの負の印象を与えているかも知れないなどと恐れ、その間で鬩(せめ)ぎ合いをするの
である。
 しかし、作品のテーマに関わらず全体的に滲み出る、作者のロマン的とか現実的とか古
風だとか現代風とかいった匂い、印象は個々の作者にはあるもので、そしてそれが感じら
れない作品はワサビの効かない刺身を食べているようである。夏目漱石だって、森鴎外、
三島由紀夫、太宰治、宮沢賢治の大家はなおさらだ。私にも私なりの個性、匂いがあるの
だろうか、いつか誰かに尋ねてみたい気がする。




30号 『沈黙』   2012/1

 自己と他者などといった認識は、高等な頭脳を持たなければ成り立たないと思っていた
が、哲学的命題以前のもっと単純な生命体のなかでも行われている。それは生命の維持活
動において最も大事なシステムの一つであるらしい。
 免疫系をインターネットで検索してみると
免疫のシステムは生体内で病原体やがん細胞を認識して殺滅することにより生体を病気か
ら保護する多数の機構が集積した一大機構である。この機構はウイルスから寄生虫まで広
い範囲の病原体を感知し、作用が正しく行われるために、生体自身の健常細胞や組織と区
別しなければならない。この認識機構は、病原体は宿主にうまく感染できるように適応し
新たな進化も遂げているので、複雑である。この困難な課題を克服して生き延びるために、
病原体を認識して中和する機構が一つならず進化した。
 即ち自己の細胞と病原体とを認識して的確に排除するという機能に於いて、自己と他者
を識別しているのである。そうなると頭脳明晰で哲学的命題の解答を見つけ出す人も、そ
んなこと一度も考えたことがなく暢気に生き長らえている俗人も、おなじ恩恵に浴してい
ることであり、特別脳を鍛えなくても生きて行けそうだ。
 しかし困ったことに好奇心という奴が心の中に住み着くと、 黙狂の矢場徹吾よろしく
「無限大」、「存在」、「宇宙」、「虚體」、「自同律の不快」などといった難題の数々?
??に溺れそうな私である。そのうちつかまることのできる一片の藁が流れてきてくれる
であろうか。




31号 『遊び』   2012/5

さて、放浪の旅を終えいよいよ終の棲家(ついのすみか)に収ろうという算段ではあるが、
世の中まだまだ何が起こるか想像も付かない。私は天を指すような富士の高嶺を見る度に
ロケットの噴射台を想像する。天災列島に起こる大地震、大津波、大火災、或いは第三次
世界大戦が勃発して核戦争になって、富士山の火口をカタパルトと見なし、光子ロケット
に乗り宇宙に向かって飛び出す夢を見た。




32号 『造次顚沛』   2012/8

大都会から脱出して山に籠もった訳だが、世間から取り残されるかと思いきや、そうでは
なく肝心な物事の本質は毫も変わらないことが判った。ある程度の批判はしていたにもか
かわらず、いかにくだらない情報が毎日身の回りに飛び交い、それに影響を受けて行動し
ていたかを思い知った。テレビや新聞、週刊誌、人間関係等々。目を患って以来活字をう
まく追えなくなったいま、私はマスコミの情報を避け、むしろ五感のなかの音の世界をも
う一度日々の生活に取り戻そうと思っている。十数年前に田舎に引っ込んだとき、プリメ
インアンプ、CDプレイヤ-、スピーカーなどの高価なセットを、田舎の甥に譲ったまま
上京してきので、オ―ディオのセットの購入を今目論んでいるところだ。求めるべきか否
か、兎に角カタログを眺めているる時が一番楽しいような気持ちになっている。ないよ。)




33号 『無常』   2012/11

 α32号の出版のとき、神野氏より古東哲明著の「ハイデガー=存在神秘の哲学」という
本をもらったので、難解な理論を毎日数ページづつ辛抱して読んだ。古東氏の本で、これ
もまた神野氏からもらった本だが、「あることの不思議」という本はハイデガーの解説書
として初めて読んだためか、より一層難解に感じたものだ。その点後で読んだものは下地
ができているので理解しやすく感じられる。何せ世界内存在、きづかい、非本来的自己、
刻一刻性、ゲシュテルなどの哲学用語は一度解説書を読まない限り、いつまでも理解出来
ない判じ物の看板のようである。
 最近これらの本を読んでいるとニーチェの「ニヒリズム」、ハイデガーの「存在の奇妙
さ、希有さ、不思議さ」、サルトルの「存在と無」などの思想が繋がっていることを感じ
た。
 しかしこんなことに一所懸命考えても、一向に貧乏神は我が家を出て行く気配がない。
困ったものだ。




34号 『息吹』   2013/2
 つらつら自分の作品の傾向を考えて見るに、街や場所、その時代の出来事、特定の人物
像などにおいて、具体的な情景や名称を意図的に描かない物語が多いことに気づく。
「三つの願い」にいたってはバ―ド・ブレイン、グレイ・ブレイン、エヴァ・マリ―・ゼノン
などといった、国籍不明の名前を使ったりしているのは、なんらかの無意識の願望が働く
のだろう。
 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のジョバンニ、カムパネルラ、「グスコ―ブドリの伝記」
のグスコ―ブドリ、「ポラ―ノの広場」キュ―ストなどを意図的に参考にしたわけではな
いが、どうも私が現実的(リアリズム)描写を厭うのは、世間的な既定の印象を与えるな
どの現実に限定された解釈を避けたいという気持ちが強いのだろう。
 これは「鐵橋」に描かれているように、何物にも囚われたくないという少年の頃の私の
性癖がなせる業なのかも知れないし、今現在生きている場所や時代を超えた異国・異界へ
の憧れなのだろう。




35号 『ラビリンス(迷宮)』   2013/5

 先日、梁山泊の仲間の一人が亡くなった。写真の十二人のうち四人が鬼籍に入ったこと
になる。美人薄命、憎まれっ子世に憚るなどという言葉を聞くと、長生きもいい加減にし
なくてはと思うこともある。セピア色の写真に写った前途洋々の少年少女の時代が懐かし
く郷愁も覚えるが、何も嘆くことはない。短命であろうと長生きであろうと皆、自分の人
生を一所懸命生きて来たのだから。しかし幼なじみが一人二人といなくなるのは少々堪え
るなあ。

          




36号 『言葉』   2013/8

 この頃は縦書きの編集、奇数ページ左上のヘッダー設定などに馴れて、手間を取らない
ようになった。また校正においては、長岡さんと万理さん、神野さんの三人で原稿を校正、
その後ゲラ刷原稿を私がつくり、最後にもう一度三人に最終チェックをしてもらう。これ
で完璧。印刷においては、回を重ねる毎に速度の問題も工夫をしたお陰で随分早くなり、
ミスも減った。付属品類においては、コピー用紙、製本テープ、印刷インクなどもネット
ショップで安く購入できるし、特にインクはコピー機メーカーの純正ではなく、リサイク
ル品を使うと純正の半額で求められるから、随分経済的になり助かる。
 そして義理で買わされる人、あるいは真面目に読まない人には無理に買って貰わない
ようにしているので、その結果発行部数や購読者あるいは同人の数も増えず、地味な活動
になっている。まあ敢えて増やす必要もないし、少数精鋭で充実していれば自ずといい作
品の冊子になると確信している。
 それにしても年四回、三カ月に一度、作品を作り冊子を発行するという行為を、足かけ
十年もよく続けたものだと我ながら感心することである。




37号 『古典』   2013/11
 この山荘に移り住んで既に一年半になる。引っ越して来る前に、地元の人達から「ここ
は冬になると零下二十度になるぞ」とばかりにさんざん脅されてきたが、一回冬を過ごし
てみると低い温度であるにも拘わらず、本郷の冬の寒さとさして違わないように思えた。
これも馴れたせいかなのかも知れない。
 そして大工さん、電気屋さん、設備屋さん、植木屋さん、本の編集者、設計者など付き
合いが少しずつ増えてきて、それなりに交流が始まってきた。しかもそれらの人達が折に
触れて椚・楢・アカシヤ・杉・唐松・白樺などの薪材や家の解体材など、薪ストーブ用の
木材をたくさん持って来てくれる。これで厳寒の冬は凍えることなく部屋を暖かくして過
ごせるぞ、という安心感はまことに得がたいものである。ストーブの炎を見ながらうとう
ととうたた寝することは、スヌーピーの問う「幸せとはなにか」の答えの一つなのかも知
れないと思ったりしている。




38号 『心情風景』   2013/11

 山の中での暮らしは退屈で仕方ないだろうと思われるかも知れない。ここに来るまでは
交通量の多さ、様々な機器類から発生する低騒音、ビルの林立で空が小さい、人の多さ等
々、私が大都会の真ん中で忙しい暮らしをしていたことを知っていた人には、そう思われ
ているかも知れない。
 しかしこの山の中に住んでよく観察してみると、様々な不思議がいっぱいそこら中に転
がっている。
 雪の積もった朝の散歩では、数種類の野生動物の足跡を見つけて、その一つ一つに動物
の姿を当てはめて推理するのも又楽しい。この前は杉の木によっての葉の形が違うのを見
つけた。「オモテスギ」と「ウラスギ」である。「オモテスギ」は 太平洋側の雪が降らな
い地方に生えている。「ウラズギ」は北陸や東北と言った日本海側の豪雪地帯に生える。
一口で言えば雪害に強いのが「ウラスギ」、雪害に弱いのが「オモテスギ」ということに
なる。
 そのように自然の不思議な生態を見つけては楽しむのだから、全く退屈な時間などあり
はしないと私は思っている。皆さん、猫には人間のような突き出た頤(おとがい)がないの
に気づいていましたか?

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電子書籍考

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 9日(水)15時41分26秒
  .

                     電子書籍考  2011-2012



     同人αでは、創刊号出版に続き、同人が集う場所として掲示板を立ち上げると、
     すぐに作品の電子化にとりかかった。その推進役古賀氏は7年後、さらに氏が
     「ものを書く」ことのきっかけともなった同窓記念誌「青春のあの日」(県立
     佐賀高等学校11期)の電子化に着手する。
     当時、電子化における諸問題について検討していた様子や対応に苦心していた
     様子が伝わってくる。





窓辺にて-「息子の誕生祝い」より   2011/4/10

今日は朝、息子から電話があった。(中略)
電車の中で彼はiPadで電子書籍から専門の原書を購入してを読んでいた。どいう本だと聞
いたらコンピュ-タプログラムのようなものだと言って、詳しくはおしえてくれなかった。
時代はどんどん変わっていく。




電子書籍考察 2011/7/1

インターネットでダウンロードして購入する電子新聞や電子書籍と、今までのような紙の
上に印刷された新聞や書籍などの出版物について、どのようなメリットとデメリットがあ
るかを考えてみた。ちなみに電子書籍とはインターネットにつながったパソコンや専用の
小型端末機を通してデ-タをダウンロードし、購入する本のことを言う。

●2011年2月4日朝日新聞「on reading 本を開けば」というコラムにノンフィクション作
 家の佐野真一氏が、本の哲学こそ進化させるときという一文を投稿している。
 「古典的な活字中毒の私からいわせれば、電子書籍はとても付き合いきれる代物ではな
 い。本が電子化されれば、そこから音楽も映像もでるようになるという。でも、それっ
 て本当に本の進歩なの。活字と対話する孤独な作業の中からしか、自分だけの音楽も映
 像も生まれてこない。これこそが想像力を鍛錬する醍醐味ではないか。」と言っている。


●2011年5月17日朝日新聞「異議あり」というコラムに載った、編集者の山田 順氏の「電
 子書籍が出版文化を滅ぼす」という副題の文で、その内容は電子化のために社会に流通
 する情報の質が大きく低下する危惧があると警告している。
 「出版を含むマスメディアは、信頼性が高く価値ある情報を選別し、世の中に流通させ
 る役割を担っていました。電子図書では、出版社を通さず素人が自分で本を出せる。
 一方、電子書籍や電子新聞の価格が下がることで、出版社や新聞社のビジネスモデルは
 成立しなくなり、作家や編集者、記者の多くが失業する。質の高い作品や情報をつくり、
 流通させるという社会の重要な機能が失われ、残るのは不特定多数の人々による、信頼
 性も質も保証されない大量発信だけ」と言っている。

●2011年6月10日 朝日新聞 「ひと」
 著作家の富田倫生氏が世話人になっている電子図書館「青空文庫」の登録数が一万冊に
 なったという記事があった。著者の没後50年を経て日本国内において著作権が消滅した
 作品、外国語作品の翻訳や著者自身により無償閲覧の認められた現代の作品などが納め
 られていて、青空に置かれた本はインターネットでダウンロードして、だれでも自由に
 読めるという便利なシステムだ。

 さて、電子書籍についての三人の記事を示した訳だが、佐野氏は作家として昔流の本の
 イメージを大切にしているし、山田氏は編集者としての書籍運営や管理からの意見を、
 富田氏は読者の利便性を考えたシステムを作り上げたもので、それぞれの立場や論点の
 違いでその評価は分かれるようである。

 では実際に電子書籍について考えられる問題点を次に挙げると
◆電子書籍のメリット
 1.ネットに接続する環境にあれば、いつでもどこででも買える。
 2.大量の電子書籍を端末で簡単に持ち運ぶことができる。
 3.棚が必要なくなる
 4.検索しやすい。
 5.例文として使いやすい(コピペ)。
 6.買った瞬間に読める。
 7.絶版がなくなる(再版などの手間がいらない)。
 8.誰でも情報の発信者になれる。個人の作品の発表の機会が増える。個人で出版・販
  売ができる。
 9.目が見えない人もほとんどタイムラグなく、また他の人の手を煩わせることなく本
  の内容を知る事が出来る。文字の拡大が出来るので弱視の人も読める。
10.紙の使用が少なくなる。その文森林伐採が減る。
11.紙の製造から発するCO2が減る。環境にやさしい。
12.配送コスト、在庫管理の手間が減少し安価になる。(店舗を構える必要がない)
13.言語の切り替えや読み上げ、動画の埋め込みなど多様な表現が可能になる。

◆電子書籍のデメリット
 1.書き込みや気に入った箇所に印(マーク)が出来ない。
 2.作品に偏りがある。圧倒的に数が少ない。
 3.記憶されている機械に故障がおきた場合、停電、そのたの障害の時は読めない。
 4.電子書籍の出版社によるデバイスやアプリケーションごとに操作性が異なる。
 5.記録媒体を消去する危険(目の前に常にもの(本)がないため)。
 6.そもそも電子書籍端末がないと本が読めない。
 7.複数の本を同時に開くことができない。
 8.海賊版が作りやすい。
 9. データ管理が面倒。
10.現状でも文庫本などは十分安い。
11.思わぬ発見がない。

さて、要点を列記してみると、本と電子図書との善し悪しを簡単に判断することはできな
いという考えに至った。
手にとって読む本のよさは、内容もさることながらそれに付随する装丁、文字の形、編集
様式などが作り出す雰囲気も重要な要素であり、喉が渇いたからお茶を飲むといった単純
な動機の他に、時間や景色や人と人との会話なども加味された行為として茶道などができ
あがったように、総合的な感性で楽しみたいという人向きであろう。

かたや電子書籍はどのような辺鄙な場所からでも、日本には置いてない洋書なども即座に
簡単に手に入り、内容だけを早く把握したり、作品の中の文字やシラブルの検索などには
非常に便利である。要するに読者がそのときの気分や要求によってうまく使い分けるのが
良いようである。電子図書化が爆発的に進むと、今までの出版社や編集者や書店が無くな
っては困るが、全部が全部そうなるとは思わない。しかし今までのような紙による書籍は
手間暇の量と販売量の減少で高価なものになるかも知れず、好事家だけを対象としたもの
になるかも知れない。ちなみに遅読家で机の上に何冊もつんどくのが好きな私は、どちら
かというと本の手触りを尊ぶ方であり、紙の本がまったく無くなってしまうのは困るので
ある。




続・電子書籍考察 2011/7/2

一つ言い忘れたことがある。これは科学的な論証ではないが、すべからくテレビや映画や
演劇などのヴィジュアルなものは、いろいろの付加的なものを投入させることができる総
合的な情報手段である。しかし一方その中に含む情報、例えば俳優だったりBGMに選ば
れた音楽だったり、映像の内容よりも制作者・演出家の好みや意図に影響されることが大
いにある。なかにはヤラセや偏った情報のみを集めて制作された情報すら見かけるのであ
る。しかし視聴者は努力をせずに受け身的にその内容に浸ることができるし、多くがその
ような見方で満足している。
一方、本のように単純な活字だけで知らされる情報のように、理解するためにはかなりの
思考という努力が必要になる。まさにアリストテレスがアレキサンダー大王の家庭教師と
して赴任したとき「学問に王道なし」と言ったといわれるように、努力や遠回りや疑問な
しに安易に知恵は得ることはできないということだ。
そういう意味での本という情報はやはり余計な情報や便利さや手軽さなどを付加していな
い、今のままの本のように出来るだけ単純そのままの方がいいと思っている。もちろん、
ハウツーものや娯楽のためのものや読み流しでいい本もあるだろう。それはそれで別の話
である。
印刷技術のない時代は、作品は高価で稀少であったため、個人が持ち主から借りて写して
いたもので、正本(原本)に対して写本といった。人はその行為の中で読みかつ書き写し、
その内容を理解しようとしたであろう。だから写本は時には表現を変えたり写し間違えた
りもしたものもあった。源氏物語では藤原定家自筆本、明融本、大島本、三条西家本など
の数多くの写本がある。
以上私の結論としては、読書はいろいろの楽しみ方があり人様々ではあるが、概してビジ
ュアル系の情報に対しての受け手は、受動的にならざるを得ないことを忘れてはならない。
そのなかで目的によって紙の本か電子図書かを選ぶことで、どれでなくてはいけない等と
言った断定は控えようと思う。




ルビについて 2011/9/14

まだ一日の活動を開始する前、朝刊が来るまでのちょっとした退屈な時間、青空文庫を開
いて泉鏡太郎の「廓そだち」と芥川龍之介の「葱」を拾い読みした。そこで気づいたこと
だが、すこぶる読みにくい。本のなかのルビは漢字の上部に小さい号数の文字で遠慮深く
振ってあり、漢字の読みが判らないときだけ意識して目に写るが、それ以外は内容を追う
頭脳の邪魔を一向にしない。しかしこの青空文庫の文章ではルビが漢字の後に同じ大きさ
の文字で括弧書きになっていて、すこぶる邪魔だ。これは自分の文章、例えば「同人α」
第13号の「シリーズ・歪んだ風景-異星人」を電子書籍「作品集」に載せるためにHTM
Lに直すと、漢字の上のルビが括弧付きのルビに変換されるのである。
一太郎で書いた文章をワードの文章に変換するときも同じ現象が起きるのだが、読み手の
リズムや流れの感覚を邪魔しない処理の仕方はないものか、なんとかならないものかとい
う思いが強く残った。




「MM君への手紙」より 2011/11/27

(前略)
 「同人α」の日々の活動や作品の電子図書は冊子の裏表紙にあるアドレスの「ニューロ
ン・カフェ」というホームページで行っていますので、どうぞご覧になってください。
リンク先には「同人α」の規約や編集会議の議事録を、著者のポートレートとコメントに
は、その時々の作品の著者の紹介を、作品集には今までの作品を電子図書として掲載、そ
こでは自分たちの作品の感想や批評も行っています。また最近は先日電話でお願いしまし
たように、皆さんの若かりし頃を偲んで卒業30周年記念誌も復刻して電子図書に載せ始
めました。




おしらせ(BBS万華鏡掲載)より   2011/12/1

 このたび佐高11期生卒業30周年記念誌をもう一度読みたいという希望があり、
私達有志はそれを復刻して「青春、そしてそれから」という電子図書を作りました。
書庫の片隅に埋もれていて目に触れなかったり、なくしてしまった人にとっては有意義で
はないでしょうか。この懐かしい時代とその回想録は記録にとどめたいと いう思いもあ
りました。そこでその主旨を理解して、掲載を承諾をくださった方達から順次掲載するつ
もりです。

 まずはその「青春、そしてそれから」のサイトを覗いてみてください。
この万華鏡の画面の上部のリンクの「同人α【ニューロン・カフェ】」はこちらをクリッ
クしたら、ニューロン・カフェの画面になります。下の方のリンク集のなかに赤い文字で
書いてある「青春、そしてそれから」をクリックしてください。もしお気づきの点があり
ましたらどうぞ遠慮なく下記のメールまでお寄せください。




「A君への手紙」より 2011/12/1

(前略)
実はこの電子図書を企画に及んで、著作権の問題など、プライバシーなどの問題が生じな
いかを考えました。また30周年記念号を発行した管理者、責任者の見解について佐賀の同
期会事務局長の田代君に相談しました。
(中略)
私どもの結論としては、
1.その当時発行に当たった幹事の人達も解散していて、「青春のあの日」という 記念誌
 を引き続き管理しているという組織はない。
2.同じような冊子を増版すると言うことでなくて、全くの媒体の違った電子図書 である。
 しかも営利的販売行為もない。
3.彼等三人だけの判断であって同窓会全体の総意ではない。
と考えました。しかしこちらの違論を通すことよりも、何らかの形でみなさんのためにな
るという本意を考えれば、ソフトランディングをして、彼等の意を汲んで、題名の「青春
のあの日」を「青春、そしてそれから」とし、掲載は本人の承諾を得た人だけとしました。
以上のような経緯ですが、いろいろ些細なことを言い出す人もいるかも知れません。しか
し皆さんのためになることですから、めげずに進めたいと思います。またもっと発展的に
考えれば、「斜光」も電子図書化してもよいと思っています。そのうち「斜光」編集部へ
提案するつもりです。   ではまた




 [青春、そしてそれから]のこと(BBS万華鏡掲載)より  2012/3/7

One of 11期生さんへ
投稿内容について、一体何を主張されているのかまたったく判りかねます。

「いずれにしろ私にはどうでもいいことですが、ただ作成者に誤解のないようにしてもら
いたいのは、こうした私のコメントは決して作成しているグループへ批判しているわけで
はありません。「ご苦労様」と言わなかった弁解というか、率直な感想や想いなのです」

と書かれてはいますが、私は全体の内容からはこの企画や運営方法に対して、しっかりと
嫌みや批判を読み取りました。そこで今回の企画についての私の考えを補足したいと思い
ます。
◆まず最初にこの企画を思い立った理由は三つ有ります。
 1.この記念誌を読んだ同期でない人達、または全く時代も場所も違う環境で育った読者
 が、私達11期の個性あるパワーに感動したこと。
 2.この記念誌によってその後の「斜光」「同人α」「同人言の輪」などの冊子が生ま
 れた原点であったこと。
 3.この記念誌を、誰でも読める未来に開かれた記録として残したいと考えたこと。
◆たった一人同期でない方のこの記念誌に感動されたことは大変うれしいことです。
 また同期生あるいは記念誌に載せた人達の投稿がほとんどないからといって、読んでお
 られない、感動されていないとは一概に言えません。この「万華鏡」に投稿される人だ
 けがすべての意見を代表しているとは思いません。むしろ黙って読んでおられる人の方
 が圧倒的に多いと思います。
◆この記念誌を当時同期の全員が購入した訳でもありません。しかも私のように無くした
 人もいるでしょう。そのためにも電子化した方がよいと思いました。
◆かつて佐高11期のホームページである「万華鏡」にリンクするのが筋だと投稿された人
 もいましたが、この「万華鏡」が佐高11期のホームページであるということを完全にオ
 ーソライズされているとは考えていません。そしてこの企画はまだまだ未完成でこれか
 らの追加、変更、訂正などの作業がありますから、私達のホームページ上で扱っている
 のです。
◆グループ批判をしているのではないといわれていますが、どうしてここでグループの話
 題を出すのですか。私はこの記念誌によって我が11期のすばらしさをもう一度知って貰
 いたいために企画したまでで、些細なことで本当に意義ある企画を途中で放棄するわけ
 にはいきません。現に記念誌の同窓生寄稿の内、故人分を含めると電子化に同意された
 方の割合はすでに89%近くに及んでいます。
◆最後に人に対してある意見を述べるときに、どうして「One of 11期生」などという、
 ことさら分かりにくい名前を使って、多数派を装おうとするのですか。このような場合、
 本名か、せめてこの掲示板で良く知られたハンドルネームを用いるのが「筋」だと思い
 ます。




 「恩師への手紙」より 2012/4/12

(前略)
今回は佐高卒業30周年記念大会(平成2年)において発行した記念誌「青春のあの日」
を、先輩、後輩、同期生、子供さん、お孫さん達に読んで貰いたいと思い、電子図書とし
て再現・記録することを企画した次第です。
電子図書においては著作権やプライバシーなどの権利を主張される人もいますので、原則
として掲載の了解を得た人、および亡くなった人のみと限定して掲載しました。
 幸いほとんどの方々から了承して頂き、すでに掲載しており、下記のホームページから
「青春、そしてそれから」を見ることができます。(その当時の幹事の一部から「青春の
あの日」という語句を使ってくれるなというクレームがあり「青春、そしてそれから」と
表題を変えています)


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本のある暮らし8 2012

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 8日(火)07時49分13秒
編集済
  .

          本のある暮らし8 2012




「無限回廊 第六回」を読んで
2012/1/3

 今回は私的な問題で、評を書く時間を持つことが出来なかった。だから万理さんの懇切
丁寧な分析と評に相乗りして、重複を避けるために詳細は語らないでおこうと思う。
これはまさに犬と雷が嫌いだったジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の
小説の神髄ではないか。現と夢、現在と神話、偶然と必然、地球と宇宙の世界を、時系列
的記述ではなく、意識の流れのように縦横無尽に自由に飛び交う想念の物語ではないか。
またこの小説の古代中国、ヘレニズム、ヘブライズムの古今東西に渡る膨大な知識はまさ
に圧巻である。
ちなみに「フィネガンズ・ウェイク」に込められた言葉は神話的世界と現代を取り込んだ、
駄洒落や比喩やゴロ合わせなどの言葉遊びに満ち満ちている。また日本語への翻訳は柳瀬
尚紀というとてつもない訳者を得て、その物語の異界さを充分感じさせられるものである。
 「フィネガンズ・ウェイク」にあってはハンフリー、イエス・キリスト、トリストラム
卿、トリスタンの恋人イゾルデ、アダム、イヴ等々であり、「無限回廊」にあっては、神
農炎帝、季炎、赤松子、ヘルメース、アフロディーテ、アイネイアース、壽夢、七娘、季
礼、孫悟空、ザインなど、その飛び方は並ではない。
 また一見博覧強記でとりつく島もないほど理屈っぽく、頑固で妥協を知らない「異風者
(いひゅーもん)」の典型みたいな作者が、とてつもなく洒脱で「剽げ者(ひょうげもん)」
でユーモア、ウイット、諧謔、隠喩に富むセンスの持ち主であることを、親しく付き合わ
ない人達には想像もつかないであろう。とにかく「無限回廊」に登場するバード・ブレイ
ン、グレイ・ブレイン、エヴァー、カミノの物語はこれからも、それぞれの個性のもとで
回し書き物として面白いものになるとあらためて確信した次第である。

参考:Wikipediaより
 原題 Finnegans Wake はアイルランドの伝説の大工ティム・フィネガンの物語にちなむ。
ティムは屋根から転げ落ちて死んだが、その通夜に生き返ったという。Wake はゲール語
で「通夜」を意味すると同時に英語で「覚醒」を意味する。また英語の Wake は航跡、
すなわちフィネガンの人生の行程を意味する。ここでタイトルにアポストロフィがないこ
とに注目したい。『フィネガンズ・ウェイク』のフィネガンは一人のフィネガンではなく、
複数のフィネガン、つまりは人類全体を暗示する。この作品の主題は、だれか特定の人物
の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なの
である。
 はからずも、このテーマはまさに「無限回廊」と同じくするものである。
英語による小説ではあるが、各所に世界中のあらゆる言語(日本語を含む)が散りばめら
れ、「ジョイス語」と言われる独特の言語表現が見られる。
なお、物理学における基本粒子クォークは、この作品の中の鳥がquarkと3回鳴いたとい
うところから、3種類の性質を持つクォーク理論の提唱者であるマレー・ゲルマン自身に
よって命名された。




「窓辺にて―そして、それから」より  (同人α31号作品)
2012.4月

◆読書のこと
『月とかがり火』
 最近チェーザレ・パヴェーゼ著の「月とかがり火」という本を読んだ。この本が仕事場
のサイド・テーブルに積まれた十冊ほどのなかにいつ紛れ込んだのか記憶がなかった。た
ぶん唯一の女性同人・M女史が数ヶ月前に置いていった四・五冊の本の中に混じっていた
ものであろう。発行年月日は1992年10月20日、出版社は白水社とあった。
 私は時々銀座の教文館に出向き、西洋小説のシリーズものを出版している白水社のUブ
ックスを探訪することを楽しみにしていた。そして三十年前まで、日に40本吸っていた
煙草の脂(やに)で褐色に変色した我が家の「チボー家の人々」や「モンテーニュの随想録」
「アラン全集」「シェイクスピア全集」などのお気に入りの本も白水社のもので、質のい
い本を企画している出版社だという思い込みが私にはあった。
 そういう先入観で「月とかがり火」を読み始めた訳だが、案に違(たが)わず主人公の生
き様を描いた深い内容の本だった。ファシスト、パルチザン、ドイツ軍などといった、違
った主張や価値観が複雑に混在する第二次大戦下の閉ざされた北部イタリアの田舎を舞台
に過ごす主人公。その後その村を出てアメリカに渡り、転々と職を変え遂には裕福になっ
てジェノヴァに住む。しかし出自の判らない私生児として生まれ、ジェノヴァが故郷とい
える係累(けいるい)もなく喪失感を覚える彼は、少年から青年にいたるまで過ごしたその
村を故郷として位置付けようとしてそこを再び訪れた。昔の想い出とともに語られる自然
の美しさ、そこに住む人々の人生を静かに懐かしく優しい目で語る文章には、作者の奇(き)
を衒(てら)わない性格と故郷にたいする深い愛情が感じられて、いい物語を読んだという
感慨が残った。
 私は最後にこの「月とかがり火」という題名が何を象徴しているかと考えた時、「田舎
の故郷と文明の都会」「脱出と帰郷」などの内容から、月はまだ見ぬ憧(あこが)れの「外
の世界」、かがりびは祭りなどで灯される村の生活を象徴する「内の世界」を表している
のではないかと解釈した。
 作者は、1950年6月に長篇「美しい夏」(「丘の上の悪魔」「孤独な女たち」併録)によ
ってストレーガ賞を受賞。続く新作「月と篝火(かがりび)」も注目を集めていた1950年8
月、トリノ駅前のホテルの一室で服毒自殺する。享年42歳であった。
作者の詩のなかに「ランゲは不滅だ」とある、ランゲの作曲「花の歌」は、次のURLで
そのピアノ演奏が聴ける。
http://www.youtube.com/watch?v=k4enxSzqJvg&feature=fvwre

『日本語が亡びるとき』
 山荘に越してきて荷物の整理やインターネットの環境設定など、住み付くための仕事で
疲れた夜、早寝のベッドの中で読むページ数は少ない。ほっとしていざ本を読み始めると、
三ページもしないうちに眠りに落ち込んでしまう。しかし一眠りした後の夜中、目が冴(さ)
えたときにも読むから合計すると結構捗(はか)が行くものである。既にナイトテーブルの
上にはたまに来るとき再度順繰りに読み返していた小林秀雄全集やアラン全集のうちの一
冊が載っているのだが、今回購入して読まないまま友人に貸していた水村美苗(みずむら
みなえ)著の「日本語が亡びるとき-英語の世紀のなかで」をやっと思い立って読んでい
る。
 水村美苗(みずむらみなえ)の紹介文には「エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を戦後日本
を舞台に書き換えた『本格小説』で2003年読売文学賞を受賞。2009年には『日本語が亡
びるとき』で小林秀雄賞を受賞している。また夏目漱石の未完の小説「明暗」の続きを書
いて「續明暗」で1990年芸術選奨新人賞を受賞する」とあり、いろいろの点に目をつけ
て問題提起するという、単なる物語作家というよりも意欲的な作家のようである。
 この本は「現地語」「母語」「国語」「普遍語」「話言葉」「読み言葉」等、独自の術語を
用いて国語について述べている。
水村によれば、話し言葉は発せられたとたんに、その場の空中であとかたもなく消えてし
まう。書き言葉は残る。何度も何度も繰り返し読むことができると言っている。
 確かにローマ時代カエサルのガリア戦記にあるガリー人(ケルト人)は知識レベルは高
かったというが、知識階級である僧侶たちが学問を独占していた。それは記録に残すこと
ではなく、暗記することで伝えられ、文字での記録を残すことを許さなかったという。そ
の一握りの特権階級の知識人達は文学、法律、天文学、医学を学び終えるまで二十年以上
も掛けて暗記したと言われている。だから彼等ガリー人はほとんどの文化を後世に残すこ
とはできなかった。
 明治維新のころ文部大臣の森有礼(もりありのり)は英語の国語化を提唱し、前島密(ま
えしまひそか)が漢字廃止論を、梅棹忠夫は日本語ローマ字化論を唱えている。
 さらに著者は言う。質と量において、日本文学は世界の最も主要な文学であるといって
いる。その国の長い歴史の中で育てられた文化はその国の言葉でしか表現できないものが
ある。だから表意文字「漢字」と表音文字「かな、カタカナ」交じりの複雑で表現豊かな
文字で書かれた日本文学は、普遍語(英語など)で書くことは不可能であると言っている。
 小林秀雄全集は昭和43年度版にも関わらず、旧漢字、旧仮名遣いを使っている。「文
体→文體」「文学→文學」「解釈→解釋」「想い→想ひ」など、作者が戦前書いた原稿のま
ま復刻してある。もし国語が漢字の廃止や仮名文字またはローマ字化されたら、日本文学
の古典は読めなくなるだろう。
 私は懐古趣味(かいこしゆみ)ではないが、群青色(ぐんじよういろ)や亜麻色(あまいろ)、
浅黄色(あさぎいろ)、鈍色(にびいろ)など日本古来の色彩の名称や旧漢字の表記に興味が
あり、忘れ去られた言葉などに郷愁(きようしゆう)を覚える方だ。話し言葉でしゃべるよ
うに書かれた文、漢字変換のミスや間違った記述などの修正もされずに捨て置かれる文な
どは、何の感銘も受けないし、肝心(かんじん)の書き手もその間違いを恥じて修正すると
いう処理をしないところをみると、二度と自分の文を読み返さないのだろう。要するにそ
の程度の安易な記述であり、読者もまた人の書くものに対しては真剣に読むことをしない
のだろう。
そう、話し言葉と同じように発せられたとたんに、その場の空中であとかたもなく消えて
しまう程度の内容なのだから、目くじらを立てて憤慨(ふんがい)するのも余計なことで、
カラスの勝手でしょうと開き直られるのが落ちであろう。
 水村が言っているように、普遍語(英語等)を全国民が血眼になって学習する必要はな
い。単に普遍語で日常のことを会話できるというだけで高邁(こうまい)な思想を語れる人
がどれだけいるのか。母国語できちんと思想や歴史や文化を習得していなくて、何を共通
語で語れるというのか。
 この本を読んで私は、「斜光」第17号に投稿した「人は死して何を残すのか」という、
我ながら恐ろし気な命題を掲げた一文と相通じるものを今更ながら感じている次第である。




色について」
2012/5/26

 神野佐嘉江氏の万理さんへという投稿をみて、色の表現がこんなにもたくさんあるのか
と驚いた。ずっと以前、神野氏が第二版の『日本国語大辞典』へ買い換えるときに、それ
まで使用していた第一版を無償で譲ってくれたことがあった。それがいま山荘の書棚に鎮
座している。私は今朝ひんやりした空気のテラスでコーヒーを飲みながら、その第二巻の
「いろ」の項目を調べて見た。あるはあるは、色という字の頭に付く表現がおそらく250
~300もあるのである。このことを見ても日本語の豊かさは行き着く所のない奥深さだ。

ちなみに神野氏の挙げた言葉のなかで目に付いたものを調べて見ると、
色大将:遊興、情事などに最も巧みな者
色奉公:妾や遊女として勤めること
色風:なまめかしい風。色っぽい風
それだけこの世が生々しい生の世界であることを感じる。色即是空の悟りはどこへやらで
ある。

参考:『日本国語大辞典』 小学館
   第一版 20巻21冊、1972年出版
   第二版 14巻15冊、2000年出版




「表現の技術」
2012/7/1

 朝日新聞2012.07.01に高橋卓馬著の「表現の技術」-副題:スキルを身につけるには-
という本の紹介があった。そのなかで「起承転結を壊す」「物語を説明しない」という面
白いテーマが説明してあった。
例えば緊張の表現として、どちらにより説得力があるか。
 A:「くそう、緊張してきた」と言う。
 B:無言で煙草に火をつける。その灰皿はすでに火のついた煙草がある。
 それはBということが分かるが、なぜか、と問われると、答えに窮してしまう。これは
鍛錬することで身につくことだと言っている。
 ではどうやって鍛錬すればいいのか。それは「起承転結を壊す」「物語を説明しない」
というナナメからのアプローチ法や外の面白い物語の構造を応用することだという。
◆「起承転結を壊す」
 物語を作るに於いて「起承転結」という方法は確かに文を書く人にとっては一つの指針
 になることではあるが、初心者からだんだん修練を積んで自分なりの言葉の表現とか物
 語性とかの個性を見つけると、「起承転結」といった固定した法則は必要なくなるであ
 ろう。またそうでないとその人独特の匂いというか、味わいというか、それを表現する
 作品に行き着かないのではないか。
◆「物語を説明しない」
 TVのミステリー・ドラマでうんざりするのは、犯人捜しの物語の終わりの15分間、犯
 人がどこかの断崖絶壁の寒い風の吹くなかで、何人もの刑事や被害者の関係者を取り巻
 きにして犯罪の経緯を延々と説明する場面である。これなどは物語を作る側の策のなさ
 を示しているに過ぎない。見る側はそのような状況はとっくの昔承知しているのだ。そ
 れに、なかには二重三重の理屈に合わないどんでん返しを得意とする作家がいるようで
 ある。「物語を説明しない」はまた、作者の解説や裏話の暴露といった、まったく「花
 伝書」も真っ青な代物になることへの警句だと言えよう。
面白い記事があった。
世界の雑記帳:「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言5月16日、
 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、
 英紙ガーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない。天国とは闇を恐れる
 人のおとぎ話にすぎない」とし、死後の世界があるとの考えを否定した。
 (毎日新聞 2011.05.18)

人間の生が精神と肉体の両方で成り立っている以上、どちらが欠けても人間として自立し
て生きてはいけない。死は疑いのない肉体の死滅である以上精神や魂だけが生き続けるこ
とはない。だから天国や来世があるということは物理的に無理な考えだ。
ただ子孫に引き継がれた遺伝子の連綿とした情報があるかぎり、一度生を受けた人の痕跡
は残り、それを来世と言えないこともない。
また、アメリカの女優シャーリー・マクレーンは南米の霊的な経験をもとに「アウト・オ
ン・ア・リム」という本を書いた。その中に「たとえ肉体は死んでも、原子は死滅せずこ
の世界に残る。それがふたたび植物や動物に取り込まれて生命を造ることになる」という
輪廻転生の意味づけをしている。なるほどそういう理屈もあるのかと思った。




「続生活の探求」を読む
2012/7/27

 数年前島木健作の「生活の探求」「続生活の探求」という絶版になった本を、日本の古
書データベースから探し出して、富山だったか-兎に角思いもよらない地方の書店にある
昭和16年発行、壱円八拾壱銭、弐円弐拾銭の二冊を求めた。太平洋戦争に突入した年に出
版されたこの本は、時代を反映する倹約の証のような凹凸のある荒いザラ紙の上に薄いイ
ンクで印刷されたもので、目の悪い私に読破することに数年苦労を強いたものだ。いま神
田の古本屋にも滅多になく、遠い地方の本屋にひっそりと残っていたと言うことは、小林
秀雄も実に好意的な論評を書いているのだが、地方ではなおさらのことこのようないい本
を読む人も少なかったのではないかと思われた。
 杉野駿介という大学生が都会の生活に疑問を抱き、学校をやめて故郷の農家を継ぎ、い
ろいろの苦労をしながら自分の生きる道を探すという物語である。
「すべての政治的組織運動には、権謀術策を伴うよ。嘘をつくこと、偽ること、欺くこと、
裏切ること、陥れること、憎み合うこと、非人情を敢えてすること」と友人の志村に言わ
せている。また「彼の言っている言葉に、彼自身の言葉は一句だってなかった。彼のしゃ
べった言葉は、みな彼の周囲の誰彼から聞かされたものばかりだ」と、駿介は二年ぶり上
京して本郷の大学で一緒だった友人の、生まれのいい秀才顔の後輩である三井の議論を聞
いて、そう思った。
 世の中の不条理や不満を言葉多く、声高に、政治的に託つのではなく、真面目にそして
真摯に身の回りの貧しい農民の生活のために努力する杉野駿介の生き方もまたあっていい
と思った。またもっとこの本は読まれてもいいとも思った。




「ブラックベリー・ワイン」
2012/8/31

 最近、ジョアン・ハリス著の「ブラックベリー・ワイン」を読んだ。
ベストセラーで映画にもなった「ショコラ」と同じフランスの片田舎が舞台。少年のころ
の追憶と、大人になった現在の物語を交互に語るという方法で書かれた、ちょっとミステ
リー調の物語である。
 この本を読んで不思議な巡り合わせを私は感じた。今回α32号へ私が投稿した「歪ん
だ風景-鐵橋」を書いた山荘が通称ブラックベリー・コテージであり、また「結界を張る」
についても二つの物語の要素を同じくしているからだ。たまたま読んでいる内にそれらの
言葉の符丁に驚いたものだ。
 この物語の語りは確かにうまく最後まで読ませるが、表現される警句や比喩やアフォリ
ズムは村上春樹が時々放つそれに似て、私の感覚に刺激を与える程でもなく通俗的であま
り好きではない。またロンドンを脱出して田舎暮らしを試みたのも、ピーター・メイル著
の「南仏プロヴァンスの12か月」も多少意識しているようだ。
 ところで、我が通称ブラックベリー・コッテージにはブラックベリーが有るのかと問わ
れそうだが、有ります。この山荘を建てた時からその山荘の名に恥じないようにといくつ
もの苗を植えたのだが、五年間一粒も実らなかった。しかし今年は十粒くらいが実り、今
青から赤に染まり始めた。もうしばらくすると漆黒のつややかなブラックベリーになり、
朝食に添えられるであろう。




「ブルックリン」
2012/9/1

コルム・トビーン著の「ブルックリン」を読んだ。
 アイルランドの若い娘が、故郷では職がえられないためアメリカへ渡る。ブルックリン
に住んで、あるデパートの売り子として働きながら、夜は簿記の学校に通う。

訳者あとがききに「家族間に結ばれる暗黙の義務感、運命を受け入れる静かな諦念。ジェ
ームズ・ジョイス、ジョン・マクバガン、ウイリアム・トレヴァーといった書き手たちが
切り開いたアイルランド人の内面世界を、新たに掘り下げてみせる」とある。
ここで ウイリアム・トレヴァーが出てきたのでなるほどと思った。以前彼の著書「アイ
ルランド・ストーリーズ」を読んだときも運命にあらがえない女性の静かな姿を鮮やかに
描いていたからだ。
 「ブルックリン」の主人公アイリーシュが姉の突然の死にあい、婚約者の元を離れてア
イルランドに帰郷した。そこで会った顔見知りの青年との二週間足らずの付き合いに、ブ
ルックリンに残してきた婚約者の影が薄れ、いま現に目の前にいる青年に心が移る予感を
持った。若さ故の迷いもあることではあると、読者である私もそう納得してしまいそうで
あった。だとすれば単なる若い主人公の生き様を画いただけの単純な小説だと思った。し
かし最後に主人公はブルックリンに戻る決心をして故郷を旅立つ。そこには感情のままに
故郷に残って青年と一緒になるということが、婚約者を裏切ることへの罪の意識のなかで、
情と理の狭間で揺れ動く心の葛藤を画いたもので、最後の決断は彼女の生きる上でのしっ
かりとした彼女自身規範を示したものである。
 この結末はその苦い味を表現した秀作だと私は思った。自分の心に正直であれという自
由奔放な生き方をした終わりであれば、通俗的な物足りない物語になっただろう。そして
これからも主人公は感情のままに後ろめたい行動に迷わされることなく、理を通して前を
向いて生きていくことだろうと私は感じた。




「語り」と「ことば」
2012/9/25

「語り」と「ことば」・ハイデガー「存在と時間」
 「語り」と「ことば」の両者の関係は、「語り」が外に向かって発言されたときとば」
になる。このとき「語り」は共同存在として属しているところの世界・内・物わかりを「意
義をあたえながら」分かつことである。聴く人は承諾したり、勧告し拒絶したり、警告し
たりしながら、言葉を受け取り、話合う。
 こうして語りは世界・内・存在の開示性を世界・内・存在を構成する。伝達は共として
の了解力を「分かつ」ことになる。しかし語りは、ことばの表現だけに限定い。音の抑揚、
転調、話のテンポ、「話っぷり」のあらわれである。したがって語現は、詩的(演技的)
な要素も要求され、全体的なパフォーマンスとして存在するこれらが了解に達するには、
それを語ることと並んで、「聞くこと」がある。語と聞くことは、了解にとっては一つの
セットである。語ることと同じく、聞くことても構成される。またその中には「黙ること」
も同じ意味を持っている。逆に、長ゃべることは了解の保証にはならない。「沈黙は金な
り」という言葉もあります。
とは、沈黙の方が意味が大きいことを意味する。
 しかしここでいう語りは単なる「おしゃべり」とはちがう。おしゃべりは、
「根無という性格を持っている。おしゃべりは相手が開示したことを了解することとは限
らそれを覆ってしまう。受け売り、自慢、吹きまくりといったおしゃべりは、根無しへ間
断なく流れてゆく。(荒木 清著「一冊で哲学の名著を読む」のなかの解説文)




北大路魯山人の「昆布とろ」
2012/11/3

 久しぶりに青空文庫を開いてみた。北大路魯山人の「昆布とろ」というエッセイが電子
図書に復刻されていた。夏の朝、食事の進まないようなとき、あるいはなにを食っても口
が不味いとき、日ごろの三杯飯は、知らず知らず五杯飯になること請合いである、と書い
てある。今時ご飯を三倍食べる人は珍しいだろうが、どうも美味そうである。
また東京人の舌は杜撰で荒っぽい、例えば、くどい味、油っ濃い味、粗野な味、手っ取り
早い味、落着かないせかせかした味、甘ったるい味というところに嗜好が動く、と続く。
 そういえば私が上京した半世紀前の東京の掛け蕎麦やうどんの汁は真っ黒くて、しょっ
ぱいだけの、ギョッとするような色と味だったことを思い出した。いまではどうも関西系
の味が流行っているらしく、すこし清まし風になり昔の江戸の味も変化しているらしい。
高田郁著の「澪つくし料理帖」にも、肉体労働者の多い江戸は濃い味を好むとあった。
ちなみに、澪とは船の通行に適する水路
澪(みお・水緒)とは舟の通った後に出来る軌跡
     澪つくし(澪標)とは航路を示す標識
 昔、息子の寝床で読んでやったユリ・シュルヴィッツの絵本「よあけ」のなかに出てく
る、まだ日も上がらない薄暗い山間の湖、澪を引くボートの印象的絵を思い出す。最近で
は「きみに読む物語」という映画で、これもまた朝まだきか夕暮れか失念したが、薄暗い
湖をレガッタで澪を引いて漕いでいるの最後のシーンが印象的だった。
 それにしても昆布とろとは美味そうだ。晩秋の鄙びた里の仕舞た屋で魯山人の料理を一
度食してみたいと思った。




「澪標ふたたび」
2012/11/8

          大阪市章

          


 テレビを見ていたら見覚えのあるマークが出てきた。たしかにあれは澪標(みおつくし)
だと直感した。先日北大路魯山人の昆布とろの感想を書いたとき、高田郁著の「澪つくし
料理帖」まで思いを広げ、澪標の意味を調べたがこの本にはいろいろの意味を含められた
のが判るような気がした。
 澪標の描かれた旗は大阪市の市章であった。すなわち「大阪の繁栄は昔から水運と出船
入船に負うところが多く、人々に親しまれ、 港にもゆかりの深いみおつくしが、明治27
年4月、大阪市の市章となった」と言うわけだ。
 「澪つくし料理帖」の二重の意味とは、 主人公の澪(みお)は大阪生まれであるとい
うことと、 澪標によって舟が安全に進むことにように澪の料理の修行を記述しているの
ではないかと私は思った。それにしても、日頃は何気なくやり過ごすこともこのように一
つのことが重ねて目に写るのは、身の回りの騒音や義理の付き合いや無駄な情報が少なく
なった環境に心が浄化されたゆえなのか。そうだといいが。

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原発 原発 3.11以降

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 6日(日)19時12分4秒
編集済
  .

           原発 3.11以降

                  2011-2012



[東日本大震災:2011年(平成23年) 3月11日(金)14時46分18.1秒発生]

◆何と言っても不思議なのが、地震が起きる数時間前に、著者が「原発のクリーンさ大い
に疑問」という題の投稿を入れたことだ。予感でもあったのだろうか。
◆丁度この一年前、同人α内で大きな分裂騒ぎがあった。2010.3.11朝、αの推進力の一
人だった著者が「オブジェクション最終回」を出した。続いて対立するもう一人の創立に
関わった人から「ホームページは自分のものだ」という書き込みがあったのだ。地震一年
前の騒動は地震の予兆だったのだろうかなどとつい考えたくなる。
◆奇しくもこの日は、高校同期の「横須賀軍港巡り」が催された日でもあった。
◆地震の時は、同人α27号の合評中であったが、これに続く同人が選んだテーマは「こ
んとん」「震災列島」「兆」である。 冊子にも大きく影響したようだ。
震災や原発に触れた評も多く見られた。  (編集部)




戯評-原発のクリーンさ大いに疑問
2011/3/11(金)10時05分53秒

朝日新聞の投書欄に「原発のクリーンさ大いに疑問」という題で、原発をクリーンエネ
ルギーと位置づける昨今の風潮には違和感を覚えるという投稿があった。たしかにテレビ
で電気事業連合会による「原子力発電は、世界中で約50年前から行われている発電方式で
す。その特徴は、発電段階においてCO2を全く排出せずに大量の電力を安定して供給する
ことができること、また、使い終わった燃料を再処理することにより再利用できることか
ら、エネルギー資源小国・日本における発電方法として重要視されています。
反面、放射線の慎重な管理が必要で、そのための対策が何重にもなされています。」など
と言ったことをTVで宣伝していますが、必ずしもそういいことばかりだけとは言えない。

 ウランを燃料化する過程でCO2を排出するし、燃料として使用するプルトニウムの毒性
は既知の毒物の中でも最悪レベルで「角砂糖5個分で日本が全滅」するという指摘がある。
そしてまたその廃棄物を深い海の底や、地底に封じ込めるにしても、その毒性の強いプル
トニウム240の半減期は6564年である。 その間にどのような地殻変動が起きて、生物に
影響を与える状態になるか予測できないのである。
 確かに石炭や石油といった化石燃料を今まで燃やしてCO2を排出してきた結果、地球的
環境変化の問題が生じ現在至っている歴史があるにしても、 核燃料による危険や負担を
これ以上未来に先送りすることは許されない。しかもその核燃料の廃棄物処理にようする
とてつもない費用は、今の電気事業の経費には含まれていないのである。

 私は核利用そのた諸々の純粋な科学的な研究のすべてに反対するものではない。しかし
「原子力発電はCO2を排出しないクリーンエネルギー」といった、一方的な報じ方にたい
して「はたして良いことばかりか」と問い直す必要があるといいたい。 これに反対する
意見も含めて、すべからくすべての情報は信じる前にもう一度検証した方がいいと感じた。




平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震
2011/3/13
       

横須賀軍港巡りのクルージングの参加で出かけてきたが、15:30出発の船に乗る寸前に
「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」M9.0の巨大地震が発生した。その遊覧船
は前の客を降ろすまもなく沖に逃げ去っていったので、このイベントは中止になった。
私は我が家に変えるべく皆と別れて京急の「横須賀中央」駅へ行った。しかし運行停止。
この寒空に小一時間ばかり待っても電車は走らない。さあどうしたものか・・・。

同じ釜の飯を食べたみなさん。確かにそれが美味かったかつらかったかは人それぞれのも
のでしたでしょうが、一晃さんの言のようにまさしく貴重な体験に違いありません。そし
て今回私にとってはいくつか得るところがありました。
一つは何十時間も歩いて帰ることがはたして理にかなったものであるか、闇雲にか判断す
ることなく熟慮してじっと動かないでエネルギーの消耗を押さえよい機会を待つのがこが
得策なのではなかということ。
二つ目は、次の日電車で品川まではスムーズに着きましたが、その先は電車が全く動いて
いません。そのとき老いも若きも感情的にならずに長時間静かに耐えている姿を見て、ま
だ日本は捨てたものではない、秩序を保てるこの国の将来はまだ大丈夫と感じました。
被災者はこれから大変でしょうが、古来よりこのようなことは幾度も経験してきて、その
たびに不死鳥のごとく克服、再生してきたからの現在の繁栄でありますから、きっと近い
うちに立ち直ると信じています。

最後に寒い「横須賀中央」駅で不安のなかで待っている私を捜しに来てくれた友情に感謝
します。また最終的にはヶ恵義君とも再会できて、なんだか運命共同体のような気がして
きました。
       





最近のニュースで気になること
2011/3/15

1.福島原発で露呈したもの
これだけ最先端の科学と技術の粋を集めた施設なのに、その運転・制御に関して幾重に
 もいたる安全装置が、かくも次々と不具合を起こすとは信じがたい。この施設の精密さ
 と雑さの落差は何であろうか。企画者はその程度の想像力しか無かったのだろうか。こ
 のような稚拙な思想を見せつけられると、今までの隠されただろう数々の不具合を思い、
 原発の国家プロジェクトとしてそう単純には肯定できなくなる。

2.首都圏での食料品、水、ガソリン等の買い占め
昨日買い物にいったスーパーには米、パン、牛乳、飲料水も無くなっていた。それは被
 災地に優先的に回されたから品薄になったのだと思っていた。
そういえばカートに山盛りにつんで買っていく人がいたのをたくさん見た。私達はいつ
 も考えが甘く、石油ショックのときもトイレット・ペーパーや洗剤なども買いそびれて
 しまったことがある。今回も被災地でもないのでそこまで考えが及ばなかったが、それ
 にしても変に目端が利くというか、はしこい人がいて自分さえよければというセコイ考
 えの故だろう。もちろん自己防衛的な本能だからある程度はやむを得ないこともあると
 思うが、必要以上の量を自分だけ確保するという、互助精神に欠けた根性がさもしいか
 ぎりである。日本のほとんどの地方や人たちが災害にあった訳ではないから、その人達
 はもっと冷静に行動すべきであると思った。数日前に冷静に電車を待つ人々に困難に立
 ち向かう冷静さを見て心強く感じた後だけに残念である。




イカロスの羽根
2011/3/18

今度の原発事故を見るとギリシャ神話のイカロスを思う。
ダイダロスとイカロスの親子はミーノース王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉さ
れてしまう。彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、イカロス
は父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

とにかくこのシステムはなかなか閉じることをしない危険さを含んでいる。核廃棄物は活
動を停止するまで数千年、数万年のあいだ暴発しないように冷却しながら30年、その後数
万年の間地中深く保管を必要とするという。しかし今回は反応を続け放熱を止めない使用
済み燃料を制御するための保管プールの水が涸れ、高温爆発したことによる事故である。
これからもまたこのような災害や人的ミス、機能停止などの正常な管理がされない状態に
陥ればいつでもこのような事故が起きることになる。
水力発電や火力発電のように不慮の時に中止をしようとすれば、その後の危険は何もない
状態にすべてのシステムが停止できるが、原発だけは何十年も危険を出し続けるという閉
じないシステムであることを心すべきだ。

人類は今、一昔前には自然の行為でなかった、神の領域であるかもしれない遺伝子操作や
臓器移植、人工授精、脳死問題などの社会的問題が生じるのと同じく、核融合や核分裂、
核兵器などの禁断の実に手を出し、自然のバランスを壊し人類の未来を終焉に向かわせよ
うとしているように思えて仕方がない。




寄せ集め記事
2011/3/25

今頃掲示板に後出しじゃんけんの本舗による反体制側権威筋の走狗をみかける。
寄せ集め記事の変酋長。テーブル叩きの名手。
もうすでにその辺のことは私でも言っている。X氏はオリジナルな感覚が全くなく、人が
説明していることでないと気づかない。だからどの文章を読んでも、
亜流であるから、借り物の言葉だから人を感動させない。ちっともおもしろくない。




原発について
2011/5/26

朝日新聞・論壇時評  2001.05.26
非正規の思考という副題のついたコラムで、原発について二人の見解が面白かった。
関曠野氏は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているものとする。それは、
日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるので
ある、と言っている。

中沢新一氏は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」
のまま持ち込んだ原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系
を破壊する、と言っている。
福島原発の事故で、今までいろいろのコメントの投稿を見てきたが、経済的、効率的、有
害性、での有用性などの卑近な問題解決に始終しているようで、関氏や中沢氏のようにも
っと大きな観点からの有用論、不要論の論を見なかったのが残念だ。

私は少し前に書いているように、問題が起きたときに即座に停止えないシステムは、人間
の生命を脅かすのではないか。他の自然エネルギーによる発電システムは停止したときに
全てが終了する。しかし原発だけは停止したあとの数十年数百年数千年もの長きにわたっ
て制御されなければならない代物なのだ。一世代で解決し得ないシステムの事故をどのよ
うに解決し、誰がその責任をとるのか。そう考えれば自ずと原発の人類に及ぼす益よりも
害の方が格段に大きいことがわかるだろう。




2011年 7月18日の某掲示板投稿記事を読んで
2011/7/19

いつものように本当の問題点が判らないH氏だ。
要するに、燃料価格に課せられる国税を低くして地方自治体(原発を抱える自治体)への
課税率を上げるということではないか。
ここでも原発による税金「核燃料税条例」が地方自治体によって定められ、かつその自治
体だけの収入として許されているということが問題ではないだろうか。そして一地方自治
体だけが潤沢な税を徴収できる仕組みは事態がおかしいのではないか。
原発の立地への見返りとして、反対意見の懐柔としての甘い餌ではないか。
福島原発の事故をみても、いったんことが起これば近隣の自治体は勿論、放射能汚染は国
民全体に及ぶにもかかわらず、投下される潤沢な資金、税を一自治体の了解だけで決定し
ていいものか。いったん事故が日本全体に広がったとき、その原発のために潤った自治体
は電力会社や国の責任にして済ましていられるか。
などを考えると「核燃料税条例」なるものの胡散臭さが見えてくる。H氏はこのような重
大なシステムの問題が見えないままに、数値への疑問だけに頭が回っていない。やはりネ
ジが数本足りないと言わざるを得ない。




「人の像をした美しい青い地球」の感想-1
2011/7/31

 作者は次号の同人α第28号の「震災列島」という表題を決めるに当たって、東日本大
地震に思うこと」というコメントを書いている。それはまさに政治や行政不備や世の中の
不条理をかこつこというよりも先ず、真っ正面からその事態に向き合い率直に恐れ戦いて
いるのが印象的である。
 それは現実的な問題の欠点を洗い出したり、その対処方法を論じたりする人もいるだろ
う。むしろそういう人の方がほとんどだと見受けられた。たとえば原発などの可否を論ず
るにおいても、想定外のことだからやむを得ないとか、もっと二重三重の安全システムを
作るべきだとか、原価計算にごまかしがあるなどといった現実的なことから反対を説き起
こす論が多かった。しかしもっと基本的なこと、すなわちずっと以前から識者の間で警鐘
を鳴らしてきたことだが、理論的に危険な物質を扱う制御システムが困難な原発が、これ
から未来にむかって人類の存続に責任持がてるだけの制御能力があるかどうかを考えるこ
とから初めなければいけないと思う。私はこの物質を無毒化するために何十年も何万年も
の間暴れ出さないようにただ静かに管理しなければならないことを思えば、未来の人類に
その付けを残す原発に手を染めることは問題が多いように思える。

 「僕は福島原発が恐ろしかった。爆発したら何十万人もの人々がその被害に苦しむ。事
態は悪化の一途をたどっていた。この時期僕は自分が「心弱く」なっていることを知った。
誰かの側に寄り添いたい。誰か側にいて欲しい。ぎゅっと引き寄せたい。そして談笑して
過ごしたい。こんな経験はこれまであったかなかったのか。また、被災者の中には地震、
津波が恐ろしくて、思い出しては震え泣きわめく人も出てくるという。この時人間は「心」
であるように見える。当方は、心に領されている人間というものを今回初めて思い描いた」
と作者は告白している。





             非日常 投稿者 万理久利 2011/8/6
        




非日常
2011/8/7

無謀にも絵の解読を試みました。緑の大きな矩形は福島第一原発の破壊された第1号機か
ら4号機を表し、青丸はセシューム、赤丸はプルトニューム、黒丸はヨウ素、白丸は原子
力安全保安院と東京電力の白々しい言い訳、黄丸は根拠の薄い風評と思いました。




「選ぶべき道は脱原発ではありません」
2011/10/21

朝日新聞2011.10.21
選ぶべき道は脱原発ではありません  国家基本問題研究所 理事長 櫻井よしこ
という意見広告が載っていた。
主旨は
「原発事故で大きな岐路に立つ日本。事故は二つのことを教えてくれました。事故が原発
管理の杜撰さによる人災だったこと、震源地により近かった東北電力女川原発が生き残っ
たように、日本の原発技術は優秀だったこと、この二点です。いま日本がなすべき事は、
事故を招いた構造的原因を徹底的に究明し、より安全性を向上させた上で原発を維持する
ことです。選ぶべき道は脱原発ではありません。」とある。

もともと櫻井よしこ氏は保守主義の論客と思って見ていたが、これは彼女だけの執筆では
ないかも知れないが、このようなすり替えと乱暴さに疑問を感じないほど雑な論理展開を
する人だとは思っていなかった。これは有利な事実だけをとりあげて、不利なものを無視
してでも論破するぞという、手段を選ばない強引さを感じた。いろいろのレトリックや詭
弁を臆面もなく使いそうだから話半分に聞いた方がよさそうだ。

さてその主旨書を読んで三つほどの疑問があった。
一つは必ずしも震源地に近いから被害が大きいという思い込み。どの程度の検証がなされ
たのか。今話題の長周期地震動などは震源地から相当遠いところでも大きな被害をもたら
すもので、この現象の学術的検証は始まったばかりなのである。だから原発の建築の形態
や立地地盤や環境による条件が違えば一概に断定する事は出来ないのではないだろうか。

二つ目は日本の原発技術は優秀だったことど断じているが、スリーマイルやチェリノブイ
リなどと比較しても大きい災害、しかもそれらの数十年後に起きた事故ということをみて
も、とても優秀であると断定はできないはずだ。

三つ目は「事故を招いた構造的原因を徹底的に究明し、より安全性を向上させた上で原発
を維持することです。」という意見を言う一方で、調査や原因究明をする前に二つの断定
をしていることは大いに矛盾する論理ではないのか。

どうもこの手の保守主義者の観点があまりにも国益に偏っていて、人類の存続といった大
きな観点が欠けているように感じられる。国益を守れても地球上に人間が一人も住めなく
なったら結局元も子もなくなるだろうにと思ったことだった。




原発について
2012/6/22

碇さんや被災住民さんの原子力発電に関しての見解に私も基本的に同感である。
私は東日本大震災のすぐあとで下記のようなコメントをここで書いたことを思い出した。
<イカロスの羽根 2011/03/18>
今度の原発事故を見るとギリシャ神話のイカロスを思う。
ダイダロスとイカロスの親子はミーノース王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉さ
れてしまう。彼らは蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出したが、イカロス
は父の警告を忘れ高く飛びすぎて、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。

 とにかくこのシステムはなかなか閉じることをしない危険さを含んでいる。核廃棄物は
活動を停止するまで数千年数万年。暴発しないように冷却しながら30年、その後数万年
の間地中深く保管を必要とするという。しかし今回、反応を続け放熱を止めない使用済み
燃料を制御するための保管プールの水が涸れ、高温爆発したことによる事故である。これ
からもまたこのような災害や人的ミス、機能停止などの正常な管理がされない状態に陥れ
ばいつでもこのような事故が起きることになる。
 水力発電や火力発電のように不慮の時に中止をしようとすれば、その後の危険は何もな
い状態にすべてのシステムが停止できるが、原発だけは何十年も危険を出し続けるという
閉じな いシステムであることを心すべきだ。

 人類は今、一昔前には自然の行為でなかった、神の領域であるかもしれない遺伝子操作
や臓器移植、人工授精、脳死問題などの社会的問題が生じるのと同じく、核融合や核分裂、
核兵器などの禁断の実に手を出し、自然のバランスを壊し人類の未来を終焉に向かわせよ
うとしているように思えて仕方がない。

<朝日新聞・論壇時評  2011.05.26>
非正規の思考という副題のついたコラムで、原発について二人の見解が面白かった。
関曠野氏は、原子力は本来ニュートン物理学の枠外に位置しているものとする。それは、
日常の感覚では理解できない種類の存在であり、それ故、人びとを不安に陥れ続けるので
ある、と言っている。

中沢新一氏は、生物の生きる生態圏の内部に、太陽圏に属する核反応の過程を「無媒介」
のまま持ち込んだ原子力発電は、他のエネルギー利用とは本質的に異なり、我々の生態系
を破壊する、と言っている。
福島原発の事故で、今までいろいろのコメントの投稿を見てきたが、経済的、効率的、有
害性、での有用性などの卑近な問題解決に始終しているようで、関氏や中沢氏のようにも
っと大きな観点からの有用論、不要論の論を見なかったのが残念だ。

私は以上の人達が示したような、原発または石油・石炭・自然再生エネルギーなどの経済
的な効率の比較やメリットの論議で、反対・賛成を論ずることでなくもっと根源的な観点
で、原発がはたして人類の未来にとって許されるものかどうかというところから考え直さ
なければならないと思う。

最後に、東電は想定外の津波による災害だと断じているが、冷却水の二次電源が設置され
ていなかったという欠陥以前に、私はあの強烈な地震の揺れによる縦横に走る繊細な配管
類が破壊された可能性があったのではないか。原発の基本的な部分は地震に耐えるように
設計されていても、それを支えるものが破壊されればシステムは動かなくなり、早晩今回
の事故は起こるであろう。東電はこのことを話題にされたくないであろう。なぜなら、地
震による破壊は絶体にないと安全宣言して原発を作ってきたからである。

また、いくら安全の精度を上げてシステムを守っても、人間の操作ミス、意図的な作為に
よる機能破壊はまったくゼロにはできない。それを考えると人類の未来に持ち越すような
災害をなくすためにも、機能停止が即座に満足に出来るようなシステムを確立してエネル
ギーを得るしかない。限りなく安全に考慮するとか、これからエネルギーの不足で経済活
動に支障がある等と言った議論でことを納めるのではなく、全廃にすべきだということが
私の反対の基本的な考えである。

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原発 3.11以前

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 6日(日)17時38分15秒
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            原発 3.11以前

                    2007-2009





プルサーマルのCM
2007/3/3

経済産業省始原エネルギー庁の、「もったいないの母国だからこそ、『プルサーマル』で
リサイクル。という新聞広告が載っていた。
  ・日本のエネルギー自給率は、わずか4%。
  ・電力の1/3をまかなう原子力発電の燃料・ウランも輸入資源です。
  ・プルサーマルで、限りあるウランの有効活用が図られます。
  ・プルサーマルは、海外で40年以上の実績があります。
  ・国内の実証試験でも、良好な結果が確認されました。
  ・国が厳正な審査・チェックを行います。
などと、地球温暖化や自給率などの危機感を煽って、原子力発電を止むなく選択せざるを
得ないような論調である。
他国はプルトニュームを使用する原発を減らしていく傾向にあることも論じていないし、
十分審査・チェックするから安心といっているが、これだけ事故を起こししかもそれを隠
蔽している現実をみれば、単純に認めるわけにはいかない。

「日本の天然林を救う全国連呼びかけ人」のC・W・ニコル氏の「伐採をやめ環境省に移
換を」という記事が載っていた。
林野庁は無駄な天然林伐採をやめ、管理を環境省に移管せよとの主張である。




プルサーマルの問題
2009/10/1

 随分昔、日本へ原発が導入された頃、私は本で「メルトダウン」とか「チャイナ・シン
ドローム」という言葉に興味を抱いたきっかけは、アメリカのスリーマイル島の原発事故
からであった。その事故が起きる前は、日本の原発は安全基準がしっかりしているから全
く心配ないと説明されていたがその後続々と事故を起こし、その厳しいと言われた基準そ
のものが曖昧なものだったことが判明した。
 今回のプルサーマルの原発はプルトニウムを多く含むもので、その化合物は人体にとっ
て非常に有害である。プルトニウムはアルファ線を放出するため、体内に蓄積されると強
い発癌性を持つといわれている。またいちどメルトダウンや水蒸気爆発をおこした場合は、
広大な範囲に飛び散り住環境に多大な影響を及ぼしかねない。ましてやプルトニウムの半
減期は約2万4000年であり、無害になるためにはとてつもない時間を必要とする。
昨年の洞爺湖サミットで地球温暖化ガスを減らすためには、原発も必要だという共同声明
が出たのには驚いた。
 いずれにしても人類に多大な影響を与えかねないものに対しては、例え暮らしの便利さ
が停滞したとしても、十分新調でなければならないと思った。だから私は明日の 佐賀で
プルサーマル使用に反対している牟田さん達グループが今回民主党に再検討を訴えるため
の参議院会議室へ出向こうと思う。




STOP プルサーマル運動
2009/10/3

 九州電力玄海原発3号機(佐賀県玄海町)で始まるプルサーマルをめぐり、ウランとプ
ルトニウムの混合酸化物(MOX)燃料を原子炉に装てんする作業を3日から行うと唐突
に発表した(9月30日)ことを問題とした質疑の会議に出席した。同期では佐賀から牟
田さん、東京から北島君、田村さんと私三人が参議院会館の会議室にはせ参じた。
 話の内容は既存の原発を廃止しろという極端な話ではない。人体にとって非常に危険な
プルトニュームを多く含むMOXという燃料を使用した発電をすすめるプルサーマという
政策の実施は時期尚早であるから、慎重に検討すべきだという住民の意向である。
しかし、出席した小難しい二つの担当部署役所の官僚とのやり取りのなかで見えてきたも
のがある。
 一つはこのプルサーマルを進めるためのタイムテーブルが、国策という名のももとに真
剣な検証もなされていない。検証がなされたかも知れないが、詳しいデータはないの一点
張りで僅か三枚の書類しかないような、まさしく机上のプランだったことが判明した本当
のところ詳しい資料が地下の倉庫に隠してあるかも知れないのだが・・・。
 二つ目はその燃料を再生するための高速増殖炉もんじゅが、ナトリウム漏洩火災事故の
後まだ再稼動のめどが立たず、そのタイムテーブルから大幅におくれているということ、
またMOXの廃棄物の処理方法や廃棄場所も確定していないということ。それでもプルサ
ーマルの発電のみを推し進める政府の意向が異常であるように思えた。
 三つ目は官僚の体質が国民のためと言うよりも、一度策定された者に対しては何が何で
も守ろうとする体質で、そこには世論が代わろうとも決して国民の側を向いていないこと
である。それは丁度八ッ場ダムや川辺ダムと同じことである。五〇年近くも成就しない政
策は、そこにどうしても進めなければならないという強い理由がもともとなかったからだ。

 以上の見聞により、はなはだ個人的な意見であるが、これまでの「能吏」といわれた官
僚の体質の変革を求めるとともに、地下の倉庫に忘れ去られた詳しい資料も太陽の下に晒
すという情報公開を民主党には徹底的に推し進めてもらいたい。そうすれば官僚の体質も
「公僕」という理念を思い出すだろう。

633

 

オキシモーラン1 2002-2008

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 6日(日)16時59分32秒
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       オキシモーラン1 2002-2008





 「Oxymoron」オキシモーラン(オキシモロン)はあまり聞き慣れない言葉だ。
英和辞書には「撞着語法」と短く書いてある。
撞着、矛盾だから、矛盾した言葉を結合させる語法のようだ。
「語法」とあるからには、この矛盾したものどうしの結合から新たな世界を創るとい
うひとつの試み、方法なのだろう。
 オキシモーラン活動を地道にしてきた神野氏の作品を思い浮かべる、その神野氏を
師と仰ぐ赤松氏の作品を思い浮かべる、確かにどこかその匂いがする。極めて論理的
な人が、矛盾する言葉を並べて遊ぼう、試そうとするところがまた興味深い。

 二人が直接的にこの言葉を説明したに記事はないかと探してみたところ、神野氏が
ほんの少しだけ触れていた。
 ……………………………………………………………………………………………………
 『言葉集め星造り』も着想は二十代です。これは、言葉が、単語から句、文、
  話へ大きくなるのを、宇宙の膨張になぞらえたものです。こちらでは、れいの
「オキシモーラン 0xymoron」、言い換えると、俳句用語で言う「取り合わせ」
  や「二者合体」を楽しみつつ、言葉の全相に迫ろうと試みたものです。
 ……………………………………………………………………………………………………
とある。なるほど、なるほど。         (編集部)





パラドックス 2002/11/12  落書き帳

戦争について考えるに、人はなぜ平和を得るため武器を持って戦うのでしょうか?
武器のない争いのない平穏な生活を望むために、人を脅かす戦争という手段を用いることに矛
盾を感じないのでしょうか?これは平和のために戦争をというパラドックスの罠には填ってい
ます。

また、人はすべて他の生き物を殺し、食すことでしか生命の維持が出来ないことは実に罪深い
ことではないでしょうか。これはまたパラドックスの極地であり、宗教でいう「原罪」はここ
に行き着く想いではないでしょうか?

このような矛盾の中でしか生存できない私達生き物であるならば、それでも「生きる」という
名分を見つけなければならないのですが、私にはまだ解答が得られないのです。




暇と金の関係  2003/2/9  落書き帳

暇があれば金がない、または金はあるが使う暇がないと世間ではいいますが、そりゃー両方あ
るにこしたことはありません。しかしこの世情では片方でもあればめっけものと考えて楽しん
だが得でしょう。

私なんざー、自慢じゃないが今も昔も両方とも縁がない人生でごさいます。
最近やっと疫病神と貧乏神に三下り半をしたためて、引導を渡そうかと密かに目論んでいる次
第。その前に力つきてくたばるやも知れませんが・・・。




速さがとりえ   2003/2/4  落書き帳

blackmail:恐喝する,ゆする
blackout:停電,記憶[意識,視覚]喪失

「計三個の問題です」とありますが、もうひとつは何でしょう。
作者がとつぜんblackout(記憶喪失)したか?質問の意味を解さない私がblackout(停電)
したか?

あとで読み返してみたら、「ランゲルハンス島の住人」が「ランゲルハウス」になっていた。
やはり、私の脳のほうに問題があることを発見した。




I氏へ   2003/2/4

ずっと昔、読書家のI氏から最先端科学の「複雑系」の話を聞いた覚えがありました。そのと
きはたいした興味を覚えなかったが、最近「量子力学」・「超ひも理論」などをへて「複雑系」
の本を読みました。

ところで、「nさんへ」の投稿をみると堅物ばっかりと思っていたI氏もそのようなユーモア
の持ち主であることが判って嬉しいですね。

小生も自分ではよく出来たと思うのですが、そのようなダジャレを息子から「親父ギャグ」と
白い目で一笑にふされ続けています。しかし、「親父ギャグ」は江戸時代よりつづくダジャレ
を継承していて言葉遊びの一つの文化でしょう。同音異義や何かに見立てる掛詞などを瞬時に
組み立てて表現することは並の業ではありません。

話はかわって、異風者氏は「読書会」ば自分と違う傾向の本をテーマにしているとこのHPに
書いておられたが、それは違います。参加した人が次の本を決める訳ですから、漫画・エロ・
科学・哲学・神学等、そのジャンルは問いません。

そう言うわけで、是非「読書会」に参加されて、私共を「構造改革とロジステック方程式」や
「零式艦上戦闘機」の迷宮へ誘って欲しいと思います。




さすが教授! 2003/12/19   落書き帳

さすが教授、比較文化はいよいよ佳境にはいりましたね。なかなか面白い。
「古事記」上巻神武天皇の巻に「大便之溝涼下」あるように、古来の日本は厠といって川の上
につくり、そのままポトンと流していたそうな。雷(いかずち)の神の母親は厠で糞闘中、川
を流れ下って来たさる男性の神様にレイプされて妊娠し、雷(いかずち)の神を生むときその
熱さに「御陰(みほと)焼かえて失せにけり」だったとか。比較文化これからも楽しみにして
います。




アクセス20000   2003/12/25   落書き帳

遂に20000番目のアクセスに成功。朝から狙っていたかいがありました。
楠葉さん、骨折したとはお気の毒に。徒然草第八九段の「猫また」に襲われての災難ではあり
ませんか。吉田兼好は現代に立派に通用する実に合理的な考えの持ち主のだと小生は思いまし
た。




K・Mさん導管です
2004/6/3  落書き帳

K・M生さんの「黄泉売」批判に同感します。哄笑六百漫部という毒者数日本一を驕りにした死体
砲台の厚意は、えがわ・くわた嚇匿の暗躍問題に始まって、殺束でひっぱたいて一竜選手を収拾
し、業界のルールを蹂躙した罪はおおきい。

同じく、国連決議も虫視し耐儀もないまま、駄々子のようにイラクに剣禍を噴きかけたアメリカの
凋落をそのとき核心しましたね。マケドニアやローマ、スペイン、大英帝国といいそんなに繁栄は
未来永劫と続かなかったように・・・。




解読に閉口しましたか? 2003/6/4      落書き帳

当て字について叱られてしまった・・・ハハハー。
(ここは好きだった枝雀の照れ笑いを思い出してください)

たまにはジェームス・ジョイスの「フィネガンス・ウエイク」の筆法もよかろうと考えました
が、底が浅かったようで・・・ハハハ。




応援ありがと 2004/6/5   落書き帳

当て字文をK・M生さんから賛同をえて安心しました。時の権力者に対する批判や社会の風潮
に対する風刺やあざけりの意をふくんだ匿名の文書を人目に触れやすい場所に落とし人に拾わ
せたり、相手の家の門壁などにはりつけたものがあり、平安時代からみられたもので詩歌形式
のものを落首(らくしゅ)といいました。この落書き帳も少なからず、見事な言い換えや掛詞
などで庶民の気持ちを代弁する精神を受け継いだものだと私は勝手に解釈しています。そうい
う訳でおおいに世相を風刺し、笑いとばしましょう。

昔こういう文をつくりましたが残念ながらホームページではルビが使えず、解読に難しさがみ
られます。
あえて( )書きのふりがなを付ければいささか間が抜けていてしまりがないのが残念です。

重苦念男起(じゅくねんおとこたち)のバードウオッテイング泡酷暑(ほうこくしょ)

                         壱千九百九拾九.Ⅹ.弐拾七
                         ランゲルハンス島の住人 記


K.M君、M.O君、M・K君そしてしんがりに控えし将星(しょうせい)、もっと精強(せ
いきょう)かと奇態(きたい)したのだが、たった4人の盗見会(とりみかい)でありました。
“霧理(ぎり)と刃傷(にんじょう)を大拙(たいせつ)に”をモットーとして夜渡(よわた
り)りしていると思しき者のみ討ち揃い、暗き孔より除見(のぞきみ)たる爺蔦(やちょう)
の数々。革兎(かわう)、白詐欺(しらさぎ)、阿保詐偽(あおさぎ)、大蛮(おおばん)、
怪粒梨(かいつぶり)、さて最期に磯市議(いそしぎ)の搭乗(とうじよう)。はたと思いう
かべしは、襟座辺数(えりざべす)・手柄裸(てーらー)と痢茶℃(りちゃーど)・罵豚(ば
ーとん)、稚野留守(ちゃーるす)・風呂運損(ぶろんそん)のお撒けつき、吸什然(すうじ
ゅうねん)まえの死値馬(しねま)の輪題(わだい)に観劇(かんげき)し輪飲(わいん)
2罠(ふたびん)をたいらげて迷亭し、絵殿(えでんの)の乾菓子(ひがし)の沙里茄子(さ
りなす)か磯市議(いそしぎ)の門テレ(もんてれー)を彷徨したれば夢心地の壱日ではあり
ました。

ベルギー在住の方には難しかったかな・・・それともくだらなかったか。
正確な日本語を思い出そうという努力を台無しにしたかも・・・。




開けられたパンドラの箱 2004/6/9      落書き帳

ダグウッド・ブッシュに「パンドラの箱」を与えたのは誰だ?勿論アメリカ国民の過半数によ
ってね。

彼は禁断のその箱を皆が「止せ」という忠告も聞かず開けてしまった。ゼウスによって封じこ
まれたこの世のすべての悪と災難がいま世界に充満しようとしている。貪欲・中傷・虚栄・疑
心暗鬼・飢餓・破壊・・・。

いまはブロンディにダグウッドの乱暴を止めるよう頼むほかないか・・・この空想と現実がご
ちゃ混ぜになってしまった悪夢もそのせいか?

混沌の世の中、それでもなお「パンドラの箱」の底に最後に残った「希望」が人類を救うこと
を願いたい。




光電盤も賑やかになりました 2004/ 6/10    落書き帳

この光電盤も海外からそして兎小屋の屋根裏書斎からと、いろいろの職歴、いろいろの思想の
持った人方々が自由に自分の意見を発信し、実に多彩で賑やかになりました。二年前には想像
もつかない発展ぶりです。そのうちいっぱい飲みながら覆面懇談会でも開催しませんか?

K・M生さん ランゲルハンス島には全ての人の細胞もすでに住んでいることを報告します。
なお私は下記のごとく人間の腑臓の中枢に住む天邪鬼であります。

すいぞう(‥ザウ)【膵臓】・【ランゲルハンス島】
胃の後下部に位置し、消化腺と内分泌腺とが合一した臓器。人では長さ一五センチメートルぐ
らいの細長い木の葉状をなす。消化酵素を含む膵液を膵管によって十二指腸に分泌する。
内分泌機能としてはランゲルハンス島から血液中にインシュリン・グリカゴンなどを分泌する。
ランゲルハンス島の名はランゲルハンス(Langerhans)という ドイツの病理学者の名から
とってつけられた器官であります。




やめてえー候。  2004/11/3        落書き帳
笑声も輪大の「客死剣・オニの瓜」を奇態して診る心算でありますが、かっちゃん!!
あまり商才な回折は困りまする。最期の愉しみに撮って奥いた叛忍を細書に夢夜矢離報された
ようで京見が半間致すは必定・・・。
憎まれ愚痴のついでに、この欄の投降も十行くらいに納めるという諦闇を死体がいかが?
磯がしい時は投降文があまりの永さだと半分も詠まない人も大飯ともおもうよ・・・。









*「パラレル宇宙 第一  ばけつピアノ」 2007/11/26 旧α掲示板 *同人α13号

◆ もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」を作ろうと提案し
 てきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合によって新
 しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もいくつ
 か試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A
 列は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列
 それぞれに乱数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番
 号をそれぞれ若い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、
 「民主主義における無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」など と判
 じ物のようなものが出来上がった。
◆ さて北君の作品のエネルギーは上に書いたような理屈から生まれ出るものであろ
 う。そしてそこに描かれた二つの異物である植物や鉱物が合体して妙に人間的にぎ
 にぎしく騒々しく、まるでブリューゲルの「子供の遊戯」の絵のような行動をとり
 始める。傍観者である私はその理にかなわぬ行動や言動に諧謔やユーモアを感じな
 がら想像も付かない情念の世界のまっただ中に放り込まれ、全く性質の違った言葉
 同志のミスマッチによるおもしろさをかみしめる。
◆ それにしても現在はアバンギャルドというかアナーキーな前衛芸術というか、す
 っかり影を潜めてしまっている。これは既成概念に支配されて満足しているだけの
 活力のない社会になってしまったようで、学園にもイデオロギーに被れた若い学生
 達咆哮もなく、北島君の担当した「同人α」第3号の表題である「狂気」をも持ち
 得ない人達ばかりになってしまったのか。などと世間にたいして斜に構えながら肉
 体的には衰えても精神的には老成したくはないそとばかりに勇みこんでいる。
 しかし、だから、そして、これでは「パラレル宇宙」の評になってはいないな。
 北君ごめんなさい。




*「シリーズ・歪んだ風景-異星人」の合評のお礼 2007/12/9  旧α掲示板 *同人α13号

私への合評のお礼が北島氏論のまっただ中に割り込むという間の悪い行為で申し訳あ
りません。私の行動はいつも人の歩調に合わない・合わせない「ずれずれくさ」のて
いたらくであります。

◆ 「知の論理」という本の中で<欲すること>と<知ること>のあいだのある決定
 的な断絶について論じた文がありました。その中に吉田戦車の「伝染るんです」と
 いうマンガについて「圧倒的なナンセンスの氾濫のなかでも、ほとんど傑作とよび
 たいくらいのぷっつんぶりで、そのユニークさや不気味さを気味悪いくらい鮮やか
 にさししめしている」とあります。その四コマ漫画に出てくる少年は、事故かなに
 かで脳を傷つけたらしいと思わせるような、頭に血が滲んでいる包帯を巻いていて、
 彼の発する言葉は話し相手にはどうしても理解できないもので、そのずれは分裂症
 の患者の発する言語に似ているようです。私はそのような不思議な論理でコンタク
 トをとろうとする思考の根拠と言葉による意思の疎通の可能と不可能についてこれ
 からも知りたいと思っています。
◆ 慣れない人にとっては苦痛を伴うような読みづらい「異星人」の合評ありがとう
 ございました。私はこれまでなんとか美しい言葉での表現や理論的な整合性を大切
 にして自分の思いを伝えたいと努力し、いかに表現すれば共感を得られるか、ああ
 でもないこうでもないと試行錯誤しながら必死で探し求めてきました。しかし今は
 自分と読者が同じ感覚での理解と共感を100%一致させることは、本質的にあり得
 ないことだと悟りました。同じような環境、同じような経験と思われる中でも、そ
 の人その人の過去の経験や考え方で少しずつずれを生じた解釈をしているに違いあ
 りません。すくなからず一般的な付き合い程度の事柄は、いわゆる同床異夢である
 ことを感じない程度の深さの付き合いにおいてはたいした破綻を来さないで過ごし
 ているのが殆どのことでありましょう。どうせ100%の共感がなくても世の中はな
 んの支障もなく回っているのであるならば、さてそこで、だから、そのことを踏ま
 えて、一度言葉のシステムといいますか、何となくなれ合っている表現や字面や意
 味をめちゃめちゃにした、一種のルール無視を敢えてすればなにが破壊され、何が
 新しい価値を持って生まれてくるだろうかと思った次第です。これはまさしく手法
 は違っていても、神野佐嘉江氏と同じ世界をめざしているよう私には感じます。今
 回の試みで、80%程度の理解は期待できなくても、10%の共感をえられたであり
 ましょうか、

◆ そう言うわけで記号化した言葉の異質な組み合わせの妙を楽しむために、神野佐
 嘉江氏による造語「オキシモーラン」の運動を発展させて言葉による遊びのシステ
 ムを創ろうと思っています。そして一つの方法を完成させるべくいま思考中であり
 ますので、ご期待ください。




「オキシモーラン」言葉遊び1  2007/12/12 旧α掲示板

まず何を創るか、なにから始めるか、どのように進めるか。どのように発展するか、
どのような効果が期待できるかはいまのところ全く未知である。それは詰まらぬもの
か、予想外に面白いものかやってみないと判らない。
今の考えでは俳句や和歌の形式とし、文節に分解し記号化したものをエクセルの列と
して集め、A列に名詞を、B列に形容詞や副詞をC列に動詞や述語をといった方法で
記録する。
最後に仕上げとしてそれぞれの列で乱数を発生させてそれをソートし、若い数の順に
並び替える。全く関連性のない各文節で出来上がった句なり和歌の新しい文が表現す
る面白味、諧謔、隠喩、比喩等の新しい解釈が出来ることを期待しよう。

(案)
◆ 賛同者を募り表現方法、活動方針などを検討する
◆ エクセルの列に言葉を集める。
 1.名詞
   a.イデオロギー
    b.場所
    c.人物
    d.本の名前
 2.形容詞
 3.副詞
 4.動詞





「オキシモーラン言葉遊び」2 2007/12/22  旧α掲示板

先日より「オキシモーラン言葉遊び」のEXCELを利用したシステムを作る算段で、
いろいろと長岡氏の知恵を借りた。関数についての何回かのやりとりで一応使えるシ
ステムが立ち上がる目途がたった。

◆ 長岡 様
 なかなか忙しくご無沙汰しています。
 ところで、オキシモーラン言葉遊びのソフトを作るためにエクセルの関数を使用し
 ていますが、もしご存じでしたらご教示ください。
 添付したエクセルのA、C、E、G、I列の数値を乱数を発生させる関数を使って
 いますが、若い数字順にソートするために、その数字を固定しなければなりません。
 そのためにはRAND()*1000のあとにCtrl+F9を押す必要がありますが、
 連続で固定する方法が分かりません。もしご存じであれば教えてください。
 それから、O-chanが23日の忘年会への出欠の回答が無いと悩んでいました
 が、いかがでしょう。返事して上げてください。今年最後の会合を楽しみにしてい
 ます。
 その前に「肥と筑」の合評という難関をクリアーしなければなりませんが。
◆ EXCEL RAND() をキーワードにして
 グーグルのオプション検索で得た結果を添付します。この方法を応用すれば、多分、
 問題は解決できると思います。但し、50個/列の5列全てに関数を入れて行くの
 はそれなりに大変だとは思いますが。
◆ 毎回、各列の単語それぞれの順位(例えば、1位~50位)が、必要なのでしょ
 うもしそうではなく、各列の50個の中から一つ選ぶだけで良いのならば、例えば
 RANDBETWEEN(1,50)を各列で求めてやれば、ずっと簡単に、求める回答が得
 られると思うのですが。
◆ 例題に対して、RANK関数を応用したEXCEL解とその毎回変わる結果を、TAB
 区切りのTEXTとして固定したものを添付します。どうやら、この方法を使うこ
 とが出来そうですね。
◆ 私が、ずっと誤解をしていたようです。要するにある時点で、[f 9]キーを押
 した乱数生成の結果を保持しA, C, E, G, I 列の数値ごとに、2列ずつソートす
 るわけですね。
 次の手順が使えます。(例:test-2.xls)
   1)乱数生成で得られたEXCEL表の第一行(題名行)を削除する。
     (題名行があると、手順4)のソートの際に文句を言ってきます。)
   2)TEXTファイル(TAB区切り)として書き込む。
     (この時、関数機能は削除されるのでデータは全て固定されます。)
   3)今書き込んだTEXTファイルを、EXCELで読み出す。
   4)A, C, E, G, I 列の数値に基づき、2列ずつソートする。
     これは、データ(D)の並べ替え(S)で可能です。
◆ 貴方より頂いたRANK(A2,$A$2:$A$100) 関数は使えますね。
  A列にRAND()*1000で3桁の乱数を発生させ
  B列にRANK(A2,$A$2:$A$100)で序列化をし
  C列に「形式を選択をして貼り付ける」を開き「値」にチェックを入れて、B列
  の「値」をC列に貼り付けると固定された数値がコピーできました。
  ctr+F9を押すという考えに固執していましたが、よく考えると実に単純でした。
  いろいろお騒がせしましたが、これでシステムの目途がつきました。ありがとう
  ございます。しかしもっといいアイデアがあるかも知れませんので、これからも
  よろしく・・・。




「ナンセンス文学」 2008/1/3  窓辺にて

◆「人体の態度、姿態、運動は、この人体が、一つの単なるメカニックであると我々
 に思わせることに性格に比例して滑稽である」-ベルグゾン
◆自然とメカニックなるものとの対立を発見して、これを意識的に己に、或は文学上
 に再現することは、明らかに人間高度の理智の機能である。感傷の国日本に「ナン
 センス文学」の貧弱な所以も個々にある-小林秀雄全集第一巻P160
◆「オキシモーラン言葉遊び」は言葉をメカニックに分解・再生するナンセンス文学
 に成り得るか?




「北君へメール」  2008/4/28

今日から北君の合評期間になる由を伝える。それに伴いブログ用の写真をみつくろっ
て郵送してくれるように依頼した。そのときの話で
◆北君が独自のブログを開設して、いままでの作品集をつくり同人αのホームページ
 とリンクすれば、皆さんに読んでもらえるのではないかと提案した。
◆北君より二冊の本について紹介された。
 * バロ-著:無限のはなし
 * 文藝春秋今月号:茂木健一郎の「オキシモーラン」について

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詩 散 策 4 2011

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 6日(日)15時05分1秒
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             詩 散 策 4

                    2011






「人の像をした美しい青い地球を読んで」 2011/1/10

前編の〔皮膚が乾き〕〔氷嚢は甲斐なく〕〔臓器岩石〕〔地球爆発〕はすべてのものの破壊
を表しているようです。
中編の〔焼け跡から小さな青い塊が〕〔青い塊は弱い子かもしれない〕〔光の好きな連中〕
〔プリズム〕〔夜の女神ラートリ〕〔薮の中へ蛍〕〔裸だろう曇るだろう〕〔人参は胃の腑
でマグマと〕〔消化には〕は破壊された混沌の世界を表しているようです。
後編の〔糞は鉱物片〕〔きらめき汚物〕は混沌の中からの新しい芽生えを表しているよう
です。
すなわち、既成の概念や価値観を全部破壊し尽くした後、新しい思想、秩序が生まれそれ
を繰り返すという「ツァラトゥストラは語りき」「この人を見よ」のニーチェの永劫回帰
の思想をこの詩のなかに見ました。




「西脇順三郎-オキシモーランの会」
2011/6/3

朝日新聞 2011.6.3 に「詩を変えた西脇順三郎」という記事があった。言葉をつむいだ
のは現代詩の創始者とされる西脇順三郎のその生涯と作品がテレビ番組にまとめられた。
「エッジスペシャル 新しき美を求めて、詩人・西脇順三郎」というCS放送、18日夜9
時45分に再放送されるらしい。残念ながら私のTVではCSが映らない。
西脇順三郎の詩は読者にとって、その意味もつながりも情景すら定かに浮かばない、メタ
ファーの世界である。例えば「旅人かへらず」の詩は

旅人は侍てよ/このかすかな泉に/舌を濡らす前に/考へよ人生の旅人/汝もまた岩間か
らしみ出た/水霊にすぎない/この考へる水も永劫には流れない/永劫の或時にひからび
る/ああかけすが鳴いてやかましい/時々この水の中から/花をかざした幻影の人が出る
/永遠の生命を求めるは夢/流れ去る生命のせせらぎに/思ひを捨て遂に/永劫の断崖よ
り落ちて/消え失せんと望むはうつつ/さう言ふはこの幻影の河童/村や町へ水から出て
遊ぴに来る/浮雲の影に水草ののぴる頃

私はこの新聞記事を読んで「オキシモーランの会」の活動を再び活動する意欲が湧いてき
た。2007/11/26日の日記には「もう7・8年になるだろうか、北君が「オキシモーランの会」
を作ろうと提案してきた。それは西脇順三郎の詩におけるような二つの異質なものの結合
によって新しい世界を作り出そうという趣向で、今の彼の作風を示すものだった。私もい
くつか試みたものがあった。それは言葉を単なる記号と冷徹に見なし、エクセルの縦A列
は名詞をB列は修飾語をC列動詞をと、それぞれ言葉を100ばかり創りABC列それぞれ
に乱数をコンピューターで発生させて番号をつける。その後ABC列の番号をそれぞれ若
い順にソートして並べてみると「資本論は忍術である」となったり、「民主主義における
無限級数は小さな階段を這い上がって死に絶えた」などと判じ物のようなものが出来上が
った。」と書いてあった。

これが詩なのかどうか、その価値があるか判らないが言葉遊びとしては結構面白い。また
システマチックなことの好きな私としてはエクセルという感情抜きの乱数配列のなかに、
人間的な情感の言葉を紡ぐという遊びもまた魅力を感じている。「オキシモーラン」の運
動、果たして新しい遊びになるかどうかは、好奇心の豊かな人の数と情熱の度合いに頼る
ばかりだ。




「詩学」をよんで-1
2011/11/24

先日、北君から借りた西脇順三郎の「詩学」を今読んでいる。西脇といえば日本に於ける、
我々が目指す「オキシモーラン」のメタファの先達だと認識している。

西脇は「詩学は自然科学や社会人文科学とは根本的にその性質が違う。『詩』というもの
は科学の対象になるものとその性質が違うということである。
『詩』は純粋に想像された世界である。だから詩学というものもみな想像されたものであ
る。想像された超科学的なものを科学として解明が出来ない。それ自体矛盾である。」と
書いてある。
そしてさらに「『詩』という言葉にはそれ自体二つの違った意義が含まれている。内面的
な意味と外面的な意味に分けることが出来る。それで内面的な意味の時は、私は『ポエジ
ー』という名称を付けたい。それは詩の精神とか詩作を読んだときに感じた意識としての
情念である。
外面的な意味のときは私は『詩作』(詩の作品)という言葉を用いることにする。それは
一定の韻やリズムなどの形式の作品をいう。『詩学』という意味に私はポエジーというも
のは何であるかを学ぶという意味である。」とまずその本の序に書いている。




「詩学」をよんで-2
2011/11/25

さて、西脇順三郎の「詩学」の要点を表題ごとに纏めてみようと思う。そうすればきっと
私の頭の中でその課題に対する分析と理解が増すであろう。私はいままで感銘を受けた本、
たとえば最近ではマイケル・マンデルの「JUSTICE」やアラン全集などを自分なり
に纏めてみたことがある。その結果、一回の読書では半分も理解しないで読み飛ばしてい
ることがほとんどであることが判った。世で言う速読や、一月に50冊読んだという自慢
げな多読者に比して、私の読書は遅々としてはかが行かないので、そんなに知識量は期待
できない。その代わり一つのことを反芻して行くうちに、いままで難しかった学説や理論
や用語の意味が突然実感として理解出来る時がある。まさに理論が情念と一致する「悟り」
となるのである。






「詩学」をよんで-3
2011/12/9

3-偶然
「偶然」ということは神学とか宗教家の間で言う神の世界、絶対の世界、永遠の世界に対
立して有限の世界、自然の世界、人間の宿命の世界を「偶然」という。
ポエジーはボードレール的に考えれば、精神と肉体との対立の上に立っている。この見地
からすればポエジーは無限と有限との結合の上に立っている。精神を認めると同時に肉体
も認めなければならない。ポエジーは非常に肉体的でなければならないと同時に非常に精
神的でなければならない。ポエジーは「アイロニー」であり、矛盾である。

そういえば止揚という哲学用語があった。wikipediaによると、
ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二
様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した。つまり、古いも
のが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古い
ものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。
このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論
が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として自然や社会・思考
の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。
国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方と
は異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

ポエジーは「アイロニー」という意味は、現実の世界と絶対世界の対立、矛盾の狭間で苦
悩しながら遂には最も価値あるものに昇華されると言うことか。




「詩学」をよんで-4
2011/12/15

4-想像
ポエジイはいつも新しい関係を創作することによって人間の自然法則と現実をより深く感
じさせるという価値を持っている。すべての存在は関係的である。物質の原子でさえもプ
ラスとマイナスという方向の違った二つのエネルギーの結合から出来ている。

ピカソは「芸術というものは自然と違ったものだから、同じものになり得ない。芸術によ
ってわれわれは自然でないものの観念を表現するのだ」、また「私の場合は一つの作品は
破壊の合計である」ともいっている。
もちろん破壊されたことだけでも一つの新しい関係を結ぶことになるが、それだけではす
ぐれたポエジイではないだろう。その新しい関係が、なにかしら永遠という神秘的な意識
を象徴し、なにかしら哀愁を人間に感じさせなければ、それはすぐれたポエジイではない
と思う。
ポエジイが創作する思考は非現実(イレエール)ではあるが、そうした方法でなければ「永
遠」といったような神秘的意識やあの分析の出来ない哀愁という現実にふれることは出来
ない。ポエジイは感じることであって、理解するものではない。
詩作の目的は超自然または超現実の世界を創作することによってポエジイを人間に感じさ
せることである。

私の場合はこの超現実的創作に従えば、単に自然を写実するだけの具象画に興味を見いだ
せない自分がある。すなわち現代日本画や細密の写実画などの見られる、ただ物体の再現
を目指すもののなかに「アイロニー」や「シュール」さや「現実でない神秘的意識」「哀
愁」といったポエジイを表現していないとみえるからだ。
われわれが目指すオキシモーランの目的は、「現実の世界」と「想念の世界」の鬩ぎ合い
のなかで、理性では感じられない情感を表現することにあると思った。




「網膜症(糖尿病黄斑症)回復手術入院」
2011/12/26

網膜症(糖尿病黄斑症)回復手術入院    2011.12.19~12.26
第1日---*
第2日---* (*割愛 編集部)
第3日~第6日
後は静かに寝ているだけの生活で、「詩学」と「悲しみのゴンドラ」と「アラン全集」を
読み、ちょっと仕事をして事務所に図面を送る。入院中の仕事のために息子よりラップト
ップパソコンのMacBook Airを貰う。無線ランは借りる。
“グレープ”のアルバム「わすれもの」に収録された曲が見つかった。

   蛍茶屋から 鳴滝までは 中川抜けてく川端柳
   他人の心を 胡麻化す様に 七つおたくさ あじさい花は
   おらんださんの 置き忘れ
   思案橋から眼鏡橋 今日は寺町 廻ってゆこうか
   それとも中通りを抜けてゆこうか
   雨が降るから久し振り 賑橋からのぞいてみようか

 この詩はまさに私が路面電車の終点の「蛍茶屋」の古い屋敷の二階に間借りしてい
た頃の情景そのもので懐かしい。
 また、 アジサイは毒性があり、ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状
は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。
釈迦の誕生を祝う行事の花祭り(4月8日)に飲む甘茶(あまちゃ)は、ユキノシタ科の落
葉低木ガクアジサイの変種であるアマチャ(学名:Hydrangea macrophyllavar.thunbergii)。
また、その若い葉を蒸して揉み、乾燥させたもの。およびそれを煎じて作った飲料、だが
全く紫陽花の葉とそっくりであるから用心しなければならない。

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本のある暮らし6

 投稿者:α編集部  投稿日:2014年 4月 6日(日)13時30分50秒
編集済
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          本のある暮らし6  2011






「天声人語-箸使いについて」
 2011/1/8

2011.1.8の天声人語に箸使いについての興味ある記事が載っていた。
その中に、「喪の日記」を書いたロラン・バルトの日本文化にたいする記述である。
記事によれば「日本の箸の文化に欧米人は神秘をみるらしい。フランスの思想家ロラン・バルトは『箸をあやつる動作のなかに、配慮の行き渡った抑制がある』と言った。バルトはまた箸には母性や、鳥のくちばしの動作も見た」とある。
何気なくそのなかで生きている私達の文化も、外から見ると違った見え方があるから面白い。





銀座散歩
2011/3/6

朝9:30銀座マリオンにて「ツーリスト」という映画をみる。小さなバケツほどのポップ
コーンを食べながら。懐かしのヴェネチアが舞台。それなりにおもしろかった。ミステリ
ー仕立てだが、無限回廊などの筋を考えることに慣れると、自ずと映画の結末が判ってく
るような気がした。それがいいことなのか、興味が半減するのか今のところ自分にも判ら
ない。
映画の後教文館に立ち寄り、ヴィルヘルム・ゲナツィーノ著「そんな日の雨傘に」を購入。
¥2,000円。ついでにこの前読んでおもしろかったアイランド・ストーリーズの著者ウィ
リアム・トレヴァーのほかの本を調べてもらった。
  アフター・レイン         採流社     ¥2,800
  密会               新潮社     ¥1,900
  聖母の贈り物           国書刊行会   ¥2,400
  フェリシアの旅          角川書店    ¥ 705
  フールズ・オブ・フォーチュン   論創社     ¥1,942
  リッツホテルの天使達       ほおずき書籍   ¥1,500
  同窓               オリオン社    ¥1,200




検診日
2011/4/21

糖代内科及び眼科の検診日
8:30~14:00という長丁場だった。糖代内科はスムーズに済ませたが、眼科は患者
でごった返していた。

◆糖代内科の主治医である鈴木 亮医師の論文
糖尿病とインスリンの脳におけるコレステロール代謝への影響
2011年1月11日
鈴木 亮・C. Ronald Kahn
(米国Harvard Medical School,Joslin Diabetes Center)
email:鈴木 亮
Diabetes and insulin in regulation of brain cholesterol metabolism.
Ryo Suzuki, Kevin Lee, Enxuan Jing, Sudha B. Biddinger, Jeffrey G. McDonald, Tho
mas J. Montine, Suzanne Craft, C. Ronald Kahn
Cell Metabolism, 12, 567-579 (2010)

要 約
 脳は全身でもっともコレステロールの豊富な臓器であり,脳のコレステロールの大部分
は脳によって合成されている.筆者らは,インスリンの欠乏をともなう糖尿病マウスの視
床下部および大脳皮質において,コレステロールの合成を制御する転写因子SREBP2とその
下流遺伝子の発現が低下し,その結果,脳におけるコレステロール合成とシナプトソーム
膜のコレステロール含量が低下することを明らかにした.この変化にはニューロンとグリ
ア細胞の両者におけるインスリンの直接作用が寄与し,インスリンを糖尿病マウスの脳室
に投与すると視床下部におけるコレステロール合成経路の抑制が正常化した.初代培養ニ
ューロンにおいてSREBP2の発現を抑制するとシナプス形成のマーカーが減少し,マウスの
視床下部でSREBP2の発現を抑制すると摂食量と体重が増加した.以上の結果は,インスリ
ンおよび糖尿病が脳におけるコレステロールの代謝に影響することを示しており,糖尿病
やほかの疾患でみられる神経学的な機能不全や代謝異常の発症機序に関与している可能性
が考えられた.




「天国も死後の世界もない」
2011/5/18

面白い記事があった。   毎日新聞 2011.05.18
世界の雑記帳:「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言5月16日、
「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、
英紙ガーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない。天国とは闇を恐れる人
のおとぎ話にすぎない」とし、死後の世界があるとの考えを否定した。

人間の生が精神と肉体の両方で成り立っている以上、どちらが欠けても人間として自立し
て生きてはいけない。死は疑いのない肉体の死滅である以上精神や魂だけが生き続けるこ
とはない。だから天国や来世があるということは物理的に無理な考えだ。
ただ子孫に引き継がれた遺伝子の連綿とした情報があるかぎり、一度生を受けた人の痕跡
は残り、それを来世と言えないこともない。
また、アメリカの女優シャーリー・マクレーンは南米の霊的な経験をもとに「アウト・オ
ン・ア・リム」という本を書いた。その中に「たとえ肉体は死んでも、原子は死滅せずこ
の世界に残る。それがふたたび植物や動物に取り込まれて生命を造ることになる」という
輪廻転生の意味づけをしている。なるほどそういう理屈もあるのかと思った。




「アラン」を読んで
2011/5/31

アラン全集を読んでいたら、フランスの社会学者、哲学者、数学者で、「実証哲学講義」
などの著作があるオーギュスト・コントの人格についての考察を書いていた。コントの考
察そのものを私はまだ読んではいないが、それを併せて論じたアランの説明によると、気
質は生物学的であり、個性は社会学的であり、人格は道徳的なものである。
そこで、各項の順序が威厳の増大と照応していることに注意しながら、我々の系列につい
て考えてみよう。
気質は、性格のなかに形をとらなければ、動物的なものに過ぎない。そして、ほんのがん
ぜない子供では、ほとんど気質だけがあるにすぎない。性格とは考えられた気質であり、
気質以上のものである。自分自身について、現在あるいは未来のあるときに嫉妬深く、執
念深く、憂うつあるいは臆病であったり、あるいはそうなるに違いないと考えることは、
相当な努力を要するからだ。しかし人は個性にうちかち、性格にうちかって、それを克服
して人格まで高めなければなければならない。

この文が目にとまったのは、最近自分の言動を自分の心の中の「良心」に照らし合わせる
という行為について考えていたからだ。巷ではめっきり耳にしなくなったこの「良心」と
いう言葉は、「良心に恥じる」とか「良心に従う」などといった使い方をするのだがもう
一つはっきりしないところがあった。
ある説明によると、良心とは、自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識